最後の選択
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第1話 最後の選択
23時48分。
「……今日も疲れたな」
狭いワンルームの床にコンビニの袋を置き、男はそのままベッドに腰を下ろした。
29歳、独身。職業はフリーター。
コンビニ、倉庫、飲食店、清掃。いろいろな仕事を経験してきたが、これといった資格も特技もない。
別に、今の生活が嫌いというわけではなかった。
家賃は払えているし、食うにも困っていない。休日にはゲームをして、たまに友人と飲みに行く。それなりに楽しく生きているつもりだった。
ただ、同級生が結婚したとか、家を買ったとか、そんな話を聞くたびに、少しだけ取り残された気分になる。
「ま、考えたところで仕方ないか」
買ってきた弁当を電子レンジに放り込み、古いデスクトップパソコンの電源を入れる。
今日は久しぶりに、何か面白いゲームでも探してみようと思っていた。
最近は対戦ゲームばかりで疲れていたし、できれば1人でのんびり遊べるものがいい。
そう考えながらゲームの紹介サイトを眺めていると、見慣れないタイトルが目に留まった。
『原初』
ずいぶん短い名前だ。
紹介文には、こう書かれていた。
『捕食し、適応し、進化せよ』
『選択によって、あなただけの生命が生まれる』
「へえ、進化系のゲームか」
昔から、こういうものには弱い。
弱い生物から始まって、少しずつ能力を獲得し、やがて強大な存在になる。そんな成長要素のあるゲームは大好物だった。
しかも、どうやら決まった進化先が存在しないらしい。
捕食した生物によって性質が変わり、その組み合わせで姿も能力も変化していくという。
「これ、結構面白そうじゃん」
気になって詳細を開いてみる。
しかし、開発会社の名前も、発売日も見当たらない。レビューもなく、紹介画像すらほとんどなかった。
怪しい。
ものすごく怪しい。
普通なら、ここでページを閉じるところだ。
ところが、画面の中央に表示された一文が、妙に気になった。
『あなたは、どのような生命になりたいですか?』
その下には、いくつかの選択肢が並んでいる。
強靱な肉体を持つ者。
魔力に優れた者。
優れた感覚を持つ者。
そして、最も下にある選択肢。
『何者にも定まらない者』
「……なんだこれ」
他の選択肢には簡単な説明が付いているのに、最後の項目にはそれがない。
普通に考えれば、上の3つのどれかを選ぶべきなのだろう。
だが、こういうゲームで説明の少ない選択肢ほど、何か隠されている気がする。
「どうせゲームだしな。変なの選んでみるか」
最後の項目をクリックした。
画面が切り替わる。
黒い背景に、白い文字だけが表示された。
『戻れません。本当によろしいですか?』
その下には、YESとNOの2つのボタン。
「はいはい。キャラ作成のやり直しができないってことね」
最近のゲームにしては、ずいぶん不親切な仕様だ。
もっとも、取り返しのつかない選択というのも、嫌いではない。
1度きりだからこそ面白い。
そう思って、男は迷わずマウスを動かした。
「よし、始めますか」
カチッ。
YESを押した瞬間、画面が真っ黒になった。
「……ん?」
パソコンのファンの音が、ふっと消える。
部屋の明かりも、電子レンジの終了を知らせる音も、何もかもが遠ざかっていく。
停電か。
最初はそう思った。
しかし、立ち上がろうとした男は、自分の身体がまったく動かないことに気づいた。
いや。
動かない、という感覚すらなかった。
ベッドに座っているはずなのに、身体を支えていた感触がない。マウスを握っていた右手も、床に置いていた足も、どこにあるのか分からない。
「おい、なんだよ、これ……」
声を出したつもりだった。
だが、その声は聞こえなかった。
そこで意識が途切れた。
◇
最初に感じたのは、冷たさだった。
ひんやりとした何かが、身体の広い範囲に触れている。
次に感じたのは、重さ。
自分の身体が、どこかに押し付けられているような妙な感覚があった。
(……あれ?)
意識はある。
考えることもできる。
だが、何も見えない。
(停電……じゃないよな?)
目を開けようとする。
開かない。
もう1度、力を込める。
やはり開かない。
(ちょっと待て。これ、どういう状況だ?)
不安が膨らんできた。
手を動かそうとした。
動かない。
足も同じだ。
呼吸を整えようとして、さらに奇妙なことに気づく。
息をしていない。
なのに、苦しくない。
(……は?)
さすがに意味が分からなかった。
人間は呼吸をしなければ生きられない。
それくらいは知っている。
しかし、今の自分には息苦しさがまったくない。それどころか、肺が膨らむ感覚すら存在しなかった。
(夢か? そうだ、夢だろ、これ)
仕事で疲れていた。
変なゲームを見つけて、始めようとして、そのまま寝落ちしたのかもしれない。
それなら納得できる。
いや、納得するしかない。
(よし。落ち着け。こういうときは……)
頬をつねろうとした。
つねれなかった。
手がない。
(……手がない?)
今度こそ、本気で混乱した。
手を動かせないのではない。
手そのものが、存在していない。
足も、腕も、頭も。
自分の身体を形作っていたはずのものが、何1つ感じられなかった。
それなのに、身体そのものがないわけではない。
冷たい地面に接している感覚がある。何か柔らかいものが、わずかに形を変えながら広がっている。
そして、どういうわけか、それが自分の身体だと分かった。
(……いやいやいや)
さすがに、笑えない。
(俺、どうなってんの?)
しばらくの間、男は何もできなかった。
正確には、何をすればいいのか分からなかった。
見えない。
聞こえない。
声も出せない。
手足もない。
それでも意識だけは、恐ろしいほどはっきりしていた。
やがて、1つの考えが浮かぶ。
(身体があるなら、動かせるんじゃないか?)
人間のときと同じように考えるから、うまくいかないのかもしれない。
手も足もないなら、別の動き方があるはずだ。
試しに、身体を前へ伸ばすところを想像してみた。
すると。
ぐにゅ。
(……ん?)
何かが動いた。
冷たい地面を、柔らかな身体がゆっくりと滑る。
(お、おお?)
もう1度。
ぐにゅ、ぐにゅ。
動く。
確かに動いている。
ただし、歩くとも這うとも違う。
自分の身体が液体のように形を変え、地面の上を少しずつ移動しているのだ。
(なんだこれ。スライムかよ)
思わず心の中で突っ込んだ。
だが、冗談では済まされないことに、本人も気づいていた。
身体を動かすたびに伝わってくる感触が、あまりにも生々しい。
ざらついた地面。
小さな石の硬さ。
冷たい水分。
触れている部分の形や圧力が、妙にはっきりと分かる。
夢にしては、できすぎている。
(……もしかして)
男は、ある可能性に思い至った。
最後に見たパソコンの画面。
あのゲーム。
そして、YESのボタン。
(いや、まさかな)
そんなことがあるはずがない。
ゲームの中に入り込むなんて、漫画や小説の世界の話だ。
そう考えた直後だった。
意識の中に、文字が浮かび上がった。
『種族:原初種』
『Lv:1』
『HP:10/10』
(…………)
男は、しばらくその文字を見つめた。
見つめた、としか表現できない。
目はないのに、文字だけは認識できるのだ。
(……マジか)
原初種。
聞いたことのない種族だった。
少なくとも、ゲームの紹介ページには詳しい説明がなかったはずだ。
(そういや、最後に変なの選んだよな……)
何者にも定まらない者。
あの選択肢だ。
(だからって、手足も目もないのはやりすぎだろ!)
文句を言ったところで、返事はない。
試しに「ログアウト」と念じてみた。
何も起こらない。
「メニュー」と考えても、変化はなかった。
(……嘘だろ)
不安が、ゆっくりと恐怖に変わっていく。
あの確認画面に書かれていた言葉が、頭をよぎった。
『戻れません。本当によろしいですか?』
まさか。
本当に、戻れないという意味だったのか。
(いやいや、そんなわけ……)
否定しようとして、言葉が続かなかった。
ここがどこなのかも分からない。
自分が何になったのかも、正確には分からない。
元の身体がどうなったのかなど、知る方法すらなかった。
(……落ち着け)
考えても答えが出ないことは、ひとまず置いておこう。
今までだって、どうにもならないことはいくらでもあった。
急にシフトを変えられたこともある。初めての仕事をろくに教わらないまま任されたこともある。
そういうときは、とにかく目の前のできることから始めるしかなかった。
もっとも、手足のない生物になった経験だけは、さすがにないが。
(……まずは、周りを調べるか)
再び身体を伸ばす。
ぐにゅ、ぐにゅ。
少し進んだところで、身体の先端が硬いものにぶつかった。
壁だろうか。
表面はざらざらしていて、ところどころに小さな凹凸がある。
上へ伸びてみると、同じ感触が続いていた。
(岩……かな?)
足元も硬い。
湿っている場所が多く、細かい砂のようなものが身体に触れてくる。
少なくとも、部屋の床ではなさそうだ。
(洞窟とか、そういう場所か?)
もし本当にゲームの世界なら、最初のエリアなのかもしれない。
そう考えると、ほんの少しだけ気が楽になった。
ゲームなら、ルールがある。
ルールがあるなら、攻略法もある。
(よし。まずはこの身体に慣れよう)
ところが、そこからが大変だった。
前へ進もうとして横に広がったり、方向を変えようとして身体の一部だけが残されたり。
1度など、地面の窪みに入り込んでしまい、抜け出すのにずいぶん苦労した。
(くそっ、操作性悪すぎだろ……)
誰にともなく文句を言いながら、何度も身体を動かす。
繰り返しているうちに、少しずつ感覚がつかめてきた。
身体の一部を伸ばし、残りを引き寄せる。
これなら、ゆっくりだが移動できる。
人間だったころなら、寝返りを打つより簡単な動作だろう。
それが今は、ひどく難しい。
(……先が思いやられるな)
そんなことを考えていたときだった。
身体の内側から、奇妙な感覚が湧き上がってきた。
何かが足りない。
満たさなければならない。
そんな衝動だった。
(……なんだ?)
最初は分からなかった。
しかし、その感覚は次第に強くなっていく。
そして男は、それが何なのか理解した。
(腹……減った?)
もちろん、腹などない。
胃袋があるのかどうかすら怪しい。
それでも、空腹としか表現できない感覚があった。
(待て待て。俺、何食えばいいんだ?)
身体を見回すこともできない。
食べ物を探す手段もない。
そもそも、この身体に口があるのかどうかすら分からなかった。
(……詰んでないか、これ)
そのとき。
ぴとっ。
身体の端に、何かが触れた。
(ん?)
小さな何かだ。
硬く、細長い。
いくつもある突起が、身体の表面を引っかくように動いている。
その感触から、小さな虫のような生き物を想像した。
(……虫?)
次の瞬間だった。
身体の奥から、強烈な衝動が込み上げてきた。
空腹が、一気に強まる。
そして、頭で考えるより先に、1つの欲求がはっきりと浮かんだ。
――喰いたい。
(……え?)
今、何を考えた?
虫を?
俺が?
困惑する男をよそに、身体の端がゆっくりと持ち上がる。
小さな生き物は、まだそこにいた。
(ちょ、ちょっと待てって……!)
止めようとした。
だが、身体の奥底から湧き上がる衝動は、それ以上に強かった。
伸びた身体が、獲物へと近づいていく。
そこで男は、ようやく気づいた。
自分はもう、人間ではない。
そして、この世界では――。
喰わなければ、生きられない。




