似ているだけの存在
第2部 第9話 似ているだけの存在
翌朝、俺は小屋の床に広がっていた。
正確には、身体をできるだけ薄く伸ばし、昨夜傷ついた部分の状態を確かめている。
溶根虫の酸を浴びた触手は、まだ少し動かしにくい。
とはいえ、昨日より痛みは軽くなっていた。
「……よし。悪くないな」
試しに触手を1本伸ばし、先端を硬質化させる。
……こつ。
床を叩くと、思ったとおりの振動が返ってきた。
続いて、《弱酸耐性》へ意識を向ける。
身体の表面に、微かな変化が広がった。
ただし、酸に触れているわけではないので、効果を確かめることはできない。
昨日の経験から分かっているのは、弱い酸による損傷を軽減できるということだけだ。
強い酸まで防げる保証はないし、身体の傷そのものを治してくれる能力でもない。
「……過信は禁物だな」
俺は硬質化を解除した。
昨日は溶根虫を何匹も捕食できたおかげで、失っていた身体の量も少し補えた。
それでも、大百足との戦いで失った分がすべて戻ったわけではない。
当面は、食事と休息を続ける必要がありそうだ。
「ノア。朝からまた身体を弄っておるのか?」
干し草の上から、ルナの声が届いた。
俺は触手を持ち上げて返事をする。
「まったく、熱心なのはよいが、昨日は怪我をして帰ってきたのだぞ。今日は少し大人しくしておけ」
……それ、ルナにも言えるんじゃないか?
俺は彼女の右後ろ脚へ触手を向けた。
すると、すぐに反応が返ってきた。
「我は大人しくしておる!」
……本当か?
「……少なくとも、今はな」
そこは言い切ってほしかった。
俺が身体を揺らすと、ルナは不満そうに鼻を鳴らした。
だが、そのあと小さく笑う。
「まあ、昨日はよく頑張った。ガレスも随分と喜んでおったようだしな」
俺はゆっくり肯定した。
自分の食事を確保するために始めた仕事だったが、結果的には畑を守る手伝いにもなった。
それに、村の人たちと協力するという、洞窟ではできなかった経験も得られた。
「……また頼まれたら、手伝いたいな」
もちろん、次は虫の種類をしっかり確認してからだけど。
そんなことを考えていると、小屋の外から足音が近づいてきた。
……ざっ、ざっ。
歩幅の大きな足音が2人分。
もう、何度も聞いたことがある。
「……セインとガレスか?」
俺が入口へ触手を向けたところで、扉が叩かれた。
「おーい、起きてるか?」
予想どおり、セインの声だった。
⸻
「昨日は助かったよ、ノア」
小屋へ入ってきたガレスは、開口一番そう言った。
「今朝、畑を確認してきたんだが、昨日まで枯れかけてた場所の周りは、被害が広がってなかった」
……おお。
それはよかった。
俺は触手を持ち上げた。
「もちろん、これで全部解決したとは限らねえけどな。ほかにも巣があるかもしれん」
ガレスはそう付け加えた。
「それでも、昨日の作業は無駄じゃなかったってことだ」
俺は嬉しくなって身体を小さく揺らした。
ただ、今日は畑仕事の続きではないらしい。
「実は、ちょっと妙なものを見つけてな」
……妙なもの?
「畑の脇に水路があるだろ。あそこにスライムが入り込んでるんだ」
俺は動きを止めた。
スライム。
昨日まで何度も俺がそう呼ばれていた、あの魔物だ。
「普通のやつだと思うんだが、どうにも動きが鈍くてな。水路の浅いところから出られなくなってるみたいなんだ」
「……スライムが?」
ルナが口を挟んだ。
「その程度なら、放っておいてもよいのではないか?」
「それが、水路の流れを塞ぐ場所にいるんだよ。枯れ枝も引っかかってて、このままじゃ畑に水が回らなくなる」
なるほど。
水路に何かが詰まっているのか。
「なら、取り除けばいいだろ」
セインが言う。
「俺もそう思ったんだけどな」
ガレスは少し困ったように続けた。
「近づくと身体を膨らませるんだ。うかつに触っていいものか分からなくて」
……へえ。
身体を膨らませるスライム。
少し興味が湧いた。
俺自身も、身体を大きくしたり小さくしたりできる。
だが、それは《構造形成》を使って形を変えているからだ。
普通のスライムも似たようなことができるのだろうか。
「それで、ノアに見てもらえないかと思ってな」
ガレスの声が少し遠慮がちになった。
「同じスライムなら、何か分かるかもしれねえだろ?」
……同じ、か。
俺は少し考えた。
見た目は似ているのかもしれない。
だが、俺の種族は原初種だ。
普通のスライムがどんな生き物なのか、実は何も知らない。
……それでも。
「会ってみたいな」
俺は触手を大きく持ち上げた。
すると、セインが笑った。
「おっ、乗り気だな」
「ノア」
ルナがすぐに声をかけてきた。
「昨日の今日だぞ。また無茶をするつもりではあるまいな?」
俺は触手を左右へ振った。
今回は様子を見るだけ。
危険そうなら、手を出さない。
そのつもりだった。
「……ふむ」
ルナは少し考え込んだ。
「ならば、セイン。ノアを頼めるか?」
「ああ。村長には昨日と同じく、俺が付き添うって話を通してある。水路も畑の外側だしな」
「……よかろう」
ルナは小さく息を吐いた。
「ノア、知らぬ魔物へ不用意に近づくなよ」
俺は素直に肯定した。
昨日の溶根虫で、十分に懲りている。
……たぶん。
⸻
水路までは、畑の脇を少し進むだけだった。
セインの足音を頼りに移動していると、やがて地面を伝わる振動が変わり始めた。
……さらさら。
細かな揺れが、絶えず続いている。
水だ。
俺は身体を少し広げ、土へ密着した。
「ここだ」
ガレスが足を止める。
「見えるか、セイン?」
「ああ。あれだな」
……見える、か。
俺には当然、何も見えない。
ただ、近くに水が流れていることは分かる。
それから、水路の一部で流れが乱れていることも。
「ノア、あそこだ」
セインが俺の近くへしゃがみ込んだらしい。
「水路の曲がり角に、丸っこいのが引っかかってる」
俺は触手を伸ばした。
まず、水路の縁へ触れる。
湿った土。
小さな石。
その奥に、絶えず動いている水の流れ。
「……なるほど」
俺は《微振動感知》へ意識を集中させた。
水の中には細かな振動がいくつも混じっている。
流れに揺れる草。
石へぶつかる水。
そして、水路の途中にある、柔らかな何か。
……ぷるん。
微かな振動が伝わった。
「……これか?」
俺は慎重に触手を近づけた。
ただし、直接触れない。
まずは周囲の土や石を確かめ、逃げ道を探る。
「……おい、ノア」
セインが声をかけてきた。
「そいつ、今こっちへ向きを変えたぞ」
……向き?
俺は少し驚いた。
普通のスライムにも、前後があるのだろうか。
「目は見当たらねえけど、何かを感じてるみたいだな」
……へえ。
俺と同じように、振動を感じているのかもしれない。
あるいは、もっと別の方法なのか。
俺は小さな石を触手で押した。
……ころ。
石が水へ落ちる。
……ぽちゃん。
その瞬間。
……ぷるっ!
柔らかな何かが、急に動いた。
「おっ、反応した!」
ガレスが声を上げる。
「水音に驚いたのか?」
……なるほど。
確かに、石が落ちた直後に動いた。
俺はもう1度、別の場所へ小石を転がした。
……ころん。
今度も、柔らかな何かが動く。
ただし、石の方へ向かったわけではない。
むしろ、そこから離れるように動いていた。
「……警戒してるのかな」
俺はそう考えた。
少なくとも、無反応な生き物ではないらしい。
⸻
「それで、どうする?」
セインが尋ねてきた。
「無理に引っ張り出すか?」
ガレスは少し迷ったようだった。
「水路を塞がれるのは困るが、別に作物を食ってるわけでもなさそうなんだよな」
「なら、少し流れを変えてみるか」
……流れを変える?
俺は水路の縁へ触手を伸ばした。
確かに、詰まっている場所には枯れ枝や石が集まっている。
それらを取り除けば、水の通り道が広がるかもしれない。
ただ、問題のスライムがその真ん中にいる。
無理に枝を引き抜いたら、傷つけてしまう可能性もある。
……どうしたものか。
俺は慎重に身体を伸ばした。
《粘着性》を使い、水路の縁にある石へ固定する。
そこから、細い触手を水面近くへ下ろした。
流れの抵抗が伝わってくる。
さらに、その奥。
……ぷに。
柔らかなものに触れた。
「……っ!」
俺は反射的に触手を引っ込めかけた。
だが、今度は酸による刺激も、毒らしい反応もない。
ただ、柔らかい。
自分の身体へ触れているような、不思議な感覚だった。
「……これが普通のスライムか」
俺はほんの少しだけ、触手の先端を動かした。
すると。
……ぷる。
相手の身体が動いた。
俺の触手を避けるように。
……あ。
嫌がってるのかもしれない。
俺はすぐに距離を取った。
「どうした、ノア?」
セインが尋ねる。
俺は触手を左右へ振り、それ以上近づかないことを示した。
すると、ガレスが小さく息を吐いた。
「やっぱり、簡単にはいかねえか」
……そうだな。
ただ、ひとつ分かったことがある。
あのスライムは、少なくとも刺激に反応して動ける。
完全に弱って動けないわけではない。
ならば。
「……自分で動いてもらえばいいんじゃないか?」
俺は水路の上流側へ触手を伸ばした。
そして、枯れ枝が引っかかっている場所を探る。
枝は何本も重なり、その間に石が挟まっていた。
俺だけで全部を動かすのは難しい。
だが、位置を知らせることならできる。
俺は水路の縁を叩いた。
……コツ、コツ。
「ん?」
セインが反応する。
俺は触手を伸ばし、枝のある場所を指した。
「……枝か?」
肯定する。
「これをどければいいのか?」
もう1度、肯定した。
「分かった。やってみる」
セインが道具を持ち上げる音がした。
「ガレス、この辺りの枝を外すぞ」
「ああ。石は俺が動かす」
2人が作業を始める。
俺はその間、スライムの動きへ意識を集中させた。
……ざぶ。
……ごとっ。
枝が取り除かれるたび、水の流れが少しずつ変わっていく。
最初は狭い隙間へ集中していた水が、徐々に広い範囲へ流れ始めた。
すると。
……ぷるん。
スライムが動いた。
「……お?」
俺は身体を少し持ち上げた。
水の流れが変わったことで、押さえつけられていた部分が解放されたらしい。
柔らかな身体が、ゆっくりと石の間から抜け出していく。
「動いたぞ!」
ガレスが声を上げた。
「おお、抜けた!」
セインも驚いたようだった。
だが、次の瞬間。
……ざばっ!
水の流れが急に強くなった。
枝が外れたことで、溜まっていた水が一気に流れ始めたのだ。
「……まずい!」
俺は反射的に触手を伸ばした。
流されていくスライムへ向けて。
……だが。
途中で止めた。
知らない魔物へ不用意に触れるな。
ルナの言葉が頭をよぎった。
それに、俺が無理に掴めば、かえって傷つけてしまうかもしれない。
俺は代わりに、水路の先へ意識を向けた。
少し下流には、流れの緩い浅瀬がある。
そこへ向かうように、身体の一部を薄く伸ばした。
《構造形成》。
水の流れを完全に塞がない程度の、小さな壁を作る。
……ざぁっ!
水が触手へぶつかった。
思った以上に強い。
俺はすぐに形を変え、正面から受け止めるのをやめた。
水を横へ逃がしながら、流れの向きだけを少し変える。
……ぐっ。
「ノア! 無理するな!」
セインの声が届く。
分かってる。
長くは維持できない。
俺は触手を少しずつ縮めた。
すると、水路の中を流れていた柔らかなものが、浅瀬へ押し出された。
……ぷるん。
「……おっ!」
ガレスが声を上げた。
「そいつ、浅いところへ出たぞ!」
……よし!
俺はすぐに構造を解除した。
水の抵抗がなくなる。
「……ふぅ」
少し疲れた。
だが、無理に抱えたり、捕まえたりする必要はなかった。
「……助かったな」
セインが小さく笑った。
「水路も流れるようになったし、スライムも潰さずに済んだ」
……よかった。
俺は身体を小さくまとめた。
⸻
「しかし、妙なもんだな」
作業を終えたガレスが、ぽつりと呟いた。
「スライムに、別のスライムを助けてもらうとは」
……確かに。
俺も、こんなことになるとは思わなかった。
「ノア、あいつを食べようとは思わなかったのか?」
セインが尋ねてきた。
俺は動きを止めた。
……食べる?
俺は、少しだけ考えた。
確かに、俺は捕食によって栄養を得ている。
虫も食べる。
小さな生物も食べる。
相手がスライムだからといって、捕食できないとは限らない。
だが、そもそも食べられるかどうかも分からないし、危険な性質を持っている可能性だってある。
それに。
「……今は、別に食べる必要ないしな」
俺は触手を左右へ振った。
「……そうか」
セインは少し考え込んだ。
「まあ、腹が減ってなきゃ、無理に襲う必要もないか」
……そういうこと。
俺は触手を小さく動かした。
すると、ガレスが笑った。
「それにしても、ずいぶん違うんだな」
……ん?
俺は身体を止めた。
「何がだ?」
セインが尋ねる。
「普通のスライムと、ノアだよ」
……お。
俺は意識を集中させた。
「見た目は似てるんだがな。あっちのスライムは、ただ水のある場所を探して動いてるだけみたいだった」
「まあ、そうだろうな」
セインが答える。
「普通のスライムは、湿った場所に多いからな」
「でも、ノアは違う」
ガレスは続けた。
「こっちの言葉を理解するし、道具の代わりにもなる。畑の虫だって捕まえてくれた」
……なるほど。
そう見えるのか。
俺は少しだけ身体を縮めた。
「それに、さっきのスライムを助けようとしただろ?」
「……確かにな」
セインが小さく笑った。
「普通の魔物だったら、どうするか分からんところだ」
俺は何も動かなかった。
普通のスライム。
それと、俺。
同じような身体をしているのに、どうやら随分と違うらしい。
……ただ。
「……本当に、そうなのかな」
俺は水路の方へ意識を向けた。
先ほどのスライムは、まだ浅瀬の近くにいる。
小さな振動が、ときどき伝わってくる。
自分から危険を避けようとしていた。
水の流れが変われば、移動することもできた。
俺たちの言葉を理解していたかどうかは分からない。
だが、何も感じていないわけではないはずだ。
「……あいつにも、あいつなりの生き方があるんだろうな」
俺はそう思った。
もちろん、だからといって虫を食べるのをやめるつもりはない。
俺だって、生きるためには栄養が必要だ。
ただ、食べる必要のない相手まで、何でも捕まえる必要はないだろう。
「……ノア?」
セインが声をかけてきた。
俺は触手を持ち上げた。
「何か気になるのか?」
少し迷ってから、肯定する。
「……あのスライムか?」
もう1度、肯定した。
すると、セインが小さく笑った。
「気になるなら、もう少し見ていくか?」
……見ていく。
その言葉に、俺は少しだけ身体を止めた。
そうだった。
今の俺には、見ることができない。
だが、触れることはできる。
振動を感じることもできる。
……それでも。
「……いつか、見られるようになりたいな」
俺は静かに身体を縮めた。
セインは俺の反応をどう受け取ったのか、少し考えたあとで言った。
「……あいつ、もう水草の陰へ入ったみたいだぞ」
……そうか。
俺はゆっくり触手を持ち上げた。
それなら、もう大丈夫だろう。
⸻
小屋へ戻ると、ルナが待っていた。
「帰ったか、ノア」
俺は触手を持ち上げて挨拶する。
「今日は怪我をしておらぬだろうな?」
……開口一番それか。
俺は大きく否定した。
「……ふむ。ならばよい」
ルナは満足そうに息を吐いた。
セインが笑いながら、今日の出来事を説明してくれた。
水路へ入り込んだスライム。
詰まっていた枯れ枝。
俺が流れを変えたこと。
そして、普通のスライムを傷つけずに済んだこと。
話を聞き終えたルナは、少し意外そうな声を出した。
「……ほう。普通のスライムに出会ったのか」
俺は肯定した。
「どうだった?」
……どう、と言われても。
俺は少し考えた。
柔らかい身体。
水に押されて動く感触。
刺激を与えられると逃げようとする反応。
そして、自分とは違う、ゆっくりとした動き。
今まで、普通のスライムというものを見たことがなかった。
だが、今日初めて触れた相手は、思っていた以上に自分と似ていた。
……それなのに。
「……違うんだよな」
俺は身体を小さく揺らした。
すると、ルナが静かに言った。
「貴様とは、随分と違ったのだろう?」
……うん。
俺は肯定した。
「当然だ。貴様は普通のスライムではないのだからな」
……それはそうなんだけど。
「……何だ?」
ルナが少し不思議そうにした。
俺は粘土板へ触手を伸ばした。
そこには、昨日まで練習していた文字が残っている。
『ノア』。
『仲間』。
俺はその横へ、小さな丸を2つ描いた。
片方は少し大きく。
もう片方は、小さく。
そして、2つの間に短い線を引く。
「……む?」
ルナが首を傾げたらしい。
「何を描いたのだ?」
……俺と、普通のスライム。
そう伝えたかった。
だが、絵だけでは分からないらしい。
俺は自分の身体を叩き、大きな丸を指す。
続いて、扉の方へ触手を向け、小さな丸を指した。
「……ああ」
ルナがようやく理解した。
「貴様と、今日出会ったスライムか」
俺は肯定した。
「……ふむ」
ルナは少し考え込んだ。
「何か気になることでもあるのか?」
……ある。
かなりある。
俺は大きく肯定した。
すると、ルナが静かに言った。
「……ならば、ひとつ教えてやろう」
……お?
俺は触手を持ち上げた。
「スライムというのは、ひとつの種族だけを指す言葉ではない」
……え?
俺は動きを止めた。
「人間が、似たような姿の魔物をまとめてそう呼んでいることもある。水辺に棲むものもいれば、洞窟に棲むものもいる」
……なるほど。
「身体の性質も、すべて同じとは限らぬ。だから、見た目が似ているからといって、同じ種族だと決めつけることはできぬのだ」
……そうなのか。
俺は少し驚いた。
これまで、スライムと呼ばれるたびに、原初種とは違うのにと思っていた。
だが、そもそもスライムという呼び方自体が、かなり広いものなのかもしれない。
「……じゃあ、原初種は?」
俺は心の中で呟いた。
ルナは俺の種族名を知らない。
だから、今ここで詳しく聞くことはできない。
それでも。
「……いつか、ちゃんと知りたいな」
そんな気持ちは、以前よりも強くなっていた。
⸻
「それにしても、妙だな」
ルナがぽつりと呟いた。
……ん?
俺は触手を向けた。
「貴様は、普通のスライムとは違う。だが、我が知る限り、貴様のような魔物は聞いたことがない」
……そうなのか。
俺は身体を少し縮めた。
「身体を自在に変え、捕食した相手の性質を取り込む。しかも、人間の言葉を理解し、文字まで覚えようとしておる」
ルナはゆっくり続けた。
「それほどの力を持つ種族なら、どこかに記録が残っていてもおかしくないのだが……」
……記録。
俺はその言葉へ反応した。
記録があるなら、調べればいい。
人間の村には、本や文字がある。
もっと大きな町なら、魔物について詳しく書かれた資料もあるかもしれない。
「……それだ!」
俺は思わず身体を伸ばした。
「……む?」
ルナが反応する。
俺は粘土板へ触手を押しつけた。
そして、四角い形を描く。
その内側に、短い線を何本か並べた。
本。
本のつもりだった。
「……何だ、これは?」
……ですよね。
俺は少し考えた。
そして、四角い形を2つ並べる。
開いた本を表したつもりだ。
「……ふむ」
ルナが少し考え込む。
「……書物か?」
……おお!
俺は大きく肯定した。
「……なるほど」
ルナが小さく笑った。
「自分の種族について、書物で調べたいのだな」
……正解!
俺は触手を勢いよく動かした。
すると、ルナは少しだけ黙った。
やがて。
「……悪くない考えだ」
その声は、いつもより少し真面目だった。
「ただし、この村には大きな書庫などないだろう。調べるなら、もっと大きな町へ行く必要があるかもしれぬ」
……大きな町。
俺は身体を止めた。
この世界には、まだ知らない場所がたくさんある。
人間の町。
冒険者が集まる場所。
魔術を教える場所。
そして、魔物について調べられる場所。
そこへ行けば、原初種について何か分かるかもしれない。
「……楽しみだな」
俺は身体を小さく揺らした。
だが、その直後。
「……ただし!」
ルナの声が少し強くなった。
……はい。
「まずは我の脚が治ってからだ。貴様も、今は無理をするでないぞ」
……分かってるよ。
俺は素直に肯定した。
「……ふふっ。それならよい」
ルナが笑う。
そして、少しだけ静かな声で続けた。
「いつか、貴様が何者なのか分かる日が来るとよいな」
……うん。
俺も、そう思う。
「だが、それまでは」
柔らかな尻尾が、俺の身体へ軽く触れた。
「我にとっては、ノアで十分だ」
「…………」
俺は少しだけ動きを止めた。
……ノア。
そうだな。
原初種が何なのかは、まだ分からない。
だが、俺には名前がある。
仲間がいる。
今は、それだけでも十分なのかもしれない。
俺は触手を伸ばし、ルナの前脚へそっと触れた。
すると、彼女が小さく笑った。
「……さて、ノア」
……ん?
「書物を調べたいのなら、もっと文字を覚えねばならぬな?」
……あ。
それは、そうだ。
「それに、我の名前を書くという約束も、まだ果たしておらぬぞ」
…………。
……覚えてたか。
俺が身体を縮めると、ルナは楽しそうに笑った。
「ふふっ。逃がさぬからな」
……はいはい。
分かりましたよ。
俺は粘土板の表面を均し、触手の先端を細くした。
今日は、もう少し練習してみるか。
今度は『ルナ』の文字。
それから、いつかは。
自分の種族について書かれた文章を、自分で読めるようになりたい。
……まあ、その前に。
「……本って、触って読めるのかな」
俺はそこで、ふと動きを止めた。
紙に書かれた文字は、粘土板の溝とは違う。
触手でなぞっても、形が分からないかもしれない。
……あれ?
待てよ。
文字を覚えたとしても、本を読めないんじゃ……。
「……ノア?」
ルナが不思議そうに声をかけてきた。
「どうした。急に動かなくなって」
俺はゆっくりと触手を下ろした。
……そうだった。
俺、まだ目がないんだった。
どうやら、文字を覚えるだけでは解決しない問題が、もうひとつ残っているらしい。
「……先は長いなぁ」
俺は粘土板へ身体を寄せた。
すると、ルナが笑った。
「何だか分からぬが、また難しいことを考えておるな?」
……まあね。
俺は触手を小さく揺らした。
だが、嫌な気分ではなかった。
できないことが分かれば、別の方法を考えればいい。
今までも、そうしてきたのだから。
そして、いつか。
自分の目で、この世界を見てみたい。
そのときは、まず最初に何を見ようか。
俺は少し考えたあと、隣にいるルナの方へ触手を伸ばした。
……答えは、もう決まっていた。




