明かりの向こう側
第2部 第13話 明かりの向こう側
朝になった。
今の俺には、それが分かる。
「……おお」
小屋の窓がある方向から、身体の表面へ弱い刺激が届いていた。
昨夜までなら、床の温度や外を動く生き物の気配から朝を判断していたところだ。
だが、今日は違う。
《明暗感知》。
昨日、灯寄り蛾を捕食したことで獲得した性質。
それが、夜と朝の違いを教えてくれていた。
「……本当に、光なんだな」
俺は身体を少し持ち上げ、窓の方へ向けた。
すると、刺激がわずかに強くなる。
反対へ向けば弱くなる。
ただ、それだけ。
相変わらず、壁も窓も見えない。
まして、外の景色なんて分かるはずもなかった。
それでも、嬉しかった。
今まで存在すら感じられなかったものが、確かにそこにある。
「……ノア?」
干し草の方から、ルナの声がした。
「また光を確かめておるのか?」
俺は触手を持ち上げた。
「ふふっ。昨日から、そればかりだな」
……そりゃそうだろ。
念願だったんだから。
「気持ちは分かるが、夢中になりすぎるなよ。貴様はまだ身体が戻りきっておらぬのだぞ」
俺は肯定した。
確かに、何度も能力を試していれば疲れる。
《明暗感知》そのものは大きな負担を感じないが、感覚を確かめようと細かな構造を作り続ければ、その分だけ消耗する。
今の身体で、無茶はできない。
「……分かってるって」
俺は心の中で答え、窓の下へ移動した。
そこで、ふと気になることがあった。
今感じている刺激は、窓の方向から届いている。
だが、窓そのものが明るいわけではないはずだ。
明るさの原因は、その向こうにある太陽なのだろう。
……ということは。
「……遮ったら、どうなる?」
俺は《構造形成》で薄い膜を作った。
膜といっても、光を通すような特別なものではない。ただ、自分の身体の一部を平たく広げたものだ。
それを、明るさを感じている表面の前へ持っていく。
……すっ。
「……ん?」
刺激が弱くなった。
膜をどける。
……すっ。
また強くなる。
「……なるほど!」
俺は少し嬉しくなった。
光が遮られると、感覚が変わる。
当たり前のことだ。
人間だった頃なら、小学生でも知っているような話だろう。
だが、今の俺には実際に確かめることが重要だった。
温度の変化でも、振動でもない。
光が届くかどうか。
その違いを、身体が感じ取っている。
……ただし。
「……何を置いても、同じ反応なんだろうな」
俺は膜の形を変えてみた。
丸くする。
細長くする。
少し離す。
だが、分かるのは刺激が強くなったり弱くなったりすることだけだった。
膜の形までは認識できない。
「……まあ、そう簡単にはいかないか」
俺は構造を解除した。
目ができたわけではない。
それは昨日、十分に理解したことだ。
今の《明暗感知》で分かるのは、光の強弱と、おおよその方向。
物の形や色を見分けるには、まだ何かが足りない。
「……ノア」
ルナが声をかけてきた。
「今、外が少し曇ったぞ」
……え?
俺は身体を止めた。
確かに、さっきより刺激が弱くなっている。
「……ほう。分かるのか?」
肯定する。
「ならば、今度はどうだ?」
しばらく待つ。
……じわ。
刺激が強くなった。
俺は触手を持ち上げた。
「正解だ。雲が流れて、また日が差してきた」
……おお。
そういうことか。
俺には雲の形も、空の色も分からない。
だが、ルナの説明と自分の感覚を合わせれば、何が起きているのか少しずつ理解できる。
「……便利だな」
そう思った瞬間、ルナが小さく笑った。
「どうやら、我にも教えられることがまだあるようだな」
……山ほどありますよ。
俺は大きく肯定した。
「……む。今の肯定は、少々勢いが強くなかったか?」
……気のせいです。
俺は素早く触手を下ろした。
⸻
昼前、小屋へハルドがやって来た。
今日は鎧を着ているらしく、歩くたびに金属の擦れる音が混じっている。
「ルナ、ノア。少しいいか?」
「構わぬ。どうした?」
「今日は村へ商人の荷車が何台か来る。夕方には、村の外れの道も通るはずだ」
……商人?
俺は触手を持ち上げた。
「隣町から来る行商人たちだ。布や金物を売って、代わりに村の農作物を買っていく」
なるほど。
村の外から人が来るのか。
そういえば、俺たちを乗せてくれたボルクも荷物を運ぶ仕事をしていた。
この世界でも、人と物は街道を通って行き来しているらしい。
「それで、今日の夕方は少し人通りが増える」
ハルドが続けた。
「村長からも言われているが、念のため小屋の外へは出ないでいてほしい」
……ああ。
そういうことか。
俺は肯定した。
「我も異論はない」
ルナが答える。
「怪我が治るまでは、ここで大人しくしておくつもりだ」
「助かる」
ハルドは少し安心したようだった。
ただ、そこで帰るわけではなかった。
「それから、もうひとつ」
……ん?
「村に滞在していることは、近隣の者には説明してある。だが、外から来る商人たちまでは事情を知らない」
……なるほど。
「珍しい魔物がいると知れば、興味本位で近づく者もいるだろう。だから、知らない相手が訪ねてきても、無理に応対する必要はない」
「……ふむ」
ルナが短く答えた。
「貴様、随分と気を遣うのだな」
「警備隊の仕事だからな」
ハルドは少し笑った。
「村人を守るのも仕事だが、余計な騒ぎを防ぐのも仕事だ」
……ちゃんと考えてくれてるんだな。
俺は触手を小さく揺らした。
すると、ハルドがこちらへ声を向けた。
「ノア、お前にも伝わってるか?」
俺は肯定した。
「よし。夕方から夜にかけて、俺たちも見回りを増やす。何かあったら声を上げてくれ」
……声。
俺は少しだけ身体を縮めた。
その肝心の声が、まだ出せないんですけど。
すると、ルナが口を開いた。
「ノアの代わりに、我が呼ぶ。それでよかろう」
「ああ、頼む」
……助かります。
俺はルナの前脚へ軽く触れた。
彼女は小さく笑った。
「気にするな。貴様が話せるようになるまでは、我の役目だ」
……うん。
いつか、その役目も交代できるといいな。
⸻
夕方になると、街道の方が騒がしくなった。
……ごとごと。
……がたん。
車輪の振動が、地面を伝わってくる。
馬の足音もある。
そして、何人もの人間の声。
俺は小屋の床へ身体を広げ、外の様子を探っていた。
「……結構いるな」
荷車は1台ではないらしい。
車輪の間隔や振動の大きさが異なるものが、何度も道を通り過ぎていく。
ときには、金属の鳴る音。
ときには、荷物がぶつかる音。
さらに、人間たちの笑い声。
「……随分と賑やかだな」
ルナが呟いた。
「商人が来る日は、村も活気づくものだ。珍しい品を買える機会でもあるからな」
……へえ。
俺は少し興味が湧いた。
隣町から、どんなものが運ばれてくるのだろう。
布。
金物。
食べ物。
もしかすると、魔物について書かれた本なんかもあるかもしれない。
「……見てみたいな」
もちろん、今すぐ小屋から出るつもりはない。
それに、たとえ目の前へ品物を並べてもらったところで、今の俺には触らなければ何なのか分からない。
……やっぱり、目が欲しい。
俺は身体を小さく揺らした。
すると、ルナが声をかけてきた。
「ノア。何か欲しいものでもあるのか?」
……欲しいもの。
俺は少し考えた。
今の俺が欲しいものは、買い物で手に入るようなものだろうか。
文字を覚えるための道具。
魔物について書かれた本。
それから、安全に暮らすための寝床。
……あれ?
意外と、普通に買えそうなものもあるな。
「……まあ、金はないけど」
俺はそこで気づいた。
そういえば、こちらの世界の貨幣について、まだ何も知らない。
銀貨。
銅貨。
そういったものがあるのだろうか。
ガレスの畑仕事を手伝ったときは、虫を食べられただけで十分だった。
だが、いずれ町へ行くなら、お金が必要になるはずだ。
「……考えることが増えたな」
俺は小屋の床へ身体を戻した。
急ぐ必要はない。
ただ、旅を続けるなら、食べ物以外にも準備が必要になる。
そんな当たり前のことを、少しずつ思い出していた。
⸻
日が沈むと、村の外れは静かになっていった。
荷車の数が減り、遠くの話し声も小さくなっていく。
ただ、完全に人通りがなくなったわけではない。
ときどき、街道を歩く者の足音が伝わってきた。
「……ノア」
ルナが静かに呼びかけた。
俺は触手を持ち上げる。
「今日は少し早く休もう。マルタからも、無理をせぬよう言われておるからな」
……そうだな。
俺は素直に肯定した。
昼間は《明暗感知》の実験をしていたし、夕方は外の振動を拾い続けていた。
思った以上に疲れている。
ルナもまだ治療中だ。
今日は何事もなく終わってほしい。
俺は干し草の上へ移動し、身体を小さくまとめた。
すると、柔らかな尻尾が近づいてきた。
「……ふふっ。そこが定位置になったな」
……まあね。
今さら離れる理由もないし。
俺は尻尾の近くへ身体を寄せた。
しばらくして、ルナの呼吸が落ち着いていく。
どうやら眠ったらしい。
俺も感知範囲を狭めた。
……ただ。
ひとつだけ、確かめておきたいことがあった。
《明暗感知》。
夜になった今、この性質はどう働いているのだろう。
昼間のような強い刺激はない。
だが、窓の方向からは微かな明るさを感じている。
月明かりか。
遠くの村の灯りか。
今の俺には、区別できない。
「……少しだけ」
俺は身体の表面へ意識を向けた。
光を感じる部分を、窓の方へ向ける。
……じわ。
弱い刺激。
しばらく待つ。
変化はない。
……やっぱり、夜は分かりにくいな。
そう考えたときだった。
……じわっ。
「……ん?」
刺激が、少し強くなった。
俺は身体を止めた。
気のせいだろうか。
だが、その直後。
……じわ。
さらに強くなる。
「…………」
何かがおかしい。
月明かりが急に強くなったのだろうか。
いや、さっきとは変化の仕方が違う。
弱かった刺激が、少しずつ増している。
しかも、窓のある方向だけだ。
「……何だ?」
俺は身体を動かさず、感知へ意識を集中させた。
すると。
……ざっ。
地面から、小さな振動が伝わってきた。
足音だ。
しかも、小屋のすぐ近く。
「……誰かいる?」
俺は触手を少し伸ばした。
続いて、もう1つ。
……ざっ。
……ざっ。
足音は2人分。
どちらも、ゆっくりと小屋へ近づいている。
……おかしい。
こんな時間に、誰だろう。
マルタやエマではない。
ハルドとも歩き方が違う。
「……警備隊か?」
そう思ったが、足音には聞き覚えがなかった。
それに、妙なことがある。
2人は小屋の入口へ向かっていない。
壁に沿って移動しているのだ。
俺は身体を少し広げた。
窓の方向から、また明るさが届く。
……じわ。
今度は、急に弱くなった。
「……え?」
しばらくして、また強くなる。
まるで、誰かが灯りを覆ったり、開いたりしているようだった。
……灯り?
そうか。
小屋の外で、誰かが灯りを持って動いているのかもしれない。
ただし、それが本当に油灯なのか、松明なのかまでは分からない。
分かるのは、明るさが変化しているということだけだ。
「……ルナを起こした方がいいな」
俺は短い触手を形成した。
先端を《硬質外皮》で固める。
そして、床を軽く叩いた。
……コツ。
……コツ、コツ。
「……ん?」
ルナが小さく反応した。
もう1度。
……コツ、コツ。
「……ノア?」
眠そうな声が届いた。
俺は触手を伸ばし、そっと前脚へ触れた。
続いて、小屋の外へ向ける。
「……何かいるのか?」
肯定する。
すると、ルナの呼吸が変わった。
「……何人だ?」
俺は触手を2本持ち上げた。
「……2人か」
もう1度、肯定する。
ルナはしばらく黙った。
その間にも、足音は小屋の裏手へ移動していく。
……ざっ。
……ざっ。
そして。
……かちゃ。
小さな金属音が聞こえた。
俺は身体を強張らせた。
何かを取り出したのだろうか。
武器か。
道具か。
今の俺には分からない。
「……ノア」
ルナが低い声で言った。
「我のそばへ来い」
俺はすぐに移動した。
中枢核を身体の内側へ引き込み、周囲を薄く硬質化する。
それ以上の構造は作らない。
今は余計な消耗を避け、相手の動きを確かめる方が先だ。
……そのときだった。
「……ここで間違いないのか?」
小さな声が聞こえた。
男だ。
それも、かなり声を潜めている。
俺は感知膜を窓の方向へ向けた。
「……ああ。村の外れの古い小屋だ」
別の男が答える。
「入口には村長の印がある。間違いない」
……え?
俺は動きを止めた。
村長の印。
小屋の入口へ取りつけてもらった、滞在許可の札のことか。
ということは、この男たちは俺たちがここにいると知っている?
「……本当にいるんだろうな?」
最初の男が尋ねる。
「いるはずだ。白銀の魔獣だと聞いた」
「……白銀?」
俺は身体を強張らせた。
白銀の魔獣。
それは。
……ルナのことか?
「脚を怪我して、まともに動けないらしい」
……っ!
俺は反射的に触手を伸ばしかけた。
だが、すぐに止めた。
落ち着け。
まだ、相手が何をしようとしているのか分からない。
ただし、明らかに普通の訪問者ではない。
夜中に小屋の裏へ回り込み、声を潜めて話している。
しかも、ルナの怪我まで知っている。
「……面倒なことになったな」
俺は身体を小さくまとめた。
そのとき。
……かりっ。
窓の近くから、硬いものが木を擦る音がした。
「……ん?」
俺は感知を広げた。
何か細いものが、窓の板へ触れている。
……かり、かり。
どうやら、閉じた板を動かそうとしているらしい。
……まずい!
「……ルナ!」
声にはならない。
俺は慌てて床を叩いた。
……コツ、コツ、コツ!
「……分かっておる」
ルナが低い声で答えた。
そして、窓の方向へ向き直ったらしい。
「そこにいる者」
突然、ルナの声が響いた。
外の動きが止まる。
「何用だ?」
「…………」
返事はない。
ルナは続けた。
「夜分に他人の寝床を覗こうとは、随分と礼儀を知らぬようだな」
……おお。
強い。
相手が何者か分からないのに、まったく怯んでいない。
ただ、俺には分かった。
ルナも警戒している。
呼吸が少し速い。
右後ろ脚へ体重をかけないよう、姿勢を変えている振動も伝わってくる。
……無理して立とうとするなよ。
俺は彼女の前へ身体を広げた。
万が一、窓から何かが入ってきたら、すぐに間へ入れるように。
もちろん、この身体でルナを完全に守れるとは思っていない。
だが、何もしないよりはましだ。
すると。
「……喋ったぞ」
外から、小さな声が届いた。
「噂は本当だったのか……」
もう1人が答える。
「だから言っただろう」
……噂?
俺は身体を止めた。
この村へ来てから、ルナが喋ることを知っている人間は増えた。
ボルク。
セイン。
エマ。
マルタ。
警備隊。
村長。
それから、畑のガレス。
ほかにも、話を聞いた村人がいるのだろう。
……でも。
この男たちは、誰から聞いたんだ?
「……貴様ら!」
ルナの声が鋭くなった。
「我の問いに答えよ。名を名乗る気がないのなら、今すぐ立ち去るがよい!」
しばらく、沈黙が続いた。
そして。
「……今日はやめておこう」
男の1人が呟いた。
「おい、いいのか?」
「見張りもいる。騒ぎになる前に戻るぞ」
……戻る?
俺は《微振動感知》へ意識を集中させた。
足音が動き始める。
……ざっ。
……ざっ。
2人は小屋から離れていった。
同時に、窓の方向から感じていた明るさも弱くなっていく。
「…………」
俺はしばらく動かなかった。
本当に帰ったのか。
それとも、どこかで様子を見ているのか。
今の感知範囲では、完全には確かめられない。
「……ノア」
ルナが静かに呼びかけた。
俺は触手を向けた。
「追うなよ」
……分かってる。
そんな無茶はしない。
相手は2人。
しかも、何を持っているのかも分からない。
今の俺が追いかけたところで、できることは限られている。
それに、ルナを小屋へ残していくつもりもなかった。
「……さて」
ルナは少し考え込んだ。
そして、扉の方へ向かって大きく声を上げた。
「誰か! 警備隊の者はおらぬか!」
……そうか。
ハルドが見回りを増やすと言っていた。
近くにいれば、声が届くかもしれない。
俺は床へ身体を密着させ、街道の方向へ意識を向けた。
しばらくは、何も聞こえなかった。
だが。
……ざっ、ざっ!
「……ん?」
足音だ。
しかも、速い。
小屋の入口へ向かって近づいてくる。
「ルナ! どうした!」
ハルドの声だった。
……助かった。
俺はようやく、少しだけ身体の力を緩めた。
⸻
「……男が2人、窓の外に?」
「ああ。何やら我のことを探っておった」
ルナが事情を説明している。
俺はその隣で、静かに外の振動を拾っていた。
ハルドは途中で何度か質問した。
どちらから来たのか。
何を話していたのか。
窓へ触れたのは確かなのか。
ルナが分かる範囲で答え、俺も触手で方向や人数を示した。
「……なるほど」
ハルドは低く呟いた。
「少なくとも、普通の見物人ではなさそうだな」
……そうだよな。
「村長の許可札があると知っていたなら、事情を聞いたうえで来ている可能性が高い」
「……うむ」
ルナが答えた。
「それに、我の脚のことまで知っておった」
「そこが気になる」
ハルドの足音が、窓の方へ移動した。
しばらくして。
「……傷があるな」
……え?
俺は身体を持ち上げた。
「窓の板に、細い引っかき傷がついている。何か硬い道具を差し込もうとしたのかもしれん」
……やっぱり。
さっきの音は、気のせいじゃなかったのか。
「幸い、板は開いていない。中へ入った形跡もないようだ」
ハルドは小さく息を吐いた。
「今日はこの辺りを重点的に見回る。明日の朝、村長にも報告しておこう」
「……頼む」
ルナが答える。
「ただし、油断するなよ」
ハルドが続けた。
「相手が何者なのか、まだ分かっていない。商人の中にいた者かもしれんし、村の人間かもしれん」
……村の人間。
俺は少しだけ身体を縮めた。
確かに、そういう可能性もある。
怪しいからといって、外から来た人間だと決めつけることはできない。
「もしまた来たら、すぐに呼んでくれ。決して自分たちだけで捕まえようとするな」
俺は大きく肯定した。
「……分かっておる」
ルナも答えた。
それから、ハルドは小屋の周囲を確認し、再び見回りへ戻っていった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
やがて、小屋には静けさが戻った。
……だが。
今夜は、少し違った。
⸻
「……ルナ」
俺は彼女の前脚へ触れた。
声にはならない。
それでも、今の気持ちは伝わったらしい。
「……心配しておるのか?」
俺は肯定した。
「ふむ……」
ルナは少しだけ黙った。
そして、静かに言った。
「ノア。前に我が、人間の前へ出たくないと言ったことを覚えておるか?」
……ああ。
覚えてる。
洞窟を出て、最初に街道へ近づいたときだ。
ルナは、自分の姿を人間に見せたくないと言っていた。
そのときは、理由を詳しく教えてくれなかった。
俺はゆっくり肯定した。
「……実はな」
ルナが小さく息を吐いた。
「以前にも、我を捕まえようとした人間がいたのだ」
「…………」
俺は動きを止めた。
……捕まえる?
「我のように人の言葉を話し、魔術を扱う魔獣は、そう多くない。珍しいものを手元へ置きたがる人間もいる」
その声は、普段よりずっと静かだった。
「我を高く売れると思った者もいれば、従わせようとした者もいた」
……そんなことが。
俺は身体を小さく縮めた。
ルナは続けた。
「もちろん、人間すべてがそうではない。エマやマルタを見れば、それくらい分かる」
……うん。
「だが、我のことを知る者が増えれば、また同じような者が現れるかもしれぬとは思っていた」
少しの沈黙。
そして。
「……まさか、こんなに早いとはな」
ルナが呟いた。
俺は何も動かなかった。
さっきの男たちが、過去にルナを狙った人間と関係しているのかは分からない。
ただの噂を聞いて、珍しがって見に来ただけなのかもしれない。
だが、わざわざ夜中に窓をこじ開けようとしたことは事実だ。
少なくとも、善意の訪問とは思えなかった。
「……ノア」
ルナが声をかけた。
「ひとつだけ、約束してくれ」
俺は触手を持ち上げた。
「もし、我を狙う者が現れても、無茶をして守ろうとするな」
「…………」
……え?
俺は動きを止めた。
「洞窟では、貴様のおかげで助かった。だが、あのような思いを何度もさせるつもりはない」
……ルナ。
「貴様まで傷ついてしまっては、意味がないからな」
その声は、少しだけ苦しそうだった。
俺はしばらく考えた。
もちろん、無茶をするつもりなんてない。
相手が強ければ逃げる。
助けを呼べるなら呼ぶ。
危険なことは、できるだけ避ける。
……でも。
ルナを置いて逃げろと言われたら。
それだけは、簡単に頷けなかった。
俺は触手を伸ばし、ルナの前脚へ触れた。
そして、粘土板のある場所へ移動する。
暗くても、板の位置は覚えている。
触手の先端を細くし、表面を均した。
それから、ゆっくりと文字を書き始めた。
最初の線。
続いて、曲線。
最後まで書き終え、もう1度確認する。
……よし。
俺は粘土板を軽く叩いた。
「……ん?」
ルナが近づいてくる。
そして、しばらく黙った。
「……仲間、か」
俺は肯定した。
続いて、その横へもう1つの文字を書く。
『ルナ』。
最後に、『ノア』。
「…………」
ルナは何も言わなかった。
俺は2つの名前を交互に示し、それから『仲間』の文字へ触れた。
……分かるだろ?
俺たちは仲間だ。
助けられるときは助ける。
危険なら、一緒に逃げる。
それだけのことだ。
しばらくして。
「……まったく」
ルナが小さく息を吐いた。
「貴様は、どこまでも頑固なやつだな」
……お互い様だと思うけど。
俺が身体を揺らすと、ルナは少しだけ笑った。
「……よかろう」
柔らかな前脚が、俺の触手へそっと触れる。
「ならば、どちらかが無茶をするのではなく、2人で考えるとしよう」
……うん。
それなら、賛成だ。
俺はゆっくり肯定した。
⸻
夜は、まだ終わっていなかった。
外では、ときどき警備隊らしき足音が通り過ぎる。
小屋の窓からは、ごく弱い明るさが届いていた。
俺はその方向へ身体を向けた。
《明暗感知》。
昨日までは持っていなかった感覚。
今夜、この力がなければ、窓の外で灯りが動いていることに気づくのは、もう少し遅れていたかもしれない。
もちろん、光だけで相手が何者なのか分かるわけではない。
姿も見えない。
顔も分からない。
だが、わずかな変化を感じ取れたことが、警戒するきっかけになった。
……使い方次第、か。
俺は静かに考えた。
今の力でできること。
まだできないこと。
それをきちんと理解しておく必要がある。
それに、今回の問題は、能力を増やせば解決するようなものでもない。
相手が誰なのか。
何を目的としているのか。
それを知らなければ、いくら強くなっても安心はできないだろう。
「……ノア」
隣から、ルナの声が届いた。
俺は触手を向けた。
「明日、ハルドに相談しよう。あの男たちが何者なのか、調べてもらった方がよさそうだ」
俺は肯定した。
……そうだな。
今は、それが一番だ。
「それと」
ルナが少しだけ声を落とした。
「我も、そろそろ自分のことを話さねばならぬかもしれんな」
「…………」
俺は動きを止めた。
……ルナのこと?
今まで、詳しく聞くことのできなかった話だ。
どうして洞窟へいたのか。
どんな場所から来たのか。
そして、なぜ人間に捕まえられそうになったのか。
知りたいことは、いくらでもある。
だが、今すぐ話してもらおうとは思わなかった。
俺はそっと触手を伸ばし、彼女の前脚へ触れる。
すると、ルナが小さく笑った。
「……ありがとう、ノア」
俺は身体を小さくまとめた。
窓の向こうには、まだ弱い明るさがある。
俺には、夜の景色を見ることができない。
だが、今夜の出来事で分かったことがある。
外の世界には、親切な人間ばかりがいるわけではない。
そして、ルナには、俺の知らない過去がある。
……それでも。
俺たちがここで暮らし始めたことを、間違いだったとは思わない。
エマも。
マルタも。
ハルドも。
村長も。
俺たちの話を聞き、助けてくれた。
だからこそ、怪しい人間が現れたからといって、すべての人間を恐れるつもりはなかった。
必要なのは、相手を知ることだ。
危険なら警戒する。
話が通じるなら、話し合う。
そして、守るべきものがあるなら、できる限りの方法を考える。
俺はルナのそばへ身体を寄せた。
今夜はもう、光の練習をする気にはなれなかった。
明日になれば、何か分かるかもしれない。
少なくとも、今までと同じように、ただ待っているだけではいられなさそうだ。
俺は窓の方から意識を離し、そっと感知範囲を狭めた。
今夜、俺たちの寝床を探っていた者たちは、俺が光を感じられるようになったことを知らない。
けれど、向こうはルナがここにいることを知っていた。
しかも、怪我をしていることまで。
その差が何を意味するのか。
俺たちが知ることになるのは、もう少し先のことだった。




