首輪の痕
第2部 第18話 首輪の痕
「……生きてる。だが、かなり弱っているな」
小屋の外から、ハルドの声が聞こえた。
俺は扉のすぐ内側で身体を低く広げ、外の気配を探っていた。
街道脇に倒れているという、白い狐。
その周囲では、警備隊員が慎重に動いている。
時折、細かな振動が地面を伝わってきた。
……かさっ。
……ずる。
何かが動こうとして、うまく動けずにいる。
そんな、不規則な振動だった。
「ハルド。どのような様子だ?」
干し草の上から、ルナが尋ねた。
「小柄な狐だ。白い毛をしているが、随分と汚れている。脚にも傷があるな」
「……首は?」
ルナの問いに、ハルドが一瞬黙った。
「どうして分かった?」
「先ほどから、鉄の擦れる音がする」
……鉄?
俺も意識を集中させた。
確かに、獣が身動きするたび、硬いもの同士が触れる微かな音が混じっている。
「……首輪だ」
ハルドが答えた。
「細い鉄の輪がはまっている。しかも、かなりきつそうだ」
小屋の中が静かになった。
俺は昨日調べた檻を思い出していた。
内側に残された傷。
外へ曲がった鉄格子。
そして、絡まっていた白い毛。
……まさか。
「無理に触れるなよ」
ルナが声を強めた。
「捕らえられていた獣なら、人間を恐れておる可能性がある」
「分かっている」
ハルドは落ち着いて答えた。
「今、マルタを呼びに行かせた。それまでは、余計な刺激を与えない方がいいだろう」
俺は少しだけ安心した。
だが、次の瞬間。
……がしゃっ!
突然、金属が鳴った。
続いて、獣の苦しそうな鳴き声。
「……キィッ!」
俺は反射的に身体を持ち上げた。
「おっと、暴れるな!」
ハルドの足音が後ろへ下がる。
「隊長、噛まれましたか?」
「いや、大丈夫だ。触ろうとしたわけじゃない。灯りを近づけたら急に暴れた」
……灯り?
俺は身体を止めた。
《明暗感知》へ意識を向ける。
窓の隙間から届いている微かな明るさとは別に、扉の下の隙間から強い刺激が伝わっていた。
恐らく、ハルドたちが持っている灯りだろう。
「……そうか」
俺は考えた。
相手は、捕らえられていたかもしれない魔獣。
怪我をしている。
人間に囲まれている。
そこへ突然、明るい灯りを向けられたら。
……そりゃ怖いよな。
もちろん、狐が何に怯えたのかは分からない。
だが、試してみる価値はありそうだった。
俺は扉の下へ触手を伸ばし、床を叩いた。
……コツ、コツ!
「……ノア?」
ルナが反応した。
俺は外の灯りへ触手を向け、それから大きく左右へ振る。
「……灯りが気になるのか?」
肯定する。
「……ふむ」
ルナは少し考えた。
そして、外へ声をかける。
「ハルド。試しに、灯りを少し離してみてくれぬか?」
「ああ。分かった」
地面を歩く足音。
続いて、《明暗感知》が拾っていた刺激が弱くなった。
すると。
……かさ。
獣が小さく動いた。
だが、さっきのように暴れる様子はない。
「……落ち着いたな」
ハルドが呟く。
「灯りが嫌だったのか?」
「そうかもしれぬ」
ルナが答えた。
「だが、決めつけるな。今は静かにしておくのがよかろう」
……そうだな。
俺はゆっくり身体を戻した。
小さなことでも、役に立てたならよかった。
⸻
マルタが到着したのは、それから少し経ってからだった。
急いで来たらしく、いつもより足音が速い。
「怪我をした魔獣がいるって?」
「ああ。こっちだ」
ハルドが案内する。
しばらくして、布を広げる音が聞こえた。
「……なるほどね」
マルタの声が低くなる。
「随分とひどい扱いを受けたようだ」
「助けられそうか?」
「診てみないことには分からないよ。ただ、ここで寝かせておくわけにもいかないね」
俺は外の気配へ意識を集中させた。
ハルドとマルタが、小さな声で相談している。
途中で、獣が警戒するように鳴いた。
……キィッ。
だが、無理に押さえつける音はしなかった。
「……よし」
マルタが穏やかに声をかける。
「大丈夫だよ。痛いことはしないからね」
人間の言葉が通じるとは限らない。
それでも、声の調子は伝わるのかもしれない。
しばらくすると、獣の動きが少し落ち着いた。
「ハルド。布で身体を支えておくれ。首輪には触らないように」
「分かった」
……かさっ。
布が擦れる。
その上へ、軽いものが載せられた振動が伝わった。
「……持ち上げるぞ」
ハルドが言う。
「頼むよ」
……よいしょ。
足音が動き始めた。
俺は身体を持ち上げた。
……小屋へ連れてくるのか?
だが、マルタは入口の手前で足を止めた。
「ルナ。悪いけど、しばらく外で診察させてもらうよ」
「……構わぬ」
「この子が何を持っているか、まだ分からないからね。傷や病気の状態を確認するまでは、一緒に寝かせない方がいい」
……なるほど。
俺は感心した。
確かに、知らない魔獣をいきなり小屋へ入れるのは危険だ。
相手が弱っているからといって、何も考えずに近づくべきではない。
「ただ、このまま冷たい地面へ寝かせるのもよくないね」
マルタが続けた。
「ボルクから借りた古い作業台が、軒下にあっただろう? あそこへ布を敷こう」
「分かった。運ぶのは任せてくれ」
ハルドが答える。
やがて、小屋の壁際で木材の動く音がした。
その上へ布を敷き、白い狐を移したらしい。
俺は扉の下から、慎重に触手を伸ばした。
……どうなってるんだろう。
見えない。
だが、弱々しい呼吸の音は聞こえる。
「……ノア」
ルナが静かに声をかけてきた。
「気になるのか?」
俺は肯定した。
「ならば、少しだけ様子を教えてやろう」
……おお。
助かる。
ルナは外の方へ耳を向けたらしい。
「小さな狐だ。我より随分と小柄で、毛は白い。ただ、背中から脚にかけて泥がついておる」
……なるほど。
「それから、右の前脚を傷めておるようだな。あまり動かせておらぬ」
……右前脚。
ルナとは反対側だ。
「そして、首輪か……」
ルナの声が少し低くなる。
「随分ときつく締められておる。あれでは、息をするのも苦しかろう」
俺は身体を縮めた。
首輪。
捕まえるための道具。
また、その話か。
……嫌な感じだな。
⸻
「……これを外したいところだけど」
マルタが小さく呟いた。
「留め具が錆びついているね」
「切るか?」
ハルドが尋ねる。
「そうしたいけど、首のすぐ近くだ。刃物を使うなら慎重にやらないと」
獣が、小さく鳴いた。
……クゥ。
俺はその音へ意識を向けた。
苦しそうだ。
何とかしてやりたい。
だが、俺が近づけば余計に怖がらせてしまうかもしれない。
それに、鉄の首輪を壊せるほどの力もない。
「……何かできないかな」
俺は小屋の壁へ触手を押しつけた。
すると、ひとつ思いついた。
俺には、《構造形成》がある。
身体を細く伸ばし、柔らかな形にもできる。
鉄を切ることはできなくても。
……何かの間へ入り込むことくらいなら。
俺は扉の下から触手を伸ばした。
ただし、獣には近づけない。
まず、マルタのいる方向へ小さく床を叩く。
……コツ、コツ。
「……ん?」
マルタが反応した。
「ノアかい?」
俺は触手を持ち上げた。
続いて、首輪のある方向を指す。
「……手伝いたいのかい?」
肯定する。
マルタは少し考えた。
「何ができる?」
……それが難しい。
俺は触手を細く伸ばして見せた。
先端をさらに細くし、柔らかな輪の形に変える。
「……おや」
マルタが声を上げた。
「随分と細くできるんだね」
俺は肯定した。
そして、その輪を自分の別の触手へ通してみせる。
「……ああ」
マルタが理解したらしい。
「首輪と首の間へ何かを入れたいのかい?」
……そう!
俺は大きく肯定した。
首輪を外すとき、金属が直接首へ当たらないようにしたい。
それなら、柔らかな俺の身体で少しは役に立てるかもしれない。
だが、マルタはすぐに頷かなかった。
「……考えは悪くないね」
少し間があった。
「ただ、相手が怖がって暴れたら危険だ。無理にやるのはよそう」
……あ。
確かに。
俺は触手を縮めた。
すると、マルタが穏やかに続けた。
「まずは、この子が落ち着くのを待とう。そのうえで、必要なら手を貸してもらうよ」
……了解。
俺は素直に引き下がった。
助けるための行動が、逆に相手を傷つけてしまっては意味がない。
今は、待つしかなさそうだ。
⸻
診察は、思っていたより長く続いた。
マルタは狐へ少しずつ水を与え、傷の状態を調べていた。
どうやら、かなり衰弱しているらしい。
「……ひどい脱水だね」
マルタが言った。
「それに、身体へ何か薬が残っている可能性もある。反応が鈍い」
「……薬?」
ハルドが尋ねる。
「ああ。ただし、何を使われたかまでは分からないよ。荷車で見つかった薬品と同じものかどうかも、まだ判断できない」
……なるほど。
俺は静かに聞いていた。
捕まえた魔物を大人しくさせるために、薬を使った可能性はある。
だが、今の段階では推測でしかない。
「まずは首輪を外そう」
マルタが続けた。
「このままじゃ、十分に水も飲めない」
「分かった」
ハルドが道具を準備する音がした。
金属が擦れる。
……かちゃ。
それに反応して、狐が小さく鳴いた。
……キィッ。
「……大丈夫だ」
ハルドが低い声で言った。
「今は何もしない。落ち着いてくれ」
しばらく、誰も動かなかった。
風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
やがて、狐の呼吸が少し落ち着いてきた。
「……今なら」
マルタが静かに言った。
「ノア。さっきの細い触手、使えるかい?」
……おお。
俺の出番か。
俺は慎重に身体を伸ばした。
もちろん、いきなり首輪へ触れるつもりはない。
まず、狐の近くへ柔らかな触手を差し出した。
……くん。
小さな息遣いが伝わった。
狐が、こちらを確かめているらしい。
だが、逃げる様子はない。
俺は少しずつ触手を近づけた。
すると。
……ぺた。
柔らかな鼻先が、触手へ触れた。
「…………」
俺は動きを止めた。
……おお。
触ってきた。
それも、向こうから。
しばらく、そのまま待つ。
狐はもう1度だけ鼻先を寄せたあと、動かなくなった。
「……よし」
マルタが小さく呟いた。
「無理に押さえなくてもよさそうだね」
俺は首輪の位置を、慎重に確かめた。
冷たい鉄。
そのすぐ内側に、柔らかな毛。
確かに、ほとんど隙間がない。
……きついな。
俺は《構造形成》で触手の先端をさらに薄くした。
そして、首輪と毛の間へ、少しだけ差し込む。
……するっ。
「……入った」
俺は身体を止めた。
ただし、無理に広げない。
俺の力で首輪を押し広げられるわけではないし、相手の首を圧迫する危険もある。
あくまで、金属が直接触れるのを避けるための薄い保護だ。
「……そのままでいいよ」
マルタが言った。
「ハルド、お願い」
「……ああ」
工具が動く。
……かちゃ。
……ぎりっ。
首輪の留め具へ力が加わる。
俺の触手にも、硬い圧力が伝わった。
……ぐっ。
少し痛い。
だが、まだ耐えられる。
「……もう少しだ」
ハルドが呟いた。
……ぎりっ。
そして。
……ぱきん!
小さな金属音が響いた。
「……外れた!」
ハルドの声が上がる。
俺はすぐに触手を引き抜いた。
狐の首から、重いものが離れる振動が伝わってくる。
……ふぅ。
何とか、うまくいったらしい。
「……よくやったね、ノア」
マルタが静かに言った。
俺は身体を小さく揺らした。
……どういたしまして。
だが、それより。
俺は狐の方へ意識を向けた。
……すぅ。
……はぁ。
呼吸が、先ほどより少しだけ深くなっている。
苦しそうな音も減っていた。
「……よかった」
俺はようやく身体の力を抜いた。
⸻
「……これか」
ハルドが取り外した首輪を持ち上げた。
……ちゃり。
鉄の輪が触れ合う音がする。
「随分と頑丈なものだな」
「ただの獣へつける首輪にしては、大げさだね」
マルタが答える。
「……待て」
ハルドの声が変わった。
「ここに印がある」
……印?
俺は身体を持ち上げた。
「……欠けた輪か?」
小屋の中から、ルナの声が聞こえる。
「ああ」
ハルドが短く答えた。
「以前見つかった拘束具と同じ印だ」
……やっぱり。
俺は動きを止めた。
欠けた輪の印。
あの商人たちが使っていた道具に、何度も刻まれていたものだ。
それが、白い狐の首輪にもある。
偶然の可能性は、ますます低くなった。
「……だが、少し違うな」
ハルドが続ける。
「印の横に、小さな刻みがいくつもある」
「……刻み?」
「数を区別するためのものにも見える。何を表しているかは分からんが」
……なるほど。
個体を区別するための印なのだろうか。
あるいは、道具の種類を示しているのかもしれない。
「……組織的に捕まえている可能性があるな」
ハルドが低く呟いた。
俺は身体を縮めた。
もし、この首輪があの商人たちのものなら。
白い狐は、捕まえられて運ばれていた可能性が高い。
だが。
「……どうして逃げられたんだ?」
俺は少し考えた。
昨日見つかった檻には、外側へ曲がった鉄格子があった。
その中に、この狐が入っていたのだろうか。
もしそうなら。
この小さな身体で、あの鉄を曲げたということになる。
……本当に?
俺は狐へ意識を向けた。
弱々しい呼吸。
傷ついた前脚。
そして、衰弱した身体。
とても、太い鉄格子を曲げられるようには思えない。
もちろん、見た目や今の状態だけで力を判断することはできない。
魔物には、思いがけない能力があるのかもしれない。
だが、少なくとも疑問は残った。
「……ハルド」
俺は彼のいる方向へ触手を伸ばした。
そのまま、首輪の方を指す。
続いて、両側へ大きく広げる動きをした。
「……何だ?」
ハルドが不思議そうに尋ねる。
俺はもう1度、同じ動きを繰り返した。
すると、ルナが口を開いた。
「……檻を壊したのが、この狐なのか気になるのではないか?」
……そう!
俺は大きく肯定した。
「……なるほどな」
ハルドが少し考え込む。
「確かに、そこは疑問だ」
「我も、同じことを考えておった」
ルナが続けた。
「白毛の山狐は、身軽で素早い。だが、普通の個体が鉄格子を力任せに曲げられるとは思えぬ」
……へえ。
そうなのか。
「もちろん、個体によって能力に差はある。それに、何らかの魔術が使われた可能性もあるが……」
「……分からん、ということだな」
「ああ」
ルナは静かに答えた。
「今のところはな」
俺は身体を小さくまとめた。
……やっぱり、謎は残るか。
それでも、今日分かったことは大きい。
少なくとも、この白い狐は誰かに首輪をつけられ、自由を奪われていた。
その事実だけは、間違いなさそうだった。
⸻
狐の治療が一段落したのは、夜もかなり更けた頃だった。
マルタは首の傷を洗い、前脚へ薬を塗ってくれた。
水も少し飲めたらしい。
ただし、まだ衰弱が強いため、無理に食べ物を与えるのは避けた方がいいそうだ。
「今夜は、ここで休ませておこう」
マルタが言った。
「小屋の軒下なら雨も凌げるし、見張りも近くにいる」
「……村長の許可は?」
ハルドが尋ねる。
「今から連絡してもらうよ。明日になれば、今後どうするか相談できるだろう」
……なるほど。
俺は少し安心した。
ただし、この狐を村へ滞在させるかどうかは、まだ決まっていない。
そもそも、俺たちでさえ仮の滞在許可をもらっている身だ。
勝手に新しい魔獣を住まわせるわけにはいかない。
「……ノア」
ルナが声をかけてきた。
俺は触手を向けた。
「少し、こちらへ来い」
……ん?
俺は小屋へ戻った。
ルナの前脚へ触れると、彼女は静かに言った。
「……あの狐を、どう思う?」
……どう、か。
俺は少し考えた。
弱っている。
怪我をしている。
首輪をつけられていた。
そして、人間を怖がっているようだった。
……助けたいとは思う。
だが、何者なのかはまだ分からない。
「……無理に決めなくていいのだぞ」
ルナが続けた。
「貴様が気にしておるのは分かる。だが、あの狐は我らの仲間になったわけではない」
……そうだな。
俺はゆっくり肯定した。
「助けることと、一緒に暮らすことは別だ」
……うん。
そのとおりだと思う。
俺とルナは、偶然出会い、互いに助け合ってきた。
だから、一緒にいる。
だが、あの狐が何を望んでいるのかは分からない。
回復したら、森へ戻りたいのかもしれない。
あるいは、別の場所へ行きたいのかもしれない。
それを、俺たちが勝手に決めるべきではないだろう。
「……まずは、元気になってもらわないとな」
俺は心の中で呟いた。
ルナは小さく笑った。
「……そうだな」
そして、少しだけ声を落とした。
「檻の中にいた者なら、なおさら自由にしてやりたいものだ」
「…………」
俺は動きを止めた。
自由。
その言葉が、妙に重く感じられた。
ルナも、以前に捕まえられそうになったことがある。
檻へ入れられたわけではないが、他人に所有物として扱われかけた。
だからこそ、あの狐の姿に思うところがあるのかもしれない。
俺はそっと触手を伸ばした。
ルナの前脚へ触れる。
すると、柔らかな毛が軽く押し返してきた。
「……ふふっ」
ルナが小さく笑った。
「貴様は、本当に分かりやすいな」
……そうかな。
俺は身体を揺らした。
だが、今回は反論しなかった。
⸻
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
小屋の外には、見張りの足音がある。
さらに、その近くから。
……すぅ。
……はぁ。
弱い呼吸の音が伝わってくる。
白い狐だ。
首輪を外されたあと、少しずつ落ち着いてきたらしい。
俺は扉の近くまで移動した。
ただし、外へ出るつもりはない。
相手を刺激したくなかったし、見張りの邪魔にもなりたくなかった。
……それでも。
少し気になっていた。
狐は、どうしてここへ来たのだろう。
たまたま小屋の近くで力尽きただけなのか。
あるいは、何かを頼ろうとしていたのか。
……分からない。
俺は小さく息を吐くつもりで、身体を縮めた。
すると。
……かさっ。
軒下から、小さな振動が返ってきた。
「……ん?」
俺は動きを止めた。
狐が動いたらしい。
……こそ。
……ぺたり。
布の上で、身体の位置を変えている。
そして。
……くぅ。
小さな声が聞こえた。
俺はしばらく動かなかった。
すると、もう1度。
……くぅ。
さっきより少しだけ、はっきりした声だった。
「…………」
俺は触手を伸ばしかけた。
だが、途中で止める。
相手が何を伝えようとしているのかは分からない。
俺を呼んだのか。
ただ苦しくて鳴いただけなのか。
それすら判断できなかった。
……なら。
今は、そっとしておこう。
俺は扉から身体を離した。
そのとき、見張りの隊員が小さく声をかけた。
「……大丈夫だ。水はここに置いてあるからな」
……おお。
ちゃんと見てくれてるんだな。
俺は少し安心した。
そして、干し草の方へ戻る。
ルナは眠っているらしく、規則正しい呼吸が聞こえた。
俺はその隣へ身体を寄せた。
……明日になれば。
あの狐も、もう少し元気になっているかもしれない。
そう願いながら、ゆっくりと意識を休ませた。
⸻
翌朝。
小屋の外から、ハルドの声が聞こえた。
「……ノア。ルナ。起きているか?」
俺は身体を持ち上げた。
ルナも目を覚ましたらしい。
「……どうした?」
「少し、分かったことがある」
……お?
俺は扉の方へ身体を向けた。
「昨日、取り外した首輪を調べた。それから、檻に残っていた金具とも比べてみた」
「……それで?」
ルナが尋ねる。
ハルドは少し間を置いた。
「首輪についていた鎖の切れ端が、檻の床に残っていた鎖と繋がることが分かった」
「…………」
俺は動きを止めた。
……繋がる?
「切れた部分の形が一致していた。金属の太さも同じだ」
……ということは。
「……あの狐が、檻に入っていたのか?」
ルナが静かに尋ねる。
「ああ。少なくとも、あの檻に繋がれていた可能性は非常に高い」
……おお。
ついに、繋がった。
鉄の檻。
白い毛。
首輪。
そして、鎖。
これで、あの狐が商人たちに捕まっていたことは、ほぼ間違いなさそうだ。
「……ただし」
ハルドが続けた。
「まだ分からないことがある」
……ああ。
分かってる。
俺は身体を小さくまとめた。
あの檻の鉄格子を、誰が曲げたのか。
それに。
どうして、この狐は逃げられたのか。
「……捕まえたニールに、もう1度話を聞くつもりだ」
ハルドが言った。
「今度は、首輪も檻も揃っている。前より詳しく聞けるだろう」
「……頼む」
ルナが答えた。
俺も触手を持ち上げた。
すると、ハルドが少しだけ声を落とした。
「それから、もうひとつ」
……ん?
俺は身体を止めた。
「昨夜、逃げた男について新しい情報が入った」
……おお。
見つかったのか?
「まだ捕まってはいない。だが、古い作業場の近くで、人が通った痕跡が見つかった」
……作業場。
荷車が隠されていた場所だ。
「足跡は、そこからさらに北へ続いていたそうだ」
「……北?」
ルナが低く呟いた。
「ああ」
ハルドが答えた。
「岩山の方角だ」
「…………」
俺は身体を強張らせた。
岩山。
俺が目覚めた洞窟。
ルナが探していた、閉ざされた道。
そして、商人たちの地図にも印があった場所。
……また、そこか。
ただし、足跡が北へ続いていたからといって、岩山へ向かったと決まったわけではない。
道は途中で分かれているかもしれない。
森へ入った可能性だってある。
「……まだ断定はできん」
ハルドも同じことを考えていたらしい。
「だが、これ以上放っておくわけにもいかない。村長と相談して、調査の範囲を広げるつもりだ」
「……そうか」
ルナは静かに答えた。
俺は身体を小さくまとめた。
白い狐は、何とか助けられた。
だが、問題は終わっていない。
逃げた男。
岩山。
欠けた輪の印。
それらが、どこへ繋がっているのか。
まだ分からない。
ただ。
俺は小屋の外へ意識を向けた。
軒下では、白い狐が静かに呼吸している。
今朝は、昨夜より少しだけ落ち着いているようだった。
少なくとも。
あの檻から出てきた命を、もう1度閉じ込めずに済んだ。
……それだけは、よかった。
俺はそっと触手を伸ばし、扉の内側へ触れた。
外には、まだ知らないことがたくさんある。
けれど、すべてを今すぐ知る必要はない。
まずは、目の前にいる誰かが無事でいられること。
そのためにできることを、ひとつずつ考えていこう。
俺はそう思いながら、ゆっくりと身体を戻した。
そして、ルナの声がする方へ向き直った。
「……ノア」
……ん?
「今日は、あの狐に水を持っていってやろうではないか」
「…………」
俺は少し驚いた。
だが、すぐに身体を揺らした。
……いいな。
それ。
俺は触手を大きく持ち上げた。
すると、ルナが柔らかく笑った。
「……ふふっ。やはり、貴様もそう思うか」
もちろん。
俺だって。
あの小さな狐には、もう少し元気になってほしい。
ただ、それだけだった。




