食われる側
壁を登れるようになった。
これは、かなり大きな進歩だと思う。
何しろ、ついさっきまで地面を這うことしかできなかった俺が、今では垂直の岩肌に張りついて移動できるのだ。
しかも手足なしで。
……いや、改めて考えると、とんでもない身体だな。
元の世界でこんな生物を見つけたら、間違いなくニュースになる。
もっとも、俺自身がその生物になってしまったわけだが。
「さて、次はどうするか……」
もちろん声は出ない。頭の中で独り言を呟きながら、俺は岩壁をゆっくりと進んでいた。
捕食によって獲得した《微振動感知》のおかげで、周囲の動きはある程度分かるようになっている。
岩を伝わる細かな振動。
壁の隙間を這う小さな生物。
遠くで何かが動く、かすかな気配。
目が見えない不便さは相変わらずだが、最初に目覚めたときと比べれば、世界がずいぶん広がった気がする。
ただし、問題もあった。
「腹、減った……のか?」
胃なんてあるのかどうかも分からない。
それでも、身体の奥から何かを求める感覚が湧き上がってくる。
今までに捕食した虫は、どちらも小さかった。
身体を維持するには、もっと食べる必要があるのかもしれない。
そう考えていたときだった。
……ドン。
岩壁を伝わって、重い振動が届いた。
俺は動きを止めた。
……ドン。ドン。
一定の間隔で繰り返される振動。
これまで感じてきた虫の動きとは、明らかに違う。
重い。
そして、大きい。
「……何だ?」
振動は徐々に近づいてきた。
地面を踏みしめるたびに、周囲の岩がわずかに震える。
俺は反射的に壁へ身体を押しつけた。
今の俺には目がない。
だから、何が近づいているのか分からない。
だが、ひとつだけ確信できる。
あれは、今まで捕食してきた虫とは比較にならないほど大きい。
「いやいや……ちょっと待てよ」
ゲームなら、大きな敵が現れたところで逃げればいい。
最悪、倒されてもやり直せる。
だが、ここではどうだ?
俺は自分の身体を意識した。
半透明で、柔らかく、手足もない。
虫を捕食して多少の性質は得たものの、まともに戦う手段なんて持っていない。
どう考えても、戦闘向きの身体じゃなかった。
……ドン。
振動が止まった。
「……?」
何かが、すぐ近くにいる。
そう感じた瞬間だった。
ガリッ!
岩を削るような激しい振動と同時に、身体の側面へ強烈な衝撃が走った。
「――っ!?」
痛い。
何だ、これ。
痛いなんてもんじゃない!
身体の一部を無理やり引き裂かれるような感覚。
俺は岩壁から弾き飛ばされ、地面へ叩きつけられた。
衝撃で身体が大きく潰れる。
「ぐっ……!」
声にならない悲鳴を上げながら、必死に身体をまとめようとする。
だが、うまくいかない。
さっきまで自由に動かせていた身体の一部が、思うようについてこなかった。
何かが欠けている。
そう理解した途端、背筋が凍るような恐怖が湧き上がった。
背筋なんてないけど。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない!
……ドン。
また振動が近づいてくる。
そして今度は、地面を擦るような細かい震えが伝わってきた。
何かが俺を探している。
いや、違う。
「……食おうとしてる?」
その考えが浮かんだ瞬間、全身が強張った。
今まで俺は、虫を捕食してきた。
相手の身体を取り込み、その性質を奪ってきた。
けれど、考えてもいなかった。
この世界には、当然ながら俺より強い生物だっている。
そして、そいつらにとって俺は――。
ただの餌だ。
「冗談じゃない……!」
逃げる。
とにかく逃げるしかない。
俺は身体を前方へ伸ばした。
しかし、いつものような勢いが出ない。
傷ついた部分がうまく動かず、身体全体が重く感じる。
……ドン!
すぐ後ろで大きな振動が起きた。
次の瞬間、硬い何かが身体に触れた。
鋭い。
表面を押し破ろうとする感触。
「まずい!」
反射的に身体を横へ流す。
直後、俺がいた場所へ重いものが叩きつけられた。
岩が砕け、その細かな破片が身体に当たる。
あと少し遅れていたら、まともに潰されていたかもしれない。
「何だよ、こいつ……!」
姿は分からない。
だが、振動から考えるに、少なくとも俺より何倍も大きい。
しかも、動きが速い。
正面から戦えば、まず勝てない。
俺は壁に身体を伸ばし、粘着性を利用して張りついた。
そのまま上へ。
上へ。
少しでも距離を稼ぐ。
ところが――。
ガリガリガリッ!
背後から岩を削るような振動が迫ってきた。
「嘘だろ!?」
相手も壁を登れるのか?
いや、正確には違うのかもしれない。
だが、少なくとも俺のいる高さまで届く何かを持っている。
次の瞬間、身体の端を硬いものに引っかけられた。
ぐいっと引っ張られる。
「う、うおおおっ!?」
咄嗟に粘着性を強める。
壁に張りつく力と、引き剥がそうとする力がぶつかり合った。
耐えろ。
耐えてくれ!
だが、そんな願いも虚しく――。
ぶちっ。
身体の一部が引きちぎられた。
「――――っ!!」
今度こそ、思考が真っ白になった。
痛みが全身に広がる。
自分の一部だったものが、完全に失われた。
その感覚だけは、嫌になるほどはっきりしていた。
俺は壁から滑り落ちた。
着地なんて呼べるものじゃない。
ただ柔らかい塊が地面に落ち、潰れただけだ。
それでも、身体は動いた。
まだ、生きている。
「……逃げろ」
それしか考えられなかった。
勝てるかどうかなんて問題じゃない。
相手の正体を確かめる余裕もない。
とにかく、ここから離れなければ。
俺は残った身体を必死に伸ばした。
這う。
縮める。
また伸ばす。
繰り返すたびに、傷ついた部分が痛んだ。
そして、そのとき。
身体の先端が、岩と岩の間に触れた。
「……隙間?」
狭い。
だが、奥へ続いている。
最初に壁を登る練習をしていたとき、何度か似たような隙間に入りかけたことがあった。
そのときは行き止まりが怖くて避けていたが、今は違う。
「ここなら……!」
俺は迷わず身体を押し込んだ。
ぐにゃりと全身が変形する。
今の俺には骨がない。
それが、初めて心からありがたいと思えた。
身体を薄く伸ばし、わずかな空間へ潜り込む。
……ドン!
背後で強烈な振動が起きた。
硬い何かが岩にぶつかる。
続いて、ガリガリと削るような震え。
相手はまだ諦めていない。
俺を追ってきている。
「頼む……入ってくるなよ……!」
隙間の奥へ、さらに身体を伸ばす。
岩肌が傷口に触れるたび、鋭い痛みが走った。
それでも止まれなかった。
やがて、身体の大部分が岩の奥へ入り込んだ。
……ドン。
……ガリッ。
外では、まだ何かが動いている。
岩を叩き、削り、俺を引きずり出そうとしているようだった。
そのたびに、俺はさらに奥へ身体を押し込んだ。
どれくらい経っただろう。
振動が少しずつ遠ざかっていく。
……ドン。
……ドン。
そして、ついに感じられなくなった。
「…………」
俺は動けなかった。
いや、正確には動きたくなかった。
またあいつが戻ってくるかもしれない。
外へ出た瞬間、今度こそ食われるかもしれない。
そんな考えばかりが頭を巡る。
「……生きてる、よな?」
恐る恐る、自分の身体を確かめた。
小さく伸ばす。
縮める。
まだ動く。
だが、明らかに身体が小さくなっていた。
引きちぎられた部分は戻っていない。
自然に治るのかどうかも分からない。
それに、何より。
「……怖かった」
ようやく、そう思えた。
転生してから、ずっと不思議なことばかりだった。
ゲームのような表示。
捕食によって得られる能力。
自由に形を変えられる身体。
どこかで、俺は楽しんでいたのかもしれない。
新しい世界で、新しい生物になって。
これから何ができるようになるんだろう、と。
だが、今は違う。
この身体は傷つく。
痛みもある。
そして、簡単に死ぬかもしれない。
「……ゲームじゃ、ないんだよな」
分かっていたつもりだった。
だけど、実際に死にかけて、ようやく実感した。
俺がいるのは、命を奪い合う世界だ。
小さな虫を捕食して喜んでいた俺も、もっと大きな生物から見れば、ただの餌でしかない。
「……このままじゃ駄目だ」
今の俺は弱い。
逃げることしかできない。
せっかく捕食によって性質を得られる身体なのに、それを使いこなすことさえできていない。
もっと知らなければ。
自分の身体のことも、この洞窟のことも。
そして、もっと強くならなければ。
「生き残ってやる……」
誰に聞かせるでもなく、心の中で呟いた。
もう元の世界には戻れないのかもしれない。
人間の身体だって失ってしまった。
それでも。
こんな何も分からない場所で、訳も分からず食われて終わるなんて、絶対に嫌だった。
俺は狭い岩の隙間で、傷ついた身体を静かに丸めた。
まずは回復すること。
そして次に動けるようになったら、もっと慎重に周囲を探る。
弱い獲物を見つけ、少しずつ性質を増やしていく。
焦る必要はない。
今の俺には、強くなるための手段があるのだから。
そう考えながら、俺は身体の動きを止めた。
……そのときだった。
傷ついた部分に、奇妙な感覚が生まれた。
痛みとは違う。
失った部分を埋めようとするように、残った身体の内部がゆっくりと動いている。
「……ん?」
意識を集中させると、その動きはさらに明確になった。
まだ、何が起きているのかは分からない。
けれど。
どうやら、この身体には――。
俺自身も知らない仕組みが、まだ隠されているらしい。




