檻の内側
第2部 第17話 檻の内側
「……檻が見つかった?」
小屋を訪ねてきたハルドの声に、俺は身体を持ち上げた。
昨日、荷車から見つかった地図には、俺たちが暮らす炭焼き小屋と、北の古い作業場、そして岩山の南側に印がつけられていた。
その中で、まだ行方の分からないものがある。
荷車に積まれていたという、大きな鉄製の檻だ。
「北の作業場から少し下った沢で見つけた。倒木の陰に隠されていたそうだ」
「……中身は?」
ルナが尋ねる。
「空だった」
ハルドは短く答えた。
「だが、それだけじゃない。檻がひどく傷んでいる」
……傷んでいる?
俺は触手を少し伸ばした。
「壊されたのか?」
「そう見える。ただ、妙なのは壊れ方だ」
ハルドはそこで言葉を切った。
「鉄格子の一部が、外側へ大きく曲がっていた」
小屋の中が静かになった。
……外側へ?
俺はその意味を考えた。
鉄格子が外へ曲がっている。
ということは。
「……内側から壊されたのか?」
ルナが低く呟いた。
「可能性はある」
ハルドの声は慎重だった。
「ただし、外から道具を差し込んで曲げた可能性もある。現物を調べないうちは断定できん」
……なるほど。
檻の中に何かいたのか。
それとも、人間が意図的に壊したのか。
どちらにしても気になる話だった。
「それで、ノアにまた頼みたいことがある」
ハルドがこちらへ声を向けた。
「檻の傷み方を調べるのに、お前の感覚が役立つかもしれん」
俺は少し考えた。
荷車の床下にあった隠し場所は、木材を叩いたときの振動の違いで見つけられた。
だが、今度は鉄の檻だ。
木材と金属では、振動の伝わり方が違う。
何か分かるかどうかは、実際に触れてみないと判断できない。
それに、俺の身体では細かな傷を見分けられない。
「……まあ、試すだけなら」
俺は触手を持ち上げた。
「ノア」
すぐにルナが声をかけてくる。
「危険はないのだろうな?」
「檻はもう村の外れに運んである。中に生き物はいないことも確認した」
ハルドが答えた。
「ただ、薬品が使われていた可能性はある。マルタに調べてもらってから触れてもらうつもりだ」
「……ならば、よい」
ルナは少し考え込んだあと、静かに続けた。
「我も、その檻を見ておきたいところだが……」
言い終わる前に、右後ろ脚がわずかに動いた。
干し草が擦れる。
「……っ」
短い息が漏れた。
俺はすぐに彼女の方へ触手を伸ばした。
……無理するなよ。
ルナはしばらく黙ったあと、小さく鼻を鳴らした。
「分かっておる。そんなに心配するでない」
……いや。
それ、こっちの台詞だからな。
俺が身体を揺らすと、ハルドが小さく笑った。
「ルナはここで休んでいてくれ。何か分かれば必ず伝える」
「……頼む」
こうして、俺は再び調査へ協力することになった。
⸻
鉄の檻は、炭焼き小屋から少し離れた街道脇に置かれていた。
以前、荷車を調べた場所と同じ辺りだ。
今回はハルドのほかに、マルタとセインも来ている。
「いいかい、ノア」
マルタが声をかけた。
「表面には薬品の跡が残っているかもしれない。私が調べた部分以外には、勝手に触れないこと」
俺は肯定した。
「……それと、妙なものを見つけても食べるんじゃないよ」
……そこまで言われる?
俺は少し身体を縮めた。
すると、セインが吹き出した。
「ははっ! 確かに、こいつならやりかねないな」
……失礼な。
俺だって、得体の知れないものを何でも食べるわけじゃない。
……たぶん。
「まったく、2人とも」
マルタが呆れたように息を吐いた。
「こっちは真面目な話をしてるんだよ」
「悪い悪い」
セインはまだ少し笑っていたが、すぐに真面目な声へ戻った。
「それで、どこから調べる?」
「まずは扉の辺りだな」
ハルドが答える。
俺は2人の足音を頼りに移動した。
やがて、触手の先端が冷たいものへ触れる。
……こつ。
鉄だ。
木材とはまったく違う、硬い感触。
俺は短い触手を形成し、表面を軽く叩いた。
……きん。
振動が金属を伝わり、少し離れた場所から戻ってくる。
「……おお」
なるほど。
木よりも、ずっとはっきり振動が伝わる。
ただし、その分だけ複数の棒を通った振動が重なりやすい。
どこで何が起きているのか、かえって分かりにくい部分もあった。
「……慣れが必要だな」
俺は身体を少し広げた。
すると、ハルドが言った。
「扉の留め具は右側だ。その周辺に、細かな傷が残っている」
俺は慎重に触手を伸ばす。
金属の枠。
細い棒。
そして、少し厚くなっている部分。
……ここか。
マルタが確認してくれた範囲だけを、ゆっくりとなぞった。
すると、金属の表面に不規則な凹凸があることに気づいた。
「……ん?」
俺は触手を止めた。
傷だ。
しかも、何本も重なっている。
「どうした?」
ハルドが尋ねる。
俺は傷のある場所を軽く叩いた。
「そこが気になるのか?」
肯定する。
「……なるほど」
ハルドが近づいてきた。
「確かに傷が集中しているな。何か硬いもので引っかいたようにも見える」
……引っかいた。
俺はもう1度、傷の感触を確かめた。
細い溝が、金属の表面へ刻まれている。
人間が使う工具で作ったものか。
それとも、爪のようなものか。
俺には判断できなかった。
「……ただの傷じゃないのか?」
セインが尋ねる。
「そこまでは分からん」
ハルドは正直に答えた。
「だが、少なくとも扉の内側にも傷がある」
……内側。
俺は身体を止めた。
それは、少し気になる。
もし誰かが外から檻を壊したなら、内側の留め具にまで傷が残るものだろうか。
もちろん、道具を差し込んだ可能性はある。
それでも。
「……中に何かいたのかもしれないな」
俺はそんなことを考えた。
⸻
調査は、さらに続いた。
今度は曲がっている鉄格子だ。
「ここだ。中央の棒が2本、外側へ反っている」
ハルドが説明してくれる。
俺はその場所へ触手を伸ばした。
……こつ。
鉄の棒。
その途中に、明らかな曲がりがある。
俺は根元から先まで、ゆっくりとなぞった。
……なるほど。
途中で強い力が加わったように、棒が弓なりになっている。
しかも、2本とも似たような位置で曲がっていた。
「……相当な力だな」
俺は身体を少し縮めた。
俺の《硬質外皮》でも、こんな太い鉄を曲げられる気はしない。
もちろん、硬質化した部分を強くすれば、いつかはできるようになるかもしれない。
だが、今の俺には到底無理だ。
「どうだ、ノア?」
ハルドが尋ねる。
俺は少し迷った。
何か分かったかと言われれば、確かに曲がっている。
だが、それだけだ。
どうやって曲げられたのかまでは分からない。
俺は触手を左右へ振った。
「……判断できないか」
ハルドが言った。
俺は肯定する。
「構わん。無理に答えなくていい」
……助かる。
俺は触手を下ろした。
分からないことを、分かったふりするわけにはいかない。
それが原因で判断を誤れば、危険なのは俺だけではないのだから。
「ただ……」
ハルドが静かに続けた。
「この檻には、何かを入れていた可能性が高いと思う」
……やっぱり。
「内側の傷に、曲がった鉄格子。どちらも中のものが暴れた結果だと考えれば説明はつく」
「だが、何が入ってたんだ?」
セインが尋ねる。
「……そこが問題だ」
ハルドは少し間を置いた。
「檻の大きさからすれば、狼ほどの魔物でも入れられそうだ。だが、鉄格子を曲げられるほどの力があるなら、普通の獣ではないだろうな」
……狼。
俺は少し考えた。
この世界の狼がどれほど強いのかは知らない。
洞窟では甲殻虫や大百足と遭遇したが、外の森にはまだ知らない魔物がいるはずだ。
もし、そんなものが村の近くで逃げ出したのだとしたら。
「……かなり危ないんじゃないか?」
俺は身体を強張らせた。
すると、マルタが口を開いた。
「ハルド。中にいたものが外へ逃げたのか、それとも人間が出したのかは、まだ分からないんだろう?」
「……ああ」
「なら、まずはそこを確かめるべきじゃないかい?」
……確かに。
俺はゆっくり肯定した。
檻が壊れているからといって、必ずしも魔物が逃げ出したとは限らない。
運搬の途中で壊れたのかもしれない。
誰かが道具で曲げたのかもしれない。
あるいは、中にいたものを取り出したあとで、意図的に壊した可能性もある。
「……そうだな」
ハルドは静かに答えた。
「もう1度、ニールへ話を聞いてみる」
……ニール。
捕まった男だ。
確か、荷運びの仕事を引き受けただけだと言っていた。
だが、雇い主については口を閉ざしているらしい。
もし檻に何が入っていたのか知っているなら、そこから何か分かるかもしれない。
「……頼む」
俺は触手を持ち上げた。
すると、ハルドが少し笑った。
「任せておけ。お前らをまた危険な目に遭わせるつもりはない」
……心強いな。
俺は身体を小さく揺らした。
⸻
調査が終わると、ハルドたちは檻を布で覆い、警備隊の管理する場所へ運ぶ準備を始めた。
俺は少し離れたところで、それを聞いていた。
……がたん。
……ぎしっ。
金属が木へぶつかる音。
荷台へ何かを載せる振動。
そして、何人もの足音。
どうやら、檻はかなり重いらしい。
「……せーの!」
……ごとっ!
大きな振動が地面へ伝わってきた。
「……ふぅ」
セインが息を吐く。
「こんな重いもの、よく運んだもんだな」
「荷車に積んでいたんだろうが、沢へ隠すときは相当苦労したはずだ」
ハルドが答える。
「……そうだな」
俺はその言葉へ反応した。
確かに。
大きな鉄の檻を、人目につかない場所へ運ぶ。
それも、沢の倒木の陰まで。
かなりの手間がかかるはずだ。
「……どうして、そんなことを?」
俺は身体を少し縮めた。
逃げるためなら、荷車ごと捨てればいい。
わざわざ檻だけを移動させ、隠す必要があったのだろうか。
もちろん、証拠を隠すためという可能性はある。
だが。
それなら、壊れた檻を残していくのは少し妙だ。
……いや。
考えすぎかもしれない。
俺は触手を下ろした。
今のところ、判断できるほど情報は揃っていない。
「ノア」
セインが声をかけてきた。
「そろそろ戻るか?」
俺は肯定した。
ルナも待っている。
今日は十分に働いた。
それに、まだ身体の消耗も残っている。
「……そうだな」
俺は身体を小さくまとめた。
そのとき。
「……待て」
ハルドが低い声で言った。
俺は動きを止めた。
「……どうした?」
セインが尋ねる。
「檻の底に、何か落ちている」
……え?
俺は身体を持ち上げた。
檻の底?
さっきは何も言っていなかったはずだ。
「……布の切れ端か?」
ハルドが何かを持ち上げる音がした。
……かさっ。
「いや……違うな」
少しの沈黙。
そして。
「……これは、毛か?」
……毛?
俺は触手を止めた。
「白い毛が、何本か絡まっている」
「……白?」
セインが聞き返す。
「ああ。ただし、ルナのものかどうかは分からん」
……なるほど。
俺は身体を小さく縮めた。
ルナの毛は、白銀だと聞いている。
だが、白い毛を持つ魔物なんて、ほかにもいるだろう。
これだけで、ルナと関係があるとは言えない。
「……でも」
俺は心の中で呟いた。
あの男たちは、ルナを捕まえようとしていた。
そのための檻だと思っていた。
だが。
もし、この檻に別の魔物が入っていたのだとしたら。
話は、少し違ってくる。
「……持ち帰って、ルナに確認してもらおう」
ハルドが言った。
俺は大きく肯定した。
⸻
「……白い毛?」
小屋へ戻ると、ルナが少し驚いたように聞き返した。
ハルドは布に包んだ毛を取り出し、彼女の近くへ差し出したらしい。
「直接触らなくていい。見覚えがあるかだけ確かめてくれ」
「……ふむ」
少しの沈黙。
俺はルナの呼吸へ意識を向けた。
すると。
「……これは」
彼女の声が変わった。
……ん?
俺は身体を持ち上げた。
「何か分かるか?」
ハルドが尋ねる。
「……我の毛ではない」
ルナは静かに答えた。
……おお。
やっぱり違うのか。
「ただし、似たような毛並みを持つ魔獣は知っておる」
「……ほう?」
「白毛の山狐だ。岩山の周辺に棲むことがある」
……山狐。
俺は少し考えた。
ルナも狐のような姿をしている。
ならば、似たような魔物がいてもおかしくない。
だが。
「……あれ?」
俺は身体を止めた。
岩山の周辺?
それって。
「……洞窟のある山か?」
俺は心の中で呟いた。
「……ただし」
ルナはすぐに続けた。
「この毛だけで山狐と断定はできぬ。似た毛を持つ獣は、ほかにもいるからな」
……なるほど。
そこは慎重なんだな。
「だが、もし本当に山狐だったとしたら……」
ルナの声が、少し低くなる。
「奴らは我だけでなく、岩山の魔獣も捕まえていたことになる」
「……そういうことだ」
ハルドが答えた。
「地図に岩山の印があった理由も、少しは説明できるかもしれん」
……なるほど。
俺はゆっくり肯定した。
商人たちは、魔獣を捕まえて売るつもりだった。
そのために、岩山で何かを捕獲した。
だが、檻が壊れた。
そこで、別の珍しい魔獣であるルナに目をつけた。
……そう考えれば、筋は通る。
ただ。
「……そんなに簡単かな」
俺は少し引っかかった。
ルナを狙っていた理由が、単なる金儲けだけとは限らない。
それに、檻の中にいた魔物が何だったのかも、まだ分かっていない。
「……まあ、今はここまでか」
俺は身体を小さくまとめた。
すると、ハルドが静かに言った。
「明日、もう1度ニールに話を聞く。檻の中身について知っているなら、話してもらわねばならん」
「……頼む」
ルナが答えた。
俺も触手を持ち上げた。
⸻
ハルドが帰ったあと、俺は小屋の床へ身体を広げた。
今日は少し疲れた。
金属の振動を調べるのは、思ったより難しかった。
木と違って、振動があちこちへ広がりやすい。
しかも、檻の構造が複雑なため、どこから戻ってきた振動なのか判断しにくい。
「……練習が必要だな」
俺は短い触手を作り、床を軽く叩いた。
……こつ。
木の板なら、かなり分かるようになってきた。
だが、金属はまだ難しい。
それに、振動で分かるのは物の形や空間の違いの一部だけだ。
傷の原因や、そこにいた生き物の種類までは分からない。
……当たり前か。
俺は身体を小さくまとめた。
すると、ルナが声をかけてきた。
「ノア」
俺は触手を持ち上げた。
「今日は、少し考えすぎておるようだな」
……そうかな。
「……ふふっ。分かるぞ」
ルナは小さく笑った。
「貴様は何か気になることがあると、すぐ身体の動きが止まるからな」
……そういうものなのか。
俺は少しだけ身体を揺らした。
すると、ルナが静かに続けた。
「檻のことが気になるのだろう?」
俺は肯定した。
「……我もだ」
少しの沈黙。
そして。
「もし、あの檻に別の魔獣が入っていたのなら、今どこにいるのだろうな」
「…………」
俺は動きを止めた。
……確かに。
檻が空だった。
それは、中にいたものが逃げたという意味かもしれない。
だが。
逃げたのなら、どこへ行ったのだろう。
まだ岩山にいるのか。
森の中へ逃げ込んだのか。
それとも。
どこか別の場所へ運ばれたのか。
……分からない。
俺は触手を小さく揺らした。
すると、ルナが静かに言った。
「……ノア」
俺は触手を向けた。
「もし、その魔獣がまだ近くにいるとしたら、どうする?」
……どうする、か。
俺は少し考えた。
危険な魔物なら、近づかない方がいい。
怪我をしているなら、助けられるかもしれない。
だが、相手がどんな生き物なのか分からない以上、簡単に決めることはできない。
「……まず、確かめるしかないな」
俺はゆっくり触手を持ち上げた。
ルナは少し黙ったあと、小さく笑った。
「……そうだな」
そして。
「相手を知らぬまま、敵とも味方とも決めつけるべきではない」
……うん。
俺も、そう思う。
「……ただし」
ルナの声が少し強くなる。
「貴様が勝手に探しに行くのは、絶対に許さぬぞ」
……分かってますって。
俺は触手を左右へ振った。
すると、ルナが楽しそうに笑った。
「……ふふっ。ならばよい」
⸻
夜になると、小屋の外には再び見張りの足音が聞こえ始めた。
警備隊は、逃げた男だけでなく、檻から出たかもしれない魔物についても警戒しているらしい。
俺は干し草の上へ身体を広げ、静かに感知範囲を狭めた。
隣にはルナがいる。
右後ろ脚の怪我は、まだ治っていない。
だが、マルタの薬が効いているのか、以前よりも呼吸は落ち着いている。
……よかった。
俺はそっと触手を伸ばし、柔らかな毛へ触れた。
すると、ルナが小さく笑った。
「……何だ、ノア」
俺はそのまま、少しだけ身体を寄せた。
「……ふふっ」
ルナは何も言わず、尻尾を俺の方へ寄せてくれた。
俺は身体を小さくまとめた。
……さて。
今日は、思っていた以上に収穫があった。
檻が見つかった。
内側には傷があり、鉄格子は外側へ曲がっていた。
そして、白い毛が残っていた。
まだ何も確定していない。
だが、少なくとも。
俺たちを狙っていた商人たちは、ルナ以外の魔獣にも関わっていた可能性がある。
……気になるな。
俺は静かに考えた。
もし、あの檻から何かが逃げ出したのだとしたら。
その魔物は今、どこで何をしているのだろう。
そして。
どうして、あの商人たちは岩山へ向かっていたのか。
疑問は増えるばかりだった。
だが、焦る必要はない。
今はハルドたちが調べてくれている。
俺たちは、ルナの怪我が治るまでここで休む。
その間に、少しずつ情報を集めればいい。
……そう思っていた。
そのときだった。
……ざっ。
小屋の外から、足音が伝わってきた。
俺は身体を止めた。
見張りの足音ではない。
歩幅が小さく、少し不規則。
……ざっ。
……ざざっ。
何かが、街道の脇を移動している。
「……ん?」
俺は《微振動感知》へ意識を集中させた。
だが、相手はまだ少し遠い。
詳しい形までは分からない。
それに、地面を伝わる振動も弱い。
……小さな生き物か?
俺は身体を少し持ち上げた。
すると、隣からルナの声がした。
「……ノア?」
俺は触手を向けた。
「何かいるのか?」
肯定する。
ルナは少しだけ身体を動かした。
干し草が擦れる。
そして。
「……ふむ」
静かな声が続いた。
「我にも、何かの気配が分かる」
……お?
俺は身体を止めた。
「……これは」
ルナの声が、少し低くなった。
「……獣の匂いだ」
……獣?
俺は触手を持ち上げた。
すると、ルナが静かに続けた。
「しかも……」
そこで言葉が止まった。
「……どこかで嗅いだことがある」
「…………」
俺は動きを止めた。
外の足音は、少しずつ近づいてくる。
……ざっ。
……ざざっ。
そして。
……ぺたり。
何かが、地面へ倒れ込むような振動が伝わった。
俺は身体を強張らせた。
……何だ?
今、何が起きた?
すると、ルナが低い声で言った。
「……ノア」
俺は触手を向けた。
「警備隊を呼んでくれ」
「…………」
俺はすぐに入口へ移動した。
床に置いてある呼び鈴へ触手を伸ばす。
……ちりん。
少し間を置く。
……ちりん。
そして、3回目。
……ちりん。
合図を鳴らしたあと、俺は小屋の外へ意識を向けた。
倒れ込んだような振動があった場所からは、もうほとんど動きが伝わってこない。
ただ、弱い呼吸のようなものが、時折地面を震わせている。
……生きてる。
少なくとも、まだ。
「……何者だろう」
俺は静かに考えた。
それは、ただの野生動物かもしれない。
だが。
もし、あの檻から逃げ出した魔物だったとしたら。
……どうする?
俺は身体を小さくまとめた。
すぐに外へ飛び出すわけにはいかない。
相手が何者なのか、まだ分からないのだから。
そのとき。
「……ノア」
ルナが静かに言った。
「無理をするな。まずはハルドを待つのだ」
俺は肯定した。
……そうだな。
外では、見張りの足音が速くなっている。
どうやら、鈴の音に気づいたらしい。
「どうした!」
ハルドの声が響いた。
俺は触手を持ち上げ、外の気配がある方角を指した。
すると、ハルドがすぐに反応した。
「……何かいるのか?」
肯定する。
「分かった。確認する」
足音が遠ざかる。
……ざっ。
……ざざっ。
そして。
「……おい」
ハルドの声が、少し離れた場所から聞こえた。
「……これは」
短い沈黙。
続いて。
「……白い狐だ」
「…………」
俺は動きを止めた。
白い狐。
ルナが話していた、岩山の山狐かもしれない。
そして、檻の中に残っていた白い毛。
……まさか。
「……ルナ」
俺は触手を向けた。
すると、彼女は静かに答えた。
「……ああ」
その声は、いつもより少しだけ真面目だった。
「どうやら、確かめねばならぬことが増えたようだな」
小屋の外では、ハルドがほかの隊員を呼んでいる。
俺は入口の方へ身体を向けたまま、じっと耳代わりの感知膜を広げていた。
その先にいるのが、何者なのか。
まだ、何も分からない。
ただ。
今夜は、少しだけ違う。
俺たちのところへ、何かが自分から辿り着いた。
それだけは、確かだった。




