ここにいていい理由
第2部 第7話 ここにいていい理由
「……来たな」
俺がそう思ったのは、小屋の外から3人分の足音が伝わってきたときだった。
先頭を歩く人物は、ゆっくりとした歩調で進んでいる。足音の間に、硬い棒が地面を叩くような振動が混じっていた。
……コツ。
……ざっ。
……コツ。
後ろの2人には覚えがある。
1人はマルタ。
もう1人は、昨日ここを訪ねてきた警備隊長のハルドだ。
ということは。
「……村長か」
俺は粘土板から触手を離した。
昨日の夕方から、何度も文字の練習をしていた。
自分の名前。
ルナの名前はまだ覚えられていないが、『仲間』と『水』なら、多少歪んでも書けるようになってきた。
それでも、今日の面会で役に立つかどうかは分からない。
何しろ、俺が伝えたいことは、そんな短い言葉だけでは収まらないのだから。
「ノア」
隣からルナの声がした。
「緊張しておるのか?」
俺は少し迷ってから肯定した。
「……ふふっ。正直でよろしい」
ルナは小さく笑った。
「案ずるな。相手が何を言おうと、我らが仲間であることは変わらぬ」
……そうだな。
俺はルナの前脚へそっと触れた。
すると、柔らかな毛に覆われた脚が、軽く押し返してきた。
「それに、もし話がまとまらなければ、別の方法を考えればよいだけだ」
……簡単に言ってくれる。
ルナの右後ろ脚には、まだ痺れが残っている。
マルタの薬で少しずつ改善しているらしいが、まともに歩けるようになるまでには時間がかかるそうだ。
俺の身体も、完全には回復していない。
できれば、もうしばらくここで休ませてもらいたい。
ただ、そのためにルナと引き離されるようなことだけは、絶対に避けたかった。
……コン、コン。
扉が叩かれた。
「エルデ村の村長、オルネスだ。入っても構わんかね?」
落ち着いた低い声だった。
ルナが答える。
「うむ。入るがよい」
扉が開き、外の風が流れ込んできた。
俺は感知膜の向きを調整しながら、訪問者たちの動きへ意識を集中させた。
さて。
どうなることやら。
⸻
「ほう……」
小屋へ入って最初に聞こえたのは、村長らしき人物の感心したような声だった。
「白銀の毛並みに、立派な尾。確かに普通の獣ではなさそうだな」
「我の姿を見に来たのか?」
ルナが少し不満そうに返す。
「いやいや。失礼した」
男は穏やかに笑った。
「何しろ、人間の言葉を話す魔獣と会うのは初めてでね」
「ならば、存分に驚くがよい。だが、見世物になるつもりはないぞ」
……ルナ。
初対面から強気だな。
俺が少し心配していると、村長はまた笑った。
「これは手厳しい。どうやら、随分とはっきりした性格のようだ」
「……悪いか?」
「いや。話し合いがしやすくて助かるよ」
……おお。
この人、なかなか手強そうだ。
ルナの言葉を受け流しながら、自然に会話を進めている。
「改めて、私はオルネス。このエルデ村の村長を務めている。今日は君たちの今後について相談したくて来た」
「我はルナリス。ルナでよい」
「うむ。よろしく頼むよ、ルナ」
続いて、足音が少し移動した。
どうやら、俺の方を向いたらしい。
「それから……こちらがノアかね?」
……来た。
俺は触手を1本持ち上げた。
そして、小さく左右へ振る。
「……ほう」
村長が少し驚いた。
「これは挨拶かね?」
肯定する。
「なるほど。ハルドの報告どおり、こちらの言葉が分かるようだな」
「はい。昨日、いくつか質問をして確認しました」
ハルドの声が続いた。
「それに、文字まで書きます」
「……文字?」
村長の足音が止まった。
「魔物がか?」
……また、その反応か。
そろそろ慣れてきたな。
俺は粘土板へ触手を伸ばした。
すると、村長が小さく声を上げる。
「おや。何か見せてくれるのかね?」
……そのつもりです。
俺は触手の先端を細くした。
まずは、自分の名前。
昨日から何度も練習した文字だ。
最初の線を引く。
続いて、曲線。
最後に、もう1文字。
……ぐっ。
……ぐぐっ。
書き終えたところで、触手を引っ込めた。
「……ノア」
村長が読み上げた。
「ほう。これは確かに名前だな」
……よし。
ちゃんと読めた。
「自分で書いたのかね?」
肯定する。
「誰かに教わったのだろう?」
もう1度、肯定。
「……なるほど」
村長は少し考え込んだ。
やがて、静かに言った。
「実に興味深い」
……ありがとうございます。
ただ、村長はそこで話を終えなかった。
「では、ひとつ聞こう」
……ん?
「ノア。君は人間に飼われている魔物なのかね?」
俺は触手を止めた。
また、その質問か。
昨日もハルドに似たようなことを聞かれた。
俺はゆっくりと、触手を左右へ振った。
「……違うのか」
もう1度、否定する。
「では、ルナに従っているのかね?」
……それも違う。
俺は首の代わりに触手を振った。
すると、ルナが口を開いた。
「ノアは我の仲間だ。主人でも従者でもない」
「……仲間、か」
村長が静かに繰り返した。
「だが、君たちは種族が違うようだね」
「それが何か?」
「いや。少し不思議に思っただけだ」
男は穏やかな口調を崩さなかった。
「普通、魔物同士が協力する場合は、群れを作るか、強い個体が弱い個体を従えることが多いと聞く」
……へえ。
そうなのか。
「しかし、君たちはどちらでもないらしい」
「そうだ」
ルナは迷わず答えた。
「我らは互いに助け合っている。それだけのことだ」
「……ふむ」
村長はしばらく黙っていた。
俺も、その間に考えた。
確かに、俺とルナの関係は少し変わっているのかもしれない。
種族は違う。
出会ったばかり。
しかも、片方は言葉を話せず、もう片方は脚を怪我している。
普通なら、一緒に旅をするような組み合わせではないだろう。
だが。
「……別に、それで困ってないしな」
俺は粘土板の空いた場所へ触手を伸ばした。
そして、もう1つの言葉を書き始める。
『仲間』。
昨日よりは速く書けた。
ただ、最後の線が少し曲がってしまった。
……まあ、読めればいいか。
「……おや」
村長が反応した。
「こちらは『仲間』と書いてあるのか」
俺は肯定する。
そして、ルナへ触手を向け、自分の身体を軽く叩いた。
村長はしばらく黙った。
やがて。
「……なるほど」
小さく息を吐いた。
「君自身も、そう考えているわけだね」
俺は大きく肯定した。
「……分かった」
その声は、少しだけ柔らかくなった気がした。
「少なくとも、互いの意思で一緒にいることは理解したよ」
……よかった。
まずは、そこを分かってもらえたらしい。
⸻
「さて、本題に入ろうか」
村長がそう言うと、小屋の中の空気が少し変わった。
マルタもハルドも、黙って話を聞いている。
俺は感知膜を調整した。
風の影響を減らすため、薄い膜を少し小さくし、村長のいる方向へ向ける。
「まず、ルナの怪我についてはマルタから聞いている」
「……うむ」
「当面は安静が必要で、薬による治療も続けるべきだそうだね」
「そのとおりだよ」
マルタが答えた。
「傷は少しずつ落ち着いてきているけど、毒の影響が残っている。無理に移動させたら悪化する可能性もある」
「……なるほど」
村長は小さく息を吐いた。
「ならば、今すぐ村から離れてもらうのは得策ではないな」
……お?
俺は身体を持ち上げた。
それって、つまり。
「ただし」
……あ。
まだ続きがあるのか。
「村人たちの不安も無視できない」
村長の声が真面目になった。
「君たちが危害を加えるつもりはないと言っても、それだけで安心できる者ばかりではないのだよ」
……そうだよな。
昨日、小屋を訪ねてきた村人のことを思い出す。
あの人も、最初は随分と警戒していた。
だが、俺が文字を書けると知って、少しだけ態度が変わった。
それでも、完全に安心したわけではなかった。
「私は村を預かる立場だ」
村長は続けた。
「万が一、君たちが村人を傷つけた場合、誰が責任を取るのか。逆に、村人が君たちを恐れて攻撃した場合、どう対処すべきか」
……逆に?
俺は少し驚いた。
村長は俺たちが人間へ危害を加える場合だけでなく、人間が俺たちを襲う可能性も考えているらしい。
「どちらも、できれば避けたい」
……そのとおりです。
俺は静かに肯定した。
「そこで、ひとつ提案がある」
村長は少し間を置いた。
「君たちには、しばらくこの小屋で療養してもらおうと思う」
……おお!
俺は思わず身体を伸ばした。
だが、すぐに動きを止める。
落ち着け。
まだ話の途中だ。
「ただし、条件がある」
……ですよね。
「まず、村の中へ入るときは、必ず私か警備隊へ相談すること。勝手に村へ入り込むことは認められない」
俺は肯定した。
「次に、村の家畜や畑へ手を出さないこと」
もう1度、肯定。
「そして、村人から何か言われても、決して先に攻撃しないこと。危険を感じた場合は、その場から離れて警備隊へ知らせてほしい」
……なるほど。
どれも、理解できる条件だった。
「もちろん、こちらも村人へ説明する。君たちへ石を投げたり、勝手に捕まえようとしたりすることは禁じるつもりだ」
……え?
俺は動きを止めた。
「何だね?」
村長が不思議そうに尋ねてくる。
俺は慌てて触手を左右へ振った。
いや。
ちょっと驚いただけだ。
魔物である俺たちにも、きちんと配慮してくれるとは思っていなかった。
「……ふむ」
村長は少し考えた。
「私の条件が厳しすぎるかね?」
俺はすぐに否定した。
「……違う?」
今度は肯定する。
……ああ、ややこしい。
俺は少し考え、粘土板へ触手を伸ばした。
書ける言葉は少ない。
だが、今の気持ちを伝える方法なら、ひとつある。
俺は文字の代わりに、触手の先端を少し広げた。
そして、村長の方へゆっくりと差し出す。
「……ん?」
村長が反応した。
「握手、かね?」
……おお!
俺は大きく肯定した。
すると、村長が小さく笑った。
「なるほど。そういうことか」
少しして、硬いものが俺の触手へ触れた。
……ごつっ。
手だ。
大きく、少し硬い。
俺は《粘着性》を使わず、ただ柔らかな触手を軽く巻きつけた。
「……ほう」
村長が驚いたような声を出す。
「不思議な感触だな」
……まあ、そうでしょうね。
人間の手にとって、俺の身体は相当変わった感触なのだろう。
だが、今はそれでいい。
「……よろしく頼むよ、ノア」
村長が静かに言った。
俺は触手を小さく上下へ動かした。
……こちらこそ。
⸻
「ただし、ひとつ問題がある」
握手を終えたあと、村長は再び真面目な声になった。
「食料だ」
……食料?
俺は思わず反応した。
「ルナの分は、こちらで用意できる。怪我をした者を放っておくわけにもいかないからね」
「……世話になる」
ルナが答えた。
「だが、ノアの食事については、まだよく分かっていない」
……ああ。
そういうことか。
「何を食べるのか。どれくらい必要なのか。そこが分からなければ、村としても対応に困る」
確かに。
俺の身体は、捕食によって栄養を取り込む。
洞窟では虫や小さな生物を食べていた。
外へ出てからも、木の根元にいた虫を捕まえた。
だが、ほかに何が食べられるのかは、まだ十分に分かっていない。
「ノア」
マルタが声をかけてきた。
「お前さん、森の虫を食べているんだったね?」
肯定する。
「ほかには?」
……ほか。
俺は少し考えた。
草も取り込めた。
ただし、栄養としては効率が悪かった。
「……どう伝えよう」
俺は粘土板へ触手を伸ばしかけ、途中で止めた。
今の俺が書ける文字では説明できない。
すると、ルナが口を開いた。
「ノアは小さな生物を捕食する。虫などを主に食べているようだ」
「……なるほど」
村長が考え込む。
「では、大きな獣や家畜を必要とするわけではないのだな?」
俺は触手を左右へ振った。
少なくとも、今は必要ない。
「……それなら、森で食料を探すこと自体は認められそうだ」
……おお。
俺は少し安心した。
「ただし、村の管理している森の奥へは勝手に入らないでほしい。魔物もいるし、狩猟に使う罠もある」
……罠か。
それは気をつけないと。
俺の身体なら狭い隙間へ入れるが、罠の種類によっては危険なものもあるだろう。
「まずは、小屋の周囲で必要な分だけ探すといい」
俺は了承した。
すると、村長が少しだけ笑った。
「……なかなか素直だな」
……まあ。
無茶なことは言われてないですから。
「ただし、困ったことがあれば、すぐに知らせるんだよ」
マルタが口を挟んだ。
「食べ物が足りないなら、相談しておくれ。村には畑の害虫もいるからね」
……害虫?
俺は思わず触手を持ち上げた。
「……何だい?」
マルタが反応する。
「虫に興味があるのかい?」
肯定する。
すると、マルタが少し笑った。
「ふふっ。ならば、ちょうどいいかもしれないね」
……ん?
俺は身体を止めた。
「畑に入り込む虫を捕まえてもらえれば、村の者も助かるかもしれない」
……おお!
なるほど!
俺が虫を食べる。
村は害虫が減る。
これなら、互いに得があるじゃないか!
俺は思わず身体を大きく揺らした。
すると、ルナが笑った。
「……分かりやすいやつだ」
……いや、だって!
食べ物も手に入って、人の役にも立てるんだぞ?
こんなに都合のいい話、なかなかないだろ!
だが、その直後。
「……ただし」
村長が静かに言った。
「いきなり畑へ入るのは駄目だよ」
……あ。
そうだった。
「まずは村人たちに説明する必要がある。もしお願いすることになったら、必ず誰かが付き添うようにしよう」
……了解。
俺は落ち着いて肯定した。
「……ふむ」
村長は少し考え込んだ。
「しかし、興味深い話だな」
「何がだ?」
ルナが尋ねる。
「魔物が村へ危険をもたらすのではなく、村の暮らしを助ける可能性があるということだよ」
……。
俺は動きを止めた。
村の暮らしを助ける。
今まで、そんなことは考えていなかった。
俺ができることといえば、虫を食べたり、岩へ張りついたり、身体を変形させたりするくらいだと思っていた。
だが、使い方次第では、それが誰かの役に立つのかもしれない。
「……面白いな」
俺は身体を小さく揺らした。
原初種としての能力は、まだ分からないことばかりだ。
だが、戦うこと以外にも使い道がある。
それを知れただけでも、少し嬉しかった。
⸻
「では、当面はそれでよいだろう」
村長が言った。
「まずは1週間、この小屋で療養してもらう。その間に怪我の状態を確かめ、今後どうするか相談しよう」
……1週間。
俺は少し考えた。
この世界の日数の数え方も、元の世界と同じなのだろうか。
少なくとも、村長たちは普通に1週間という言葉を使っている。
……まあ、その辺りは後で聞けばいいか。
「ただし、1週間で怪我が治らなかったからといって、すぐ追い出すつもりはないよ」
村長は続けた。
「治療の経過を見ながら判断する。約束を守ってくれれば、こちらも誠実に対応しよう」
……ありがたい。
俺は触手を持ち上げた。
「ルナも、それでよいかね?」
「……うむ」
ルナは静かに答えた。
「我としても異論はない。世話になる」
「では、決まりだ」
村長が小さく笑った。
「ハルド。小屋の入口へ、滞在を認めていることが分かる札をつけておいてくれ」
「分かりました」
ハルドが答える。
「村人へも事情を説明しておきます」
「頼むよ。ただし、ノアの能力について必要以上に広めないように」
……ん?
俺は少し気になった。
能力を広めない?
「珍しい魔物がいると知れば、余計な騒ぎになるかもしれないからね」
村長は穏やかに説明した。
「君たちには、まず安心して休んでもらいたい」
……なるほど。
俺はゆっくり肯定した。
それなら、ありがたい。
ただ。
「……いつまでも隠れて暮らすわけにはいかないんだろうな」
そんなことも考えた。
今は怪我の治療が最優先だ。
だが、いずれルナが元気になれば、また旅をすることになる。
そのとき、俺たちはどこへ向かうのだろう。
村を出て、森を越えて。
もっと大きな町へ行くことになるのかもしれない。
そのときも、人間から見れば俺たちは魔物だ。
また、同じような説明を求められる可能性がある。
「……もっと話せるようにならないとな」
俺は自分の身体へ意識を向けた。
《構造形成》。
《摩擦発音》。
今の俺には、声を出すための仕組みを作ることができる。
ただし、まだ母音に近い音を作れる程度だ。
今まで何度も試してきたが、言葉として聞き取ってもらえるほどの発声には至っていない。
それでも。
いつか、ちゃんと話せるようになれば。
今日みたいな場面でも、もっと自分の意思を伝えられるはずだ。
「……よし」
俺は身体を小さく揺らした。
当面の目標が、またひとつ増えたな。
⸻
村長たちが帰ったあと、小屋には静けさが戻った。
俺は床へ身体を広げ、久しぶりに大きく伸びをした。
……ぐにゅう。
「……何だ、ノア」
ルナが声をかけてきた。
「随分と気が抜けたようだな」
……そりゃそうだろ。
今日の面会がどうなるか、かなり心配してたんだから。
俺が触手を揺らすと、ルナが小さく笑った。
「……ふふっ。まあ、無理もない」
そして、少しだけ静かな声で続けた。
「悪くない村のようだな」
……うん。
俺も、そう思う。
ボルク。
セイン。
エマ。
マルタ。
ハルド。
そして、村長のオルネス。
まだ出会ったばかりの人たちだ。
だが、少なくとも今まで接した限りでは、俺たちをただの危険な魔物として扱う人ばかりではなかった。
もちろん、全員が信用してくれるわけではない。
怖がる人もいる。
警戒する人もいる。
それでも、話を聞こうとしてくれる人たちがいる。
……それだけで、十分ありがたいことだと思う。
「……ノア」
ルナが静かに呼びかけた。
俺は触手を持ち上げた。
「少し、こちらへ来ぬか」
……ん?
俺は身体を伸ばし、ルナの方へ移動した。
すると、柔らかな毛が触れた。
……ふさっ。
「……ふふっ」
ルナが小さく笑った。
「よく頑張ったな」
……え?
「自分の意思を伝えるのは、簡単ではなかっただろう」
……まあ、そうだな。
「だが、貴様は逃げなかった。きちんと相手の言葉を聞き、自分の考えを示した」
……。
俺は少しだけ身体を止めた。
「それは、立派なことだと思うぞ」
……ルナ。
俺は何となく照れくさくなり、身体を小さくまとめた。
すると、ルナが楽しそうに笑った。
「……何だ。褒められるのは苦手か?」
……いや。
苦手というか。
慣れてないんだよ。
俺は触手を少しだけ揺らした。
「……ふふっ」
ルナの尻尾が、俺の身体へ軽く触れた。
その温かさが、妙に心地よかった。
⸻
その日の夕方。
小屋の入口で、木を叩く音が聞こえた。
……こん。
……こんこん。
俺は身体を持ち上げた。
「……誰だ?」
ルナが問いかける。
「ハルドだ。村長に頼まれた札を持ってきた」
……おお。
もうできたのか。
扉が開き、ハルドが入ってくる。
「小屋の入口へつけておく。これがあれば、少なくとも村の者には事情が伝わるはずだ」
「……世話になる」
ルナが答えた。
ハルドは小さく笑った。
「礼なら村長に言ってくれ。俺は頼まれたことをしてるだけだ」
続いて、木の札を壁へ固定する音がした。
……こん。
……こん。
俺は興味を持ち、入口の方へ身体を伸ばした。
「……ん?」
ハルドが気づく。
「ノア、気になるのか?」
肯定した。
「……そうか」
少し考えたあと、ハルドが説明してくれた。
「この札には、村長の許可で滞在していることを書いてある。村の印も入れてあるから、勝手に作ったものじゃないと分かる」
……なるほど。
俺は触手を伸ばし、札の表面へ触れた。
硬い木。
その表面に、浅い溝がいくつも刻まれている。
文字だ。
俺は慎重になぞった。
だが、当然ながら読めない。
知らない文字ばかりだからだ。
「……まあ、今は無理か」
俺は少し残念に思った。
すると、ハルドが言った。
「ノア。文字を覚えてるんだったな」
肯定する。
「なら、いつかこれも読めるようになるかもしれないな」
……そうだな。
俺は触手を小さく揺らした。
いつか、この札に何が書いてあるのか、自分で読んでみたい。
「……それと」
ハルドが少しだけ声を落とした。
「ひとつ、気をつけておいてくれ」
……ん?
俺は動きを止めた。
「村長が滞在を認めたとはいえ、村の全員が納得したわけじゃない」
……ああ。
そうだろうな。
「特に、子供たちは珍しがって近づいてくるかもしれない。悪気がなくても、予想外のことをする場合がある」
……なるほど。
「だから、知らない相手が来たら無理に対応しなくていい。何かあれば俺たちに知らせてくれ」
俺は肯定した。
ハルドは満足したように息を吐いた。
「……よし。それじゃ、またな」
足音が遠ざかっていく。
扉が閉まり、小屋には再び静けさが戻った。
俺は入口の方へ意識を向けた。
さっき取りつけられた、木の札。
村長の許可で滞在していることを示す札だ。
それがあるだけで、すべての問題が解決するわけではない。
だが、少なくとも。
この場所にいてもいいと、認めてもらえた。
「……よかったな」
俺は心の中で呟いた。
すると、ルナが静かに答えた。
「……うむ」
少しだけ、嬉しそうな声だった。
「これで、しばらくは落ち着いて過ごせそうだ」
俺は触手を上下へ動かした。
……そうだな。
ただ、安心した途端に、別のことが気になり始めた。
村の外れで暮らす。
虫を食べる。
文字を覚える。
ルナの怪我が治るのを待つ。
……それだけで、いいのだろうか。
もちろん、今はそれで十分だ。
だが、俺はこの世界のことを、まだほとんど知らない。
村の外には、どんな町があるのか。
どんな国があるのか。
人間以外には、どんな種族が暮らしているのか。
そして、原初種とは何なのか。
知りたいことは、山ほどあった。
「……やっぱり、旅は続けたいな」
俺は身体を小さく揺らした。
すると、ルナが声をかけてきた。
「……ノア」
……ん?
「何を考えておる?」
俺は少し迷った。
だが、今の俺には簡単に説明する手段がない。
だから、代わりに粘土板へ触手を伸ばした。
最初に、自分の名前。
続いて、『仲間』。
そして、その横へ長い線を引いた。
……ぐっ。
まっすぐ伸びる線。
その先へ、短い線をいくつか加える。
道を描いたつもりだった。
もちろん、絵としてはひどいものだろう。
だが、ルナはしばらく黙ったあと、小さく笑った。
「……旅に出たいのか?」
……おお。
俺は大きく肯定した。
「……ふふっ」
ルナが柔らかく笑った。
「気が早いな。まだ我の脚も治っておらぬというのに」
……それは分かってる。
今すぐじゃない。
ただ、いつか。
「……よかろう」
ルナが静かに言った。
「我の脚が治ったら、また一緒に旅をしよう」
……本当か?
俺は嬉しくなって身体を伸ばした。
「ただし、それまでに貴様も、もう少しまともに話せるようになっておけよ」
……あ。
そこか。
俺は少しだけ身体を縮めた。
すると、ルナが楽しそうに笑った。
「……ふふっ。冗談だ」
少しだけ間を置いて。
「話せなくとも、我らは仲間だろう?」
……うん。
俺はゆっくり肯定した。
その言葉が、何だか嬉しかった。
小屋の外では、夕方の風が木々を揺らしている。
遠くからは、人間たちの生活の振動が伝わってきた。
荷車の車輪。
歩く足音。
何かを叩く音。
誰かの笑い声。
この世界には、俺が知らない暮らしがある。
そして、その中に。
ほんの少しだけ、俺たちの居場所ができた。
「……よし」
俺は粘土板の表面を均した。
今の目標は、文字を覚えること。
声を出せるようになること。
それから、ルナの怪我が治るまで、できるだけ力になること。
やることは多い。
だが、焦る必要はない。
少しずつ進めばいい。
俺は触手を伸ばし、もう1度、自分の名前を書き始めた。
ノア。
それは、この世界で初めて誰かからもらったものだ。
そして今は。
自分がここにいることを、誰かに伝えられる名前でもあった。




