初めての捕食
第2話 初めての捕食
虫に触れたまま、俺は動けなくなっていた。
正確には、動こうと思えば動ける。だが、触れている相手をどうすればいいのか分からなかった。
俺の身体は、手のひらほどの大きさしかない半透明の塊だ。手も足も、口さえない。
そんな身体なのに、目の前の小さな生き物を食べたいと思っている。
いや、目の前という表現もおかしいか。
今の俺には目がない。虫がどんな姿をしているのかも、実際には分かっていなかった。
分かるのは、身体の表面を細い何かが引っかいていることと、そいつが生きて動いているということだけだ。
そして、その感触に触れるたび、身体の奥から強烈な空腹が湧き上がってくる。
「……食えってことかよ」
声にしたつもりだったが、当然ながら何も聞こえない。
どうやら俺は、独り言すらまともに言えない生き物になってしまったらしい。
虫を食べる。
人間だった頃なら、よほどのことがない限り考えもしなかった行為だ。
だが、今は違う。
腹が減っているという感覚が、身体全体から伝わってくる。そもそも腹がどこにあるのかも分からないのに、何かを取り込まなければならないという衝動だけは異様にはっきりしていた。
このまま何もしなければ、どうなるのだろう。
餓死するのか。
転生したばかりで?
「冗談じゃないぞ……」
俺が迷っている間にも、虫は身体の表面を這い続けていた。
やがて接触している部分が小さくなり、端の方へ移動していく。
逃げようとしている。
そう理解した瞬間、反射的に身体が動いた。
柔らかい肉体が、虫のいる方向へゆっくりと広がる。
何をどう動かしたのか、自分でもよく分からない。
ただ、逃がしたくないと思っただけだった。
身体の一部が虫の上に覆いかぶさる。
虫が暴れた。
小さな脚が内側から何度も押し返してくる。その感触に思わず身を引きそうになったが、今度は本能に従って身体を押し広げた。
虫を包み込む。
そんなイメージを浮かべると、俺の身体は驚くほど素直に反応した。
柔らかい表面が相手の周囲へ回り込み、逃げ道を塞いでいく。
やがて虫は完全に俺の身体の中へ取り込まれた。
「……うわ」
気持ち悪い。
自分でやっておいて何だが、ものすごく気持ち悪い。
しかも、取り込んだ虫がまだ動いているのが分かる。
身体の内側を細かく引っかかれる感覚があり、それが少しずつ弱まっていった。
代わりに、じんわりと温かいものが全身へ広がっていく。
痛みはない。
むしろ、気持ちがいい。
さっきまで身体を支配していた空腹が、少しずつ和らいでいくのが分かった。
「……食ってるのか、これ」
消化しているのだろう。
胃も腸もないはずなのに、俺の身体は取り込んだ生物をそのまま分解しているらしい。
しばらくすると、内側で暴れていた感触が完全に消えた。
そして。
【捕食を確認しました】
突然、意識の中に文字が浮かび上がった。
「おっ?」
【《性質吸収》が発動しました】
【対象から性質を抽出しています……】
思わず身構える。
ゲームなら、ここで新しい能力が手に入る流れだ。
実際に虫を食べたという事実さえなければ、少しばかりワクワクできたかもしれない。
【性質《微振動感知》を獲得しました】
「……微振動感知?」
見慣れない文字を、頭の中で繰り返す。
振動を感じ取る能力、だろうか。
ゲームだったら地味なスキルだな、と笑って終わりそうな名前だ。
だが、今の俺にとっては話が違った。
目も耳もない状態で、周囲の様子を知る手段が増えるなら、それだけで十分ありがたい。
問題は、どうやって使うかだ。
俺は試しに意識を集中させてみた。
すると、身体の底に小さな違和感が生まれた。
何かが、細かく震えている。
最初は自分自身が揺れているのかと思った。だが、どうも違う。
触れている地面の向こうから、かすかな刺激が伝わってくるのだ。
一定の間隔で続く、小さな振動。
それが途中で止まり、少し離れた場所から再び伝わってきた。
「……もしかして、虫が歩いてる?」
確証はない。
だが、さっきまで感じ取れなかったものが、今は確かに分かる。
俺は地面に身体を押しつけるようにして、意識を集中させた。
小さな振動が、いくつか重なる。
近いもの。
遠いもの。
何かが地面を引っかくような、不規則なもの。
もちろん、周囲の形まで分かるわけではない。
どこに壁があり、どちらが出口なのかも相変わらず不明だ。
それでも、ただ闇の中に放り出されていた先ほどまでとは明らかに違っていた。
「すげえ……本当に能力が増えた」
少しだけ興奮する。
まさか、虫を食べただけでこんな変化が起きるとは思わなかった。
そこで、ふと気づいた。
性質を吸収した、という表示。
あれは単にスキルを覚えたという意味なのだろうか。
もし、捕食した生物の特徴を自分のものにできるのなら。
「……ひょっとして、とんでもない種族なんじゃないか?」
思わず期待が膨らむ。
だが、すぐに現実を思い出した。
俺は今、洞窟の地面に張りついている小さな塊だ。
手もない。
足もない。
口もない。
ようやく手に入れた能力は、地面の微かな振動を感じ取ること。
ゲームの序盤にしても、なかなか厳しい状況である。
「せめて目くらい欲しいんだけどな……」
もちろん返事はない。
俺はしばらく、その場で新しい感覚を確かめ続けた。
身体を地面から少し浮かせるように変形させると、振動は弱くなる。反対に、薄く広げて接触する面積を増やせば、感覚がはっきりした。
どうやら、地面に触れている部分が重要らしい。
ならば、移動しながら周囲を調べることもできるかもしれない。
俺は身体の片側を縮め、反対側をゆっくり伸ばした。
ぐにゅり、と全身が地面を滑る。
相変わらず気持ちの悪い移動方法だが、少しずつ慣れてきた。
しばらく進むと、先ほどよりもはっきりした振動が伝わってきた。
小さく、規則的な振動だ。
その方向へ近づいてみる。
すると、何かが俺の身体に触れた。
細い脚のような感触。
「……また虫か?」
今度は迷わなかった。
身体を広げ、触れてきたものを包み込もうとする。
しかし、相手は素早かった。
俺の身体が覆いかぶさる前に、するりと接触が消えてしまった。
「あっ、逃げた!」
当然ながら声は出ない。
しかも、追いかけようにも俺の移動速度ではどうにもならなかった。
かすかな振動が遠ざかっていく。
「……そりゃそうだよな」
少し考えれば分かることだった。
相手が自分から触れてくれるならともかく、こちらから追いかけて捕まえるには、この身体では遅すぎる。
最初の虫を捕まえられたのは、運が良かっただけかもしれない。
ただ、収穫はあった。
虫が逃げた方向は、なんとなく分かる。
さっきまでなら、それすら不可能だった。
俺は地面に身体を広げ、もう一度周囲の振動を探った。
小さな動きが、あちこちから伝わってくる。
ここには俺以外にも生き物がいる。
そして、そいつらの動きを感じ取れるようになった。
「……なるほどな」
ようやく、少しだけ理解した。
俺は最初から強い生き物として生まれたわけじゃない。
何も持たず、何もできない状態から始まった。
だが、他の生き物を捕食することで、できることが増えていく。
だったら、まずは生き延びるために必要なものを集めるしかない。
目。
耳。
素早く動ける身体。
できれば、まともに会話できる口も欲しい。
人間だった頃には当たり前だったものが、今はどれも遠い目標だ。
「……よし。まずは動けるようになろう」
俺は小さな振動を頼りに、再び身体を動かし始めた。
すると、その途中で。
――ズン。
それまでとは明らかに違う振動が伝わってきた。
「……ん?」
――ズン、ズン。
重い。
今まで感じていた小さな虫の動きとは、まるで違う。
地面の奥から、何かがゆっくりと近づいてくる。
俺は反射的に動きを止めた。
振動はしばらく続き、やがて遠ざかっていった。
何が通り過ぎたのかは分からない。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
この洞窟にいるのは、小さな虫だけではない。
そして今の俺は、そんな相手に見つかったところで、逃げることさえ難しい。
「……やっぱり、まずは生き残ることからだな」
ようやく手に入れた最初の能力。
それは俺に、この世界の気配を教えてくれた。
同時に、自分がどれほど無力な存在なのかも。
俺は遠ざかる振動が完全に消えるまで、その場でじっとしていた。
そして、再び小さな虫の動きを探し始めた。
今はまだ、逃げることしかできない。
それでも。
いつかは、あんな大きな振動の正体にも立ち向かえるようになるのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は暗い洞窟の中をゆっくりと進んでいった。




