上を見ろ
第2部 第42話 上を見ろ
「……おお」
思わず、声が漏れた。
青い。
何というか、とにかく青い。
林を抜けた先で、俺は身体の上部に作った小さな目を、空へ向けていた。
昨日まで、空は明るさでしか分からなかった。
《明暗感知》で昼と夜の違いは感じられる。それでも、頭上にどんな景色が広がっているのかまでは分からなかった。
それが今は、ぼんやりとだけど見えている。
木々の間から覗く青空。
ゆっくり流れる白い雲。
風に揺れる緑色の葉。
……懐かしいな。
人間だった頃は、こんな景色を特別だと思ったことなんてなかった。
それなのに、今は見上げているだけで楽しい。
「……ノア」
隣から、ルナの声が聞こえた。
「そろそろ歩かぬか?」
……あ。
そうだった。
俺たち、旅の途中だったわ。
俺は目を崩し、身体をいつもの形へ戻した。
視覚を維持できる時間は、昨日より少しだけ延びている。
ただ、まだ目を作っている間は集中力を取られるし、長く使えば疲れる。
視界も近くのものほどはっきり見えるが、遠くはぼやけてしまう。
……まあ、最初から何でも見えると思う方が贅沢か。
「貴様、先ほどから何度空を眺めておるのだ?」
ルナが呆れた声を出す。
「そんなに珍しいか?」
……珍しいですとも。
俺にとっては、異世界に来て初めて見る空なんだから。
触手を伸ばして肯定すると、ルナは小さく笑った。
「ふん。ならば、好きなだけ眺めればよい。空は逃げぬからな」
……お。
珍しく優しい。
「ただし、日が暮れる前に休める場所を探さねばならぬぞ」
あ、はい。
そうですよね。
俺たちは再び街道を進み始めた。
ルナの右後ろ脚は、以前と比べれば随分よくなっている。
普通に歩く分には大きな問題はなさそうだが、長く歩き続けると、まだ少し動きが鈍くなる。
マルタからも無理をするなと言われていたので、今日は何度か休憩を挟みながら進んでいた。
ちなみに、俺の方はというと。
――ぐにゃ。
……うん。
やっぱり難しい。
今、試しに4本の脚を作ってみたところだ。
昨日は3本だったから、今日はもう1本増やしてみようと思ったのである。
ところが、4本を均等に動かそうとすると、どうしても身体が傾いてしまう。
前の2本を動かす。
後ろの2本を支えにする。
次に後ろを動かそうとすると、今度は前側が潰れそうになる。
……おかしいな。
普通、脚が多い方が安定するんじゃないのか?
「貴様、また変な歩き方をしておるぞ」
ルナが言った。
……変って言うな。
練習中なんだよ。
「そもそも、4本を同時に動かそうとするからおかしくなるのだ」
……ん?
「獣の脚をよく見よ。右と左、前と後ろを、それぞれ違うタイミングで動かしておる」
……なるほど。
そう言われてみれば、確かに。
俺は今まで、脚を単なる支柱として使っていた。
でも、歩くという動作は、それだけじゃない。
身体を支える脚と、前へ進むための脚。
それらを交互に切り替えなければならないんだ。
……よし。
試してみよう。
俺は4本の短い脚を作り直した。
まず、左前と右後ろを固定する。
次に、右前と左後ろを少し動かす。
……お。
身体が進んだ。
今度は反対。
……おお。
いける!
まだぎこちないけど、さっきよりずっと安定している。
「ほう。少しはましになったな」
ルナが感心したように言った。
……だろ?
やればできるんですよ、俺だって。
俺は調子に乗って歩く速度を上げた。
1歩。
2歩。
3歩。
――ぐしゃっ。
……あ。
前脚が潰れた。
そのまま身体が地面へ落ちる。
「……くくっ」
笑うな!
今のは、ちょっと急ぎすぎただけだって!
「焦るな。貴様の身体は、我らの脚とは構造が違う。形だけ真似しても、同じように動けるとは限らぬぞ」
……あ。
確かに。
俺には骨も筋肉もない。
少なくとも、人間や普通の獣と同じものは持っていない。
だったら、形だけを真似するんじゃなくて、今の身体に合った動かし方を考えた方がいいのかもしれない。
……うん。
それは、あとで試してみよう。
今はちょっと疲れた。
俺は脚を崩し、いつものように地面を這って進むことにした。
すると、ルナが小さく鼻を鳴らした。
「……結局、それが一番速いのではないか?」
……。
……今はな!
今は、だからな!
いつか絶対、走れるようになってやる。
そんなことを考えながら、俺たちは街道を進んでいた。
やがて、道の片側に小さな林が現れた。
木々の間からは、水の流れる音も聞こえる。
「少し休むか」
ルナが言った。
「この先はしばらく水場がないかもしれぬ。今のうちに水袋を満たしておこう」
俺は身体を上下させた。
ちょうどいい。
目の練習も、もう少ししたかったところだ。
俺たちは街道から外れ、細い獣道を通って水辺へ向かった。
近くには浅い流れがあり、周囲には大きな木が何本も立っているらしい。
俺は地面へ身体を広げ、水の振動を確かめた。
……うん。
それほど流れは速くない。
ここなら、落ち着いて休めそうだ。
ルナが水を飲んでいる間に、俺はもう1度、小さな目を形成してみた。
身体の前側を持ち上げ、薄い膜を整える。
《視覚》を働かせる。
すると、ぼんやりとした景色が広がった。
……おお。
今度は、一度で成功した。
少しずつ慣れてきたな。
視界の中には、細長い茶色のものが何本も並んでいた。
木の幹だ。
その奥には、濃い緑色の塊が広がっている。
……葉っぱか。
なるほど。
林って、こんなふうに見えるんだな。
俺はしばらく夢中になって周囲を眺めていた。
そのときだった。
……ん?
視界の端で、何かが動いた。
木の幹から、別の木の枝へ。
細長い茶色の何かが、一瞬だけ移動したように見えた。
……鳥?
いや。
鳥にしては、動き方がおかしい。
俺は目の向きを変えた。
すると、枝の上に何かが止まっているのが見えた。
遠いせいで、輪郭はぼやけている。
細い枝が重なっているようにも見えるが、その中に少し太い部分がある。
……何だろう。
俺は《微振動感知》にも意識を向けた。
地面から伝わるのは、ルナの足音と水の振動。
それから、木の根を通して伝わってくるごく弱い揺れ。
……あ。
何か、いる。
俺はルナへ触手を伸ばした。
「……む?」
水を飲んでいたルナが顔を上げる。
俺は目を維持したまま、枝の方を指した。
「何かおるのか?」
肯定する。
ルナがそちらへ顔を向けた。
少しの沈黙。
そして。
「……まずいな」
声が変わった。
「跳鎌虫だ」
……跳鎌虫?
聞いたことないな。
「木の上から獲物へ飛びかかる魔物だ。前脚が鎌のようになっておる」
……ああ。
なるほど。
カマキリみたいなやつか。
俺はもう1度、枝の上へ目を向けた。
すると、ちょうどそのとき。
茶色の塊が動いた。
細長い脚。
尖った頭部。
そして、身体の前側に折り畳まれた、2本の大きな鎌。
……うわ。
本当にカマキリだ。
しかも、でかい。
正確な大きさは分からないけど、ルナと同じくらいの長さはありそうだ。
「……ノア」
ルナが低く言った。
「こちらを狙っておる。ゆっくり下がるぞ」
……了解。
俺は目を崩そうとして、思いとどまった。
待てよ。
今までなら、こういう相手は最悪だった。
地面から離れている魔物は、《微振動感知》だけでは位置を追いにくい。
でも、今は違う。
俺には《視覚》がある。
まだ不完全だけど、相手がどこにいるのかは分かる。
……だったら。
今のうちに、ちゃんと見ておいた方がいい。
俺は跳鎌虫の動きを追った。
相手は枝の上で身体を低くしている。
大きな後ろ脚が、ゆっくり折り畳まれた。
……ん?
何だ、あの動き。
まるで、飛びかかる前の猫みたいな――。
「ノア、来るぞ!」
ルナの声が響いた。
次の瞬間。
枝の上にいた跳鎌虫が、消えた。
……え?
いや、違う。
飛んだ!
俺は反射的に身体を広げた。
――ザシュッ!
すぐ横の地面へ、鋭いものが突き刺さる。
……うおっ!?
危なっ!
さっきまで俺がいた位置だ。
「下がれ!」
ルナの声。
俺は慌てて身体を縮め、木の根の陰へ滑り込んだ。
跳鎌虫は着地すると、すぐに身体の向きを変えた。
……速い!
昨日の裂尾蜥蜴とは、また違う速さだ。
あいつは地面を走っていた。
でも、こいつは飛ぶ。
しかも、着地してから次の動きに移るまでが異様に早い。
……いやいや。
こんなやつ、目がなかったらどうするんだよ。
「ルナ、下がっててくれ!」
そう言おうとしたが、喉の構造がうまく作れなかった。
……あ。
目を維持したまま、声も作ろうとしたせいか。
一瞬、視界がぼやける。
……くそっ。
まだ同時には難しいな。
俺は目を崩し、短く声を出した。
「……さが、って」
「……貴様、戦うつもりか?」
肯定する。
「無茶をするでないぞ」
……分かってる。
でも、逃げるにも相手が速すぎる。
ルナの脚では、とても振り切れそうにない。
だったら、俺がここで止めるしかない。
ルナは少し迷ったようだったが、やがて木の根元へ移動した。
「我も動けぬわけではない。危なくなったら知らせよ」
俺は触手を上下させた。
……よし。
やってみよう。
俺は身体を少し厚くし、前側に短い脚を2本作った。
後ろ側には、身体を支えるための太い突起を1本。
昨日の3本脚に近い形だ。
4本の方が安定するかもしれないけど、今は複雑な操作を増やしたくない。
さらに、身体の上部へ小さな目を形成する。
……うっ。
やっぱり負担が大きい。
でも、維持できないほどじゃない。
視界が広がる。
目の前には、茶色い巨大なカマキリ。
……改めて見ると、怖いな。
普通のカマキリだって、近くで見れば結構迫力がある。
それが犬くらいの大きさになっているんだから、たまったものじゃない。
跳鎌虫が動いた。
前脚を持ち上げる。
俺は身体を低くした。
――ザッ!
鎌が振り下ろされる。
俺は横へ滑り、何とか避けた。
……よし。
見えてる。
攻撃が来る方向を、今までよりずっと早く判断できる。
……いけるか?
俺は硬くした触手を伸ばし、相手の腹部へ突き出した。
――ガッ!
硬い感触。
……あ。
外殻がある。
やっぱり虫系の魔物は、表面が硬いな。
跳鎌虫が身体をひねった。
視界の端で、もう1本の鎌が動く。
……まずい!
俺は触手を引き戻そうとした。
だが、遅かった。
――ザクッ!
伸ばしていた触手の先端が切り落とされる。
……っ!
嫌な感覚が走った。
身体の一部が地面に落ちる。
視界が揺れ、形成していた目まで崩れかけた。
……くそっ!
目があっても、身体が反応できなきゃ意味がない!
俺は脚を崩し、地面へ広がった。
まずは距離を取る。
無理に立ったまま戦う必要はない。
今の俺には、こういう形の方が速く動けるんだから。
跳鎌虫が追ってくる。
地面を蹴る振動が近づき、直後に強い踏み込みがあった。
……ん?
俺は身体を止めた。
さっきも、この振動があった。
枝から飛びかかる直前。
後ろ脚を折り畳んでいたときだ。
……なるほど。
こいつ、後ろ脚に力をためてから跳ぶんだな。
当たり前といえば当たり前だけど、あの跳躍力は普通じゃない。
だったら。
飛びかかる瞬間さえ分かれば、避けることはできるはずだ。
俺は地面に広がりながら、相手の足音へ集中した。
――ギュッ。
後ろ脚が強く地面を押す。
……今だ!
俺は身体を横へ滑らせた。
直後、跳鎌虫の足音が消える。
そして。
――ドンッ!
少し離れた場所へ着地した。
……よし!
避けられた!
ただし、問題が1つある。
避けるだけじゃ倒せない。
俺は相手の位置を確かめながら、身体を少しずつ木の根元へ移動させた。
……どうする。
鎌は鋭い。
跳躍力も高い。
身体には硬い外殻がある。
正面から突っ込んでも、また触手を切られるだけだ。
……あ。
そこで、ふと思いついた。
俺には《粘着性》がある。
昨日も、裂尾蜥蜴の脚を絡め取って動きを崩した。
でも、今度の相手は跳ぶ。
脚を引っ張るだけじゃ、俺の方が飛ばされかねない。
だったら。
……着地する場所を狙えばいいんじゃないか?
俺は木の根に触手を巻きつけ、《粘着性》を働かせた。
そのまま、身体の一部を薄く広げる。
地面に張りつく、粘着質の膜。
ただし、広い範囲には作れない。
今の俺では、せいぜい自分の身体の周囲だけだ。
……それで十分。
俺は身体を低くして待った。
跳鎌虫がこちらへ向きを変える。
前脚の鎌が持ち上がる。
……来い。
もう1度、飛びかかってこい。
俺は触手を小さく動かし、相手の注意を引いた。
すると。
――ギュッ。
地面を強く押す振動。
……きた!
俺は身体を横へ滑らせた。
直後、跳鎌虫が飛び上がる。
今度は、俺のいた場所へ。
――ベチャッ!
……おっ!
手応えがあった。
跳鎌虫の後ろ脚が、粘着質の膜へ着地したらしい。
すぐに引き抜こうとするが、今度は簡単には動かない。
俺は木の根に固定した触手へ、さらに力を込めた。
……どうだ!
これなら、跳べないだろ!
跳鎌虫が激しく暴れる。
――ブチッ!
……え?
次の瞬間、固定していた触手の一部が千切れた。
……うおっ!
強い!
完全には止められないのか!
だが、跳鎌虫の体勢は大きく崩れていた。
片方の後ろ脚が地面に張りつき、もう片方の脚だけで踏ん張ろうとしている。
……今なら!
俺は身体の前側へ、短く太い突起を作った。
先端だけを尖らせ、《硬質外皮》を集中する。
昨日のような細い槍ではない。
もっと短く、折れにくい形。
俺はそのまま身体を押し出した。
狙うのは、外殻の継ぎ目。
跳鎌虫の腹部と、後ろ脚の付け根だ。
――ズンッ!
……入った!
相手の身体が激しく震えた。
俺はさらに触手を伸ばし、傷口へ《微弱毒分泌》を働かせる。
すると、跳鎌虫が前脚を振り上げた。
……まずい!
目の前で、鎌が光を反射した。
俺は咄嗟に身体を縮めた。
――ザシュッ!
鎌が身体の表面をかすめる。
薄く広げていた部分が切り裂かれ、また少し体積を失った。
……痛いって!
いや、だから痛覚とは少し違うんだけど!
とにかく嫌なんだよ、その感覚!
俺は距離を取った。
跳鎌虫はまだ暴れている。
だが、明らかに動きが鈍くなっていた。
片方の後ろ脚をうまく使えず、何度も跳ぼうとしては地面へ崩れる。
……よし。
無理に近づかなくていい。
俺は相手の動きを確かめながら、少しずつ位置を変えた。
跳鎌虫が残った後ろ脚へ体重をかける。
――ギュッ。
また跳ぼうとしている。
……いや。
今の姿勢じゃ、まともに跳べないだろ。
俺は地面へ広がり、相手が動き出すのを待った。
――ダンッ!
跳鎌虫が跳んだ。
だが、身体が横へ傾いている。
着地先がずれ、木の根に激しくぶつかった。
――ガンッ!
……おお。
これは痛そうだ。
俺はすぐに近づいた。
さっき傷つけた腹部の継ぎ目へ、もう1度硬くした触手を突き入れる。
――ズッ!
跳鎌虫が大きく痙攣した。
それから、ゆっくりと動きが弱まっていく。
俺はしばらく距離を保って様子を確かめた。
足音はない。
鎌も動かない。
……倒した?
念のため、細い触手を伸ばしてみる。
反応はなかった。
……よし。
勝った!
俺は身体を持ち上げた。
今度こそ、ちゃんと自分の力で!
……いや。
もちろん、ルナに危険を教えてもらったし、途中で助言もあった。
でも、戦ったのは俺だ。
相手の動きを観察し、考え、罠を作って倒した。
しかも今回は、初めて《視覚》を戦闘に使えた。
……これは大きいぞ。
俺は思わず、身体の端を揺らした。
「……終わったか?」
ルナが声をかけてきた。
俺は身体を上下させた。
「ふむ。見事だった」
……おお。
また褒められた。
「最初は危なっかしかったが、最後は相手の動きをよく見ておったな」
……だろ?
今回は、ちゃんと考えて戦ったんだよ。
「ただし、鎌を持つ相手に無闇に触手を伸ばすのは感心せぬ」
……はい。
そこは反省しております。
「それに、視覚を使うことに夢中になって、ほかの感覚がおろそかになっておったぞ」
……うっ。
確かに。
最初は見えることが嬉しくて、目で追うのに集中しすぎていた。
途中から《微振動感知》も使うようになったけど、まだうまく両立できていない。
「目だけに頼る必要はない。貴様には、貴様の得意な感じ方があるではないか」
……なるほど。
そうか。
普通の人間なら、目で相手を見て戦うのが当たり前だ。
でも、俺は違う。
振動が分かる。
接触したものの感触も、身体全体で確かめられる。
そこへ視覚まで加わった。
だったら、無理に人間と同じ戦い方をする必要はないんだ。
……うん。
ちょっと分かってきた気がする。
俺は倒れた跳鎌虫へ身体を向けた。
さて。
それじゃあ。
久しぶりの、捕食のお時間です。
……いや、昨日も食べたばっかりだけど。
俺にとっては、これが成長の基本だからな。
俺は跳鎌虫の身体へ触れ、《捕食》を開始した。
まずは比較的柔らかい腹部から。
硬い外殻は、昨日の裂尾蜥蜴と同じように時間がかかる。
無理に一気に取り込まず、少しずつ消化を進めていく。
……うん。
やっぱり硬いな、こいつ。
でも、その硬さには興味がある。
特に鎌。
あの鋭さは、俺の《硬質外皮》とは少し違う気がする。
それから、後ろ脚。
あの跳躍力だ。
普通の筋肉だけで、あんな動きができるものなのか?
俺は後ろ脚の付け根へ触手を伸ばし、内部の構造を確かめた。
……ん?
何だ、これ。
硬い外殻の下に、強く伸び縮みする部分がある。
触手で押すと、ぐっと沈む。
そして、離すと勢いよく元へ戻った。
……おお。
バネみたいだ。
俺はその部分も、ゆっくり取り込んでいった。
すると。
《捕食が完了しました》
おっ。
きたきた。
続いて、いつもの表示が現れる。
《性質吸収の条件を満たしました》
……おお!
今回は何が手に入るんだ?
俺は意識を集中した。
《新たな性質を獲得しました》
《弾性組織》
……弾性組織?
俺は少し考えた。
弾性。
つまり、伸び縮みして元に戻る性質ってことか?
さっきの跳鎌虫の後ろ脚みたいに。
……なるほど。
これは。
もしかして。
かなり使えるんじゃないか?
俺は早速、身体の下側へ短い脚を作ってみた。
昨日から何度も練習している、3本脚の形だ。
ただし、今回は少し違う。
脚の内部に《弾性組織》を働かせてみる。
すると、今までとは違う感触が生まれた。
脚を縮めると、内部に力がたまるような感覚。
そして、その力を緩めると。
――ビョンッ!
……うおっ!?
身体が跳ねた。
ほんの少しだけど、確かに地面から浮いた。
そのまま。
――ベチャッ!
……。
…………。
着地、失敗。
俺は地面に広がった。
……いやいや。
待て待て。
今の、すごくない?
俺、跳んだぞ?
初めて、自分の力で跳んだんだけど!
「……ノア?」
ルナが呆れた声を出す。
「貴様、何をしておる?」
俺はもう1度、脚を作った。
今度はさっきより少し太くする。
内部に《弾性組織》を働かせ、ゆっくり縮める。
……よし。
力がたまってる。
このまま、少しずつ解放すれば。
――ビョンッ!
……おお!
また跳んだ!
今度は、さっきより高い。
……って。
ちょっと高すぎない!?
俺は慌てて触手を広げた。
――ベチャッ!
……。
…………。
また着地失敗。
「……くくっ」
ルナが笑い始めた。
「貴様、今度は跳ねるようになったのか」
……そうですよ。
跳ねるようになったんですよ。
すごいだろ?
「だが、着地が下手すぎるな」
……。
……それは、まあ。
否定できない。
「ふふっ。立つ練習の次は、跳ぶ練習か。忙しい身体だな」
……ほんとだよ。
俺だって、こんなに次から次へと新しいことを覚えるとは思ってなかった。
でも。
悪くない。
むしろ、かなり楽しい。
俺は身体を戻し、しばらく休むことにした。
今回の戦闘で体積を失った部分も、捕食によって少しずつ補えている。
ただ、目と脚を同時に維持した負担は残っていた。
それに、《弾性組織》はまだ使い方が分からない。
無理に跳び続ければ、着地に失敗して身体を傷つけるだけだろう。
……うん。
今日はここまでにしよう。
俺は水辺へ移動し、身体を低く広げた。
目の前には、浅い川が流れている。
せっかくだから、もう1度だけ。
俺は身体の上部へ小さな目を作った。
――ぱっ。
ぼんやりとした景色が広がる。
水が流れている。
陽の光が当たって、表面がきらきらと揺れていた。
……綺麗だな。
俺は目を少し下へ向けた。
水面には、周囲の木々がぼんやり映っている。
そして、その手前に。
何だか、丸いものがあった。
……ん?
俺は少し位置を変えた。
丸いものも動く。
……。
……あ。
これ。
俺か?
俺はしばらく水面を見つめた。
ぼんやりとした、不定形の身体。
輪郭は水の揺れで歪んでいる。
色もまだはっきり分からない。
ただ、身体の上には小さな突起があった。
……ああ。
これが、俺の目か。
初めて自分の姿を見た。
と言っても、ほとんど丸い塊なんだけど。
……なるほど。
ルナが妙な姿だと言うわけだ。
俺は身体の一部を伸ばしてみた。
水面の中でも、細長いものが伸びる。
今度は縮める。
映っているものも小さくなる。
……おお。
面白い。
そのまま、もう1度小さな脚を作ろうとしたところで。
「……ノア」
ルナの声がした。
「何をしておる?」
俺は水面から目を離し、ルナの方へ向けた。
白銀の毛並み。
淡い紫色の瞳。
少し呆れたような顔。
……ああ。
ちゃんと見える。
昨日より、少しだけはっきり。
「……ふむ」
ルナが首を傾げた。
「何をそんなに嬉しそうにしておる?」
俺は触手を伸ばし、水面を指した。
「……おれ」
「貴様?」
「……みえ、た」
ルナが水面へ顔を向ける。
それから、小さく笑った。
「そうか。自分の姿も見えたのだな」
俺は身体を上下させた。
「どうだ? なかなか珍妙な姿であろう?」
……おい。
もう少し言い方ってものがあるだろ。
「くくっ。だが、以前とは随分変わったぞ」
……ん?
「我と初めて出会った頃の貴様は、ろくに形も作れぬ小さな塊だった」
……まあ、そうだったな。
「それが今では、脚を作り、目を作り、魔物と戦う。しまいには跳ね回るようになった」
……うん。
そうだ。
考えてみれば、結構いろいろできるようになった。
まだ見た目は大して変わっていないけど、身体の中身は確実に変化している。
「貴様は、これからどこまで変わるのであろうな」
ルナがぽつりと言った。
俺は少し考えた。
正直、分からない。
人間の姿になれるのか。
もっと大きな魔物になれるのか。
それとも、今とはまったく違う何かになるのか。
まだ想像もつかない。
でも。
俺は水面へ映る自分を見た。
小さな目。
不定形の身体。
必要に応じて伸びる触手。
……うん。
悪くない。
今の俺は、まだまだ未完成だ。
それでも、この身体には可能性がある。
俺は目を崩し、ルナの方へ触手を伸ばした。
「……いこう」
「うむ」
ルナが立ち上がる。
「次の町までは、まだ道のりがある。今日のところは、もう少し進むとしよう」
俺は身体を上下させた。
……よし。
行こう。
ただし、今日はもう新しい脚の練習はしない。
目も、しばらく休ませよう。
ちゃんと回復してから、また試せばいい。
俺たちは林を抜け、街道へ戻った。
足元の石。
風に揺れる草。
ルナの歩く振動。
今まで頼りにしてきた感覚は、何も変わらない。
でも、そこへ新しいものが加わった。
視覚。
そして、弾性。
これからは、地面を這うだけじゃない。
立つこともできる。
跳ぶことだってできるようになった。
……あとは。
ちゃんと着地できるようにならないとな。
そこまで考えたところで、ルナが振り返った気配がした。
「ノア」
……ん?
「次に跳ぶときは、できれば我の目の前でやってくれ」
……え?
何で?
「貴様が地面へ潰れる姿は、なかなか愉快だったからな」
……おい!
練習を見たいんじゃなくて、失敗するところを見たいだけじゃねえか!
俺は抗議するように触手を振った。
すると、ルナが楽しそうに笑った。
……まったく。
いつか絶対、見返してやる。
目標は、華麗な跳躍。
そして、完璧な着地だ。
……まあ。
まずは普通に歩けるようになるところから、だけどな。




