↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゲームだと思ったら原初の生命に転生しました。  作者: くんくん
第2部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/130

まだ、そこにいる

第2部 第23話 まだ、そこにいる


「……る……な」


昨日より、少しだけ音がつながった。


俺は小屋の床に身体を広げ、内部に作った小さな発声器官へ意識を集中させていた。


空気を溜める空洞。薄く振動する膜。そして、音を切り替えるための細い通路。


昨日、ようやくルナの名前を呼べた。


ただし、毎回うまくいくわけじゃない。少しでも構造が崩れると、途端に意味の分からない音になってしまう。


「……ふむ」


干し草の上から、ルナが声をかけてきた。


「昨日より聞き取りやすいな」


……本当か?


俺は嬉しくなって触手を持ち上げた。


その瞬間、発声器官の一部が崩れる。


「……ぷすっ」


「…………」


またやった。


「……ははっ!」


ルナが笑い始めた。


「貴様、喋るときくらい大人しくしておれ!」


……そんなこと言われても!


俺は不満を込めて身体を揺らした。


どうやら、今の俺には発声しながら触手を大きく動かす余裕がないらしい。


発声器官を維持するだけで、それなりの集中力を使う。そこへ別の動きを加えると、細かな構造が乱れてしまうのだ。


「……やれやれ」


ルナは笑いを収めると、少し声を柔らかくした。


「だが、確かに進歩しておる。昨日は音を出すだけで精一杯だったろう?」


……うん。


俺はゆっくり肯定した。


「ならば、今はそれで十分だ。喋ることばかりに気を取られて、肝心の身体を壊すでないぞ」


……分かってるよ。


俺は発声器官を解除した。


今日は、最初から無理をするつもりはない。


ただ、昨日作れた構造を忘れないようにしたかっただけだ。


もっと自然に喋れるようになれば、ルナとの会話も変わるだろう。


今までは、彼女が俺の動きを見て、何を伝えたいのか考えてくれていた。


それが、言葉を使えるようになれば。


……いや。


まだ先の話だな。


俺は身体を小さくまとめた。


そのとき、小屋の外から聞き慣れた足音が近づいてきた。


⸻


「石切り場の奥について、もう1度確かめたい」


ハルドは小屋へ入るなり、そう切り出した。


昨日、俺たちが開けた古い石扉。


その向こうから助け出されたダグは、かつて俺たちを捕まえようとした男だった。


彼の話によれば、大きな白い狐は石切り場の奥へ運ばれたらしい。


そして、ダグ自身が扉の内側へ閉じ込められていた間、もっと奥から何かが石を叩くような音を聞いていたという。


「昨日、お前が最後に聞いた音が気になっている」


ハルドが俺へ声を向けた。


「ダグの音とは別に、奥から振動が伝わってきたんだろう?」


俺は肯定した。


「ただの水音なのか、そこに何かいるのか。それだけでも確かめられれば、調査の進め方が変わる」


……確かに。


俺は触手を持ち上げた。


昨日の段階では、何が音を出していたのか分からなかった。


地下を流れる水。


緩んだ石。


何かの道具。


あるいは、生き物。


可能性はいくつもある。


「……ノアを連れていくつもりか?」


ルナが尋ねた。


「ああ。ただし、昨日と同じく石扉の外までだ」


ハルドはすぐに答えた。


「村長にも許可をもらっている。今日は内部へ入らず、石壁を通じた音を確かめるだけにする」


「……それならば」


ルナは少し考え込んだ。


「だが、奥から危険なものが出てくる可能性はあるぞ」


「分かっている。だからセインと、ほかに2人つける。通路へ近づきすぎないよう、見張りにも指示してある」


……準備してるな。


俺は少し安心した。


「それと、昨日より水は引いているが、足元はまだ悪い。ノアには木箱で運ばれてもらうつもりだ」


……おお。


また、あの移動方法か。


俺は触手を小さく揺らした。


ルナはしばらく黙っていたが、やがて息を吐いた。


「……よかろう。ただし、無茶は禁物だぞ」


俺は大きく肯定した。


すると、ルナが続けた。


「それから、ノア」


……ん?


「帰ってきたら、もう1度我の名を呼んでみせよ」


「…………」


俺は動きを止めた。


……え。


それ、今言う?


「ふふっ。楽しみにしておるぞ」


……まったく。


俺は触手を縮めた。


でも。


少し嬉しかった。


⸻


石切り場へ着いた頃には、雨は完全に止んでいた。


昨日より、空気が少し暖かい。


《明暗感知》でも、布の隙間から届く刺激が強くなっている。


どうやら、雲が薄くなってきたらしい。


「着いたぞ、ノア」


セインが木箱を下ろした。


俺は《粘着性》を解除し、ゆっくりと外へ出た。


足元は硬い石。


ところどころに水が溜まっているらしく、移動するたびに冷たい感触が伝わってくる。


「昨日の石扉は、あっちだ」


セインが説明してくれる。


「今は大きな木材で入口を塞いである。人が勝手に入り込まないようにな」


……なるほど。


俺はその方向へ触手を向けた。


遠くから、流れる水の音が聞こえている。


昨日と比べると、少し弱くなった気がした。


「……ノア」


ハルドが声をかけた。


「今から木材を外す。開けたら、入口の脇で待機してくれ」


俺は肯定した。


警備隊員たちが作業を始める。


……ごとっ。


……ぎしっ。


太い木材が動かされる振動。


続いて、石を擦る音。


……ごごっ。


冷たい空気が流れてきた。


石扉が開かれたらしい。


「……よし」


ハルドが小さく息を吐く。


「昨日より、水は少ないな」


「ただ、奥の足場はまだ濡れてる」


セインが答える。


「滑ったら危ないぞ」


……そうだな。


俺は身体を低く広げた。


今の俺なら、多少濡れた石の上でも《粘着性》で身体を固定できる。


だが、だからといって奥へ入り込むつもりはない。


約束は約束だ。


「……まずは、ここで確かめよう」


ハルドが言った。


「ノア、準備はいいか?」


俺は触手を持ち上げた。


⸻


最初は、昨日と同じ音を出してみることになった。


ハルドが石扉の縁を叩く。


……こん。


少し間を置いて。


……こん、こん。


俺は石へ触手を密着させた。


《微振動感知》。


伝わってきた振動を、意識して拾う。


……ごう。


地下を流れる水。


……ぽた。


天井から落ちる水滴らしい、短い振動。


それから、石の奥で何かが擦れるような、低い音。


……いろいろ混じってるな。


俺は身体を少し広げた。


ただし、石扉の内側へは入らない。


外に露出している岩壁へ触手を這わせ、振動の伝わり方を確かめる。


硬い石。


細かな亀裂。


ところどころに、水が通ったような溝。


……なるほど。


場所によって、伝わってくる振動の強さが違う。


俺は触手を少し移動させた。


すると。


……こつ。


「…………」


今のは。


俺は身体を止めた。


もう1度、意識を集中させる。


……こつ。


……こつ、こつ。


……来た!


俺は触手を持ち上げた。


「……何か聞こえたか?」


ハルドが尋ねる。


肯定する。


「昨日と同じ音か?」


……似ている。


だが、完全に同じかどうかは分からない。


俺は少し迷い、触手を小さく上下へ動かした。


「……似た音、ということか?」


肯定する。


「なるほど」


ハルドは静かに息を吐いた。


「では、もう少し確かめよう」


……ん?


俺は触手を向けた。


「今度は、叩く間隔を変えてみる」


……なるほど。


それはいい考えかもしれない。


もし向こうに誰かいて、こちらの音へ反応しているなら。


同じ間隔で叩けば、何か返ってくる可能性がある。


もちろん、それが本当に意思を持った反応なのかは、慎重に判断する必要がある。


水滴や揺れる金属が、偶然似た音を出すことだってあるだろう。


「……やってみるか」


俺は触手を石へ押しつけた。


ハルドが、今度は少し変わった間隔で叩いた。


……こん。


少し長く間を置く。


……こん、こん、こん。


1回。


そして、3回。


俺は振動へ意識を集中させた。


……ごう。


……ぽた。


……ぽた。


しばらく、変化はない。


「……やはり、偶然か?」


セインが呟いた。


だが、その直後。


……こつ。


「…………」


俺は身体を強張らせた。


……来た。


さらに。


……こつ、こつ、こつ。


「……っ!」


俺は思わず触手を持ち上げた。


「……ノア?」


ハルドが声をかける。


俺は大きく肯定した。


「同じ間隔で返ってきたのか?」


もう1度、肯定。


「…………」


ハルドが黙った。


セインも何も言わない。


少しの沈黙のあと、ハルドが静かに言った。


「……もう1度だ」


⸻


今度は、さらに違う間隔にした。


2回続けて叩き、少し間を置いてから1回。


……こん、こん。


……こん。


俺は石へ触手を密着させた。


……ごう。


水の音。


……ぽた。


落ちる水滴。


その奥から。


……こつ、こつ。


……こつ。


「…………!」


俺は身体を持ち上げた。


同じだ。


今度も、同じ間隔。


「……返ってきたか?」


ハルドが低い声で尋ねる。


俺は肯定した。


「……本当か?」


もう1度。


その声には、驚きが混じっていた。


「……隊長」


セインが口を開く。


「それって、誰かがこっちに合わせて叩いてるってことじゃ……」


「……可能性は高い」


ハルドが慎重に答えた。


「だが、相手が人間なのか、魔物なのかは分からん」


……そうだな。


俺も同じことを考えていた。


2度続けて、こちらの叩いた間隔と同じような音が返ってきた。


偶然にしては、出来すぎている。


だが、それだけで相手の正体までは分からない。


「……声は?」


セインが尋ねる。


「聞こえない」


ハルドが答える。


「俺たちには、叩く音もほとんど届かん。ノアがいなければ、気づけなかっただろう」


……そうなのか。


俺は少しだけ驚いた。


今の俺には、確かに振動が伝わっている。


ただし、石へ身体を密着させているからこそ分かる程度のものだ。


人間の耳では、地下の水音に紛れてしまうのかもしれない。


「……ノア」


ハルドがこちらへ声を向けた。


「もう少しだけ、付き合ってくれるか?」


俺は肯定した。


「無理はするな。疲れたらすぐに知らせてくれ」


……了解。


俺は身体を少し低くした。


そして、ハルドが3度目の合図を送るのを待った。


だが。


その前に。


……ぎりっ。


「……ん?」


俺は動きを止めた。


今までとは違う振動が、石を通じて伝わってきた。


……ぎり、ぎり。


硬いものが、何かへ擦りつけられている。


……金属?


俺は意識を集中させた。


すると。


……がしゃっ。


短い金属音。


続いて。


……ずるっ。


何かを引きずるような振動。


「…………」


俺は身体を強張らせた。


……何だ?


さっきまで聞こえていた、石を叩くような音が止まっている。


その代わりに、金属が擦れる振動が続いた。


「……ノア?」


セインが声をかけた。


俺は慌てて触手を動かした。


まず、さっきまで叩いていた場所を示す。


続いて、触手を細く伸ばし、何かを引きずる動きを真似する。


「……動いてる?」


俺は肯定した。


「……何が?」


……分からない。


俺は触手を左右へ振った。


「……分からないが、何かが動いたということか」


ハルドが確認する。


肯定する。


すると、彼は短く息を吐いた。


「……やはり、誰かいるのかもしれんな」


……そうだな。


俺も、そう思う。


ただ。


あの金属音は、少し嫌な感じがした。


どこかで聞いたことがある。


……どこだったかな。


俺は身体を小さくまとめた。


すると、ふと記憶が繋がった。


鉄の檻。


首輪。


そして、鎖。


……まさか。


俺は触手を止めた。


あの音は、鎖を引きずるときの振動に似ていた。


もちろん、同じものだとは限らない。


地下には古い金属の道具もあるだろうし、水の流れで何かが動いている可能性もある。


だが。


「……気になるな」


俺は身体を強張らせた。


そのときだった。


……キィ……。


「…………」


微かな音が、通路の奥から届いた。


俺は動きを止めた。


今のは。


……声?


水の音に紛れるほど弱い。


それでも、金属が擦れる音とは明らかに違った。


「……ハルド!」


俺は反射的に触手を持ち上げた。


だが、もちろん声にはならない。


代わりに、岩壁を強く叩く。


……コン、コン!


「……どうした?」


ハルドがすぐに反応した。


俺は触手を伸ばし、奥を指した。


「……また何か聞こえたか?」


肯定する。


「……叩く音?」


否定。


「……金属か?」


もう1度、否定。


ハルドが考え込む。


俺は必死に伝えようとした。


声だ。


何かが鳴いた。


そう伝えたいのに。


触手の動きだけでは、うまく説明できない。


……くそ。


こんなときに。


俺は思わず身体の内部へ意識を向けた。


昨日、作った発声器官。


まだ、短い音しか出せない。


だが。


「……ぁ……」


弱い音が漏れた。


セインが反応する。


「……ノア?」


俺はもう1度、空気を押し出した。


「……ぁ……」


違う。


これじゃ伝わらない。


俺はすぐに発声器官を解除した。


……落ち着け。


今できないことを、無理にやろうとしても仕方ない。


別の方法を考えよう。


俺は地面へ触手を伸ばした。


そして、小さな狐の形を描き始めた。


身体。


4本の脚。


細長い鼻先。


尻尾。


昨日まで文字を練習していたおかげで、粘土へ線を引くことには少し慣れている。


ただし、今は土が湿っている。


思ったように線が残らない。


……くそ。


俺は慎重に形を整えた。


すると。


「……狐?」


セインが声を上げた。


……そう!


俺は大きく肯定した。


「……狐がいるのか!?」


……そこまでは分からない!


俺は慌てて触手を左右へ振った。


「……違う?」


ハルドが尋ねる。


俺は狐の口に当たる部分を指した。


続いて、自分の身体へ触れる。


そして、また狐の口を指す。


「……声?」


ハルドが低く呟いた。


……それ!


俺は大きく肯定した。


「……狐のような鳴き声が聞こえたのか?」


……そう!


もう1度、肯定する。


ハルドが黙った。


セインも、しばらく何も言わなかった。


やがて。


「……隊長」


セインが静かに言った。


「それって……」


「……ああ」


ハルドが答える。


「大きな白い狐かもしれん」


「…………」


俺は身体を止めた。


……そうだ。


まだ確証はない。


だが。


商人たちは、大きな白い狐をこの奥へ運んだ。


そして、今。


石の向こうから、何かが合図に応じた。


そのあと、鎖のような音。


さらに、かすかな鳴き声。


……偶然なのか?


俺は岩壁へ触手を押しつけた。


もう1度だけ、確かめたい。


だが、ハルドが先に声をかけてきた。


「……ノア」


俺は触手を向けた。


「今日は、ここまでだ」


……え?


俺は動きを止めた。


「気持ちは分かる。だが、相手が何者か分からない以上、これ以上刺激するのは危険だ」


……ああ。


俺は身体を縮めた。


「それに、今の音は重要な手がかりだ。奥に生き物がいる可能性があるなら、救助の準備を進める必要がある」


……救助。


その言葉に、俺は触手を持ち上げた。


「村長へ報告する。必要な人員と道具を揃え、入口から安全に進めるか確かめよう」


……なるほど。


俺はゆっくり肯定した。


今すぐ飛び込むのではなく、助けるための準備をする。


それなら、賛成だ。


⸻


小屋へ戻った頃には、夕方になっていた。


ルナは入口の近くで待っていたらしい。


「……ノア!」


俺の気配に気づくなり、声をかけてくる。


俺は触手を持ち上げた。


「無事か?」


肯定する。


「……そうか」


柔らかな前脚が、そっと触れてきた。


「よく帰ったな」


……ただいま。


俺は彼女の前脚へ身体を寄せた。


すると、ルナが小さく笑った。


「……さて。今日は何が分かった?」


その問いに答えたのは、ハルドだった。


石壁を通じて伝わってきた音。


こちらの合図と同じ間隔で返ってきた振動。


そして、金属を引きずるような音のあとに聞こえた、微かな鳴き声。


ルナは最後まで黙って聞いていた。


やがて。


「……山狐の声かもしれぬ、か」


静かな声が返ってきた。


「……ああ」


ハルドが答える。


「ただし、ノア自身も断定はしていない」


「……それでよい」


ルナは短く息を吐いた。


「今は、そこに生き物がいる可能性が分かっただけでも大きい」


……そうだな。


俺も、そう思う。


「明日、村長と話す。隣町へ出した使いの返事も、そろそろ届くかもしれん」


……なるほど。


俺は身体を小さく揺らした。


ハルドはそれから、警備隊の見張りを続けることを伝え、小屋を出ていった。


足音が遠ざかる。


俺はようやく身体の力を抜いた。


……ふぅ。


今日は思ったより疲れた。


石の奥から返ってくる小さな振動を拾うために、ずっと意識を集中させていたからだ。


それに、最後は無理に声を出そうとしてしまった。


やはり、今の俺にはまだ難しい。


「……ノア」


ルナが声をかけてくる。


「また、喋ろうとしたそうだな」


……あ。


ハルド、そこまで話したのか。


俺は少しだけ身体を縮めた。


すると、ルナが静かに続けた。


「……もどかしかったのだろう?」


「…………」


俺は動きを止めた。


……うん。


そのとおり。


喋れれば、もっと簡単に伝えられた。


『狐の鳴き声が聞こえた』


それだけのことを伝えるのに、あんなに苦労する必要はなかった。


「……だが」


ルナが続けた。


「結局、伝わったのだろう?」


……うん。


「ならば、今はそれでよいではないか」


「…………」


俺は少し考えた。


確かに、そうだ。


俺は声を出せなかった。


だが、地面へ狐の形を描くことで、何とか伝えられた。


そして、ハルドたちはそれを手がかりにしてくれた。


……そうか。


喋れるようになることは大事だ。


だが、それだけに頼る必要もないのか。


「……それにな」


ルナが小さく笑った。


「貴様が何かを伝えようとする限り、我らも理解する努力をするさ」


「…………」


俺は触手を伸ばした。


彼女の前脚へ、そっと触れる。


……ありがとう。


すると、ルナが続けた。


「だから、明日からも練習を続けようではないか」


……おお。


俺は身体を持ち上げた。


「ただし、無理はするなよ。貴様が喋れるようになる前に倒れてしまっては困る」


……はい。


俺は素直に肯定した。


⸻


夜。


軒下から、小さな足音が聞こえた。


……ぺた。


……ぺた。


白い狐だ。


傷めた前脚を庇いながら、寝床の中で身体の向きを変えているらしい。


俺は入口へ少しだけ身体を寄せた。


すると。


……くぅ。


小さな鳴き声が返ってきた。


……おお。


俺は触手を持ち上げた。


今日はもう、無理に近づくつもりはない。


ただ、少しだけ声を聞いていたかった。


……くぅ。


もう1度。


俺はその音を聞きながら、今日の石切り場を思い出した。


石の奥から聞こえた、かすかな鳴き声。


……似ていた。


完全に同じとは言えない。


だが、どちらも小さな獣が鳴くような音だった。


「……なあ」


俺は心の中で呼びかけた。


お前の仲間は、まだあそこにいるのか?


俺たちの音が、届いたのだろうか?


もちろん、答えは返ってこない。


ただ、軒下の狐が小さく身体を動かした。


……かさっ。


そして、また静かになった。


俺はしばらく、その呼吸を聞いていた。


今の俺には、まだ相手の姿を見ることも、普通に会話することもできない。


それでも。


今日、ひとつだけ分かったことがある。


石の向こうには、こちらの合図へ反応する何かがいる。


しかも、ただの水音では説明しにくい。


……だったら。


「……まだ、そこにいるのかもしれないな」


俺は身体を小さくまとめた。


そのとき、背後からルナの声がした。


「ノア」


……ん?


俺は触手を向けた。


「そろそろ休め。明日も、きっと忙しくなるぞ」


……そうだな。


俺はゆっくり肯定した。


そして、彼女の隣へ戻る。


柔らかな尻尾が、俺の身体へ触れた。


「……ふふっ」


ルナが小さく笑う。


「ところで、約束を覚えておるか?」


……約束?


俺は少し考えた。


……あ。


そうだった。


帰ってきたら、もう1度名前を呼ぶんだった。


「……無理なら、今日はよいぞ」


ルナが静かに言った。


……いや。


少しだけなら。


俺は身体の内部へ意識を集中させた。


小さな空洞。


薄い膜。


細い通路。


今日の調査で疲れているため、長くは維持できそうにない。


だから、最初から短く。


ゆっくりと空気を押し出す。


「……る……」


少しだけ、音が震えた。


続いて、通路を変える。


「……な」


「…………」


ルナが静かになった。


俺は構造を解除した。


……ふぅ。


今度は、昨日ほどはっきりしなかった気がする。


だが。


「……うむ」


ルナが、穏やかな声で答えた。


「ちゃんと聞こえたぞ、ノア」


「…………」


俺はそっと触手を伸ばした。


ルナの前脚へ触れる。


すると、彼女が小さく笑った。


「……貴様は本当に、頑張り屋だな」


……そうかな。


俺は身体を小さく揺らした。


「だが、覚えておけ」


ルナが続けた。


「言葉は、急いで覚えるものではない。伝えたい相手がおるから、覚えるのだ」


「…………」


俺は静かに聞いていた。


……ああ。


そうだな。


今の俺には、まだ言葉が足りない。


それでも、伝えたい相手はいる。


ルナも。


エマも。


ハルドも。


そして、今は。


石の向こうにいるかもしれない、誰かにも。


俺はゆっくりと身体を小さくまとめた。


明日になれば、救助の準備が進むかもしれない。


あの扉の奥へ、安全に入る方法が見つかるかもしれない。


だが、もしそこに誰かが閉じ込められているのなら。


次に合図を送るときも、きちんと返事を聞き取れるようにしておきたい。


……それまでは。


まだ、そこにいてくれ。


俺はそう願いながら、静かに意識を休ませた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。