触れられないもの
第2部 第12話 触れられないもの
「ノア。貴様、そこに何があると思う?」
ルナの声が、小屋の中に響いた。
俺は床に広げていた身体を少し持ち上げた。
そこ、とはどこだろう。
ルナの声がした方向へ触手を伸ばすと、彼女が小さく笑った。
「違う。もっと上だ」
……上?
俺は触手を伸ばした。
何も触れない。
さらに伸ばしてみる。
やっぱり何もない。
「……ふむ。そこまでか」
ルナは何やら考え込んでいるようだった。
「今、我の前に何があるか分かるか?」
……いや。
だから、分からないって。
俺は触手を左右へ振った。
「窓だ」
……窓?
「正確には、壁に設けられた小さな明かり取りだな。木の板を開けると、外が見えるようになっておる」
……へえ。
そんなものがあったのか。
この小屋へ来てから何日も経っているのに、初めて知った。
「昨日、ボルクが床を直したついでに、開きにくくなっていた板も直してくれたのだ」
なるほど。
そういえば、床の修理が終わったあとも、しばらく木を削る音がしていた。
あれは窓の修理だったのか。
「今は開いておる。外はよく晴れていてな、日差しが入ってきているぞ」
……日差し。
俺はその言葉を頭の中で繰り返した。
人間だった頃なら、何でもないことだった。
窓を開ける。
外を見る。
晴れているか、曇っているかを確かめる。
そんなことは、誰でも当たり前にやっていた。
だが、今の俺にはできない。
「……太陽か」
俺は触手を伸ばし、窓の下にある床へ移動した。
そこは、ほかの場所より少し温かかった。
……なるほど。
日光が当たっているのだろう。
俺は身体を薄く広げた。
じんわりとした温かさが、表面全体へ伝わってくる。
「気持ちいいな」
思わず、そのまま動きを止めた。
すると、ルナが呆れたように言った。
「……貴様、そこで昼寝でもするつもりか?」
いや。
ちょっと日向ぼっこしてるだけです。
俺が身体を小さく揺らすと、ルナは楽しそうに笑った。
「妙なところで人間臭いやつだな」
……。
その言葉に、俺は少しだけ動きを止めた。
人間臭い、か。
まあ、実際に元人間なんだけど。
もちろん、ルナはそんなことを知らない。
いつか説明できる日が来たら、どんな反応をするだろう。
驚くのか。
信じてくれないのか。
それとも、案外あっさり受け入れてくれるのか。
……ちょっと楽しみだな。
そんなことを考えていると、窓の方から小さな音がした。
……ぱたん。
木の板が閉じられる。
途端に、床へ届く風が弱くなった。
「……ん?」
俺は身体を少し縮めた。
「どうした、ノア?」
俺は窓の方へ触手を向けた。
「……ああ。閉めたのが気になるのか?」
肯定する。
「風が冷たくなってきたのでな。まだ我の脚も治っておらぬし、身体を冷やしたくない」
……なるほど。
確かに、それは大事だ。
ただ、俺は別のことが気になっていた。
窓が開いているかどうかは、風の流れで何となく分かる。
日光が当たっている場所も、温度の違いで確かめられる。
だが。
窓の向こうが明るいのか暗いのか。
それ自体は、まったく分からない。
「……光って、どうやって感じるんだろうな」
人間だった頃には考えもしなかった疑問だった。
⸻
夕方、エマが薬を届けにやって来た。
「こんにちは! ルナ、今日はどうですか?」
「うむ。悪くない。脚の先まで感覚が戻りつつある」
「よかったです。でも、まだ歩き回っちゃ駄目ですよ?」
「……分かっておる」
少し不満そうな返事だった。
エマは笑いながら薬を準備し、ルナの傷を確認した。
包帯を外す音。
水を含ませた布で傷口を拭く音。
そして、新しい薬を塗るときの微かな衣擦れ。
以前より、ルナが痛みを堪える回数は減っている。
少なくとも、少しずつ良くなっているのは間違いなさそうだった。
「先生も、順調だって言ってました」
エマが明るく告げる。
「ただ、毒の影響はまだ残っているので、もう少し安静にしてくださいね」
「……承知した」
「本当ですか?」
「……エマ。貴様まで我を疑うのか?」
「だって、昨日も立とうとしてましたよね?」
「…………」
……ルナ。
俺は思わず身体を揺らした。
「ノア!」
鋭い声が飛んでくる。
「貴様も笑うでない!」
……いや、無理だって。
俺は触手を縮めた。
エマまで笑っている。
ルナはしばらく不満そうにしていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……まったく。揃いも揃って」
だが、その声には本気で怒っている様子はなかった。
⸻
治療が終わると、エマは持ってきた荷物から何かを取り出した。
……ことん。
硬いものが床へ置かれる。
続いて、金属の蓋を開けるような音がした。
「今日は少し遅くなっちゃったので、明かりを持ってきたんです」
……明かり?
「油灯ですよ。暗くなっても手元が見えるように」
なるほど。
この世界にも、油を燃やす灯りがあるのか。
俺は興味を持ち、触手を伸ばしかけた。
すると、エマが慌てて声を上げる。
「あっ、ノア! 触っちゃ駄目ですよ!」
……え?
俺は動きを止めた。
「火がついてますから。熱いんです」
……ああ!
そういうことか。
危ない危ない。
俺は素直に触手を引っ込めた。
「……貴様、何でも触ろうとするな」
ルナが呆れたように言った。
……だって。
触らないと分からないんだから、仕方ないだろ。
「そのうち痛い目を見るぞ」
……もう何度か見てますけどね。
実際、溶根虫の酸で触手を傷つけたばかりだ。
あまり反論できない。
「……それにしても」
エマが少し不思議そうに呟いた。
「ノアには、灯りがついてるかどうかも分からないんですよね?」
俺は触手を持ち上げ、ゆっくり否定した。
分からない。
灯りへ直接触れれば温度で気づけるだろうが、それでは火傷してしまう。
「……そうなんですね」
エマは少し考え込んだ。
「私たちは、遠くに明かりがあればすぐ分かるのに」
……そうなんだよな。
目があれば、触れなくても分かる。
光が届けば、離れた場所に何があるか知ることができる。
それが、今の俺にはできない。
「……うーん」
エマは小さく唸った。
「何かいい方法があればいいんですけど……」
……あるといいな。
俺は身体を小さく揺らした。
だが、今の俺には《構造形成》があっても、目を作ることはできない。
形だけなら、目玉のようなものを作れるかもしれない。
しかし、それで光を感じ取れるわけではないのだ。
中身の仕組みを知らなければ、ただの飾りにしかならない。
……もっと身体の性質を増やさないとな。
そんなことを考えていたときだった。
……ぱた。
小さな音がした。
「……ん?」
エマが反応する。
続いて。
……ぱた、ぱた。
薄いものが空気を叩くような音。
俺は感知膜を少し広げた。
だが、風の音が混じっていて、うまく位置を掴めない。
「……あっ!」
エマが声を上げた。
「虫が入ってきちゃいました!」
……虫?
俺は身体を持ち上げた。
「灯りに寄ってきたみたいですね。ああ、もう! 本に止まらないでください!」
……ぱたっ。
何かが紙へぶつかる音がした。
続いて、細かな脚が表面を引っかくような振動。
「……お?」
俺はその方向へ身体を向けた。
すると、ルナが言った。
「ノア。エマの持ってきた本の上だ」
……なるほど。
俺は床を伝わる振動を頼りに、本の近くへ移動した。
「……何だ、捕まえるつもりか?」
ルナが尋ねる。
俺は肯定した。
小さな虫なら、今の俺でも十分に捕まえられる。
それに、食事の足しにもなる。
「でも、ノア」
エマが少し心配そうに言った。
「飛ぶ虫ですよ? 大丈夫ですか?」
……飛ぶのか。
俺は一瞬考えた。
確かに、空中を飛び回られたら捕まえるのは難しい。
だが、今は本の上に止まっている。
ならば。
「……やってみるか」
俺は触手を細く伸ばした。
本を傷つけないよう、表面には触れずに近づける。
すると。
……ぱたっ!
虫が飛び立った。
「……あっ!」
エマが声を上げる。
「逃げちゃいました!」
……しまった。
俺は触手を引っ込めた。
だが、すぐに別の音がした。
……ぱた。
……かさっ。
「今度は灯りの近くに止まりました!」
……灯り?
俺は少し考えた。
さっきも、灯りに寄ってきたと言っていた。
ということは、この虫は明るい場所へ集まる習性があるらしい。
「……なるほど」
俺は触手を床へ押しつけた。
《微振動感知》を広げる。
虫が止まっているのは、灯りを置いた小さな木台らしい。
金属の油灯からは距離がある。
だが、今度も不用意に近づけば逃げられるだろう。
……だったら。
「エマ」
もちろん、声にはならない。
俺は床を軽く叩いた。
……コツ、コツ。
「はい?」
エマが振り向く気配がした。
俺は木台の方へ触手を向け、続いて灯りから少し離れた場所を指した。
「……そこ?」
肯定する。
「何かしたいんですか?」
もう1度、肯定。
すると、ルナが口を開いた。
「エマ。灯りは動かさず、そのままにしておけ。ノアが何か考えておるらしい」
……助かる。
俺は慎重に身体を移動させた。
虫が止まっている木台の脚へ、細い触手を伸ばす。
《粘着性》で固定。
そこから、触手をゆっくりと這わせた。
木台を伝わる、小さな振動。
……こそ。
虫が動いた。
俺は止まる。
……こそ、こそ。
また動く。
今度は、少しだけ近づいてきた。
「……今だな」
俺は触手の先端を広げた。
……ぺたり。
「……あっ!」
エマが声を上げる。
「捕まえました!」
……よし!
俺はすぐに触手を引き戻した。
小さな虫が、粘着性の表面で暴れている。
薄い翅が何度も動き、細かな振動が伝わってきた。
「灯寄り蛾か」
ルナが呟いた。
……ともりが?
「夜になると灯りへ集まる、小さな蛾だ。珍しいものではない」
……へえ。
名前どおりの虫だな。
「……ノア、食べるつもりなのか?」
肯定する。
「それなら、火の近くで暴れぬようにな」
……分かってる。
俺は木台から十分に離れた場所へ移動した。
そして、捕まえた虫を身体の内側へ取り込む。
……じわっ。
分解が始まる。
硬い外皮はほとんどない。
以前捕まえた甲殻虫よりも、ずっと柔らかい身体だった。
栄養としては、それほど多くない。
だが、まったくの無駄ではない。
「……ふぅ」
俺は捕食を続けた。
そのときだった。
身体の奥で、微かな違和感が生まれた。
……ん?
何かが、広がっていく。
栄養を吸収したときとは違う。
小さな器官の仕組みが、俺の身体へ取り込まれていくような感覚。
……まさか。
俺は意識を集中させた。
そして。
《性質吸収》
――灯寄り蛾の性質を解析しました。
――獲得可能な性質を確認。
《明暗感知》を獲得しました。
「…………」
……え?
俺は動きを止めた。
今、何て?
明暗感知?
明るさと暗さを、感じ取るってことか?
「……ノア?」
エマの声が届いた。
「どうしました?」
俺は返事も忘れて、自分の身体へ意識を向けた。
新しく獲得した性質。
《明暗感知》。
その名前を確かめる。
……これは。
もしかして。
⸻
最初は、何も起こらなかった。
俺は身体を広げ、しばらく待ってみた。
だが、いつもと変わらない。
木の床の感触。
周囲の振動。
空気の流れ。
それだけだ。
「……あれ?」
期待しすぎたか?
俺は少し落ち着いて、新しい性質を意識してみた。
《明暗感知》。
すると、身体の表面の一部に、今までとは違う感覚が生まれた。
……ん?
それは温度ではなかった。
何かが触れているわけでもない。
音や振動とも違う。
ただ、身体の表面に、ごく弱い刺激のようなものがある。
「……何だ、これ」
俺は意識を集中させた。
刺激は、身体の一方向から強く伝わってくる。
反対側では弱い。
……方向?
俺はゆっくりと身体を回した。
すると、刺激を感じる場所が変わった。
「…………」
……嘘だろ。
俺はもう1度、身体を回した。
やっぱり変わる。
身体の向きによって、感覚が強くなったり弱くなったりする。
「……まさか!」
俺は触手を大きく持ち上げた。
「……ノア?」
ルナの声が届く。
「急にどうした?」
俺は慌てて身体を動かした。
エマが置いた灯りの方へ向く。
さっきより、刺激が強い。
反対を向く。
弱くなる。
……これ。
これって。
「……光か!?」
もちろん、景色が見えたわけではない。
物の形も分からない。
色なんて、なおさらだ。
だが、確かに何かを感じている。
今まで、まったく存在しなかった感覚だ。
「……おいおい」
俺は思わず身体を震わせた。
そんな。
こんなことが。
「……ノア!」
ルナの声が少し強くなった。
「何があったのだ?」
……あ。
そうだった。
説明しないと。
俺は慌てて触手を伸ばした。
まず、灯りの方向を指す。
続いて、自分の身体を叩く。
もう1度、灯りの方向。
「……灯り?」
エマが不思議そうに尋ねる。
俺は肯定した。
「……灯りが、どうかしたのですか?」
……それが難しいんだよ!
俺は少し考えた。
そして、油灯から十分に離れた場所へ移動する。
そこへ触手を伸ばし、木台の方を指した。
「……そこですか?」
肯定する。
さらに、触手を小さく上下へ動かした。
すると、ルナが静かに言った。
「……エマ。試しに、灯りを覆ってみてくれぬか」
……お?
俺は動きを止めた。
「覆う、ですか?」
「うむ。火を消さず、光だけを遮るのだ」
「……分かりました!」
エマが木の板を持ち上げる音がした。
そして。
……ことん。
次の瞬間。
「…………!」
俺は身体を強張らせた。
さっきまで感じていた刺激が、急に弱くなった。
……消えた?
いや。
完全に消えたわけではない。
だが、明らかに変わった。
「……戻してくれ!」
俺は慌てて触手を動かした。
すると、ルナが声をかけた。
「エマ。今度は板を外してみよ」
「はい」
……ことん。
板が外される。
そして。
……来た!
また、あの刺激だ!
「……っ!」
俺は身体を震わせた。
分かる。
違いが分かる。
触れていない。
熱を直接感じているわけでもない。
離れた場所から届く何かが、板で遮られると弱くなる。
「……本当に?」
俺はもう1度、身体を向け直した。
今度は灯りの方向から少しずらす。
刺激が変化する。
やはり、光の届き方によって変わっているらしい。
「……これは」
ルナが静かに呟いた。
「ノア。貴様、まさか……」
俺は勢いよく肯定した。
まだ質問が終わっていないのに。
「……灯りの明るさが、分かるようになったのか?」
……そう!
それだ!
俺は触手を大きく上下へ動かした。
すると、小屋の中が静まり返った。
エマもルナも、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「……ええっ!?」
エマが大きな声を上げた。
「ノア、光が分かるんですか!?」
俺は肯定した。
「本当に!?」
もう1度。
「すごいじゃないですか!」
エマが嬉しそうに笑う。
「じゃあ、私の顔も見えますか!?」
……あ。
そこまでは、まだ。
俺は触手を左右へ振った。
「……あれ?」
エマの声が止まる。
「見えないんですか?」
俺はもう1度、否定した。
すると、ルナが静かに言った。
「……恐らく、明るさだけなのだろう」
……そう。
まさに、それ。
俺は大きく肯定した。
「光があるかどうかは分かる。だが、物の形までは分からぬ……そういうことか?」
肯定。
「……なるほど」
ルナは少し考え込んだ。
「だが、それでも大きな変化だな」
……うん。
俺も、そう思う。
今まで、俺の世界には明るいも暗いもなかった。
昼も夜も、周囲の温度や生き物の動きから判断していた。
だが、今は違う。
光が届いているかどうか。
その違いを、身体で感じられる。
……小さな変化だ。
けれど。
俺にとっては、とてつもなく大きな一歩だった。
⸻
「……しかし、妙だな」
ルナがぽつりと呟いた。
……ん?
俺は触手を向けた。
「つい先ほどまで、貴様は光を感じられなかったはずだ。それが、急に分かるようになるとは……」
……ああ。
そこか。
俺は少し考えた。
説明する方法は、ひとつしか思いつかなかった。
粘土板へ移動する。
そして、虫の形を描いた。
小さな身体。
左右に広がる翅。
触角らしき細い線。
……ぐっ。
「……灯寄り蛾か?」
ルナがすぐに気づいた。
俺は肯定する。
続いて、虫から自分へ向かう線を引いた。
「……食べたことで?」
もう1度、肯定。
「…………」
ルナが黙った。
それから、低い声で呟いた。
「……やはり、貴様の捕食能力は尋常ではないな」
……ですよね。
俺も、少し驚いてる。
「前にも、虫を食べて新しい性質を得たと言っておったな」
肯定する。
「……なるほど。では、今回も同じということか」
……そういうこと。
ルナはしばらく考えていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……恐ろしい能力だな」
「…………」
俺は動きを止めた。
恐ろしい。
その言葉を、何となく重く感じた。
確かに、そうなのかもしれない。
相手を食べることで、その性質を取り込む。
今までは、生き残るために役立つ能力を増やしてきた。
だが、考えてみれば、普通の魔物にはできないことなのだろう。
「……だが」
ルナが続けた。
「貴様自身が、どう使うかを考えておればよい」
……え?
俺は触手を持ち上げた。
「力そのものが善悪を決めるわけではない。今日も、灯寄り蛾を食べたのは、単に食事のためだったのであろう?」
……うん。
俺は肯定した。
「ならば、それでよい」
ルナの声は、いつもどおりだった。
「ただし、だからといって珍しい生き物を片っ端から食べようなどと考えるでないぞ」
……考えてませんよ。
俺は触手を左右へ振った。
すると、エマが笑った。
「でも、ノアなら少し考えちゃいそうですね」
……えっ。
そんなに信用ないの、俺?
「……ふふっ」
ルナも笑っている。
……まったく。
この2人は。
俺は少し不満を込めて身体を揺らした。
だが、その直後。
ふと、新しい感覚が強くなった。
……ん?
俺は身体の向きを変えた。
油灯がある方向。
そこから、微かな刺激が届いている。
「…………」
まだ、何も見えない。
エマの顔も。
ルナの姿も。
この小屋がどんな形をしているのかさえ、分からない。
それでも。
そこに明かりがあることだけは、確かに分かる。
「……すごいな」
俺はしばらく、その感覚を確かめ続けた。
⸻
エマが村へ戻る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「じゃあ、明日も来ますね!」
「うむ。気をつけて帰るがよい」
「はい! ノアも、今日はあまり無理しないでくださいね!」
俺は触手を持ち上げて応えた。
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
小屋には、俺とルナだけが残った。
油灯は、まだついている。
その明るさが、微かに伝わってきた。
「……ノア」
ルナが静かに呼びかけた。
俺は触手を向けた。
「嬉しいか?」
「…………」
答えなんて、決まっていた。
俺は大きく肯定した。
すると、ルナが柔らかく笑った。
「……そうか」
少しの沈黙。
そして。
「では、ひとつ頼みがある」
……ん?
俺は身体を持ち上げた。
「その新しい感覚で、我のいる方向は分かるか?」
……ルナの方向?
俺は少し考えた。
声なら分かる。
床を伝わる振動でも、おおよその位置は掴める。
だが、光だけとなると話は別だ。
今の俺には、物の形を区別する能力がない。
「……無理だな」
俺は触手を左右へ振った。
「……ふむ。やはり、まだそこまでは分からぬか」
少しだけ、残念そうな声だった。
……ごめんな。
俺は身体を縮めた。
すると。
「何を落ち込んでおる」
ルナが小さく笑った。
「できぬことがあって当然だ。今日初めて光を感じたのであろう?」
……まあ、そうなんだけど。
「ならば、明日から少しずつ確かめていけばよい」
……うん。
俺はゆっくり肯定した。
ルナは続けた。
「いずれ、形も分かるようになるかもしれぬ。そのときは……」
そこで、声が止まった。
……ん?
俺は触手を持ち上げた。
「……いや」
ルナは少しだけ笑った。
「そのときは、我の姿を見せてやろう」
「…………」
俺は動きを止めた。
……ルナの姿。
そうだ。
今まで、俺は彼女の姿を1度も見たことがない。
毛並みが柔らかいこと。
尻尾があること。
4本の脚で歩くこと。
右後ろ脚を怪我していること。
それくらいしか、確かなことは分からない。
人間たちは白銀の毛並みだと言っていた。
だが、それがどんな色なのか、今の俺には確かめようがなかった。
「……いつか」
俺は心の中で呟いた。
いつか、本当に見えるようになったら。
最初に、ルナの姿を見てみたい。
それは、洞窟を出たときから変わらない願いだった。
俺は身体を伸ばし、彼女の声がする方へ移動した。
……ふさっ。
柔らかな毛に触れる。
「……ふふっ」
ルナが笑った。
「今は、これで十分か?」
……うん。
俺は前脚へそっと触れた。
今は、十分だ。
⸻
その夜。
ルナが眠ったあと、俺は小屋の隅で静かに新しい感覚を確かめていた。
灯りは消されている。
そのため、《明暗感知》を意識しても、ほとんど刺激がない。
「……なるほどな」
明るいときだけ、あの感覚が強くなるらしい。
試しに身体の表面へ薄い膜を作り、そこへ意識を集中させてみた。
《構造形成》。
感知するための場所を、身体の上部へ集める。
……ん?
少しだけ、違いが分かりやすくなった気がする。
ただし、膜を作ったからといって、感じられるものが増えたわけではない。
相変わらず、暗い場所ではほとんど何も分からない。
「……まあ、そう簡単にはいかないか」
俺は構造を解除した。
今日はここまでにしておこう。
そう考えた、そのときだった。
……じわ。
身体の一部に、ごく弱い刺激が生まれた。
「……え?」
俺は動きを止めた。
油灯は消えている。
窓も閉まっている。
それなのに。
……じわ。
確かに、微かな明るさを感じている。
俺は身体をゆっくりと回した。
すると、窓のある方向で刺激が少しだけ強くなった。
……なるほど。
外に、何か光があるのか。
月明かりかもしれない。
あるいは、村の灯りが届いているのかもしれない。
今の俺には、そこまでは分からない。
だが、確かなことがひとつある。
さっきまで何も感じなかった場所に、今は微かな明るさがある。
「…………」
俺はしばらく動けなかった。
生まれ変わってから、ずっと暗闇の中にいた。
いや。
暗闇という表現さえ、正しくなかったのかもしれない。
俺には暗いという感覚そのものがなかったのだから。
それが今。
ようやく、明るさの違いを感じられるようになった。
まだ、光の向こうにあるものは見えない。
窓も。
森も。
夜空も。
そして、隣で眠っているルナの姿も。
だけど。
「……見えるようになるかもしれないな」
俺は心の中で呟いた。
今まで、どこか遠い夢のように感じていたことが、少しだけ現実に近づいた気がした。
捕食すれば、何かを得られることがある。
得た性質を試せば、新しい使い方が見つかるかもしれない。
ただし、今回手に入れたのは、あくまで明るさを感じる力だ。
これだけで目ができたわけではない。
次に何をすれば形が分かるようになるのかも、まだ知らない。
……でも。
それでいい。
今は、この小さな変化を大切にしよう。
俺は窓の方向へ身体を向けたまま、そっと触手を伸ばした。
当然、何にも届かなかった。
光は、触手で掴めない。
それでも。
今の俺には、確かにそこにあると分かった。
そのことが、何よりも嬉しかった。
【ノアのステータス・第2部第12話終了時点】
名前:ノア
種族:原初種
レベル:未確認
変異段階:第1段階
変異形態:万能適応型
HP:未確認
MP:未確認
魔力器官:未成熟
■ 種族固有能力
《捕食》
《性質吸収》
■ 変異能力
《構造形成》
■ 獲得した性質
《微振動感知》
《粘着性》
《硬質外皮》
《微弱毒分泌》
《摩擦発音》
《弱酸耐性》
《明暗感知》【NEW】
■ 身体特性
・不定形の流動体
・中枢核形成済み
・身体の一部を硬質化可能
・獲得した性質を組み合わせた構造形成が可能
■ 現在の状態
視覚:未獲得(明暗のみ感知可能)
聴覚:振動感知による簡易的な音の認識
発声:母音に近い音を発声可能
魔法:未習得
身体:回復途中
■ 新たに獲得した性質
《明暗感知》
灯寄り蛾を捕食したことで獲得。
身体の表面で光の強弱を感じ取れる性質。明るい方向や、光が遮られた際の変化を判別できる。
ただし、物体の形・色・距離を視覚的に認識することはできず、通常の視覚とは異なる。
――――――――――
【作者あとがき】
第2部第12話までお読みいただき、ありがとうございます!
今回は、ノアが新たに《明暗感知》を獲得しました。
まだ景色を見ることはできませんが、これまで光の存在すら感じられなかったノアにとって、大きな一歩となりました。
捕食によって得た性質を、どのように組み合わせ、成長させていくのか。
少しずつ変わっていくノアを、これからも見守っていただければ嬉しいです!




