その狐、売り物につき
第2部 第25話 その狐、売り物につき
「……2匹とも、引き渡していただきたい」
小屋の外から聞こえた言葉に、俺は動きを止めた。
昼前のことだった。
マルタが大きい狐の傷を診ているところへ、見知らぬ男が訪ねてきたのだ。
同行しているのは、村長のオルネスと警備隊長のハルド。
どうやら、ただの通りすがりではないらしい。
「引き渡す、だと?」
ハルドが低い声で聞き返す。
「ええ。私どもが所有する魔獣ですので」
男の声は落ち着いていた。
丁寧で、柔らかい。
それなのに、どこか引っかかるものがあった。
……所有する?
俺は扉の近くへ身体を移動させた。
軒下では、2匹の白い狐が休んでいる。
大きい方は昨日、石切り場の地下から救出されたばかりだ。
まだ衰弱が強く、起き上がることさえ難しい。
小さい方も前脚の傷が治っておらず、歩ける範囲は限られている。
その2匹を、引き渡せと言っている。
「まずは名を聞こう」
オルネスが静かに言った。
「失礼いたしました。私はリーデル商会の代理人、フェルクと申します」
「リーデル商会……」
ハルドが呟く。
「聞いたことはある。隣町にも取引所を持つ商会だったな」
「ご存じでしたか。家畜の輸送から魔獣の取り扱いまで、幅広く商いをしております」
フェルクは一拍置き、続けた。
「今回は、輸送中に行方不明となった商品を回収しに参りました」
……商品。
俺は身体を縮めた。
狐を指しているのだろう。
しかも、傷ついていることより、商品を回収することを気にしているように聞こえる。
「その商品というのは、この2匹のことかね?」
オルネスが尋ねる。
「はい。白毛の山狐が2頭。大きさの異なる個体です」
「それを証明するものは?」
「もちろん、ございます」
紙が擦れる音がした。
続いて、硬いものが机代わりの木箱へ置かれる。
「こちらが輸送契約書と、取り扱い記録です」
「……ふむ」
オルネスが書類を確かめているらしい。
しばらく、誰も喋らなかった。
俺は床へ触手を押しつけ、静かに待った。
……嫌な予感がするな。
あの狐たちは、ようやく助かったばかりだ。
首輪も外れた。
小さい方は食事を取れるようになり、大きい方も少しずつ水を飲めるようになってきた。
それなのに、また連れていかれるのか?
そんなの、冗談じゃない。
「……確かに、白毛の山狐2頭と書かれている」
オルネスが口を開いた。
「だが、これは輸送を引き受けたという書類だな」
「ええ」
「所有者を証明するものではないようだが?」
……お?
俺は身体を持ち上げた。
フェルクの返事が、ほんの少し遅れた。
「……通常、このような書類は取り扱いの根拠として認められております」
「わしが聞いているのは、そこではない」
オルネスの声は変わらない。
「この2頭を誰から譲り受け、誰の所有物として運んでいたのか。それを確かめたいと言っている」
「……なるほど」
フェルクは小さく息を吐いた。
「村長殿は、随分と慎重でいらっしゃる」
「昨夜まで鎖に繋がれていた魔獣の話だ。慎重にもなる」
……おお。
村長、強いな。
俺は少し感心した。
すると、隣からルナの声がした。
「……当然だ」
いつもより低い声だった。
「そもそも、我らの意思を確かめずに所有物と呼ぶこと自体、気に入らぬ」
俺は大きく肯定した。
だが、ルナはまだ負傷した脚を休ませている。
声は出せても、外へ飛び出せる状態ではない。
俺はそっと近づき、彼女の前脚へ触れた。
……落ち着いて。
すると、ルナが小さく鼻を鳴らした。
「分かっておる。今は黙って聞いてやろう」
……本当かな。
少し心配だったが、とりあえず信じることにした。
⸻
「では、こちらからも確認したい」
ハルドが口を開いた。
「お前たちの商会が、あの山狐を運んでいたというなら、輸送に関わった者たちの名前も把握しているな?」
「……当然です」
「ニールとダグという男に心当たりは?」
短い沈黙。
そして。
「……ええ。臨時に雇った作業員です」
フェルクは落ち着いて答えた。
「何か問題でも?」
……何か問題でも、だと?
俺は思わず身体を持ち上げた。
あの2人は、夜中に小屋へ侵入しようとした。
窓をこじ開けようとして、薬売りを装ってまでルナを捕まえようとしたのだ。
知らなかったでは済まないだろう。
「その2人は、現在こちらで身柄を預かっている」
ハルドが言った。
「村の外れに滞在している魔獣を、無断で捕獲しようとした疑いがある」
「……それは」
フェルクの声が、少しだけ変わった。
「商会としても、初耳ですね」
……本当かよ。
俺は身体を縮めた。
だが、ハルドはすぐには追及しなかった。
「そうか。ならば、こちらで調べたことを話しておこう」
足音が動く。
続いて、金属が触れ合う音。
……ちゃり。
「この首輪に、見覚えは?」
ハルドが尋ねた。
どうやら、狐から外した首輪を見せているらしい。
「……弊社で使用する拘束具の一種ですね」
「印も一致するな」
「はい。商会の管理印です」
……管理印。
俺は身体を止めた。
欠けた輪の印。
以前、ルナが見たという檻にも刻まれていたもの。
それが、商会の印だったのか。
「では、この首輪をつけていた山狐が、傷だらけで発見されたことについては?」
「……輸送中に逃げ出したのであれば、多少の負傷は避けられないでしょう」
「多少?」
ハルドの声が低くなる。
「小さい方は脱水で衰弱していた。大きい方は地下の壁に鎖で繋がれ、動けない状態だったぞ」
「…………」
今度は、返事がなかった。
「それも、通常の輸送なのか?」
ハルドが続ける。
「……現場の作業員が判断したことですので」
フェルクは少し間を置いて答えた。
「私からは、詳しい事情を申し上げられません」
……なるほど。
そう来たか。
何を聞かれても、作業員の責任にするつもりなのかもしれない。
もちろん、本当に知らない可能性もある。
だが、それならなおさら、今すぐ狐を引き渡せと言える理由が分からなかった。
「では、事情が明らかになるまでは預けられんな」
オルネスが静かに言った。
「……村長殿?」
フェルクの声が止まる。
「この2頭は現在、マルタの管理下で治療を受けている。運搬の経緯にも不明な点が多い」
「ですが、当商会には――」
「書類が足りん」
オルネスは言葉を遮った。
「輸送を引き受けたことは確認できた。だが、それと所有権は別だ。少なくとも、今ここで2頭を引き渡す根拠にはならん」
……おお。
俺は思わず触手を持ち上げた。
言ってくれた。
「正式な証明を持ってくるなら、改めて話を聞こう。それまでは引き渡せない」
少しの沈黙。
そして。
「……承知いたしました」
フェルクが静かに答えた。
「では、必要な書類を揃えたうえで、改めて伺いましょう」
……引き下がるのか?
俺は少し驚いた。
もっと揉めると思っていたのに。
「ただし」
フェルクは続けた。
「それまでに商品が失われた場合は、補償について協議させていただくことになるでしょう」
……おいおい。
まだ商品って言うのかよ。
俺は身体を強張らせた。
すると、オルネスが落ち着いた声で答えた。
「その話も、まずは誰のものなのかを確かめてからだ」
「……なるほど」
フェルクは短く笑った。
「実に、筋の通ったお考えです」
……なんか嫌な感じだな。
褒めているはずなのに、まるでそう聞こえない。
⸻
話が終わるかと思った、そのときだった。
……ちゃり。
小さな金属音が聞こえた。
俺は身体を止めた。
……ん?
今の音。
首輪とは違う。
もっと小さな金属の輪が、何かへ触れたような音だった。
「……では、失礼いたします」
フェルクが言った。
その直後。
……ざっ!
軒下から、突然強い振動が伝わってきた。
「……ギャッ!」
小さい狐の鳴き声。
続いて、布が激しく擦れる音。
……ざざっ!
「……おい!」
ハルドが反応する。
「どうした!?」
「小さい方が暴れてる!」
セインの声だった。
どうやら、近くで見張りをしていたらしい。
「……落ち着いて!」
マルタが声を上げる。
だが、狐の動きは止まらない。
……ざっ!
……がさっ!
前脚を傷めているはずなのに、必死に身体を動かしている。
俺は反射的に入口へ身体を伸ばした。
「……まずい!」
このままでは、傷が開いてしまうかもしれない。
すると、ルナが鋭く声を上げた。
「ノア! 止まれ!」
……っ!
俺は動きを止めた。
「今近づけば、余計に怖がらせる!」
……そうだ。
俺は触手を引っ込めた。
だが、その間にも狐は動き続けている。
「……何があった?」
ハルドが尋ねる。
「分からない!」
セインが答えた。
「さっきまで大人しかったのに、急に……!」
……さっきまで。
俺は身体を止めた。
少し前に聞こえた、小さな金属音。
あれが原因なのだろうか。
いや、まだ分からない。
ただ。
「……フェルクは?」
俺は身体を伸ばし、男の足音を探った。
……ざっ。
……ざっ。
入口から少し離れた場所。
足音が止まっている。
その位置から、また微かな金属音がした。
……ちゃり。
その瞬間。
……ギャッ!
狐がさらに強く鳴いた。
「…………」
俺は動きを止めた。
……まさか。
俺は触手を小さく伸ばし、フェルクの方を指した。
続いて、金属が鳴るように触手を揺らす。
「……何だ、ノア?」
ハルドが尋ねる。
俺はもう1度、同じ動きをした。
すると、ルナが低い声で言った。
「……その男が持っているものか?」
……そう!
俺は肯定した。
「……フェルク」
ルナが外へ声を向ける。
「貴様、今何を鳴らした?」
「……私ですか?」
フェルクの声が返ってきた。
「特に何もしておりませんが」
……嘘だ。
俺は身体を強張らせた。
少なくとも、何か金属が触れ合う音はした。
ただし、わざと鳴らしたのか、偶然なのかは分からない。
「……腰の道具は何だ?」
今度はハルドが尋ねた。
少しの沈黙。
そして。
「……ただの鍵束ですよ」
……鍵束?
俺は身体を止めた。
「輸送用の檻や荷車の鍵です。商人が持ち歩いていても、おかしくはないでしょう?」
……確かに。
鍵束そのものは、不自然じゃない。
だが。
白い狐が、金属音を聞くたびに怯えている。
それも、偶然とは思えなかった。
「……その鍵を、少し離してくれぬか」
ルナが静かに言った。
フェルクはすぐには返事をしなかった。
だが、やがて。
「……承知しました」
足音が動く。
……ざっ。
……ざっ。
男が離れていく。
すると、少しずつ狐の動きが弱まっていった。
……かさっ。
……ぺたり。
荒い呼吸は続いている。
だが、さっきのように暴れる様子はない。
「……ふむ」
ルナが低く呟いた。
「どうやら、あの音に嫌な記憶があるようだな」
……そうかもしれない。
俺は静かに肯定した。
フェルクの鍵束が、捕まっていたときの音に似ていたのだろうか。
あるいは、あの男自身に何か覚えがあるのかもしれない。
だが、狐の反応だけでは何も証明できない。
「……失礼しました」
フェルクが穏やかに言った。
「私の持ち物が、魔獣を刺激してしまったようですね」
……まったくだ。
俺は身体を小さく縮めた。
すると、彼は続けた。
「それにしても、随分と警戒心が強い個体のようだ」
……は?
俺は思わず身体を持ち上げた。
そりゃ、あんな目に遭えば怖がるだろう。
「慣れれば大人しくなるものですが……」
その瞬間。
「……もうよい」
ルナの声が響いた。
俺は動きを止めた。
「貴様、先ほどから随分と好き勝手なことを言っておるな」
「……おや?」
フェルクが返す。
「こちらは、魔獣の取り扱いについてお話ししているだけですが」
「……その言い方が気に入らぬと言っておる」
ルナの声は、低く落ち着いていた。
だが、明らかに怒っていた。
「慣れれば大人しくなる? 商品? 所有物?」
少しの沈黙。
そして。
「我らは、貴様の道具ではない」
「…………」
フェルクは答えなかった。
ルナは続けた。
「言葉を持たぬ者が、何も感じておらぬと思うなよ」
……ルナ。
俺は静かに触手を伸ばし、彼女の前脚へ触れた。
少しだけ、身体が震えている。
怒りだろうか。
それとも、以前に捕まえられそうになったことを思い出しているのか。
俺には分からない。
ただ、今は彼女のそばにいたかった。
「……なるほど」
フェルクが静かに答えた。
「大変、失礼いたしました」
だが、その声には謝罪の気持ちがほとんど感じられなかった。
「では、正式な書類を用意して、改めて参ります」
足音が遠ざかる。
……ざっ。
……ざっ。
しばらくして、荷車の車輪が動き始めた。
……ごとごと。
どうやら、帰ったらしい。
俺はようやく身体の力を抜いた。
……何だ、あいつ。
礼儀正しいようで、まったく話が通じていない。
いや。
もしかすると。
最初から、こちらの言葉を聞く気なんてなかったのかもしれない。
⸻
「……面倒な相手だな」
フェルクが去ったあと、ハルドが小さく息を吐いた。
「商会を名乗っている以上、今度は正式な書類を持ってくる可能性がある」
「……うむ」
ルナが答える。
「だが、あの男の話をそのまま信じるわけにはいくまい」
「当然だ」
ハルドの声が硬くなる。
「ニールとダグの件もある。首輪や檻のことも含めて、調べる必要がある」
……そうだな。
俺は肯定した。
すると、オルネスが静かに言った。
「ギルドへの連絡を急がせよう」
……ギルド?
俺は身体を持ち上げた。
「商会の取引記録や、魔獣の捕獲に関する規則も確かめねばならん。村だけで判断できることには限りがある」
なるほど。
確かに、こんな問題を小さな村だけで解決するのは難しいかもしれない。
「それから、ルナ」
オルネスが声を向けた。
「滞在の件だが、マルタから治療を続ける必要があると聞いている。最初の1週間を越えているが、当面は許可を延長する」
……おお。
俺は身体を持ち上げた。
「ただし、警備隊と連携し、村の安全に関わる問題が起きたら必ず知らせてほしい」
「……承知した」
ルナが答える。
俺も大きく肯定した。
「白い狐たちについても、治療が必要な間はここで預かろう。マルタの判断を優先する」
……よかった。
本当に。
俺は身体を小さく揺らした。
これで、少なくとも今すぐ追い出されることはない。
「……ありがとう、村長」
ルナが静かに言った。
「礼には及ばん」
オルネスが答える。
「お前たちが村の者を助けてくれたことも、わしは忘れておらんよ」
……ああ。
そうか。
俺たちがここへ来てから、いろいろなことがあった。
最初は、ただの魔物として警戒されていた。
だが、少しずつ人間と関わり、助け合うようになった。
その積み重ねが、今の言葉へ繋がっているのかもしれない。
……ありがたいな。
俺は静かに触手を持ち上げた。
⸻
午後になると、小屋の周囲はようやく落ち着いた。
マルタが狐たちの様子を診ている。
小さい方は、まだ少し興奮しているらしい。
だが、傷が大きく開いたわけではないと聞いて、俺は安心した。
大きい方も、何度か小さく鳴いていた。
どうやら、小さい狐が怯えたことに反応していたようだ。
「……あの男」
ルナが静かに呟いた。
俺は彼女の方へ身体を向けた。
「随分と慣れた口ぶりだったな」
……そうだな。
俺は肯定した。
「魔獣を捕らえ、運び、売る。それが当たり前だと思っておるのだろう」
……うん。
俺は少し考えた。
この世界には、人間と魔物がいる。
魔物の中には、人間を襲うものもいる。
危険な魔物を捕まえたり、家畜として扱ったりすること自体は、珍しくないのかもしれない。
だが。
言葉を理解する相手。
痛みを感じ、恐怖を覚える相手。
仲間を探す相手。
そういう存在まで、ただの商品として扱っていいのだろうか。
……難しい話だな。
俺は身体を小さくまとめた。
人間だった頃も、似たような問題はあった。
何が正しくて、何が間違っているのか。
簡単に答えが出る話ではない。
ただ、ひとつだけ。
今の俺には、はっきり言えることがある。
あの狐たちを、もう1度檻へ入れたくない。
それだけだ。
「……ノア」
ルナが声をかけてきた。
俺は触手を持ち上げた。
「貴様は、どう思う?」
……どう、か。
俺は少し考えた。
そして、粘土板のある場所へ移動する。
短い触手を作り、ゆっくりと文字を刻んだ。
『仲間』
続いて。
『ルナ』
最後に。
『ノア』
「…………」
ルナが静かになった。
俺は2つの名前を示し、それから『仲間』へ触れた。
……俺たちも、同じだろ?
もし誰かが、俺を商品だと言い出したら。
ルナはどうする?
きっと、怒るだろう。
だったら、俺も同じだ。
あの狐たちが俺の仲間になったかどうかは、まだ分からない。
だが、少なくとも。
自分の意思も確かめられないまま、連れていかれるのは嫌だ。
俺は触手を下ろした。
すると、ルナが小さく笑った。
「……そうだな」
その声は、少しだけ柔らかかった。
「我らも、誰かの持ち物ではない」
……うん。
俺はゆっくり肯定した。
「……それにしても」
ルナが続けた。
「貴様、随分と文字を書くのが上手くなったな」
……そうかな。
「うむ。最初の頃は、何を書いておるのか分からぬことも多かったからな」
……あ。
それ、今言う?
俺が身体を揺らすと、ルナが笑った。
「ふふっ。事実だろう?」
……まあ、そうだけど。
俺は少しだけ身体を縮めた。
そのときだった。
軒下から、小さな足音が聞こえた。
……ぺた。
……ぺた。
白い狐だ。
どうやら、また少し動き始めたらしい。
続いて。
……くぅ。
短い鳴き声。
俺は入口の方へ身体を向けた。
すると、ルナが静かに言った。
「……どうやら、落ち着いたようだな」
……よかった。
俺はそっと触手を持ち上げた。
⸻
夕方。
エマが薬を届けにやって来た。
今日は、いつもより少し遅い。
マルタの手伝いで忙しかったらしい。
「ノア、ルナ! 今日は大変だったんですって?」
「……うむ。少々な」
ルナが答える。
「先生から聞きました。商人が来たって」
……ああ。
俺は触手を持ち上げた。
「でも、村長が断ってくれたんですよね?」
肯定する。
すると、エマが安心したように息を吐いた。
「よかった……」
しばらくして、彼女は何かを思い出したように声を上げた。
「あっ、そうだ!」
……ん?
俺は身体を持ち上げた。
「ノア、昨日の練習の続き、やってみませんか?」
……発声?
俺は少し考えた。
今日は、そこまで身体を使っていない。
昨日は救助で疲れていたし、練習も短かった。
今なら、少しくらいならできそうだ。
俺は肯定した。
「よし!」
エマが嬉しそうに言った。
「今日は『ルナ』を、もう少し自然に言えるようにしましょう!」
……了解。
俺は身体の内部へ意識を集中させた。
小さな空洞。
薄い膜。
細い通路。
昨日まで何度も作った構造だ。
ただし、まだ毎回同じ形になるわけではない。
……焦るな。
俺はゆっくり空気を押し出した。
「……る……」
少しだけ、音が震えた。
続いて、通路を変える。
「……な」
「……おお!」
エマが声を上げた。
「昨日より、少し上手になってます!」
……本当か!?
俺は嬉しくなった。
だが、すぐに身体を落ち着ける。
ここで大きく動くと、また構造が崩れてしまう。
……よし。
もう1度。
「……る……な」
今度は、さっきより少しだけ続けて言えた。
「……すごい!」
エマが嬉しそうに笑う。
「ルナ、聞こえました?」
「……うむ」
ルナが静かに答えた。
「確かに、昨日より滑らかだな」
……よし!
俺は身体を小さく揺らした。
ただ、そこまでだった。
続けてもう1度発声しようとすると、内部の膜が崩れてしまった。
……ぷすっ。
「…………」
またか。
エマが笑う。
ルナも笑う。
……まあ、いいか。
昨日より、少しだけ進歩したんだから。
俺は発声器官を解除した。
すると、ルナが声をかけてきた。
「ノア」
俺は触手を向けた。
「次は、我の名前以外も覚えてみるか?」
……おお。
いいな、それ。
俺は大きく肯定した。
「……ふむ」
ルナは少し考えた。
「では、何がよいだろうな」
……何がいいかな。
俺も考えた。
伝えたいことは、いくらでもある。
ありがとう。
助けて。
待って。
危ない。
それから。
……嫌だ。
俺は少しだけ身体を止めた。
今日、あの商人へ言いたかった言葉。
あの狐たちを連れていかれるなんて、嫌だ。
そう伝えたかった。
「……エマ」
ルナが声をかける。
「ノアに、短い言葉を教えてやってくれぬか?」
「はい!」
エマが明るく答えた。
「何がいいでしょう?」
……そうだな。
俺は少し考えた。
そして、粘土板へ触手を伸ばした。
まだ書けない言葉だ。
だが、俺は何となく、その形を作りたかった。
小さな線を引く。
続いて、別の線。
ただし、文字ではない。
口を大きく開けたような、簡単な形。
「……何ですか、これ?」
エマが不思議そうに尋ねる。
俺は少し考えた。
それから、触手を左右へ振った。
強く。
はっきりと。
「……駄目?」
エマが尋ねる。
……そう!
俺は大きく肯定した。
「……なるほど」
ルナが小さく笑った。
「貴様らしいな」
……そうかな。
俺は少しだけ身体を揺らした。
すると、エマがゆっくり発音した。
「だ、め」
……だ、め。
俺は感知膜を広げた。
空気の揺れ方を確かめる。
最初の音。
短く塞いで、一気に開くような振動。
続いて、唇を閉じるような響きから始まる音。
……難しそうだな。
俺は少し考えた。
今日すぐに言えるようになるとは思わない。
だが。
今の俺には、練習する時間がある。
それに、伝えたい相手もいる。
「……やってみるか」
俺は身体を小さくまとめた。
そして、ゆっくりと内部の構造を作り始めた。
まだ、言葉にはならない。
でも。
いつか、自分の声で言ってやろう。
誰かが、俺たちを勝手に商品扱いしたときには。
はっきりと。
『駄目だ』って。




