ギルドの人、怖い、、
第2部 第28話 ギルドの人、怖い
「……この書類、誰が本物だと言いました?」
穏やかな声だった。
怒鳴っているわけでも、相手を責めているわけでもない。
それなのに、ハルドが黙った。
村長のオルネスも、すぐには答えない。
……何だ?
俺は床の上で身体を持ち上げた。
今朝、小屋を訪ねてきたのは、隣町の冒険者ギルドから派遣された調査員だった。
名前はサフィア。
声からすると若い女性らしいが、話し方は妙に落ち着いている。
革の鞄を持ち、金属の留め具がついた靴を履いているようだ。歩くたびに小さな金属音が鳴るため、俺にも居場所が分かりやすかった。
ただし、やって来てからというもの、彼女はほとんど無駄話をしていない。
書類を確認し、首輪を調べ、ハルドへ質問する。
そして今、例の商人が残した書類を前にして、そんなことを言ったのだ。
「……本物だとは断定しておらん」
オルネスが答えた。
「だからこそ、引き渡しを断ったのだ」
「それは賢明でした」
サフィアはあっさり答えた。
「危うく、ずいぶん面倒なことになるところでしたよ」
……え?
俺は身体を止めた。
面倒なこと?
「どういう意味だ?」
ハルドが尋ねる。
サフィアは紙を動かした。
「まず、この輸送契約書。書式自体は古い商業書類に似せてありますが、現在のギルド登録に必要な項目がいくつか抜けています」
「……ほう」
「それから、こちらの取扱人の署名」
紙を指で叩く音がした。
「フェルク、とありますね」
……ああ。
昨日来た男だ。
丁寧な口調で、白い狐たちを商品扱いしていた商人。
思い出すだけで、少し嫌な気分になる。
「この人物について、リーデル商会へ確認を取りました」
……お?
俺は触手を持ち上げた。
「商会自体は実在しています。家畜や荷物の輸送を手掛ける、きちんとした商会です」
「では、あの男は?」
ハルドが尋ねる。
「……少なくとも、商会の取引所は知らないそうです」
「…………」
小屋の中が静かになった。
……え?
知らない?
「代理人を派遣した記録もありません。白毛の山狐2頭を輸送したという契約も確認できませんでした」
「……つまり」
オルネスが静かに言った。
「あの男は、商会の名を勝手に使っていた可能性があると?」
「その可能性が高いですね。正式な代理人ではないと、商会からも返答を受けています」
……おいおい。
俺は思わず身体を揺らした。
じゃあ、あいつ。
最初から嘘をついていたのか?
「ただし、本人がどのような立場で動いているかは、まだ調査中です」
サフィアが続ける。
「商会に無断で取引をしていたのか、まったく別の組織に属しているのか。それは今後の確認が必要でしょう」
……なるほど。
とりあえず、あいつの話をそのまま信じなくてよかった。
俺は少し安心した。
そのとき。
「……ふん」
ルナが鼻を鳴らした。
「やはり、胡散臭い男であったか」
……だよな。
俺は触手を上下へ動かした。
すると、サフィアがこちらへ声を向けた。
「……ところで」
……ん?
「先ほどから気になっていたんですが、その魔物はあなたの言葉を理解しているんですか?」
……お。
俺のことか。
「理解しておるぞ」
ルナが答える。
「それどころか、少しずつ発声も覚え始めておる」
「……発声?」
サフィアの声が変わった。
「この個体が?」
俺は触手を持ち上げた。
すると、彼女の足音が近づいてきた。
……こつ。
……こつ。
「……失礼。少し近くで確認しても?」
「触れるなら、先にノアの許可を取るがよい」
ルナが答えた。
……おお。
そういうところ、ちゃんとしてくれるんだよな。
俺は少し嬉しくなった。
「……ノア、という名前なんですね」
サフィアが言った。
「私はサフィアです。触っても構いませんか?」
……いいよ。
俺はゆっくり肯定した。
すると、彼女が少し驚いたように息を漏らした。
「……本当に返事をするんですね」
……まあね。
「では、触れますよ」
指先が、そっと身体へ触れた。
俺は《粘着性》を抑え、表面を柔らかく保った。
「……ふむ」
サフィアが静かに呟く。
「外皮は柔らかい。ですが、内部の密度が均一ではないようですね」
……え?
俺は動きを止めた。
ちょっと待って。
触っただけで、そこまで分かるの?
「それに、触れた場所の形が変わりました。自分で調整していますか?」
……してます。
俺は肯定した。
「……興味深い」
……何だろう。
この人、ちょっと怖いぞ。
俺が身体を縮めると、サフィアはすぐに手を離した。
「失礼しました。怖がらせるつもりはありません」
……いや。
怖がったというか。
観察されてる感じが、すごいんですけど。
「……ふふっ」
ルナが小さく笑った。
「ノア、貴様にも苦手な相手がおるのだな」
……いやいや。
ルナだって、初対面で身体を調べられたら嫌だろ。
俺が触手を向けると、彼女は楽しそうに笑った。
⸻
「……さて」
サフィアは再び書類へ向き直った。
「次に、こちらの首輪です」
……お?
俺は身体を持ち上げた。
金属が木箱の上へ置かれる。
……ことん。
どうやら、狐たちから外した首輪を調べ始めたらしい。
「欠けた輪の印がありますね」
「ああ」
ハルドが答える。
「捕獲網にも、檻にも同じ印があった。商人は商会の管理印だと言っていた」
「……そうですか」
サフィアは少し黙った。
続いて、紙をめくる音。
「それなら、もう1つ確認したいことがあります」
……何だろう。
俺は触手を向けた。
「この印の部分、よく見てください」
「……何かあるのか?」
ハルドが尋ねる。
「輪が欠けているだけではありません。欠けた部分から、短い線が内側へ伸びています」
……線?
俺には見えない。
ただ、サフィアは実際に指で確かめているようだった。
「……確かに」
ハルドが答える。
「言われてみれば、細い線があるな」
「この形には、少し覚えがあります」
……おお。
俺は身体を持ち上げた。
ついに、何か分かるのか?
「ただし、断定はできません」
……あ。
そうなのか。
「似た印を、古い遺構の調査記録で見たことがあるんです」
「……遺構?」
その言葉に、ルナが反応した。
「どこの遺構だ?」
「この地域の北側にある岩山です」
「…………」
俺は動きを止めた。
……北側?
あの石切り場がある方角じゃないか。
「数年前、ギルドが周辺の古い坑道を調べた際の記録です」
サフィアが説明する。
「ただし、当時は入口が崩落していて、奥まで調べられなかったそうです」
……なるほど。
俺は少し考えた。
古い坑道。
石切り場。
崩れた入口。
それなら、今回見つかった石扉と関係があるかもしれない。
「……その記録は、今も残っておるのか?」
ルナが尋ねた。
「ええ。簡単な地図と、調査員が描いた図が残っています」
「……見せてもらえるか?」
「もちろん」
紙が広げられる音がした。
しばらく、沈黙。
そして。
「……これは」
ルナの声が、少しだけ低くなった。
……ん?
俺は触手を持ち上げた。
何だ?
「……ルナ?」
今度はハルドが声をかける。
「何か分かったのか?」
少しの沈黙。
それから。
「……いや」
ルナは静かに答えた。
「ただ、我が以前読んだ古い記録にも、似た形の印があった」
……え?
俺は身体を止めた。
ルナが探していたという、閉ざされた道。
その古い記録に?
「……では」
サフィアが声を向ける。
「あなたも、あの岩山について何か知っているんですね?」
「……少しだけな」
ルナが答えた。
「我は、あの山の地下に古い通路があると聞き、実際に調べようとしておった」
……ああ。
それで、俺と出会った洞窟へ来たんだよな。
「……ですが、今まで調査されていなかった場所へ、どうやって入ったんですか?」
サフィアが尋ねる。
「南側の洞窟からだ。途中で魔物に襲われ、引き返すことになったがな」
「……なるほど」
サフィアは少し考え込んだ。
「では、石切り場の入口とは別に、南側からも地下へ入れる可能性があるわけですね」
……おお。
俺は身体を持ち上げた。
そうか。
今まで、石切り場の扉ばかり気にしていた。
だが、俺とルナがいた洞窟も、あの岩山にある。
もし地下で繋がっているなら。
商人たちが別の入口を使っていても、おかしくない。
「……興味深いですね」
サフィアが静かに言った。
「ただ、今の段階では繋がっているとは限りません。地形を確かめる必要があります」
……そうだな。
俺はゆっくり肯定した。
すると、彼女が続けた。
「まずは、石切り場の入口を確認しましょう」
⸻
午後、俺は再び木箱で運ばれることになった。
同行するのはハルド、セイン、それからサフィア。
ルナは小屋で留守番だ。
右後ろ脚は少しずつ良くなっているが、まだ長く立てる状態ではない。
本人は不満そうだったものの、マルタが一言。
『歩けるようになってから言いな』
それで話は終わった。
……強いな、マルタ。
俺は木箱の底へ身体を固定しながら、少しだけ笑った。
「……ノア」
隣を歩いていたサフィアが声をかけてきた。
俺は触手を持ち上げた。
「あなたの感覚について、少し聞いてもいいですか?」
……いいよ。
俺は肯定した。
「目では、どの程度見えているんですか?」
……そこか。
俺は少し考えた。
今の俺には《明暗感知》がある。
光の強さや、どちらから届いているのかは分かる。
ただし、色も形も分からない。
誰かの顔も見えない。
……説明が難しいな。
俺は木箱の縁へ触手を伸ばした。
まず、上を指す。
続いて、自分の身体へ向ける。
そして、触手で丸を作ろうとしてみた。
「……光ですか?」
……おお。
俺は肯定した。
「光の方向は分かる?」
もう1度、肯定。
「では、人の形は?」
否定。
「……見えないんですね」
肯定。
「なるほど。視覚というより、光の有無を感じ取る能力に近いわけですか」
……そう!
俺は大きく肯定した。
……すごいな。
この人、話が早い。
「では、昨日までの石切り場では、何を使って奥の様子を確かめていたんですか?」
俺は木箱の底を軽く叩いた。
……こつ。
「……振動?」
肯定。
「石を伝わる音を拾っていた?」
もう1度。
「……ふむ」
サフィアは静かに考え込んだ。
「それなら、今日の調査でも役に立つかもしれませんね」
……まあ。
できることなら、手伝うよ。
ただし、無理はしない。
俺は触手を小さく動かした。
すると、セインが笑った。
「この前も、ノアのおかげで水の変化に気づけたんだ」
「……聞いています」
サフィアが答える。
「報告書にありましたから」
……報告書?
俺は身体を止めた。
「ええ。あなたのことも書いてありましたよ」
……え。
何て?
「『不定形の魔物。意思疎通可能。振動感知に優れ、建物内部の異常を発見した実績あり』」
「…………」
俺は黙った。
……何だろう。
すごい。
なんか、ちゃんと仕事してる魔物みたいだ。
「……ただし」
サフィアが続ける。
「種族不明、とありました」
……ああ。
そこは、そうなるよな。
俺自身は、自分が原初種だと知っている。
だが、それを人間たちへ伝える方法がない。
ルナも古い伝承との共通点を感じているようだが、同じ種族だと確かめられたわけではない。
「……いつか分かるといいですね」
サフィアが静かに言った。
俺はゆっくり肯定した。
……そうだな。
いつか、ちゃんと自分のことも説明できるようになりたい。
⸻
石切り場へ着くと、サフィアはすぐに周囲を調べ始めた。
俺は昨日までと同じく、入口の外側で待機する。
内部へ勝手に入り込まない。
その約束は、今日も変わらない。
「……これが石扉ですか」
サフィアが言った。
「ええ」
ハルドが答える。
「ノアが内側の留め具を外してくれたおかげで、開くことができました」
「……ふむ」
足音が石扉へ近づく。
続いて、硬いものを叩く音。
……こん。
……こん。
「……古いですね」
サフィアが呟いた。
「ただ、扉そのものより、周囲の石の組み方が気になります」
……石の組み方?
俺は触手を持ち上げた。
「……どういうことだ?」
ハルドが尋ねる。
「自然の岩盤をくり抜いたというより、古い建造物を岩で覆うように作ってあります」
……おお。
俺は少し驚いた。
「つまり、もともと何か建物があって、その上を岩や土が覆った可能性があるということか?」
「ええ。ただし、いつ作られたものかまでは分かりません」
……なるほど。
俺は身体を小さくまとめた。
石切り場だと思っていた場所。
その地下に、さらに古い建造物がある。
……何だか、どんどん話が大きくなってきたな。
「……では、内部を少し確認します」
サフィアが言った。
「ハルド隊長、案内をお願いします」
「ああ。ただし、奥の水路までは行けないぞ」
「承知しています。危険な場所へ無理に入るつもりはありません」
……よかった。
俺は少し安心した。
調査員だからといって、無茶をするわけではないらしい。
ただ。
「……セイン」
サフィアが続けた。
「入口から奥へ続く道について、以前の報告と違うところがあれば教えてください」
「了解です」
「それから、何か新しい傷や足跡を見つけた場合は、踏まないようにしてください」
……おお。
細かいな。
俺は少し感心した。
「……ノア」
ハルドがこちらへ声を向けた。
俺は触手を持ち上げた。
「入口で待っていてくれ。何かあれば、すぐ知らせる」
……了解。
俺は岩壁へ身体を寄せた。
⸻
しばらくして、奥から足音が遠ざかっていった。
俺は《微振動感知》へ意識を集中させる。
……こつ。
……こつ。
3人分の足音。
それから、流れる水の振動。
昨日までと比べると、水の勢いはかなり弱まっているようだった。
……だいぶ引いたな。
俺は少しだけ安心した。
ただし、地下の水路が完全に安全になったわけではない。
足元は濡れているだろうし、古い石橋も傷んでいる。
無理に渡ることはできないだろう。
しばらくして。
「……ここですね」
サフィアの声が、かすかに届いた。
どうやら、以前大きい狐が繋がれていた場所へ近づいたらしい。
「……ああ」
ハルドが答える。
「この先に水路がある。向こう側へ渡るには、崩れかけた石橋を使わなければならない」
「……なるほど」
サフィアが静かに言った。
「では、ここから確認しましょう」
……何を確認するんだ?
俺は少し気になった。
だが、声は遠い。
詳しい会話までは聞き取れなかった。
代わりに、金属の道具が石へ触れるような振動が続く。
……かち。
……こつ。
……こつ。
サフィアが何かを調べているらしい。
しばらくして。
「……隊長」
彼女の声が、少しだけ変わった。
「これを見てください」
……ん?
俺は身体を持ち上げた。
「……何だ?」
ハルドが尋ねる。
少しの沈黙。
そして。
「……新しい傷があります」
……傷?
俺は触手を止めた。
「石の表面が、最近削られたようです」
「……どこだ?」
「水路の向こう側です。古い壁の一部が露出しています」
……水路の向こう?
俺は身体を強張らせた。
大きい狐が繋がれていた場所の、さらに奥だ。
「……人が手を加えたのか?」
ハルドが尋ねる。
「その可能性があります。しかも……」
サフィアの声が止まる。
……しかも?
俺は触手を岩壁へ押しつけた。
だが、遠すぎる。
詳しい様子は分からない。
「……セイン」
サフィアが続けた。
「昨日の調査で、あそこにあの隙間はありましたか?」
少しの沈黙。
そして。
「……いや」
セインの声が返ってきた。
「少なくとも、俺が見たときにはありませんでした」
……え?
俺は動きを止めた。
昨日はなかった隙間?
「……隊長」
セインの声が少し硬くなる。
「向こうの壁、崩されています」
「……何?」
「新しく石が落ちてます。それに、奥へ続く穴みたいなものが……」
「…………」
俺は身体を強張らせた。
……おいおい。
ちょっと待て。
石切り場の奥には、まだ別の道があったのか?
しかも、最近誰かが壁を崩している。
「……なるほど」
サフィアが静かに言った。
「どうやら、こちらが本命だったようですね」
……本命?
俺は触手を持ち上げた。
「……どういうことだ?」
ハルドが尋ねる。
サフィアは少し間を置いた。
そして。
「大きい狐が繋がれていた場所は、入口にすぎなかったんでしょう」
……入口?
「本当に調べたかったのは、その先です」
「…………」
俺は動きを止めた。
……そうか。
商人たちは、狐を売るためだけに捕まえたわけじゃない。
『これで、奥を開けられる』
ニールが聞いたという、雇い主の言葉。
あれは。
本当に、何かを開くためだったのかもしれない。
だが。
「……どうして、そんなことを?」
俺は心の中で呟いた。
古い石壁を壊してまで、奥へ進もうとする。
そこに、何があるというのだろう。
そのときだった。
「……待ってください」
サフィアが声を上げた。
……ん?
俺は身体を持ち上げた。
「……何か見えるのか?」
ハルドが尋ねる。
「……光です」
「……光?」
「ええ。奥の穴から、微かに光が漏れています」
「…………」
俺は動きを止めた。
……光?
地下の奥だぞ?
しかも、以前は壁で塞がれていた場所。
自然の光が届くとは思えない。
「……誰かいるのか?」
セインが低く呟いた。
「分かりません」
サフィアが答える。
「ですが、あの場所に光がある理由は、確かめる必要があります」
少しの沈黙。
そして。
「……今日は、ここまでです」
彼女が言った。
……え?
俺は少し驚いた。
「奥へ入らないのか?」
ハルドが尋ねる。
「入りません」
即答だった。
「向こう側の足場は確認できていませんし、何者かが作業している可能性もあります」
「……そうだな」
「それに、こちらは3人です。装備も救助用が中心で、戦闘や長時間の探索に向いていません」
……なるほど。
俺は少し安心した。
やっぱり、この人は慎重だ。
「まずはギルドへ報告します。人員を増やし、周囲の出口も確認する必要がありますね」
……出口。
俺は身体を止めた。
そうか。
あの穴の奥へ、別の入口から入れる可能性もあるのか。
ルナが以前、南側の洞窟から山へ入ったように。
もしそうなら、石切り場の入口だけを見張っていても意味がない。
「……隊長」
サフィアが続けた。
「少し急いだ方がよさそうです」
……ん?
俺は触手を持ち上げた。
「……なぜだ?」
ハルドが尋ねる。
サフィアは静かに答えた。
「昨日まで壁で塞がれていた場所に、今日は穴があるんです」
「……ああ」
「ということは、こちらが狐を救出したあとも、誰かが奥で作業を続けていた可能性がある」
「…………」
俺は身体を強張らせた。
……そうか。
狐たちを助け出した。
商人の代理人も追い返した。
これで少しは落ち着くと思っていた。
だが。
相手は、まだ諦めていないのかもしれない。
それどころか。
俺たちが狐の救助に気を取られている間に、目的の場所へ近づいていた可能性まである。
……まずいな。
俺は身体を小さくまとめた。
古い石切り場の奥。
崩された壁。
そして、地下から漏れる光。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
ただ、ひとつだけはっきりした。
……まだ、誰かが動いている。
⸻
小屋へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
ルナは俺たちの帰りを待っていたらしい。
「……ノア」
俺が近づくと、すぐに声をかけてきた。
「無事であったか?」
俺は肯定した。
すると、柔らかな前脚が触れてくる。
「……よく帰ったな」
……ただいま。
俺は身体を寄せた。
そのあと、ハルドとサフィアが今日の調査結果を説明した。
商会の書類に不審な点があること。
フェルクという男が、正規の代理人ではない可能性。
欠けた輪の印が、古い遺構の記録にも残っていること。
そして、石切り場の奥に新しい穴が開いていたこと。
ルナは、最後まで黙って聞いていた。
やがて。
「……そうか」
静かな声が返ってきた。
「やはり、あの者たちは奥を探っておったのか」
「その可能性が高いですね」
サフィアが答える。
「少なくとも、ただの魔獣売買とは考えにくい状況です」
……そうだよな。
俺は身体を小さく揺らした。
すると、ルナが続けた。
「……閉ざされた道」
その言葉に、サフィアが反応した。
「先ほど話していた、古い記録にあった通路のことですか?」
「……うむ」
ルナが答えた。
「我も、詳しい場所までは知らぬ。ただ、あの岩山の地下に古い道があると伝えられておった」
「……なるほど」
サフィアは少し考え込んだ。
「では、正式な調査が必要ですね」
……おお。
俺は身体を持ち上げた。
「ただし、すぐに大人数で押しかけるつもりはありません」
……あ。
そうなのか。
「古い遺構は、下手に触れると崩れることがあります。まして、今回のように何者かが先に入り込んでいるなら、慎重に進めなければなりません」
……確かに。
俺は納得した。
「……それから」
サフィアが続けた。
「ノアについても、少し詳しく調べたいと思っています」
……え?
俺は動きを止めた。
……俺?
「あなたの振動感知能力は、今回のような遺構調査に向いています。もちろん、無理に協力してもらうつもりはありませんが」
……なるほど。
俺は少し考えた。
確かに、石の内部を探ることなら役に立つかもしれない。
ただし、今の俺には限界もある。
遠くのものを何でも把握できるわけじゃないし、古い仕組みを触っただけで理解できるわけでもない。
それに、身体の回復もまだ途中だ。
……だから。
俺は触手をゆっくり上下へ動かした。
「……協力してくれるんですね?」
肯定する。
「ありがとうございます」
サフィアが静かに答えた。
「では、無理のない範囲でお願いします」
……了解。
俺は身体を小さく揺らした。
すると、ルナが小さく笑った。
「……貴様、また仕事が増えたな」
……いや。
そうなんだよ。
気づけば、どんどん頼まれることが増えている。
虫の駆除。
建物の点検。
石扉の仕組み調査。
地下の振動確認。
そして、今度は遺構調査。
……俺、何屋なんだ?
そんなことを考えていると、ルナが楽しそうに続けた。
「ふふっ。そのうち、村の何でも屋として雇われるやもしれぬな」
……勘弁してください。
俺は触手を左右へ振った。
すると、サフィアが静かに言った。
「……それなら、ギルド登録を検討してもいいかもしれませんね」
「…………」
俺は動きを止めた。
……え?
ギルド登録?
「……魔物でも、登録できるのか?」
ルナが尋ねる。
「原則として、意思疎通ができることと、依頼内容を理解できることが条件になります」
……おお。
俺は身体を持ち上げた。
「ただし、普通の冒険者登録とは別の確認が必要になりますね」
……なるほど。
それは、そうだろうな。
「今すぐという話ではありません。ですが、ノアがもっと言葉を使えるようになれば、選択肢のひとつになるかもしれません」
……選択肢。
俺は静かに考えた。
この世界へ来てから、俺はずっと生き延びることに必死だった。
食べる。
逃げる。
戦う。
そして、少しずつ仲間が増えた。
今は、村の人たちとも関わるようになっている。
その先に、ギルド登録なんてものまであるのか。
……面白そうだな。
俺は身体を小さく揺らした。
すると、ルナが静かに言った。
「……まあ、今はまず喋れるようになることだな」
……そうだな。
俺はゆっくり肯定した。
まだ、短い言葉を発音するだけでも苦労している。
普通に会話できるようになるには、もっと練習が必要だ。
だが。
いつか、自分の言葉で話せるようになったら。
そのときは。
今より、もっと多くのことができるかもしれない。
俺はルナの前脚へそっと触れた。
そして、静かに身体を小さくまとめた。
小屋の外では、2匹の白い狐が休んでいる。
その向こうにある岩山では、今も何者かが動いているかもしれない。
閉ざされた道。
古い遺構。
欠けた輪の印。
まだ分からないことばかりだ。
だが、少なくとも。
あの商人たちの目的が、ただ魔獣を売ることではなかった。
その可能性は、かなり高くなってきた。
……さて。
次は、何が出てくるんだろうな。
俺はそう考えながら、ゆっくりと意識を休ませた。




