食えば変わる
第3話 喰えば変わる
洞窟の奥から伝わってきた重い振動は、しばらくすると感じられなくなった。
遠ざかったのか、それとも動きを止めただけなのか。目も耳もない俺には確かめようがないが、少なくとも今すぐ襲われる気配はなさそうだった。
『……よし。生きてる』
声にはならない独り言をつぶやき、俺は岩肌に張りついた身体をゆっくりと伸ばした。
さっき捕食した虫のおかげで手に入れた《微振動感知》。
これが思った以上に便利だった。
周囲の様子が見えるわけではない。足音や何かが這う動きが、地面を伝わる細かな揺れとして感じられるだけだ。
それでも、何も分からなかった時と比べれば大きな進歩だった。
『問題は移動速度だよな……』
身体の前方を伸ばし、地面に押しつける。そこへ残りの身体を引き寄せる。
俺が現在できる移動方法は、ほぼこれだけだった。
いわゆるアメーバのような動きだ。
ただし、想像していた以上に遅い。
『人間だった頃なら、寝返り1回で進める距離なんだけどな』
試しに勢いよく身体を伸ばしてみた。
ぐにゅっ。
先端が予想以上に伸び、その反動で後ろ側が引っ張られる。
おっ、いけるか?
そう思った直後、身体の一部が岩の小さな突起に引っかかった。
『あ、まずい』
伸びた部分を戻そうとしたものの、うまく力が伝わらない。無理に引っ張ると身体の中央が細くなり、今度は千切れそうな感覚に襲われた。
『待て待て待て! これ、腕が外れるとかいう話じゃないぞ!』
俺の身体には、そもそも腕がない。
どこまで伸びて、どこから危険なのか。その判断すら自分で覚えるしかなかった。
結局、身体全体の力を抜いてから少しずつ縮めることで、どうにか突起から離れられた。
『……ゲームの操作説明くらい欲しいんだけど』
転生前に見た、あの選択画面を思い出す。
種族を選び、最後にYESを押した。
それだけだった。
原初種。
確か、そんな名前だったはずだ。
この身体が普通の生物と違うことは分かる。けれど、何ができるのかは自分で試さなければならないらしい。
しかも、失敗すれば死ぬかもしれない。
『初心者に厳しすぎないか、この世界』
文句を言っても誰も答えてくれない。
俺は気を取り直し、再び身体を動かし始めた。
しばらく進んだところで、岩肌から小さな振動が伝わってきた。
……こつ、こつ。
いや、少し違う。
ずる、ずる、と何かを引きずるような感覚だ。
さっき捕食した虫よりも動きが遅い。
それに、どうやら地面ではなく、壁のほうを移動しているらしかった。
『壁を歩けるやつか』
羨ましい。
こっちは地面の小石にすら苦戦しているというのに。
俺は振動のする方向へ身体を向けた。
もちろん、顔があるわけではない。ただ身体の伸びる方向を変えただけだ。
近づくにつれ、相手が壁を移動するたびに、わずかな引っかかりが生じていることに気づいた。
何かをくっつけては剥がす。
そんな動きだった。
『……もしかして、粘着するタイプの虫か?』
だとしたら、欲しい。
ものすごく欲しい。
今の俺にとって、壁を登れるというのは大きな利点だ。
この洞窟には小さな段差や岩の割れ目が多い。地面だけを移動していたら、行ける場所が限られてしまう。
それに、危険な生物から逃げる時にも役立つかもしれない。
『よし。次の獲物は決まりだな』
問題は、どうやって捕まえるかだった。
相手は壁を移動している。
俺は壁を登れない。
普通に追いかけても追いつけない。
しばらく振動を探っていると、その生物が同じ場所を何度も通っていることに気づいた。
壁の下部にある小さなくぼみ。
そこを行き来しているらしい。
『だったら、待ち伏せだ』
俺はくぼみの近くまで這っていき、身体をできるだけ薄く広げた。
小石と岩の隙間を埋めるように、ゆっくりと。
あとは相手が通るのを待つだけだ。
……。
…………。
『長いな』
時計がないので正確な時間は分からないが、じっとしているのは思った以上につらかった。
人間の頃ならスマホでも触っていただろう。
動画を見たり、ゲームをしたり。
何もせずに待つことが、こんなに退屈だったとは。
その時だった。
ずるっ。
近づいてくる振動。
『来た!』
俺は身体の表面を岩に押しつけ、できる限り動かさないようにした。
振動が近づく。
あと少し。
もう少し。
ぴとっ。
何かが身体の端に触れた。
『今だ!』
接触した部分を持ち上げ、一気に包み込もうとする。
しかし、相手もすぐに異変に気づいたらしい。
激しく暴れ始めた。
『うおっ、逃げるな!』
身体の表面を何かが滑っていく。
俺の身体には骨も筋肉もない。どこに力を入れればいいのか、いまだによく分かっていなかった。
無理やり押さえ込もうとした瞬間、相手が跳ねた。
まずい。
このままじゃ逃げられる。
俺は反射的に、身体の端を細長く伸ばした。
伸びた部分が相手に触れる。
そのまま岩との間に挟み込むように押しつけた。
ずるっ。
ぐにゅっ。
逃げようとする動きが弱まっていく。
『……捕まえた!』
俺は慎重に身体を寄せ、相手を完全に包み込んだ。
しばらく内部で抵抗が続いたものの、やがて振動が消えていく。
そして、あの感覚が訪れた。
【捕食を確認しました】
【《性質吸収》が発動しました】
【対象から性質を抽出しています……】
【性質《粘着性》を獲得しました】
『よっしゃ!』
思わず叫びそうになった。
もちろん声は出ない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
狙って捕食し、狙っていた性質を手に入れた。
偶然ではなく、自分の意思で。
これは大きな収穫だった。
『さて、早速試してみるか』
俺は近くの岩壁に身体を押しつけた。
最初は何も起こらない。
ただ、ぐにゃりと形が変わるだけだ。
『あれ?』
もう1度。
今度は身体の表面を意識してみる。
何かを貼りつけるような感覚を思い浮かべると、接触していた部分にわずかな抵抗が生まれた。
『お?』
身体を引いてみる。
離れない。
『おおっ! くっついた!』
そのまま別の部分を上へ伸ばし、壁に押しつける。
新しく伸ばした部分が固定されたのを感じてから、下側を引き寄せた。
ずるり。
身体が少しだけ持ち上がる。
『登れた……!』
まだほんのわずかな高さだったが、確かに地面から離れていた。
俺は調子に乗って、さらに上へ身体を伸ばした。
『これなら天井まで行けるんじゃ――』
べちゃっ。
突然、身体の一部が壁から剥がれた。
支えを失った俺は、そのまま岩肌を滑り落ちる。
『うわあああっ!』
声にならない悲鳴を上げながら、地面に広がった。
しばらく動けなかった。
痛いというより、身体全体が強く揺さぶられた感覚に近い。
『……調子に乗りました』
どうやら粘着性にも限界があるらしい。
貼りつく力が弱いのか、それとも使い方が悪いのか。
おそらく両方だろう。
それでも、可能性は見えた。
もう1度、今度は慎重に壁へ身体を伸ばす。
上側を固定。
下側を剥がす。
引き寄せる。
そして、再び固定する。
『……なるほど』
全部を同時に動かそうとすると剥がれやすい。
だが、身体の一部を固定したまま別の部分を動かせば、少しずつ登ることができた。
慣れてくると、地面を進む時よりも安定している気さえした。
ただし、今度は別の問題が起きた。
『……あれ? 剥がれない』
強く貼りつけすぎた部分が、なかなか離れなくなったのだ。
引っ張ると身体が伸びる。
無理やり剥がそうとすると、今度は別の場所まで引っ張られる。
『便利だけど、面倒くさいな!』
最終的には貼りついている部分の力を少しずつ抜くことで剥がせたが、まだ自在に操れるとは言い難かった。
それでも、先ほどより確実に動けるようになっている。
『……喰えば変わる、か』
最初の虫からは、振動を感じ取る性質。
次の虫からは、物に貼りつく性質。
どちらも、元の俺にはなかったものだ。
そして今、その2つの性質を使って洞窟を移動している。
ゲームのようにボタン1つで技が使えるわけではない。
覚えた性質を、どう使うか。
そこは俺自身が考えなければならないらしい。
『だったら、少しずつ覚えていけばいい』
できることが増えれば、行ける場所も増える。
行ける場所が増えれば、新しい獲物にも出会える。
そうやって強くなっていけば、いつかこの洞窟から出られるかもしれない。
ようやく、そんな希望が持てるようになってきた。
俺は壁の途中にある小さな亀裂へ身体を伸ばした。
地面から少し離れた場所だ。
ここなら、さっき感じたような大きな生物に踏み潰される危険も減るだろう。
『とりあえず、今日の寝床はここでいいか』
眠れる身体なのかどうかも分からないが、落ち着ける場所は必要だった。
亀裂の奥へ身体を滑り込ませる。
岩に囲まれる感覚は少し窮屈だったが、地面にむき出しでいるよりは安心できた。
……その時。
どん。
岩全体が揺れた。
『……え?』
どん。
もう1度。
さっき感じたものと似た、重い振動。
だが、今度は明らかに近い。
俺は反射的に身体を縮めた。
どん、どん。
何かが近づいてくる。
そして、その重い振動の合間に、別の細かな振動が混じっていることに気づいた。
何かが必死に動いている。
逃げているのか?
そう思った直後、細かな振動が突然途切れた。
代わりに、岩を強く擦るような振動が伝わってくる。
『……まさか』
何かが、何かを捕まえた。
そう考えた途端、身体が勝手に縮こまった。
俺が虫を捕食したように、この洞窟にはもっと大きな獲物を捕食する存在がいる。
そんな当たり前のことを、今さら思い知らされた。
重い振動が止まる。
静寂。
俺は亀裂の奥で身動きもせず、じっとしていた。
やがて、岩の表面を何かが擦るような感覚が伝わってきた。
今度は先ほどまでとは違う。
ゆっくりと、壁を探るような動きだった。
そして、その振動は――
俺が隠れている亀裂の、すぐ外で止まった。




