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ゲームだと思ったら原初の生命に転生しました。  作者: くんくん
第2部

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剣を抜くな!

第2部 第26話 剣を抜くな!


「……だ」


……よし。


今のは、悪くなかった。


俺は身体の内部に作った小さな空洞を維持しながら、慎重に次の音へ移ろうとした。


空気の通り道を変える。


振動する膜の位置を調整する。


そして、鼻に抜けるような響きを作ろうとして――


「……ぷふっ」


失敗した。


「……何だ、今の音は」


干し草の上から、ルナの声が聞こえる。


……聞かないでください。


俺が触手を縮めると、彼女は遠慮なく笑い始めた。


「ははっ! 貴様、昨日から随分と妙な音を出すようになったな!」


……練習中なんですけど!


思わず反論しようとして、俺は動きを止めた。


そうだ。


反論できるようになるための練習だった。


今の俺には、まだ『ルナ』を不安定に発音するのが精一杯だ。昨日エマに教わった『だめ』は、最初の『だ』さえ成功したり失敗したりしている。


人間だった頃なら、何も考えずに口にしていた言葉。


それが、こんなに難しいとは。


「……だ」


もう1度。


今度は、先ほどよりはっきりした音になった。


「おお」


ルナが反応する。


「今のは聞き取れたぞ」


……本当か?


俺は嬉しくなったが、身体を動かさないように気をつけた。


ここで触手を振り回せば、また内部の構造が崩れてしまう。


落ち着いて、次の音だ。


「……め」


……お?


出た。


少し弱いが、確かに『め』に近い。


「……だ……め」


音と音の間が大きく空いてしまったものの、何とか続けられた。


「……ふむ」


ルナが静かになった。


「今のは、『駄目』か?」


……そう!


俺は勢いよく肯定しようとして――


「……ぷすっ」


また空気を漏らした。


「……ふっ」


ルナが笑いを堪えるような音を立てる。


……もう好きに笑ってくれ。


俺は発声器官を解除し、床へ身体を広げた。


ただ、昨日よりは確実に進歩している。


まだ普通に会話はできないし、発音も不安定だ。それでも、練習すれば言葉を増やせる可能性が見えてきた。


「……しかし、ノア」


ルナが不思議そうに尋ねる。


「なぜ最初に覚える言葉が『駄目』なのだ?」


……それは。


俺は少し考えた。


そして、ゆっくりとルナへ触手を向ける。


「……む?」


続いて、負傷している右後ろ脚の方を示した。


「…………」


ルナが黙った。


それから。


「……貴様、我を止めるために覚えたのではあるまいな?」


……半分くらいは。


俺が小さく肯定すると、ルナは呆れたように息を吐いた。


「まったく。もっと覚えるべき言葉があるだろうに」


……でも、使う機会が多そうだからな。


そんなことを考えていると、小屋の外からエマの声が聞こえてきた。


「おはようございます!」


どうやら、今日の診察が始まるらしい。


⸻


「大きい方の狐も、少しずつ回復してきたね」


マルタの声が、軒下から届いた。


昨日、石切り場の地下から救い出された白い狐。


小さい方より一回り以上大きく、首輪と鎖で拘束されていたという。


右後ろ脚には傷があり、長く飲まず食わずだったらしく、救出されたときは自力で立つことも難しかった。


ただ、首輪を外し、水と薬を与えてからは、呼吸が少しずつ落ち着いてきている。


「……前脚は動かせるね。後ろ脚も、感覚がなくなっているわけじゃなさそうだ」


マルタが診察を続ける。


俺は小屋の入口近くに身体を広げ、外の振動を確かめていた。


2匹の狐は、それぞれ別の寝床で休んでいる。


ただ、互いの声は届く距離だ。


……くぅ。


小さい方が鳴く。


すると、少し遅れて大きい方からも返事があった。


……クゥ。


以前より、声に力が戻ってきた気がする。


「……いい傾向だね」


マルタもそう感じたらしい。


「ただ、まだ無理は禁物だよ。特に大きい方は、身体への負担がかなり大きい」


「あと、どれくらいで歩けるようになりますか?」


エマが尋ねる。


「そこまでは分からないね。傷の治り方を見ながら判断するしかない」


……なるほど。


俺はゆっくりと身体を縮めた。


ルナの脚も、同じような状態だ。


少しずつ良くなってはいるが、だからといって急に歩けるようになるわけではない。


焦らず治すしかないのだろう。


「それにしても……」


エマが何かを確かめるように言った。


「この子、結構大きいですね。毛並みも、普通の山狐とは少し違うような……」


「……どのように違う?」


小屋の中から、ルナが尋ねた。


「えっと、首の周りの毛が少し長いんです。それに、背中の毛も……」


エマはそこで言葉を切った。


「……あれ?」


「どうしたんだい?」


マルタが尋ねる。


「先生、この辺り……」


布が擦れる音。


続いて、大きい狐が小さく身体を動かした。


……かさっ。


「……何かあるのかい?」


「はい。毛の下に、古い傷みたいなものが」


……古い傷?


俺は身体を持ち上げた。


「……ふむ」


ルナの声も、少し真面目になった。


「首輪の痕ではないのか?」


「それとは別みたいです。背中の方に、何本か細い線が……」


「……傷跡かもしれないね」


マルタが答えた。


「ただ、今は無理に確かめる必要はない。触られるのを嫌がるかもしれないから」


……そうだな。


俺も、それがいいと思う。


あの狐は、長い間人間に捕まっていた。


何をされたのか、まだ全部は分かっていない。


無理に身体を調べれば、怖がらせてしまうかもしれない。


そう思った直後だった。


……かちゃ。


金属の音が聞こえた。


続いて、マルタの声。


「エマ、そこの道具袋を取っておくれ」


「はい!」


……がさっ。


布と金属が擦れ合う。


その瞬間。


……ざっ!


大きな狐が、突然身体を動かした。


「……っ!」


エマが短く息を呑む。


「先生!」


「慌てるんじゃない!」


マルタの鋭い声が響いた。


「道具を下ろして、少し離れな!」


……まずい。


俺は身体を強張らせた。


どうやら、狐が何かに反応したらしい。


さっきの金属音だろうか。


それとも、背中の傷に触れられそうになったことが原因なのか。


今の俺には判断できない。


だが、狐の呼吸は明らかに速くなっていた。


……はっ。


……はっ。


布を引っかく音。


負傷した後ろ脚を無理に動かす振動。


そして。


……ギャウッ!


鋭い鳴き声が響いた。


その直後。


――ドンッ!


「……っ!?」


俺は反射的に身体を低くした。


何かが、空気を強く押した。


音というより、圧力に近い。


小屋の壁が大きく震え、軒下から置き道具の倒れる音が響いた。


……がしゃん!


「きゃっ!」


エマの悲鳴。


「……エマ!」


マルタが叫ぶ。


俺は入口へ身体を伸ばした。


何が起きた?


今のは、ただ暴れただけの振動じゃない。


もっと広い範囲へ、一瞬で力が伝わったような感覚だった。


「……ノア!」


ルナの声が響く。


「近づくな!」


……っ!


俺は動きを止めた。


だが、その間にも大きい狐が荒く呼吸している。


……はっ。


……はっ。


小さい狐が、寝床から何度も鳴き声を上げた。


……クゥ! クゥ!


「……何だ、今のは!」


外から、警備隊員の声が聞こえた。


見張りをしていたミロだ。


駆け寄ってくる足音。


そして。


……しゃりん。


剣が鞘から引き抜かれかける音がした。


……待て。


俺は身体を強張らせた。


剣?


今、剣を抜くのか?


大きい狐は、明らかに怯えている。


もしここで武器を向けられたら。


「……やめろ!」


俺は心の中で叫んだ。


だが、声にはならない。


代わりに身体が動いた。


⸻


俺は入口の敷居へ《粘着性》で身体を固定した。


そこから細い触手を伸ばし、ミロの足元へ向ける。


ただし、引き倒すつもりはない。


足に絡みつけば、かえって驚かせてしまう。


俺がしたのは、石の上を強く叩くことだった。


……カン!


「……何だ!?」


ミロの足が止まる。


俺は触手を大きく左右へ振った。


剣を抜くな。


近づくな。


そう伝えたいのに、相手には意味が伝わっていない。


「ノア、危ない! 下がれ!」


……違う!


俺が危ないんじゃない!


今、剣を抜いたら駄目なんだ!


俺は必死に触手を動かした。


すると、大きい狐が再び鳴いた。


……ギャウッ!


空気が震える。


さっきと同じ、押し返されるような感覚。


……また来る!


俺は反射的に身体を縮め、《硬質外皮》を中枢核の周囲へ集中させた。


その直後。


――ドンッ!


2度目の衝撃が、軒下へ広がった。


……がたん!


近くに置かれていた木皿が跳ね、壁へぶつかる。


ミロが足を踏み替える振動が伝わった。


「……くっ!」


「ミロ、下がれ!」


今度はマルタが叫んだ。


「剣なんか抜くんじゃないよ!」


「ですが、先生!」


「この子は怯えてるんだ!」


……そうだ!


俺は触手を強く振った。


だが、ミロは迷っているようだった。


何かあれば人間を守る。


それが彼の仕事なのだろう。


しかし、今ここで武器を向ければ、大きい狐がさらに暴れるかもしれない。


……伝えないと。


俺は身体の内部へ意識を集中させた。


昨日、エマと練習した構造。


小さな空洞。


振動する膜。


音を切り替える細い通路。


こんな状況で、うまく作れるとは思えない。


それでも。


「……だ……」


弱い音が漏れた。


……くそ。


もっと。


俺は必死に空気を押し出した。


「……めっ!」


「…………」


ミロの動きが止まった。


俺も、一瞬だけ動けなくなった。


……出た?


今。


ちゃんと言えたのか?


「……ノア?」


ミロの声が聞こえる。


俺は触手を強く左右へ振り、彼の剣へ向けた。


もう1度。


「……だ……め!」


今度は、さっきより大きく。


ただし、音は途切れ途切れだった。


「……駄目?」


ミロが呟いた。


俺は大きく肯定した。


「剣を抜くなってことか?」


……そう!


俺は身体を揺らした。


その拍子に発声器官が崩れ、妙な空気が漏れる。


だが、もう構わなかった。


伝わった。


今は、それで十分だ。


「……分かった」


ミロが低く答える。


……かちん。


剣が鞘へ戻される音がした。


俺はようやく、少しだけ身体の力を緩めた。


だが、まだ終わっていない。


大きい狐の呼吸は荒いままだ。


また同じ衝撃が起きるかもしれない。


「……ルナ!」


俺は反射的に彼女の方へ触手を向けた。


すると、小屋の中から落ち着いた声が返ってきた。


「分かっておる」


ルナは静かに続けた。


「ノア、余計な力を使うでない。今は皆を離れさせよ」


……了解。


俺は入口の近くで身体を低く広げた。


その間に、マルタがエマを少し離れた場所へ移動させる。


ミロも剣から手を離し、軒下の外側へ下がった。


「……よし」


ルナが小さく息を吐く。


そして、大きい狐へ向かって声をかけた。


「白い狐よ。聞こえるか」


……はっ。


……はっ。


荒い呼吸が続いている。


「誰も、貴様を捕まえようとはしておらぬ」


返事はない。


「もう鎖はない。首輪も外れておる」


小さい狐が、再び鳴いた。


……クゥ。


それに応じるように、大きい狐が短く声を漏らす。


……くぅ。


「……そうだ」


ルナが続けた。


「貴様は、もうあの檻の中にはおらぬ」


「…………」


俺は静かに聞いていた。


大きい狐の呼吸が、少しずつ変わっていく。


……はっ。


……すぅ。


まだ速い。


だが、さっきほどではない。


小さい狐が、もう1度だけ鳴いた。


……クゥ。


しばらくして。


……くぅ。


大きい狐が返事をした。


そのあと、強い衝撃は起こらなかった。


⸻


「……怪我人はいないね?」


マルタが周囲へ声をかけた。


「私は大丈夫です!」


エマが答える。


「俺も平気です」


ミロの声。


「……そうかい」


マルタは小さく息を吐いた。


「それなら、ひとまずよかった」


……本当に。


俺は入口の近くで身体を小さくまとめた。


正直、かなり焦った。


大きい狐が突然暴れ、空気を押すような衝撃が2度起きた。


しかも、ミロが剣を抜きかけた。


誰かが怪我をしていても、おかしくなかった。


……でも。


俺は身体の内部へ意識を向けた。


さっき、自分が出した音。


『だめ』。


完全な発音とは程遠かった。


だが、ミロには伝わった。


……よかった。


本当に。


「……ノア」


ルナが静かに声をかけてきた。


俺は触手を向けた。


「今のは、よく伝えたな」


……うん。


俺はゆっくり肯定した。


「だが、無理をしただろう?」


……あ。


俺は身体を縮めた。


確かに、発声器官を作ったときは相当な集中力を使った。


しかも、直前まで中枢核を守るために硬質化もしていた。


今は少し身体が重い。


「……まあ、今回は仕方あるまい」


ルナが小さく息を吐く。


「貴様のおかげで、ミロも剣を納めたのだからな」


……そうだな。


俺は身体を小さく揺らした。


すると、ミロが近づいてきた。


ただし、さっきまでとは違って足音が慎重だった。


「……ノア」


俺は触手を持ち上げた。


「助かった。さっきは、危うく剣を抜くところだった」


……うん。


俺は肯定した。


「正直、あんな力を出す魔獣だとは思わなかったんだ」


……俺もだよ。


俺は身体を小さく揺らした。


「でも、あの狐は俺たちを襲おうとしてたわけじゃないんだよな?」


……そこは。


俺は少し迷った。


正確には、分からない。


ただ、狐は明らかに怖がっていた。


しかも、衝撃が起きたのは周囲の音や動きへ反応した直後だった。


だからといって、意図的に攻撃したのかどうかまでは判断できない。


俺は触手をゆっくり横へ振った。


「……分からない、か」


ミロが呟く。


もう1度、肯定する。


「……そうだよな」


少しの沈黙。


そして。


「それでも、剣を抜かない方がいいと思ったんだな」


俺は肯定した。


すると、ミロが小さく息を吐いた。


「……分かった。次は、もう少し落ち着いて判断する」


……頼むよ。


俺は触手を小さく持ち上げた。


⸻


「……あれは、魔術なのか?」


昼を過ぎた頃、ハルドが小屋へやって来た。


騒ぎの報告を受けたらしい。


軒下では、マルタが大きい狐を再び診察している。


衝撃を起こしたあと、狐はぐったりしてしまった。


傷が新たに開いた様子はないらしいが、かなり疲れているという。


「……魔術に似た力ではある」


ルナが静かに答えた。


「だが、我が使う《衝撃》と同じものかどうかは分からぬ」


……なるほど。


俺は床へ身体を広げ、話を聞いていた。


ルナの《衝撃》は、洞窟で大百足と戦ったときに見せてもらった。


いや、見たわけではない。


だが、強い力が一瞬で伝わる感覚は、今でも覚えている。


今日の衝撃にも、それに近いものがあった。


「……白毛の山狐は、そんな力を持つのか?」


ハルドが尋ねる。


「普通は、そこまで強い力を使わぬ」


ルナは少し考えてから続けた。


「ただし、魔獣の性質は個体によって異なる。特に、長く生きたものや特殊な環境で育ったものは、我の知識に当てはまらぬ場合もある」


……なるほど。


俺は身体を小さく揺らした。


あの大きい狐が、普通とは違う力を持っている可能性がある。


そして、それなら。


「……檻を曲げたのも」


ハルドが低く呟いた。


「この力かもしれんな」


……ああ。


俺も、同じことを考えていた。


以前見つかった鉄の檻は、内側から大きく曲がっていた。


普通の白毛の山狐では、そんなことは難しいとルナが言っていた。


だが、今日のような力が使えるなら。


……可能性はある。


「……ただし」


ルナが続けた。


「今のところ、本人が意図して使ったのかさえ分からぬ。恐怖に反応して、無意識に放った可能性もある」


「……そうか」


ハルドが短く答えた。


「ならば、対応を考える必要があるな」


……対応?


俺は触手を持ち上げた。


「村の安全を守る立場として、あの力を無視するわけにはいかない」


……まあ。


それはそうだよな。


あの衝撃が、もっと強くなったら。


木の皿だけでは済まないかもしれない。


人間が近くにいれば、怪我をする可能性だってある。


だが。


「……だからといって、檻へ戻すつもりはないぞ」


ルナが低い声で言った。


……ルナ。


俺は動きを止めた。


ハルドは少しの間、何も言わなかった。


それから。


「……俺も、そうしたいとは思っていない」


静かな返事だった。


「だが、今の場所は人が通る。怪我が治るまで、もっと安全に休ませる方法を考えたい」


……なるほど。


俺はゆっくり肯定した。


それなら、いいと思う。


誰も怪我をしないようにする。


狐を必要以上に怖がらせない。


その両方を考えるべきだろう。


「……ボルクにも相談する」


ハルドが続けた。


「小屋の裏手に、使っていない物置がある。そこを片づければ、もう少し静かな場所を作れるかもしれない」


……物置。


俺は身体を持ち上げた。


確かに、あそこなら街道から少し離れている。


ただし、建物が古いなら安全を確かめる必要はあるだろう。


「……ノア」


ハルドがこちらへ声を向けた。


俺は触手を持ち上げた。


「また、建物を調べるのを手伝ってもらえるか?」


……ああ。


それなら、できそうだ。


俺は肯定した。


「助かる」


ハルドが少しだけ笑った。


「ただし、今日は休め。さっきの騒ぎで、かなり疲れただろう」


……はい。


俺は素直に身体を小さくまとめた。


⸻


夕方、エマが再び小屋へ入ってきた。


「ノア!」


俺は触手を持ち上げた。


すると、彼女が嬉しそうに言った。


「さっき、本当に『駄目』って言えたんですって?」


……あ。


もう聞いたのか。


俺は少しだけ身体を揺らした。


「先生から聞きました! ミロさんも、びっくりしてましたよ!」


……そりゃ、そうだろうな。


俺自身が一番びっくりしたくらいだ。


「でも、すごいです!」


エマは近くへ腰を下ろしたらしい。


「昨日は、まだ音をつなげるのが難しかったのに!」


……うん。


俺は肯定した。


ただし、もう1度言ってみろと言われても、同じようにできる自信はない。


あのときは、とにかく必死だった。


練習どおりにできたというより、何とか音を絞り出しただけに近い。


「……ノア」


ルナが声をかける。


「今は喋らせるでないぞ。今日は随分と消耗しておる」


「……あっ!」


エマが慌てたように声を上げた。


「そうでした! ごめんなさい!」


……いやいや。


そこまで謝らなくても。


俺は触手を左右へ振った。


すると、エマが小さく笑った。


「じゃあ、今日は練習なしですね」


……そうだな。


俺も、今は休みたい。


エマは少し考えてから、静かに言った。


「……でも、ノア」


……ん?


俺は触手を持ち上げた。


「言葉って、やっぱりすごいですね」


……言葉?


「はい。ノアが『駄目』って言わなかったら、ミロさんは剣を抜いていたかもしれないんですよね?」


……そうかもしれない。


俺はゆっくり肯定した。


「たったひと言で、誰かの行動が変わることもあるんですね」


「…………」


俺は動きを止めた。


……確かに。


そうだ。


今日、俺が言えたのは『だめ』だけだった。


それも、かなり不安定な発音だ。


だが、その言葉はミロへ届いた。


そして、彼は剣を納めた。


もちろん、俺の声だけが理由ではない。


マルタも止めてくれたし、ルナも状況を説明してくれた。


それでも。


俺の言葉が、少しは役に立ったのかもしれない。


「……そう考えると」


俺は身体を小さくまとめた。


早く喋れるようになりたい。


ずっと、そう思っていた。


だが、今日初めて実感した。


言葉は、自分の気持ちを伝えるためだけのものじゃない。


誰かを止めることもできる。


安心させることもできる。


そして、状況によっては。


危険を避けるための力にもなる。


……なるほどな。


俺はゆっくり触手を持ち上げた。


すると、エマが小さく笑った。


「明日も、少しずつ練習しましょうね!」


……うん。


俺は大きく肯定した。


⸻


夜。


小屋の外では、2匹の白い狐が休んでいた。


大きい方は、今日の騒ぎでかなり疲れてしまったらしい。


だが、呼吸は落ち着いている。


小さい方も、その近くで静かに眠っているようだった。


俺は入口へ少しだけ身体を寄せ、外の気配を確かめた。


……すぅ。


……はぁ。


規則正しい呼吸。


それから、遠くを歩く見張りの足音。


今のところ、異常はない。


「……ノア」


後ろから、ルナの声がした。


俺は触手を向けた。


「今日は、怖かったか?」


「…………」


俺は少し考えた。


そして、肯定した。


怖かった。


あの衝撃が、もう1度来るかもしれないと思った。


エマやマルタが怪我をするかもしれないと思った。


ミロが剣を抜いたら、もっとひどいことになるかもしれないと思った。


……怖かったよ。


本当に。


「……そうか」


ルナが静かに答える。


少しの沈黙。


そして。


「我も、少し怖かった」


「…………」


俺は動きを止めた。


……ルナも?


「貴様が、あの狐と人間たちの間へ入ろうとしたときだ」


……あ。


俺は少しだけ身体を縮めた。


「洞窟で大百足に襲われたときのことを、思い出してしまった」


その声は、いつもより小さかった。


「また、貴様が傷つくのではないかとな」


「…………」


俺は静かに触手を伸ばした。


ルナの前脚へ、そっと触れる。


すると、柔らかな毛が触手へ押し返してきた。


「……ふふっ」


ルナが小さく笑った。


「だが、今日はよく考えて動いておったな」


……そうかな。


俺は触手を小さく揺らした。


「無理に狐へ近づかず、まずミロを止めた。それは、正しい判断だったと思うぞ」


……ありがとう。


俺は身体を彼女のそばへ寄せた。


すると、ルナが続けた。


「……それにしても」


……ん?


俺は触手を向けた。


「貴様が最初に覚える言葉が『駄目』とはな」


……またその話?


俺は少しだけ身体を揺らした。


「ふふっ。今度、我が無理をしようとしたら、貴様に言われるのだろう?」


……もちろん。


俺は即座に肯定した。


「……やれやれ」


ルナが呆れたように息を吐く。


だが、その声はどこか楽しそうだった。


「では、我も気をつけねばならんな」


……ぜひ、そうしてください。


俺は身体を小さくまとめた。


今日は、少しだけ喋れた。


ただし、まだ短い言葉しか出せない。


しかも、続けて使えばすぐに疲れてしまう。


普通に会話できるようになるには、まだ練習が必要だ。


それでも。


俺は今日、初めて自分の言葉で誰かを止めた。


そして、その言葉はちゃんと届いた。


……次は。


何を伝えよう。


ありがとう。


大丈夫。


待って。


危ない。


覚えたい言葉は、いくらでもある。


だが、焦る必要はない。


明日になれば、また練習できる。


俺はルナの柔らかな尻尾へ身体を寄せ、ゆっくりと意識を休ませた。


小屋の外では、2匹の白い狐が静かに眠っている。


今夜は、誰も剣を抜かずに済んだ。


それだけで、十分だった。

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