小さな包囲網
第6話 小さな包囲網
「……思ったより多くないか?」
岩の隙間を進みながら、俺は早くも自分の判断を後悔し始めていた。
《微振動感知》に伝わってくる、硬いものが岩を叩くような振動。
最初は3匹程度だと思っていた。
ところが、奥へ進むにつれて反応が増えている。
右にも、左にも。
どうやら、この辺りにはさっき捕食した甲殻を持つ虫が大量に生息しているらしい。
「……巣でもあるのか?」
考えてみれば、あの虫が1匹だけで生活しているとは限らない。
アリやハチのように、集団で暮らす生物だっている。
もしそうなら、俺は今、とんでもない場所に入り込もうとしているのかもしれない。
「……いや、でもなぁ」
空腹はまだ完全には収まっていない。
それに、さっきの虫を捕食したことで《硬質外皮》を獲得できた。
同じ虫を食べても新しい性質が手に入るとは限らないが、少なくとも栄養にはなる。
傷ついた身体を元に戻すためにも、食事は必要だ。
「……1匹だけ。もう1匹食べたら戻ろう」
そう決めて、俺は近くにいる虫へ向かって身体を伸ばした。
岩肌に薄く広がり、振動が近づいてくるのを待つ。
……カリ、カリ。
来た。
今度はさっきよりも落ち着いている。
硬い脚が身体の端に触れた瞬間、俺は《粘着性》を強めた。
「よし、捕まえた!」
虫が暴れる。
しかし、今度は慌てない。
身体を覆いかぶせながら、甲殻の継ぎ目を探す。
さっき捕食したときに覚えた、あの柔らかい部分だ。
「……ここか?」
身体の先端を細く伸ばす。
硬い板の間へ差し込むと、抵抗の少ない場所に触れた。
そこから捕食を始める。
虫はしばらく暴れていたが、やがて動かなくなった。
「……よし!」
成功だ。
最初の1匹に比べれば、ずいぶん手際よく捕食できたと思う。
慣れというのは恐ろしい。
少し前まで、虫を食べるなんて想像しただけで気持ち悪かったはずなのに。
今では捕まえ方まで考えている。
……人間として大切な何かを失っている気もするが、身体ごと人間じゃなくなっているので今さらか。
「さて、これで戻るか」
身体を縮め、来た方向へ向きを変える。
そのときだった。
カリカリカリッ!
複数の振動が、一斉に近づいてきた。
「……ん?」
最初は、近くの虫が偶然動いただけだと思った。
しかし、違った。
右から2匹。
左からも複数。
さらに奥から、別の振動が迫ってくる。
「……おいおい」
俺は慌てて身体を引っ込めた。
すると、さっきまで俺がいた場所を、硬い脚を持つ何かが次々と通り過ぎていった。
偶然にしては、動きが揃いすぎている。
「……もしかして、仲間が食われたのに気づいた?」
それなら、まずい。
非常にまずい。
俺は虫を1匹捕食したつもりだったが、相手からすれば仲間を襲った侵入者ということになる。
もし群れ全体に敵だと認識されたら……。
「……撤退!」
俺は即座に進行方向を変えた。
しかし。
カリッ!
「いっ!?」
身体の端に鋭い痛みが走った。
どうやら、近づいてきた虫の1匹が噛みついたらしい。
さらに別の虫が身体に触れる。
硬い脚。
鋭い先端。
小さな振動が次々と重なっていく。
「ちょ、ちょっと待て! 多いって!」
1匹なら何とかなる。
2匹でも、状況によっては捕食できるかもしれない。
だが、これだけの数を相手にするのは無理だ。
何しろ、俺には手足がない。
身体を広げて包み込むことはできても、複数の相手を同時に押さえ込むのは難しい。
しかも、こいつらは硬い甲殻を持っている。
捕食にも時間がかかるのだ。
「……くそっ!」
俺は身体を細く伸ばし、虫の間を抜けようとした。
だが、すぐに別の虫が進路を塞いでくる。
偶然か?
それとも、こいつらは連携しているのか?
どちらにしても、厄介すぎる。
カリッ!
また身体を噛まれた。
「痛っ! この……!」
反射的に《硬質外皮》を発動する。
噛みつかれている部分へ意識を集中させた。
ぐぐっ……。
柔らかかった表面が、少しずつ硬くなる。
カツン!
噛みついていた虫の顎が、硬くなった部分に当たった。
「……お?」
痛みが弱まった。
完全に防げたわけではない。
それでも、さっきまで簡単に傷ついていた場所が、今度は持ちこたえている。
「いける!」
俺はそのまま身体を引き抜いた。
虫の顎が滑り、拘束が外れる。
だが、喜んだのも束の間だった。
別の方向から、また噛みつかれたのだ。
「うわっ! そっちは硬くしてない!」
慌てて意識を切り替える。
しかし、硬質化には少し時間がかかる。
攻撃される場所を予測できなければ、まともに防御できない。
全身を硬くすることも試したが、やはりうまくいかなかった。
身体が重くなるばかりで、肝心の防御力は上がらない。
「……これ、使い方を考えないと駄目だな」
俺は無理に硬質化するのをやめた。
代わりに、身体を薄く広げる。
虫たちは何かを探すように岩の上を動き回っていた。
そのうちの1匹が、俺の身体の端に触れる。
……だが、噛みついてこない。
「……ん?」
少し遅れて、別の虫が通り過ぎた。
そいつも俺に触れたはずなのに、何の反応も示さなかった。
「……もしかして」
俺は身体を動かさず、岩肌へぴったりと密着させた。
すると、虫たちは俺の上を歩き始めた。
カリ、カリ。
硬い脚が身体の表面を踏んでいく。
……痛い。
少し痛いが、我慢できないほどではない。
何より、さっきまでのように噛みついてこなくなった。
「……動かなければ、気づかれない?」
もちろん、確証はない。
この虫たちが何を頼りに獲物を見つけているのか分からないからだ。
だが、少なくとも今は攻撃されていない。
俺はそのまま、じっと待った。
1匹。
また1匹。
身体の上を通り過ぎていく。
「……よし、いなくなったか?」
周囲の振動が少しずつ遠ざかる。
俺は慎重に身体を縮めた。
そして、ゆっくりと移動を始める。
……カリッ!
「うおっ!?」
途端に近くの虫が反応した。
「……やっぱり動きか!」
俺はすぐに停止した。
虫の動きも鈍くなる。
……なるほど。
どうやら、こいつらは動くものに強く反応するらしい。
俺の《微振動感知》と似たような仕組みなのかもしれない。
もっとも、それだけで相手を見つけているとは限らないが。
「……なら、方法はあるな」
俺は周囲の振動を確かめた。
右側に虫が多い。
左側は比較的少ない。
そして、来た道へ続く方向には、まだ何匹かが動き回っている。
普通に逃げれば追いつかれる。
だったら……。
「……ちょっと試してみるか」
俺は身体の一部を細く伸ばした。
ゆっくりと。
できるだけ振動を起こさないように。
そして、少し離れた場所にある小石へ触れる。
「……よし」
《粘着性》を使い、小石を身体の端にくっつけた。
そのまま、ゆっくりと持ち上げる。
……重い。
ほんの小さな石なのに、今の俺にとっては結構な重量だった。
だが、何とか動かせる。
俺は石を引っ張り、岩の斜面へ移動させた。
そして。
「……いけっ!」
粘着性を解除する。
コロッ。
小石が転がった。
カツン!
少し離れた岩へぶつかり、振動が広がる。
すると。
カリカリカリッ!
近くにいた虫たちが、一斉にそちらへ向かった。
「……おお!」
成功だ!
やっぱり、こいつらは振動に反応している。
しかも、予想以上に分かりやすい。
俺は虫たちが移動した隙に、反対方向へ身体を伸ばした。
今度は焦らない。
急に動けば、また気づかれる。
岩肌に密着したまま、ゆっくりと進む。
幸い、虫たちは転がした小石の周囲を調べているらしい。
振動がそちらへ集中していた。
「……よしよし」
俺はそのまま、狭い通路を抜けた。
そして、ようやく虫たちの反応が遠ざかったところで、身体を小さく丸めた。
「……はぁ」
何とか逃げ切った。
今回は、さっきの化け物に襲われたときとは違う。
相手は小さい。
1匹ずつなら捕食できる。
それなのに、数が増えただけでこんなにも危険になるとは思わなかった。
「……集団行動、怖すぎだろ」
人間だった頃にも、アリの群れを見たことはある。
小さな虫が何十匹も集まって、餌を運んでいる光景だ。
あのときは、特に何とも思わなかった。
だが、自分が襲われる側になってみると話は別だった。
あれだけの数に取り囲まれたら、小さな身体なんて簡単に食い尽くされてしまう。
「……なるほどなぁ」
俺は傷ついた身体を確かめた。
何か所か表面が削れている。
だが、致命的な傷ではなさそうだ。
それに、さっき捕食した虫のおかげか、身体の大きさは少しずつ戻りつつあった。
「……よし」
俺は身体を伸ばし、先端を硬くしてみた。
コツ。
岩へ押しつける。
今度は解除する。
柔らかくなった部分を曲げ、別の場所を硬くする。
……できた。
「……やっぱり、面白いな」
《硬質外皮》は便利だ。
だが、全身を守ろうとすると動けなくなる。
しかも、どこを攻撃されるか分からなければ、うまく防御できない。
だったら、最初から全部を硬くしようとする必要はないのかもしれない。
必要な場所だけ。
必要な瞬間だけ。
「……こういう感じか?」
俺は身体の先端を岩へ押しつけた。
硬くする。
解除する。
位置を変える。
また硬くする。
何度か繰り返しているうちに、少しずつ切り替えが速くなってきた。
「……おお、いいじゃん」
もちろん、まだ自由自在というほどではない。
それでも、最初に使ったときよりは確実に扱いやすくなっている。
捕食によって得た性質も、練習すれば使い方が上達するらしい。
……当たり前か。
人間だって、道具を手に入れただけでは使いこなせない。
何度も使って、慣れていくものだ。
「……そう考えると、結構やること多いな」
捕食して、性質を増やす。
増えた性質を練習する。
それを組み合わせて、さらに強い相手に挑む。
……何だか、少しだけゲームっぽい。
そう思ったところで、俺は苦笑した。
もちろん、笑う口なんてない。
「……いや、油断すると死ぬんだった」
ここまでで、十分に思い知らされた。
ゲームなら失敗してもやり直せるが、この世界ではそうはいかない。
少なくとも、死んだ後にどうなるかなんて試したくもない。
「……慎重にいこう」
そう決めた俺は、再び移動を始めた。
虫たちの巣がある方向は避ける。
かといって、さっきの大きな化け物がいた場所へ戻るつもりもない。
今の俺には、どちらも危険すぎる。
だったら、別の道を探すしかないだろう。
幸い、岩の隙間は複雑に入り組んでいる。
身体を薄くすれば、普通の生物が通れないような場所にも入り込める。
俺は《微振動感知》で周囲を探りながら、比較的静かな方向へ進んでいった。
しばらくすると、身体に触れる岩肌の感触が変わってきた。
「……ん?」
さっきまでは乾いた岩ばかりだった。
それが、少しずつ湿っている。
身体を伸ばして触れてみると、表面に薄い水の膜があるようだった。
「……水?」
そういえば、転生してから水を飲んでいない。
いや、そもそも今の身体に水分補給が必要なのかどうかも分からない。
ただ、湿った岩に触れると、妙に心地よかった。
「……何だろうな、これ」
俺は身体を少し広げた。
岩の表面にある水分が、ゆっくりと身体へ染み込んでくる。
……気がする。
正確には分からない。
だが、乾いた場所にいるときよりも、身体が動かしやすかった。
「……もしかして、水と相性がいいのか?」
考えてみれば、今の俺はアメーバのような生物だ。
水分の多い環境の方が適していてもおかしくない。
そう思いながら、さらに奥へ進む。
すると。
……ぽたっ。
小さな振動が伝わってきた。
続いて、また。
……ぽたっ。
一定の間隔で、何かが落ちている。
「……水滴か?」
俺は振動の方向へ進んだ。
岩の隙間は徐々に広くなり、やがて小さな空間へ出た。
周囲を探ると、地面にはいくつもの窪みがある。
そして、そのうちの1つから、水が揺れるような細かな振動が伝わってきた。
「……おお」
水たまりだ。
恐る恐る身体の先端を伸ばす。
ひんやりとした感触。
柔らかな抵抗。
そして、身体の表面を包み込むような感覚。
「……気持ちいいな、これ」
俺はゆっくりと水の中へ身体を広げた。
すると、思っていた以上に簡単に形が変わった。
水の中では、身体を伸ばしたり縮めたりする動きが滑らかになる。
しかも、岩肌に張りついているときとは違って、身体全体が軽く感じられた。
「……すげえ」
俺は調子に乗って、身体を少し浮かせてみた。
……が。
「……あれ?」
うまく進めない。
身体を伸ばしても、縮めても、水の中では思った方向へ移動できなかった。
岩の上なら、粘着性を利用して身体を引っ張れる。
だが、水の中には掴まるものがない。
「……泳げないのか、俺」
アメーバっぽい身体だから、何となく泳げると思っていた。
しかし、現実はそう甘くない。
俺は何度か身体を動かし、ようやく水たまりの底へ張りついた。
「……危なかった」
浅い水たまりで助かった。
これが深い場所だったら、身動きが取れなくなっていたかもしれない。
……まあ、呼吸しているわけでもないし、溺れるのかどうかは分からないが。
それでも、動けなくなるのは困る。
俺は身体を底の岩に張りつけながら、ゆっくりと水たまりの端へ移動した。
その途中だった。
……ぴくっ。
身体の先端に、何かが触れた。
「……ん?」
小さい。
それも、さっきの甲殻を持つ虫よりずっと小さい。
俺は意識を集中させた。
水の中で、何かが動いている。
細かな振動。
不規則な動き。
そして、次の瞬間。
……ぴくぴくっ。
別の方向からも、同じような感触が伝わってきた。
「……何だ?」
俺は身体を薄く広げた。
すると、水の中を漂っていた何かが、身体の表面に触れた。
柔らかい。
硬い甲殻はない。
しかも、触れた瞬間に小さく跳ねるような動きをした。
「……もしかして、これも生き物か?」
だったら。
俺は慎重に身体を伸ばし、その小さな何かを包み込んだ。
ほとんど抵抗はない。
捕食も、あっという間に進んだ。
「……お?」
身体の奥へ、ごくわずかな栄養が流れ込んでくる。
量は少ない。
だが、確かに捕食できた。
「……なるほど」
どうやら、この水たまりにも小さな生物が生息しているらしい。
しかも、さっきの虫と違って捕食しやすい。
俺は周囲を探った。
水の中には、同じような小さな反応がいくつもある。
「……これ、結構いい場所じゃないか?」
危険な大型生物がいないとは限らない。
だが、少なくとも今のところ、あの化け物や虫の群れのような振動は感じられない。
水分もある。
餌もある。
何より、狭い岩の隙間を通らなければ入ってこられない。
俺のような身体には、なかなか都合のいい場所だった。
「……よし、しばらくここを拠点にするか」
そう決めて、俺は水たまりの底へ身体を広げた。
まずは小さな生物を捕食する。
身体を回復させる。
そして、《硬質外皮》の練習も続ける。
できれば、水の中で自由に動く方法も見つけたい。
やることはいくらでもある。
「……なんか、生活っぽくなってきたな」
転生してから、どれくらい時間が経ったのだろう。
まだ1日も経っていないのか。
それとも、もっと長い時間が過ぎているのか。
目も時計もない今の俺には、確かめようがなかった。
だが、ようやく落ち着けそうな場所を見つけた。
それだけでも、大きな進歩だ。
俺は身体をゆっくりと縮めた。
……そのとき。
《微振動感知》が、奇妙な反応を捉えた。
……とくん。
「……ん?」
一瞬だけ、何かが震えた。
水たまりの底。
その、さらに奥。
……とくん。
今度は、はっきりと感じた。
規則正しい振動。
さっき捕食した小さな生物とも、甲殻の虫とも違う。
もっとゆっくりとした、重い動きだった。
「……何だ?」
俺は動きを止めた。
振動は岩の奥から伝わってくる。
ただ、今まで遭遇した生物のように、移動している様子はない。
同じ場所から、繰り返し伝わってくるのだ。
……とくん。
……とくん。
まるで、何かの鼓動のように。
「……まさか、また化け物か?」
嫌な予感がした。
せっかく安全そうな場所を見つけたと思ったのに。
これでまた巨大な生物が現れたら、さすがに泣きたくなる。
……泣く目もないけど。
俺は慎重に身体を縮め、水たまりの端へ移動した。
そして、振動の発生源から距離を取る。
……とくん。
しかし、振動は変わらない。
近づいてくる様子もない。
「……動かない?」
何かが、岩の奥でじっとしている。
それだけは分かった。
ただし、生物なのかどうかまでは分からない。
地下を流れる水が、どこかで規則的に岩を叩いているだけかもしれない。
「……気になるな」
俺は水たまりの底へ意識を向けた。
あの振動は、いったい何なのだろう。
危険な生物か。
それとも、まだ知らない何かか。
確かめたい。
だが、今の俺はまだ弱い。
下手に近づけば、また食われる側へ逆戻りだ。
「……まずは、強くなってからだな」
俺は水たまりの端に身体を固定した。
今は焦らない。
餌もある。
水もある。
練習できる場所も見つけた。
だったら、ここでできる限りのことをやってみよう。
そう考えながら、俺は身体の先端を水へ伸ばした。
小さな生物の反応が近づいてくる。
まずは、こいつからだ。
……とくん。
岩の奥から、また振動が伝わってきた。
俺は一瞬だけ動きを止めたが、すぐに捕食へ意識を戻した。
今のところ、危険な兆候はない。
それなら、必要以上に怖がることもないだろう。
……ただ。
あの規則正しい振動が何なのか。
それだけは、どうしても気になって仕方がなかった。




