まだ、そこにいる
第2部 第23話 まだ、そこにいる
「……る……な」
昨日より、少しだけ音がつながった。
俺は小屋の床に身体を広げ、内部に作った小さな発声器官へ意識を集中させていた。
空気を溜める空洞。薄く振動する膜。そして、音を切り替えるための細い通路。
昨日、ようやくルナの名前を呼べた。
ただし、毎回うまくいくわけじゃない。少しでも構造が崩れると、途端に意味の分からない音になってしまう。
「……ふむ」
干し草の上から、ルナが声をかけてきた。
「昨日より聞き取りやすいな」
……本当か?
俺は嬉しくなって触手を持ち上げた。
その瞬間、発声器官の一部が崩れる。
「……ぷすっ」
「…………」
またやった。
「……ははっ!」
ルナが笑い始めた。
「貴様、喋るときくらい大人しくしておれ!」
……そんなこと言われても!
俺は不満を込めて身体を揺らした。
どうやら、今の俺には発声しながら触手を大きく動かす余裕がないらしい。
発声器官を維持するだけで、それなりの集中力を使う。そこへ別の動きを加えると、細かな構造が乱れてしまうのだ。
「……やれやれ」
ルナは笑いを収めると、少し声を柔らかくした。
「だが、確かに進歩しておる。昨日は音を出すだけで精一杯だったろう?」
……うん。
俺はゆっくり肯定した。
「ならば、今はそれで十分だ。喋ることばかりに気を取られて、肝心の身体を壊すでないぞ」
……分かってるよ。
俺は発声器官を解除した。
今日は、最初から無理をするつもりはない。
ただ、昨日作れた構造を忘れないようにしたかっただけだ。
もっと自然に喋れるようになれば、ルナとの会話も変わるだろう。
今までは、彼女が俺の動きを見て、何を伝えたいのか考えてくれていた。
それが、言葉を使えるようになれば。
……いや。
まだ先の話だな。
俺は身体を小さくまとめた。
そのとき、小屋の外から聞き慣れた足音が近づいてきた。
⸻
「石切り場の奥について、もう1度確かめたい」
ハルドは小屋へ入るなり、そう切り出した。
昨日、俺たちが開けた古い石扉。
その向こうから助け出されたダグは、かつて俺たちを捕まえようとした男だった。
彼の話によれば、大きな白い狐は石切り場の奥へ運ばれたらしい。
そして、ダグ自身が扉の内側へ閉じ込められていた間、もっと奥から何かが石を叩くような音を聞いていたという。
「昨日、お前が最後に聞いた音が気になっている」
ハルドが俺へ声を向けた。
「ダグの音とは別に、奥から振動が伝わってきたんだろう?」
俺は肯定した。
「ただの水音なのか、そこに何かいるのか。それだけでも確かめられれば、調査の進め方が変わる」
……確かに。
俺は触手を持ち上げた。
昨日の段階では、何が音を出していたのか分からなかった。
地下を流れる水。
緩んだ石。
何かの道具。
あるいは、生き物。
可能性はいくつもある。
「……ノアを連れていくつもりか?」
ルナが尋ねた。
「ああ。ただし、昨日と同じく石扉の外までだ」
ハルドはすぐに答えた。
「村長にも許可をもらっている。今日は内部へ入らず、石壁を通じた音を確かめるだけにする」
「……それならば」
ルナは少し考え込んだ。
「だが、奥から危険なものが出てくる可能性はあるぞ」
「分かっている。だからセインと、ほかに2人つける。通路へ近づきすぎないよう、見張りにも指示してある」
……準備してるな。
俺は少し安心した。
「それと、昨日より水は引いているが、足元はまだ悪い。ノアには木箱で運ばれてもらうつもりだ」
……おお。
また、あの移動方法か。
俺は触手を小さく揺らした。
ルナはしばらく黙っていたが、やがて息を吐いた。
「……よかろう。ただし、無茶は禁物だぞ」
俺は大きく肯定した。
すると、ルナが続けた。
「それから、ノア」
……ん?
「帰ってきたら、もう1度我の名を呼んでみせよ」
「…………」
俺は動きを止めた。
……え。
それ、今言う?
「ふふっ。楽しみにしておるぞ」
……まったく。
俺は触手を縮めた。
でも。
少し嬉しかった。
⸻
石切り場へ着いた頃には、雨は完全に止んでいた。
昨日より、空気が少し暖かい。
《明暗感知》でも、布の隙間から届く刺激が強くなっている。
どうやら、雲が薄くなってきたらしい。
「着いたぞ、ノア」
セインが木箱を下ろした。
俺は《粘着性》を解除し、ゆっくりと外へ出た。
足元は硬い石。
ところどころに水が溜まっているらしく、移動するたびに冷たい感触が伝わってくる。
「昨日の石扉は、あっちだ」
セインが説明してくれる。
「今は大きな木材で入口を塞いである。人が勝手に入り込まないようにな」
……なるほど。
俺はその方向へ触手を向けた。
遠くから、流れる水の音が聞こえている。
昨日と比べると、少し弱くなった気がした。
「……ノア」
ハルドが声をかけた。
「今から木材を外す。開けたら、入口の脇で待機してくれ」
俺は肯定した。
警備隊員たちが作業を始める。
……ごとっ。
……ぎしっ。
太い木材が動かされる振動。
続いて、石を擦る音。
……ごごっ。
冷たい空気が流れてきた。
石扉が開かれたらしい。
「……よし」
ハルドが小さく息を吐く。
「昨日より、水は少ないな」
「ただ、奥の足場はまだ濡れてる」
セインが答える。
「滑ったら危ないぞ」
……そうだな。
俺は身体を低く広げた。
今の俺なら、多少濡れた石の上でも《粘着性》で身体を固定できる。
だが、だからといって奥へ入り込むつもりはない。
約束は約束だ。
「……まずは、ここで確かめよう」
ハルドが言った。
「ノア、準備はいいか?」
俺は触手を持ち上げた。
⸻
最初は、昨日と同じ音を出してみることになった。
ハルドが石扉の縁を叩く。
……こん。
少し間を置いて。
……こん、こん。
俺は石へ触手を密着させた。
《微振動感知》。
伝わってきた振動を、意識して拾う。
……ごう。
地下を流れる水。
……ぽた。
天井から落ちる水滴らしい、短い振動。
それから、石の奥で何かが擦れるような、低い音。
……いろいろ混じってるな。
俺は身体を少し広げた。
ただし、石扉の内側へは入らない。
外に露出している岩壁へ触手を這わせ、振動の伝わり方を確かめる。
硬い石。
細かな亀裂。
ところどころに、水が通ったような溝。
……なるほど。
場所によって、伝わってくる振動の強さが違う。
俺は触手を少し移動させた。
すると。
……こつ。
「…………」
今のは。
俺は身体を止めた。
もう1度、意識を集中させる。
……こつ。
……こつ、こつ。
……来た!
俺は触手を持ち上げた。
「……何か聞こえたか?」
ハルドが尋ねる。
肯定する。
「昨日と同じ音か?」
……似ている。
だが、完全に同じかどうかは分からない。
俺は少し迷い、触手を小さく上下へ動かした。
「……似た音、ということか?」
肯定する。
「なるほど」
ハルドは静かに息を吐いた。
「では、もう少し確かめよう」
……ん?
俺は触手を向けた。
「今度は、叩く間隔を変えてみる」
……なるほど。
それはいい考えかもしれない。
もし向こうに誰かいて、こちらの音へ反応しているなら。
同じ間隔で叩けば、何か返ってくる可能性がある。
もちろん、それが本当に意思を持った反応なのかは、慎重に判断する必要がある。
水滴や揺れる金属が、偶然似た音を出すことだってあるだろう。
「……やってみるか」
俺は触手を石へ押しつけた。
ハルドが、今度は少し変わった間隔で叩いた。
……こん。
少し長く間を置く。
……こん、こん、こん。
1回。
そして、3回。
俺は振動へ意識を集中させた。
……ごう。
……ぽた。
……ぽた。
しばらく、変化はない。
「……やはり、偶然か?」
セインが呟いた。
だが、その直後。
……こつ。
「…………」
俺は身体を強張らせた。
……来た。
さらに。
……こつ、こつ、こつ。
「……っ!」
俺は思わず触手を持ち上げた。
「……ノア?」
ハルドが声をかける。
俺は大きく肯定した。
「同じ間隔で返ってきたのか?」
もう1度、肯定。
「…………」
ハルドが黙った。
セインも何も言わない。
少しの沈黙のあと、ハルドが静かに言った。
「……もう1度だ」
⸻
今度は、さらに違う間隔にした。
2回続けて叩き、少し間を置いてから1回。
……こん、こん。
……こん。
俺は石へ触手を密着させた。
……ごう。
水の音。
……ぽた。
落ちる水滴。
その奥から。
……こつ、こつ。
……こつ。
「…………!」
俺は身体を持ち上げた。
同じだ。
今度も、同じ間隔。
「……返ってきたか?」
ハルドが低い声で尋ねる。
俺は肯定した。
「……本当か?」
もう1度。
その声には、驚きが混じっていた。
「……隊長」
セインが口を開く。
「それって、誰かがこっちに合わせて叩いてるってことじゃ……」
「……可能性は高い」
ハルドが慎重に答えた。
「だが、相手が人間なのか、魔物なのかは分からん」
……そうだな。
俺も同じことを考えていた。
2度続けて、こちらの叩いた間隔と同じような音が返ってきた。
偶然にしては、出来すぎている。
だが、それだけで相手の正体までは分からない。
「……声は?」
セインが尋ねる。
「聞こえない」
ハルドが答える。
「俺たちには、叩く音もほとんど届かん。ノアがいなければ、気づけなかっただろう」
……そうなのか。
俺は少しだけ驚いた。
今の俺には、確かに振動が伝わっている。
ただし、石へ身体を密着させているからこそ分かる程度のものだ。
人間の耳では、地下の水音に紛れてしまうのかもしれない。
「……ノア」
ハルドがこちらへ声を向けた。
「もう少しだけ、付き合ってくれるか?」
俺は肯定した。
「無理はするな。疲れたらすぐに知らせてくれ」
……了解。
俺は身体を少し低くした。
そして、ハルドが3度目の合図を送るのを待った。
だが。
その前に。
……ぎりっ。
「……ん?」
俺は動きを止めた。
今までとは違う振動が、石を通じて伝わってきた。
……ぎり、ぎり。
硬いものが、何かへ擦りつけられている。
……金属?
俺は意識を集中させた。
すると。
……がしゃっ。
短い金属音。
続いて。
……ずるっ。
何かを引きずるような振動。
「…………」
俺は身体を強張らせた。
……何だ?
さっきまで聞こえていた、石を叩くような音が止まっている。
その代わりに、金属が擦れる振動が続いた。
「……ノア?」
セインが声をかけた。
俺は慌てて触手を動かした。
まず、さっきまで叩いていた場所を示す。
続いて、触手を細く伸ばし、何かを引きずる動きを真似する。
「……動いてる?」
俺は肯定した。
「……何が?」
……分からない。
俺は触手を左右へ振った。
「……分からないが、何かが動いたということか」
ハルドが確認する。
肯定する。
すると、彼は短く息を吐いた。
「……やはり、誰かいるのかもしれんな」
……そうだな。
俺も、そう思う。
ただ。
あの金属音は、少し嫌な感じがした。
どこかで聞いたことがある。
……どこだったかな。
俺は身体を小さくまとめた。
すると、ふと記憶が繋がった。
鉄の檻。
首輪。
そして、鎖。
……まさか。
俺は触手を止めた。
あの音は、鎖を引きずるときの振動に似ていた。
もちろん、同じものだとは限らない。
地下には古い金属の道具もあるだろうし、水の流れで何かが動いている可能性もある。
だが。
「……気になるな」
俺は身体を強張らせた。
そのときだった。
……キィ……。
「…………」
微かな音が、通路の奥から届いた。
俺は動きを止めた。
今のは。
……声?
水の音に紛れるほど弱い。
それでも、金属が擦れる音とは明らかに違った。
「……ハルド!」
俺は反射的に触手を持ち上げた。
だが、もちろん声にはならない。
代わりに、岩壁を強く叩く。
……コン、コン!
「……どうした?」
ハルドがすぐに反応した。
俺は触手を伸ばし、奥を指した。
「……また何か聞こえたか?」
肯定する。
「……叩く音?」
否定。
「……金属か?」
もう1度、否定。
ハルドが考え込む。
俺は必死に伝えようとした。
声だ。
何かが鳴いた。
そう伝えたいのに。
触手の動きだけでは、うまく説明できない。
……くそ。
こんなときに。
俺は思わず身体の内部へ意識を向けた。
昨日、作った発声器官。
まだ、短い音しか出せない。
だが。
「……ぁ……」
弱い音が漏れた。
セインが反応する。
「……ノア?」
俺はもう1度、空気を押し出した。
「……ぁ……」
違う。
これじゃ伝わらない。
俺はすぐに発声器官を解除した。
……落ち着け。
今できないことを、無理にやろうとしても仕方ない。
別の方法を考えよう。
俺は地面へ触手を伸ばした。
そして、小さな狐の形を描き始めた。
身体。
4本の脚。
細長い鼻先。
尻尾。
昨日まで文字を練習していたおかげで、粘土へ線を引くことには少し慣れている。
ただし、今は土が湿っている。
思ったように線が残らない。
……くそ。
俺は慎重に形を整えた。
すると。
「……狐?」
セインが声を上げた。
……そう!
俺は大きく肯定した。
「……狐がいるのか!?」
……そこまでは分からない!
俺は慌てて触手を左右へ振った。
「……違う?」
ハルドが尋ねる。
俺は狐の口に当たる部分を指した。
続いて、自分の身体へ触れる。
そして、また狐の口を指す。
「……声?」
ハルドが低く呟いた。
……それ!
俺は大きく肯定した。
「……狐のような鳴き声が聞こえたのか?」
……そう!
もう1度、肯定する。
ハルドが黙った。
セインも、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「……隊長」
セインが静かに言った。
「それって……」
「……ああ」
ハルドが答える。
「大きな白い狐かもしれん」
「…………」
俺は身体を止めた。
……そうだ。
まだ確証はない。
だが。
商人たちは、大きな白い狐をこの奥へ運んだ。
そして、今。
石の向こうから、何かが合図に応じた。
そのあと、鎖のような音。
さらに、かすかな鳴き声。
……偶然なのか?
俺は岩壁へ触手を押しつけた。
もう1度だけ、確かめたい。
だが、ハルドが先に声をかけてきた。
「……ノア」
俺は触手を向けた。
「今日は、ここまでだ」
……え?
俺は動きを止めた。
「気持ちは分かる。だが、相手が何者か分からない以上、これ以上刺激するのは危険だ」
……ああ。
俺は身体を縮めた。
「それに、今の音は重要な手がかりだ。奥に生き物がいる可能性があるなら、救助の準備を進める必要がある」
……救助。
その言葉に、俺は触手を持ち上げた。
「村長へ報告する。必要な人員と道具を揃え、入口から安全に進めるか確かめよう」
……なるほど。
俺はゆっくり肯定した。
今すぐ飛び込むのではなく、助けるための準備をする。
それなら、賛成だ。
⸻
小屋へ戻った頃には、夕方になっていた。
ルナは入口の近くで待っていたらしい。
「……ノア!」
俺の気配に気づくなり、声をかけてくる。
俺は触手を持ち上げた。
「無事か?」
肯定する。
「……そうか」
柔らかな前脚が、そっと触れてきた。
「よく帰ったな」
……ただいま。
俺は彼女の前脚へ身体を寄せた。
すると、ルナが小さく笑った。
「……さて。今日は何が分かった?」
その問いに答えたのは、ハルドだった。
石壁を通じて伝わってきた音。
こちらの合図と同じ間隔で返ってきた振動。
そして、金属を引きずるような音のあとに聞こえた、微かな鳴き声。
ルナは最後まで黙って聞いていた。
やがて。
「……山狐の声かもしれぬ、か」
静かな声が返ってきた。
「……ああ」
ハルドが答える。
「ただし、ノア自身も断定はしていない」
「……それでよい」
ルナは短く息を吐いた。
「今は、そこに生き物がいる可能性が分かっただけでも大きい」
……そうだな。
俺も、そう思う。
「明日、村長と話す。隣町へ出した使いの返事も、そろそろ届くかもしれん」
……なるほど。
俺は身体を小さく揺らした。
ハルドはそれから、警備隊の見張りを続けることを伝え、小屋を出ていった。
足音が遠ざかる。
俺はようやく身体の力を抜いた。
……ふぅ。
今日は思ったより疲れた。
石の奥から返ってくる小さな振動を拾うために、ずっと意識を集中させていたからだ。
それに、最後は無理に声を出そうとしてしまった。
やはり、今の俺にはまだ難しい。
「……ノア」
ルナが声をかけてくる。
「また、喋ろうとしたそうだな」
……あ。
ハルド、そこまで話したのか。
俺は少しだけ身体を縮めた。
すると、ルナが静かに続けた。
「……もどかしかったのだろう?」
「…………」
俺は動きを止めた。
……うん。
そのとおり。
喋れれば、もっと簡単に伝えられた。
『狐の鳴き声が聞こえた』
それだけのことを伝えるのに、あんなに苦労する必要はなかった。
「……だが」
ルナが続けた。
「結局、伝わったのだろう?」
……うん。
「ならば、今はそれでよいではないか」
「…………」
俺は少し考えた。
確かに、そうだ。
俺は声を出せなかった。
だが、地面へ狐の形を描くことで、何とか伝えられた。
そして、ハルドたちはそれを手がかりにしてくれた。
……そうか。
喋れるようになることは大事だ。
だが、それだけに頼る必要もないのか。
「……それにな」
ルナが小さく笑った。
「貴様が何かを伝えようとする限り、我らも理解する努力をするさ」
「…………」
俺は触手を伸ばした。
彼女の前脚へ、そっと触れる。
……ありがとう。
すると、ルナが続けた。
「だから、明日からも練習を続けようではないか」
……おお。
俺は身体を持ち上げた。
「ただし、無理はするなよ。貴様が喋れるようになる前に倒れてしまっては困る」
……はい。
俺は素直に肯定した。
⸻
夜。
軒下から、小さな足音が聞こえた。
……ぺた。
……ぺた。
白い狐だ。
傷めた前脚を庇いながら、寝床の中で身体の向きを変えているらしい。
俺は入口へ少しだけ身体を寄せた。
すると。
……くぅ。
小さな鳴き声が返ってきた。
……おお。
俺は触手を持ち上げた。
今日はもう、無理に近づくつもりはない。
ただ、少しだけ声を聞いていたかった。
……くぅ。
もう1度。
俺はその音を聞きながら、今日の石切り場を思い出した。
石の奥から聞こえた、かすかな鳴き声。
……似ていた。
完全に同じとは言えない。
だが、どちらも小さな獣が鳴くような音だった。
「……なあ」
俺は心の中で呼びかけた。
お前の仲間は、まだあそこにいるのか?
俺たちの音が、届いたのだろうか?
もちろん、答えは返ってこない。
ただ、軒下の狐が小さく身体を動かした。
……かさっ。
そして、また静かになった。
俺はしばらく、その呼吸を聞いていた。
今の俺には、まだ相手の姿を見ることも、普通に会話することもできない。
それでも。
今日、ひとつだけ分かったことがある。
石の向こうには、こちらの合図へ反応する何かがいる。
しかも、ただの水音では説明しにくい。
……だったら。
「……まだ、そこにいるのかもしれないな」
俺は身体を小さくまとめた。
そのとき、背後からルナの声がした。
「ノア」
……ん?
俺は触手を向けた。
「そろそろ休め。明日も、きっと忙しくなるぞ」
……そうだな。
俺はゆっくり肯定した。
そして、彼女の隣へ戻る。
柔らかな尻尾が、俺の身体へ触れた。
「……ふふっ」
ルナが小さく笑う。
「ところで、約束を覚えておるか?」
……約束?
俺は少し考えた。
……あ。
そうだった。
帰ってきたら、もう1度名前を呼ぶんだった。
「……無理なら、今日はよいぞ」
ルナが静かに言った。
……いや。
少しだけなら。
俺は身体の内部へ意識を集中させた。
小さな空洞。
薄い膜。
細い通路。
今日の調査で疲れているため、長くは維持できそうにない。
だから、最初から短く。
ゆっくりと空気を押し出す。
「……る……」
少しだけ、音が震えた。
続いて、通路を変える。
「……な」
「…………」
ルナが静かになった。
俺は構造を解除した。
……ふぅ。
今度は、昨日ほどはっきりしなかった気がする。
だが。
「……うむ」
ルナが、穏やかな声で答えた。
「ちゃんと聞こえたぞ、ノア」
「…………」
俺はそっと触手を伸ばした。
ルナの前脚へ触れる。
すると、彼女が小さく笑った。
「……貴様は本当に、頑張り屋だな」
……そうかな。
俺は身体を小さく揺らした。
「だが、覚えておけ」
ルナが続けた。
「言葉は、急いで覚えるものではない。伝えたい相手がおるから、覚えるのだ」
「…………」
俺は静かに聞いていた。
……ああ。
そうだな。
今の俺には、まだ言葉が足りない。
それでも、伝えたい相手はいる。
ルナも。
エマも。
ハルドも。
そして、今は。
石の向こうにいるかもしれない、誰かにも。
俺はゆっくりと身体を小さくまとめた。
明日になれば、救助の準備が進むかもしれない。
あの扉の奥へ、安全に入る方法が見つかるかもしれない。
だが、もしそこに誰かが閉じ込められているのなら。
次に合図を送るときも、きちんと返事を聞き取れるようにしておきたい。
……それまでは。
まだ、そこにいてくれ。
俺はそう願いながら、静かに意識を休ませた。




