見えない文字の読み方
第2部 第10話 見えない文字の読み方
「……本を読んでみたい」
昨日から、ずっと考えていた。
正確には、読んでみたい本がある。
魔物について書かれた本だ。
この世界には、スライムと呼ばれる魔物がいる。昨日は水路で、そのうちの1匹に触れることもできた。
だが、俺は原初種。
見た目が似ているからといって、同じ生き物とは限らないらしい。
ならば、調べればいい。
幸い、ここには文字を読める人間がいるし、俺自身も少しずつ文字を覚えている。
問題は、目がないことだ。
「……いや、本当にどうしたもんかな」
俺は小屋の床に身体を広げ、粘土板をなぞった。
細い触手の先に、昨日書いた文字の溝が伝わってくる。
『ノア』。
続いて、『仲間』。
文字の形を指先で追うことには、少し慣れてきた。
ただし、紙に書かれた文字となると話は別だ。
人間だった頃の記憶では、本の文字はインクで印刷されていた。
あれを指でなぞったところで、読めるとは思えない。
「……読める文字と、読めない文字があるのか」
なかなか厄介だ。
「何を悩んでおる?」
干し草の上からルナの声がした。
俺は粘土板を軽く叩いた。
「……また文字か?」
肯定する。
「ふふっ。まったく、飽きぬやつだな」
ルナは少し身体を動かしたらしい。干し草が擦れる音がした。
「エマが来たら相談してみるがよい。あの娘なら、何か考えてくれるだろう」
……確かに。
最近、エマには随分と世話になっている。
薬師の見習いとして忙しいはずなのに、時間を見つけては小屋へ来て、文字を教えてくれるのだ。
そのおかげで、俺は自分の名前を書けるようになった。
次はルナの名前。
その約束も、まだ果たせていない。
「……やることが多いなぁ」
俺が身体を小さく揺らすと、ルナが何かを察したように笑った。
「我の名を忘れておったわけではあるまいな?」
……。
もちろん。
忘れてませんよ。
ただ、ちょっと後回しになってただけで。
「……ノア?」
俺は慌てて触手を左右へ振った。
「……ふふっ。ならばよい」
どうやら、誤魔化せたらしい。
……たぶん。
⸻
昼前になると、エマとマルタが小屋を訪ねてきた。
今日は2人とも、いつもより荷物が多い。
小さな瓶を入れた箱のほかに、何か厚くて平たいものを持ってきたらしい。
床へ置いたとき、ずしりと重い振動が伝わった。
「ルナ、脚を診せてもらうよ」
マルタが言った。
「……うむ。頼む」
俺は邪魔にならない場所へ移動し、診察が終わるのを待つことにした。
傷に巻いた布を外す音が聞こえる。
続いて、水を使って傷口を確かめているらしい、細かな振動が伝わってきた。
「……腫れは少し引いてきたね」
マルタの声が届いた。
「昨日より傷の周りが落ち着いている。痺れはどうだい?」
「まだ残っておる。ただ、脚の先まで感覚が戻ってきたようだ」
「それはいい傾向だよ。じゃあ、少しだけ動かしてみようか」
ルナの身体が動く。
……ぴくっ。
右後ろ脚の方から、小さな振動が伝わった。
「……くっ」
ルナが短く息を漏らす。
「無理に動かさなくていい。痛むならそこで止めて」
「……分かった」
少しの沈黙。
やがて、マルタが穏やかに言った。
「順調だと思うよ。ただし、まだ体重をかけて歩くのは駄目だからね」
「……また、それか」
「治りかけが一番危ないんだよ」
「……承知した」
ルナの声には、明らかな不満が混じっていた。
俺は思わず身体を揺らした。
すると。
「ノア。笑っておるな?」
……何も言ってないだろ。
「言わずとも分かる」
……便利な耳ですね。
俺が触手を縮めると、マルタが笑った。
「仲がいいのは結構だけど、ノアも昨日は無理をしなかっただろうね?」
……もちろん。
俺は肯定した。
「セインから聞いたよ。水路のスライムを助けたそうじゃないか」
……ああ。
その話か。
「変わった子だねえ。普通、自分とは違う魔物をわざわざ助けたりしないものだけど」
俺は少し考えた。
助けようと思ったというより、困っているように感じたから手を貸しただけだ。
水路の流れを戻すという仕事もあったし、わざわざ傷つける必要もなかった。
……まあ、説明するのは難しいけど。
そんな俺の様子を察したのか、マルタは小さく笑った。
「理由は人それぞれか。魔物でも同じなのかもしれないね」
⸻
診察が終わると、エマが待ちきれない様子で声を上げた。
「ノア! 今日はいいものを持ってきたんです!」
……お?
俺は触手を持ち上げた。
「これです!」
……どさっ。
厚いものが床へ置かれる。
続いて、紙の擦れる音。
……ぱらっ。
……ぱらぱら。
「魔物について書かれた本です!」
「…………」
……おおっ!
俺は思わず身体を伸ばした。
本当に持ってきてくれたのか!
「先生のところにあった古い本なんです。村の周りで見かける魔物について、いろいろ書いてありますよ」
……最高じゃないか。
俺はすぐに本へ近づいた。
表紙へ触手を伸ばす。
硬い。
少しざらついた感触がある。
さらに端をなぞると、何枚もの薄い紙が重なっていることが分かった。
「……へえ」
本だ。
本当に、この世界の本だ。
元の世界では当たり前だったものなのに、今の身体で触れると妙に新鮮だった。
「……ノア?」
エマが不思議そうに尋ねてきた。
「どうしました?」
俺は触手を持ち上げた。
そのまま、表紙を軽く叩く。
「……読みたいんですか?」
大きく肯定する。
「よかった! じゃあ、開きますね!」
エマが本を開いた。
紙の擦れる音とともに、少し古い匂いらしきものが漂ってきた。
……いや。
俺に鼻なんてない。
だが、身体の表面に触れる微かな成分の違いなのか、古い紙と木の匂いに似た感覚があった。
「……不思議だな」
俺はその感覚を確かめながら、本の端へ触手を伸ばした。
そして。
……ぺたり。
紙の表面へ触れる。
「…………」
何も分からない。
いや、紙の感触はある。
少しざらついている。
だが、文字の形は分からなかった。
やっぱりだ。
俺は何度か触手を動かしてみた。
……すっ。
……すっ。
駄目だ。
印刷された文字を、触覚だけで読み取るのは難しい。
「……あれ?」
エマが首を傾げたらしい。
「ノア、もしかして文字が分からないんですか?」
俺は少し迷った。
文字そのものは、いくつか覚えている。
だが、書かれているものを触っても分からない。
どう答えたものか。
すると、ルナが口を開いた。
「……エマ。ノアには目がない」
「あっ……!」
エマが息を呑んだ。
「そうでした……」
「粘土板の文字は、指で溝をなぞれる。だが、紙に書かれた文字では、それが難しいのだろう」
……そう!
まさに、それ!
俺は勢いよく肯定した。
「……なるほど」
エマはしばらく黙った。
それから、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい、ノア。そこまで考えてませんでした」
……いやいや。
謝ることじゃないって。
俺は触手を左右へ振った。
そもそも、本を持ってきてくれただけで十分ありがたい。
「……ふむ」
マルタが近づいてくる。
「だったら、読んで聞かせればいいだろう?」
「……あっ!」
エマが声を上げた。
「そうですよね!」
……それだ!
俺は思わず身体を揺らした。
考えてみれば、簡単なことだった。
自分で読めないなら、読める人に読んでもらえばいい。
今までだって、ルナに周囲の様子を教えてもらっていたのだから。
「……では、さっそく始めましょう!」
エマが嬉しそうに本をめくった。
⸻
本の題名は『近郊魔物便覧』というらしい。
村の周辺に生息する魔物を、特徴や危険性ごとにまとめたものだそうだ。
「最初は、比較的よく見かける魔物から紹介されています」
エマはそう説明し、ゆっくりと読み始めた。
「……湿地性スライム。水辺や湿った地面に生息し、小さな生物や腐敗した有機物を取り込んで栄養とする……」
……おお。
いきなりスライムだ。
俺は身体を少し持ち上げた。
「危険度は低い。ただし、刺激を与えると身体を膨張させたり、粘液を飛ばしたりする個体もいる……」
……なるほど。
昨日、水路で出会ったやつが身体を膨らませていたのは、防御反応だったのかもしれない。
もちろん、同じ種類だったと決まったわけではないけど。
「身体の中心部に、周囲より硬い部分を持つものが多い……」
……ん?
俺は動きを止めた。
硬い部分。
もしかして、核のことだろうか。
「……どうしました?」
エマが気づいた。
俺は自分の身体の中心を軽く叩いた。
続いて、本へ触手を向ける。
「……核、ですか?」
肯定する。
「はい。スライムの中には、核を持つ種類がいるそうです」
……そうなのか。
俺にも《中枢核》がある。
ただし、あれは変異によって形成されたものだ。
最初からあったわけではない。
少なくとも、俺が自分の身体を把握できるようになってからの経緯では、そうだった。
……やっぱり、普通のスライムとは違うんだな。
「ただ、核の形や位置は種類によって違うみたいですよ」
エマが説明を続ける。
「核が見えやすいものもいれば、身体の奥に隠れているものもいるそうです」
……なるほど。
俺は静かに話を聞いた。
核があるからといって、原初種だとは限らない。
逆に、核がないからスライムではないとも限らないらしい。
見た目だけで種族を判断するのが難しい理由が、少し分かった気がした。
「次は、酸性スライムですね」
……酸性?
俺は反応した。
「こちらは身体の表面が弱い酸性を帯びている種類で、素手で触れると皮膚が荒れることがあります」
……へえ。
溶根虫とは違い、身体そのものが酸性なのか。
「ただし、地域によって性質に差があるため、見た目だけで判断してはいけない……」
……なるほど。
また、見た目だけでは分からないという話か。
俺は身体を小さくまとめた。
考えてみれば、当然だ。
人間だって、顔だけで何を考えているか分かるわけじゃない。
魔物なら、なおさらだろう。
「……面白いな」
次のページをめくる音が聞こえる。
「続いて、洞窟性スライム……」
……洞窟!
俺は思わず触手を持ち上げた。
「……あっ、これですか?」
エマが楽しそうに言った。
「ノアは洞窟から来たんでしたよね!」
肯定する。
「じゃあ、もしかしてこの種類だったりするんでしょうか?」
……うーん。
どうだろう。
俺は自分の身体へ意識を向けた。
原初種。
その名前は、最初から分かっている。
だが、それが洞窟性スライムの一種なのか、それともまったく違う分類なのか。
判断するための情報が足りない。
「……分からない、か」
俺は触手を持ち上げかけ、途中で止めた。
肯定でも否定でもない。
こういうとき、答え方に困るんだよな。
すると、マルタが小さく笑った。
「ノア。知らないなら、無理に答えなくてもいいんだよ」
……おお。
そうだな。
俺は触手を下ろした。
確かに、分からないことを無理に決めつける必要はない。
……ただ。
いつか、自分の種族についてはちゃんと知りたい。
その思いは、以前よりも強くなっていた。
⸻
読み聞かせは、思っていた以上に面白かった。
洞窟に棲む魔物。
森の中で群れを作る魔物。
水辺で小さな生物を捕食する魔物。
それぞれに特徴があり、危険な性質も違う。
ただし、この本は村の周辺で見かける種類をまとめたものらしく、すべての魔物が載っているわけではない。
原初種という名前も、今のところ出てこなかった。
「……もっと詳しい本はないのかな」
俺はそう思った。
すると、マルタがまるで考えを読んだように言った。
「この本は随分古いからね。新しい情報なら、町の冒険者ギルドにある資料の方が詳しいだろうよ」
……冒険者ギルド!
俺は思わず身体を伸ばした。
久しぶりに聞いた、いかにも異世界らしい言葉だった。
「……何だい、ノア。冒険者ギルドが気になるのかい?」
肯定する。
「ふふっ。あそこなら、魔物について調べる機会もあるだろうね」
……おお。
やっぱり!
俺は身体を大きく揺らした。
すると、ルナが静かに口を挟んだ。
「ノア。今すぐ行こうなどと考えておらぬだろうな?」
……考えてませんよ。
……ちょっとしか。
「……ふん」
ルナが鼻を鳴らす。
「我の脚が治ってからだ。忘れるなよ」
……分かってるって。
俺は素直に肯定した。
だが、冒険者ギルドという場所には興味があった。
魔物について調べられる。
もしかすると、原初種について何か記録が残っているかもしれない。
それに、冒険者という存在がいるなら、俺のような魔物が人間社会でどう扱われるのかも分かるだろう。
「……いずれ、行ってみたいな」
俺はその目標を、心の中へ刻んだ。
⸻
本を読み終えたあと、エマは何か考え込んでいた。
「……うーん」
何度か紙をめくる音がする。
それから、粘土板を持ち上げる振動。
「ノア、ちょっといいですか?」
俺は触手を持ち上げた。
「さっき、紙の文字は読めないって分かりましたよね」
肯定する。
「でも、粘土板に書いた文字なら、触って分かるんですよね?」
もう1度、肯定した。
「……だったら」
エマは少しだけ声を弾ませた。
「読める形の文字を、最初から作ればいいんじゃないでしょうか!」
……え?
俺は動きを止めた。
読める形の文字?
「紙に書いた文字は触っても分からない。でも、粘土板の溝なら分かる。だったら、最初から触って読むための文字を作ればいいんです!」
……おお。
なるほど!
それはいい考えだ!
俺は勢いよく触手を持ち上げた。
「……ふふっ。気に入ったみたいですね!」
エマはすぐに粘土板へ向かった。
「では、まず試してみましょう!」
……ぐっ。
……ぐぐっ。
粘土へ棒を押しつける振動が続く。
「これが『ノ』の文字です」
俺は触手で溝をなぞった。
確かに、覚えた形だ。
続いて、エマが別の場所へ文字を書く。
「こっちは『ア』です」
俺は同じようになぞった。
……うん。
これも分かる。
「じゃあ、次です!」
エマは粘土板の別の場所を軽く叩いた。
「今度は、文字の形を少し変えますね」
……形を変える?
俺は不思議に思った。
だが、エマは説明を続けた。
「溝を作るんじゃなくて、文字の部分を盛り上げてみるんです」
……盛り上げる?
俺は少し考えた。
ああ。
なるほど。
凸凹を逆にするのか。
「先生、粘土を少し借ります!」
「好きにおし。ただし、床を汚しすぎるんじゃないよ」
「はい!」
エマは別の粘土を使い、小さな文字の形を作り始めた。
……ぺた。
……ぐっ。
しばらくして。
「できました!」
俺は触手を伸ばした。
そこには、平らな粘土板から細い線が盛り上がったものがあった。
……おお。
確かに、文字だ。
溝とは違う。
だが、形そのものは覚えた文字と同じだった。
「……分かりますか?」
俺はゆっくりとなぞった。
最初の線。
曲がる部分。
最後の短い線。
……うん。
読める。
俺は大きく肯定した。
「やった!」
エマが嬉しそうに声を上げた。
「これなら、触って読めますね!」
……すごいじゃないか。
俺は思わず身体を揺らした。
今まで、文字は粘土へ溝を掘るものだと思っていた。
だが、考えてみれば、触って形が分かれば何でもいい。
木でも。
石でも。
粘土でも。
文字が浮き上がっていれば、触って読める。
「……そうか」
俺は身体の中心へ意識を向けた。
《構造形成》。
この能力があれば、俺自身の身体に小さな凹凸を作ることもできる。
ならば。
「……ちょっと試してみるか」
俺は触手を短く伸ばした。
その先端を、覚えた文字の形に変えてみる。
最初は、簡単な『ノ』。
細い突起を作る。
曲げる。
最後の線を伸ばす。
……ぐにゅ。
「……あっ!」
エマが驚いたように声を上げた。
「ノアの触手が、文字になってます!」
……おお。
本当か!
俺は自分の触手を、もう1本の触手でなぞった。
確かに、覚えた形に近い。
「……なるほどな」
ルナが感心したように言った。
「身体そのものを文字の形にするのか」
……そういうこと。
もっとも、今は小さな文字ひとつを作るだけでも、かなり集中力が必要だ。
少し気を抜くと、形が崩れてしまう。
「……まだまだだな」
俺は構造を解除した。
すると、エマが嬉しそうに笑った。
「でも、すごいです! これなら、粘土板がなくても文字を見せられるかもしれませんね!」
……そうか!
俺は思わず身体を震わせた。
確かに。
触手を文字の形にできるなら、わざわざ粘土板を持ち歩く必要はない。
ただし、問題もある。
文字を知らなければ作れない。
それに、長い文章を伝えようとすれば、何度も形を作り直す必要がある。
しかも、その間は集中し続けなければならない。
……まあ、簡単ではないな。
それでも。
新しい可能性が見えた気がした。
⸻
「……さて」
マルタが静かに口を開いた。
「楽しそうなのは結構だけど、エマ。まだ教えることがあるんじゃないのかい?」
「……あっ!」
エマが声を上げた。
「そうでした!」
……ん?
俺は触手を持ち上げた。
すると、エマが少し照れくさそうに笑った。
「今日は、ルナの名前も教える約束でしたよね!」
……あ。
そうだった。
俺は一瞬、動きを止めた。
隣から、楽しそうな声が聞こえる。
「……ふふっ。ようやく我の番か」
……忘れてたわけじゃないんだけどな。
俺は粘土板へ移動した。
エマが木の棒を持ち上げる。
「じゃあ、まずは『ル』です!」
……ぐっ。
粘土に、新しい文字が書かれていく。
俺は触手を伸ばし、形をなぞった。
……お?
思っていたより、難しい。
線が何度か曲がっている。
しかも、最後の部分が少し複雑だ。
「……ふむ」
俺は慎重に形を覚えた。
次に、同じ形を自分で書いてみる。
……ぐっ。
……ぐぐっ。
「……あれ?」
エマが小さく笑った。
「ちょっと違いますね」
……やっぱり。
俺はもう1度なぞり直した。
今度は、線を引く順番に集中する。
どこから始めるか。
どこで曲がるか。
最後に、どの方向へ伸ばすか。
ゆっくりと動きを再現する。
「……あっ、今度は上手です!」
……よし。
俺は嬉しくなった。
だが、そこで気を抜くわけにはいかない。
次は『ナ』だ。
エマが文字を書き、俺がその形を確かめる。
こちらは『ル』よりも単純だった。
少なくとも、俺にとっては。
何度か練習すると、形を覚えられた。
「……よし」
俺は粘土板の表面を均した。
そして、覚えた2文字を続けて書いてみる。
最初に『ル』。
続いて『ナ』。
ゆっくりと。
慎重に。
……ぐっ。
……ぐぐっ。
最後の線を引き終えた。
「…………」
俺は動かなかった。
どうだろう。
ちゃんと書けているだろうか。
少しの沈黙。
そして。
「……できました!」
エマが嬉しそうに声を上げた。
「ちゃんと『ルナ』って書いてあります!」
……おお!
俺は思わず身体を持ち上げた。
やった!
今度こそ、約束を果たせた!
「……ほう」
ルナが近づいてくる。
柔らかな足音が、粘土板の前で止まった。
少しの間、何も言わない。
……ん?
俺は少しだけ不安になった。
もしかして、まだ歪んでいるのだろうか。
「……ノア」
ルナが静かに呼びかけた。
俺は触手を持ち上げた。
「……上手になったな」
「…………」
……え?
俺は動きを止めた。
「少し前まで、自分の名前を書くことすらできなかったというのに」
その声は、いつもよりずっと穏やかだった。
「今は、我の名前まで書けるようになったか」
……うん。
俺はゆっくりと肯定した。
「……ふふっ」
ルナが笑う。
「悪くない字だ」
……本当か?
俺は少し嬉しくなった。
すると。
「ただし、『ルナリス』と書けるようになるまでは、まだまだだな」
……ええっ!?
フルネーム!?
そこまで!?
俺が思わず身体を縮めると、エマが笑い始めた。
「ふふっ。じゃあ、次は『リ』と『ス』ですね!」
……ああ。
また宿題が増えた。
ルナも楽しそうに笑っている。
「……ふふっ。期待しておるぞ、ノア」
……はいはい。
分かりましたよ。
俺は触手を小さく揺らした。
⸻
夕方になり、エマとマルタが村へ戻っていった。
小屋には、俺とルナだけが残った。
床の上には、今日使った粘土板がある。
『ノア』。
『ルナ』。
そして、『仲間』。
俺はその3つを、順番になぞった。
まだ文字数は少ない。
だが、最初に比べれば随分と増えた。
それに今日は、新しい方法も思いついた。
触って読める文字。
身体の形を利用した文字。
どちらも、今の俺には大きな可能性がある。
「……面白いな」
俺は身体を小さく揺らした。
ただ、すぐに使いこなせるわけではない。
まだ覚えていない文字が多いし、文章を書こうと思えば時間もかかる。
それに、紙の本を自分で読めるようになったわけでもない。
だが、少なくとも。
できないことを、できないままにしておく必要はない。
そう思えた。
「……ノア」
隣からルナの声がした。
俺は触手を向けた。
「今日は、随分と楽しそうだったな」
……うん。
俺は肯定した。
「……そうか」
ルナが小さく笑った。
しばらくして、静かな声が続く。
「我も、少し嬉しかったぞ」
……え?
俺は動きを止めた。
「貴様が我の名を書いてくれたことだ」
「…………」
……ルナ。
「名前とは、不思議なものだな」
ルナはゆっくりと言った。
「呼ばれるだけでも、自分の存在を確かめられる。だが、誰かが自分の名を覚え、形にしてくれるのは、また違う嬉しさがある」
俺は静かに触手を伸ばした。
そして、粘土板に書いた『ルナ』の文字を軽く叩いた。
……こつ。
「……ふふっ」
ルナが笑った。
「そうだな。それが我の名だ」
俺はもう1度、文字をなぞった。
ルナ。
そして、ノア。
この世界へ来てから、初めてできた仲間。
俺に名前をくれた相手。
その名前を、今度は俺が形にできた。
……悪くないな。
俺は身体を小さくまとめた。
すると、ルナがそっと尻尾を寄せてきた。
「……ノア」
……ん?
「貴様が文字を覚えたら、いつか我にも何か教えてくれ」
……え?
俺は少し驚いた。
ルナは、俺よりずっとこの世界のことを知っている。
言葉も話せる。
文字も読める。
そんな相手に、俺が教えられることなんてあるのだろうか。
「……何だ、その反応は」
ルナが笑った。
「貴様は随分と変わった考え方をする。身体の使い方も、何かを覚える方法も、我には思いつかぬことばかりだ」
……そうかな。
「だから、いつか聞いてみたいのだ」
少しだけ間があった。
「貴様が何を考え、何を見てきたのかを」
「…………」
俺は動きを止めた。
何を見てきたのか。
その言葉に、ふと元の世界のことを思い出した。
建物。
車。
街の明かり。
雨の日の道路。
そして、机の上に置かれたパソコン。
あの日。
俺はゲームだと思って、画面に表示された選択肢を押した。
……YES。
その先に、こんな世界が待っているなんて知らなかった。
「……話したいこと、いっぱいあるな」
俺は心の中で呟いた。
元の世界のこと。
人間だった頃のこと。
そして、どうして原初種として生まれ変わったのか。
まだ自分でも分からないことが、たくさんある。
だが、いつか。
ちゃんと話せるようになったら。
ルナに聞いてもらいたい。
「……うん」
俺は触手をゆっくりと持ち上げた。
ルナが小さく笑った。
「……約束だぞ」
……ああ。
約束だ。
俺は触手を伸ばし、彼女の前脚へ軽く触れた。
⸻
その夜。
ルナが眠ったあとも、俺は少しだけ起きていた。
粘土板の上に、今日覚えた文字を書く。
『ノア』。
『ルナ』。
そして、少し離れた場所へ『仲間』。
……ぐっ。
最後の線を引き終えた。
「……よし」
俺は自分で書いた文字を、ゆっくりとなぞった。
まだ、思いどおりに書ける文字は少ない。
だが、それでも。
少しずつ増えている。
俺の知らない世界を知るための手段が。
そして、誰かと繋がるための方法が。
そのとき。
……かさっ。
小屋の外から、微かな振動が伝わってきた。
俺は触手を止めた。
風ではない。
草が揺れた音でもない。
小さな何かが、地面を移動している。
「……虫か?」
俺は《微振動感知》へ意識を集中させた。
……こそ。
……こそこそ。
小屋の壁際。
そこに、小さな生物がいる。
少し前なら、迷わず捕まえに行っていたかもしれない。
だが、今は違う。
今日の食事は、すでに済ませている。
栄養不足が完全に解消したわけではないが、今すぐ何かを捕食しなければならない状態でもない。
それに、夜の外へ出てまで追いかける必要はないだろう。
「……また明日だな」
俺は感知範囲を狭めた。
そして、粘土板から身体を離した。
柔らかな干し草へ移動する。
その隣には、ルナがいる。
温かな毛並みへそっと触れ、身体を小さくまとめた。
今日は、少しだけ前へ進めた。
新しい能力を獲得したわけではない。
変異したわけでもない。
だが、できることは確実に増えている。
……こんな成長も、悪くない。
俺はそう思いながら、ゆっくりと意識を休ませた。
明日は、今日より少し多くのことを知れたらいい。
そして、いつか。
原初種という名前の意味に、辿り着ける日が来るのだろうか。




