たった2音が遠すぎる
第2部 第22話 たった2音が遠すぎる
「……もう1度、やってみてくれ」
ハルドの声に、俺は触手を持ち上げた。
翌朝、雨はようやく弱まっていた。
小屋を訪れたハルドは、昨日の石切り場で聞いた音について、もう少し詳しく知りたいらしい。
「ダグが叩いた音とは別に、奥からも音が聞こえたんだな?」
俺は肯定した。
「それは、同じ場所から聞こえたのか?」
否定する。
「もっと奥か?」
肯定。
「……どのくらい離れていた?」
……ああ。
そこなんだよな。
俺は触手を止めた。
扉へ直接伝わってきた振動と、地下のずっと奥から石を通じて届いた振動。
その2つには、明らかな違いがあった。
だが、正確に何歩先なのかは分からない。
そもそも、俺自身が奥を見たわけでもない。
「……距離は分からないか」
ハルドが尋ねる。
俺は肯定した。
「なるほど。じゃあ、音の違いだけでも教えてくれ」
俺は床へ触手を伸ばした。
……コツ、コツ。
まず、ダグが返した音。
続いて、少し場所を変える。
……こつ。
……こつ、こつ。
こちらは、もっと奥から聞こえた音だ。
「……ふむ」
ハルドはしばらく考え込んだ。
「叩く間隔が違うということか?」
……いや。
間隔も違ったけど、それだけじゃない。
俺が伝えたいのは、振動の強さと伝わり方だ。
石を隔てているのか、もっと深い場所から響いているのか。
その違いを、ハルドにも知ってほしかった。
俺は触手を広げ、床を何度か叩いてみせた。
しかし。
「……すまん、ノア」
ハルドが申し訳なさそうに言った。
「俺には、そこまでの違いが分からん」
……ですよね。
俺は触手を下ろした。
別に、ハルドが悪いわけじゃない。
伝える方法が足りないだけだ。
「分かったことだけでも十分だ。石切り場には引き続き見張りを置いているが、奥へ入るのは装備が揃ってからにする」
……うん。
それがいいと思う。
「何か分かったら、また知らせる」
ハルドはそう言い残して小屋を出ていった。
足音が遠ざかる。
俺は、しばらく床の上で動かなかった。
……不便だな。
文字は少しずつ覚えている。
触手で意思表示もできる。
だが、伝えたいことが複雑になると、途端に難しくなる。
昨日の石切り場でも、そうだった。
もし俺が普通に喋れたなら。
『奥から別の音が聞こえた』
たったそれだけで済んだはずなのに。
「……ノア」
ルナが声をかけてきた。
「そんなに落ち込むことではあるまい。ハルドも、必要なことは聞き取っておったぞ」
……まあ、そうなんだけど。
俺は身体を小さく揺らした。
「……ふむ」
少しの沈黙。
それから、ルナが言った。
「貴様、そろそろ自分の言葉で話したくなってきたのではないか?」
俺は動きを止めた。
……おお。
よく分かったな。
勢いよく肯定すると、ルナが笑った。
「やはりな。最近、口を持たぬことを随分と気にしておるようだったからな」
……口か。
確かに、そこが問題なんだよ。
俺には人間のような喉も舌もない。
それでも、《摩擦発音》のおかげで、母音に似た音は出せるようになっている。
ならば。
「……もう少し、何とかならないかな」
俺は身体の表面へ意識を向けた。
これまで、まともな言葉を作ろうとはしてこなかった。
食べること。
逃げること。
身体を守ること。
その方が、ずっと重要だったからだ。
だが、今は違う。
寝床があり、食事もある。
手伝ってくれる仲間までいる。
……試すなら、今かもしれない。
⸻
「……喋る練習ですか?」
午前中、薬と粘土板を持ってきたエマは、少し驚いたようだった。
俺は触手を持ち上げた。
「ノアが?」
もう1度、肯定する。
「……本当に?」
……本当に。
すると、エマが急に嬉しそうな声を上げた。
「それ、すごくいいと思います!」
……おお。
予想以上の反応だ。
「だって、ノアと普通にお話しできたら、もっといろいろ教えてもらえますよね!」
……そうなんだよ。
俺は身体を揺らした。
「でも、どうやって喋るんですか?」
……そこなんです。
俺は動きを止めた。
エマも黙った。
少しして、彼女が小さく呟く。
「……あれ?」
どうやら、今になって気づいたらしい。
「ノアって、口がないんですよね?」
……はい。
「喉も……ないですよね?」
……そのとおり。
「……どうしましょう」
……そこから相談したかったんだけどな!
俺が身体を大きく揺らすと、ルナが笑った。
「エマ。まずは落ち着け。ノアは以前から、多少の音なら出せるのだ」
「……えっ?」
エマがこちらへ向き直る気配がした。
「そうなんですか?」
俺は肯定した。
「聞いてみたいです!」
……よし。
俺は身体を少し持ち上げた。
《摩擦発音》。
内部に細い通路を作り、身体の一部を振動させる。
最初に覚えたときは、ただ音を出すだけでも大変だった。
だが、何度も試してきたおかげで、今なら比較的簡単にできる。
……ぐっ。
身体を少し収縮させる。
内部の空気が、細い通路を抜ける。
そして。
「……ぁ……」
弱い音が出た。
「…………」
エマが黙った。
俺も、しばらく動かなかった。
……どうだ?
「……すごい!」
突然、明るい声が響いた。
「本当に声が出ました!」
……おお。
ありがとう。
「でも……」
エマが少し考え込む。
「まだ、何を言ってるかは分からないですね」
……うん。
そこなんだよ。
今できるのは、母音に近い音を出すことだけ。
人間の言葉に必要な細かな音の区切りを、まだ作れない。
「……なら」
エマが粘土板を近くへ置いた。
「まずは、短い言葉から練習してみませんか?」
……短い言葉。
それなら、ちょうどいいのがある。
俺は触手を伸ばし、粘土板へ文字を刻んだ。
『ルナ』
「……あっ」
エマが声を上げた。
「ルナの名前ですね!」
俺は肯定した。
「……ほう?」
隣で休んでいたルナが反応する。
「最初に我の名を呼ぼうというのか?」
……まあね。
俺は触手を持ち上げた。
すると、ルナが少しだけ黙った。
「……そうか」
それだけ言って、静かに息を吐いた。
どうやら、見守ってくれるらしい。
⸻
最初の問題は、空気だった。
今までの《摩擦発音》では、身体に取り込んだ少量の空気を狭い通路へ押し出すことで、無理やり音を作っていた。
だが、その方法では長く続かない。
音が出る前に空気が漏れることもあるし、少し形が崩れただけで、ただの擦れる音になってしまう。
「……難しいな」
俺は内部の構造を解除した。
……ぺたり。
「大丈夫ですか?」
エマが尋ねる。
俺は肯定した。
まだ、そこまで疲れてはいない。
だが、思ったより集中力を使う。
身体の形を変えるだけなら、今まで何度もやってきた。
しかし、音を作るためには、細かな部分を動かし続けなければならない。
しかも、ただ振動させればいいわけではない。
……言葉って、こんなに複雑だったのか。
人間だった頃は、何も考えずに喋っていた。
声帯をどう動かすか。
舌をどこへ当てるか。
空気をどう通すか。
そんなこと、いちいち意識したこともない。
「……ノア」
エマが声をかけてきた。
「ちょっと、私の声を聞いてみてください」
俺は触手を持ち上げた。
「ル、ナ」
彼女がゆっくり発音する。
「ル」
少し間を置いて。
「ナ」
……なるほど。
俺は感知膜を広げた。
音そのものだけでなく、空気の揺れ方を確かめる。
最初の『ル』。
短い振動が入り、そのあと母音が続く。
次の『ナ』。
こちらは、最初に鼻へ抜けるような響きがあり、それから『ア』に近い音へ変わる。
……いや。
言葉にすると簡単だけど、再現するのは難しいぞ。
俺は《構造形成》で、内部に小さな空洞を作った。
そこへ、外から少量の空気を取り込む。
続いて、薄い膜と細い通路。
膜を震わせるだけでなく、空気の出口を一瞬塞ぐための、小さな突起も作ってみる。
人間の舌を真似したつもりだ。
もちろん、本物の舌の仕組みを詳しく知っているわけではない。
ただ、音が出る瞬間に通路の形を変えれば、何か違いが生まれるかもしれない。
……よし。
試してみよう。
俺は空気を押し出した。
「……ぅる……」
……お?
今までとは、少し違う。
ただの母音じゃない。
最初に、短く引っかかるような音が混じった。
「……あっ!」
エマが反応する。
「今、ちょっと『ル』に聞こえました!」
……本当か!?
俺は思わず身体を持ち上げた。
すると、その拍子に内部の構造が崩れた。
……ぷすっ。
「…………」
妙な音が漏れた。
エマが黙る。
ルナも黙る。
……いや。
今のは違うから。
「……ふっ」
ルナが小さく息を漏らした。
……笑ったな?
「……すまぬ」
絶対、笑ってるだろ。
俺が触手を向けると、とうとうルナが声を上げて笑った。
「ははっ! 何だ、今の音は!」
……くそっ。
せっかく、ちょっといい感じだったのに!
「……ご、ごめんなさい」
エマまで笑っている。
「でも、さっきの『ル』は本当に近かったですよ!」
……本当だな?
俺は少し疑いながら、もう1度構造を作り始めた。
⸻
そこからは、なかなか進まなかった。
『ル』に近い音は、ときどき出せる。
だが、毎回同じ音になるわけではない。
通路が少し狭ければ、空気が抜けるだけ。
広すぎれば、振動が弱くなる。
それに、最初の音を出せても、続けて『ナ』を作ろうとすると形が崩れてしまう。
「……ぅ……あ……」
違う。
「……る……ぁ……」
惜しい。
「……る……っ」
途中で空気がなくなった。
……ああ、もう!
俺は身体を縮めた。
思っていた以上に難しい。
そもそも、身体の中に空洞を作ること自体はできる。
だが、音を出しながら、その形を細かく変えるのが難しい。
人間の喉や舌なら、自然にできる動きなのだろう。
今の俺には、それをすべて意識して操作する必要があった。
「……ノア」
ルナが静かに声をかけてきた。
「そろそろ休め」
……もうちょっと。
俺は触手を持ち上げた。
「駄目だ」
即答だった。
「貴様、さっきから身体の動きが鈍くなっておるぞ」
……え?
俺は意識を向けた。
確かに、内部の構造を作る反応が遅くなっている。
普段なら簡単に伸ばせる触手も、少し重い。
……ああ。
思ったより消耗してたのか。
「……ルナの言うとおりです」
エマも口を開いた。
「今日だけで全部できるようになる必要はないですよ」
……そうだな。
俺は身体を小さくまとめた。
少し、焦っていたのかもしれない。
喋れるようになったら。
もっといろいろなことを伝えられる。
ルナにも、エマにも、ハルドにも。
そんなことを考えて、つい夢中になっていた。
「……まずは、今の形を忘れぬことだな」
ルナが言った。
俺は触手を向けた。
「無理に続けるより、休んでからもう1度試した方がよかろう」
……うん。
俺は素直に肯定した。
すると、エマが少し考えてから言った。
「それじゃ、今できたことを整理しておきましょう!」
……整理?
「はい。『ル』に近い音は出せました。だから、次は『ナ』ですね」
……なるほど。
俺は身体を持ち上げた。
「でも、今日は練習しませんよ?」
……えっ。
「明日以降です!」
……はい。
俺はおとなしく触手を下ろした。
エマが笑う。
「ノア、分かりやすいですね」
……最近それ、よく言われるな。
⸻
午後になると、雨はほとんど止んだ。
エマが帰ったあと、俺はしばらく休んでいた。
途中で小さな虫を食べ、身体の消耗を補う。
ただし、失った集中力まで一瞬で戻るわけではない。
俺は無理に構造を作ることをやめ、床に身体を広げた。
小屋の外では、白い狐が少しずつ動き始めていた。
……ぺた。
……かさっ。
傷めた前脚を庇いながら、寝床の周囲を移動しているらしい。
「……元気になってきたな」
俺はその気配を聞きながら、少しだけ安心した。
ただ、まだ遠くへ歩かせるわけにはいかない。
マルタも、今日の診察でそう言っていた。
しばらくして。
……くぅ。
小さな鳴き声が聞こえた。
それに応じるように、ルナが静かに声をかける。
「どうした。水が欲しいのか?」
……くぅ。
もう1度、短い声。
ルナは少し考えたあと、俺の方へ声を向けた。
「ノア。入口の器に、水は残っておるか?」
俺は身体を伸ばした。
器へ触れる。
……少ないな。
俺は触手を左右へ振った。
「……そうか。ならば、見張りの者に頼むとしよう」
ルナが外へ声をかける。
やがて、見張りの隊員が水を足してくれた。
……ぴちゃ。
狐が水を飲む音が聞こえる。
「……ふむ」
ルナが静かに息を吐いた。
「ようやく少し落ち着いてきたようだな」
俺は肯定した。
そのとき、ふと思った。
あの狐は、言葉を話せない。
少なくとも、今のところ人間の言葉で意思を伝える様子はない。
それでも、鳴き声だけでルナは何かを察した。
水が欲しいのかもしれない。
苦しいのかもしれない。
もちろん、必ず正しく伝わるわけではないだろう。
だが。
……全部を喋ろうとしなくてもいいのか。
俺は少しだけ身体を持ち上げた。
今の俺は、最初から普通の会話を目指していた。
『奥から別の音が聞こえた』
『今日は体調がいい』
『この文字を教えてほしい』
そんな文章を、早く口にしたかった。
けれど。
最初は、もっと簡単なことでいいのかもしれない。
たった1つの言葉。
それだけでも、伝わることはある。
「……ルナ」
心の中で、名前を呼んでみる。
ずっと、そうしてきた。
何度も。
何度も。
だが、彼女には聞こえない。
だから、触手を伸ばして触れる。
床を叩く。
粘土へ名前を書く。
それでも、伝えられないものがあった。
……そうだな。
まずは、これだけでいい。
俺は身体の中心へ意識を向けた。
今日、作った構造を思い出す。
小さな空洞。
薄い膜。
細い通路。
そして、空気の流れを変えるための突起。
……もう1度だけ。
そう考えたところで、ルナが声をかけてきた。
「ノア」
……ん?
「何をしておる?」
俺は動きを止めた。
どうやら、構造を作り始めたのが分かったらしい。
「……また練習するつもりか?」
……少しだけ。
俺は小さく肯定した。
「……やれやれ」
ルナがため息をつく。
「貴様は本当に、言い出したら聞かぬな」
……すみません。
俺が身体を縮めると、彼女は続けた。
「……無理だと思ったら、すぐにやめるのだぞ」
……うん。
俺は大きく肯定した。
⸻
最初に、小さな空洞を作る。
その中へ、少量の空気を取り込む。
続いて、細い通路。
空気が通るときに振動する、薄い膜。
ここまでは、何とかできる。
問題は、その先だった。
「……まずは『ル』」
俺は心の中で呟いた。
空気を押し出す。
同時に、通路の一部をほんの一瞬だけ塞ぐ。
……ぅる。
「……ん?」
ルナが反応した。
「今、何か言ったか?」
……お。
聞こえたのか。
俺は少し嬉しくなった。
だが、ここで気を抜くわけにはいかない。
次は『ナ』だ。
俺は内部の空気を少し補充した。
そして、通路の形を変える。
最初に流れを塞ぎ、振動を別の細い空洞へ逃がす。
人間の鼻を真似したつもりだ。
もちろん、本物の鼻ではない。
ただ、響き方を変えるための通路にすぎない。
……よし。
俺は慎重に空気を押し出した。
「……ん……ぁ」
……違う。
音が途切れた。
俺は構造を解除した。
……くそ。
もう少しだったのに。
「……ノア?」
ルナが静かに呼びかけてくる。
「貴様、我の名を呼ぼうとしておるのか?」
「…………」
俺は動きを止めた。
……分かるのか?
俺が触手を持ち上げると、ルナが小さく笑った。
「エマと練習しておっただろう。さすがに分かる」
……まあ、そうだよな。
「……焦らずともよい」
ルナは続けた。
「我はここにおる。貴様が呼べるようになるまで、いくらでも待てるぞ」
「…………」
俺は身体を止めた。
……ああ。
そうだな。
ルナは、ここにいる。
俺の隣で。
今までずっと、俺の代わりに喋ってくれた。
知らない人間へ事情を説明してくれた。
危険な相手には、先に声をかけてくれた。
俺が何かを伝えられずに困っているときも、できる限り理解しようとしてくれた。
……なら。
俺も、ちゃんと呼んでみたい。
最初の言葉くらい。
自分で決めたいじゃないか。
俺はもう1度、身体の内部へ意識を集中させた。
ただし、今度は全部を一度に作ろうとしなかった。
まず、空気を溜める部分。
次に、振動を作る膜。
そして、最初の音を作るための細い通路。
準備が整ってから、ゆっくり空気を押し出す。
「……る……」
……出た。
今度は、さっきよりはっきりした。
続けて、通路の一部を変える。
空気を少しだけ残す。
そして。
「……な」
「…………」
小屋の中が静かになった。
俺は身体を動かせなかった。
……今。
言えた?
いや。
かなり途切れていた。
音も弱かった。
人間の普通の声とは、まったく違う。
それでも。
「……ノア」
ルナの声が聞こえた。
いつもより、少しだけ小さい。
「……今」
短い沈黙。
そして。
「我を呼んだのか?」
俺は、ゆっくり触手を持ち上げた。
……うん。
呼んだ。
すると、柔らかな前脚が近づいてきた。
俺の触手へ、そっと触れる。
「……そうか」
ルナが静かに息を吐いた。
「……聞こえたぞ」
「…………」
俺は動かなかった。
ただ、その言葉を聞いていた。
聞こえた。
ルナに。
俺の声が。
「……まだ少々聞き取りにくいがな」
ルナが続ける。
……そこは言わなくても。
俺が身体を揺らすと、彼女が笑った。
「ふふっ。だが、確かに我の名だった」
「…………」
俺はもう1度、身体の内部へ意識を向けた。
さっきの形。
空気の量。
膜の振動。
……覚えている。
もう1度だけなら、できるかもしれない。
「……る……」
今度は、最初の音が少し弱かった。
俺は慎重に通路を変える。
「……な」
……言えた。
さっきより、少しだけ続けて。
だが、その直後。
……ぷすっ。
内部の構造が崩れ、空気が抜けた。
「……っ!」
俺は思わず身体を縮めた。
……ああ。
もう駄目だ。
さっきより、明らかに疲れている。
触手を作る反応まで鈍くなってきた。
「……そこまでだ」
ルナが静かに言った。
「今日の練習は終わりにせよ」
……はい。
俺は素直に肯定した。
さすがに、もう無理はできない。
ルナは少しだけ身体を寄せてきた。
「……しかし」
……ん?
俺は触手を向ける。
すると、彼女は穏やかな声で続けた。
「貴様の声は、思っていたよりずっと柔らかいのだな」
「…………」
俺は動きを止めた。
……そうなのか?
自分では、正直よく分からない。
俺の感覚では、無理やり空気を擦り合わせたような、頼りない音でしかなかった。
だが。
ルナには、そう聞こえたらしい。
「……ふふっ」
彼女が小さく笑った。
「明日も聞かせてくれ。今度は、もう少し上手に呼んでみせよ」
……任せろ。
俺は大きく肯定した。
……いや。
本当に上手にできるかは、まだ分からないけど。
⸻
夜。
俺は干し草の上で身体を小さくまとめていた。
小屋の外では、見張りの足音が聞こえる。
軒下では白い狐が眠っているらしい。
ルナも、ようやく呼吸が落ち着いてきた。
俺は身体の内部へ、そっと意識を向けた。
今日作った、小さな発声の仕組み。
それを思い出す。
もちろん、今すぐ練習を再開するつもりはない。
ただ、忘れないようにしたかった。
今の俺にできるのは、せいぜい短い音を作ることだけだ。
『ルナ』も、まだ毎回きちんと言えるわけではない。
長い文章なんて、とても無理だろう。
それに、発声しながら身体を動かすことも、まだ難しい。
何かを喋ろうとすれば、その分だけ《構造形成》へ集中する必要がある。
……でも。
それでも。
今日、俺は初めて自分の声で誰かを呼んだ。
たった2音。
人間だった頃なら、何も考えずに口にしていた言葉だ。
それを言うために、こんなに苦労するとは思わなかった。
俺は隣へ触手を伸ばした。
柔らかな毛へ、そっと触れる。
すると、眠っていたはずのルナが小さく動いた。
「……どうした、ノア?」
……いや。
何でもない。
俺は触手を引っ込めようとした。
だが、その前に。
「……我はここだぞ」
ルナが静かに言った。
「…………」
俺は動きを止めた。
……ああ。
知ってるよ。
もう、呼ばなくても分かる。
ルナは隣にいる。
それでも。
自分の声で、その名前を呼べたことが嬉しかった。
俺はもう1度、彼女の前脚へそっと触れた。
今はまだ、話せることなんてほとんどない。
けれど、いつか。
今日のことを、ちゃんと言葉で伝えたい。
そして、そのときは。
きっと、ルナに言われるのだろう。
『貴様、随分と喋るようになったな』
……ありそうだな。
俺は身体を小さく揺らした。
すると、ルナが不思議そうに声を漏らした。
「……何を笑っておる?」
……内緒。
今は、まだ言えない。
俺は柔らかな尻尾へ身体を寄せ、ゆっくりと意識を休ませた。
たった2音を作るのに、随分と遠回りをした。
だが、その2音は確かにルナへ届いた。
そして、初めて呼ばれた彼女は。
俺が思っていたよりも、ずっと嬉しそうだった。
【ノアのステータス・第2部第22話終了時点】
名前:ノア
種族:原初種
レベル:未確認
変異段階:第1段階
変異形態:万能適応型
HP:未確認
MP:未確認
魔力器官:未成熟
■ 種族固有能力
《捕食》
《性質吸収》
■ 変異能力
《構造形成》
■ 獲得した性質
《微振動感知》
《粘着性》
《硬質外皮》
《微弱毒分泌》
《摩擦発音》
《弱酸耐性》
《明暗感知》
■ 身体特性
・不定形の流動体
・中枢核形成済み
・身体の一部を硬質化可能
・獲得した性質を組み合わせた構造形成が可能
■ 現在の状態
視覚:未獲得(明暗のみ感知可能)
聴覚:振動感知による簡易的な音の認識
発声:短い単語の発声に初成功【進展】
魔法:未習得
身体:回復途中
■ 発声能力の進展
既存の《摩擦発音》と《構造形成》を組み合わせ、一時的な発声構造を形成。
初めて「ルナ」という名前を、不安定ながら相手に聞き取れる形で発声した。
現段階では、発声の再現性は低く、連続した会話は不可能。発声構造の維持と音の切り替えには集中力と身体的な負担が必要。
新能力の獲得・変異ではなく、既存能力の応用による技術的成長。
――――――――――
【作者あとがき】
第2部第22話までお読みいただき、ありがとうございます!
今回は、ノアが初めて自分の声でルナの名前を呼ぶことができました。
まだ普通に会話できるわけではありませんが、これまで文字や触手でしか意思を伝えられなかったノアにとって、大きな変化です。




