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ゲームだと思ったら原初の生命に転生しました。  作者: くんくん
第2部

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名乗れない魔物

第2部 第6話 名乗れない魔物


自分の名前を、文字にできるだろうか。


そんなことを考え始めたのは、エマが来る少し前のことだった。


小屋の床には、昨日使った粘土板が置かれている。


俺はその前に身体を広げ、触手の先端で表面を確かめていた。


覚えた文字は、まだ少ない。


『水』と『仲間』。


それだけだ。


「……名前くらい、書けるようになりたいよな」


ノア。


ルナが俺につけてくれた名前。


頭の中では簡単に思い浮かぶのに、この世界の文字ではどう書くのか分からない。


試しに粘土板へ線を引いてみた。


……ぐっ。


短い線。


その横に、曲がった線。


もちろん、意味なんてない。


ただの落書きだ。


「何をしておる?」


背後からルナの声がした。


俺は触手を持ち上げる。


「また文字の練習か。ずいぶん気に入ったようだな」


肯定すると、ルナは小さく笑った。


「まったく。昨日はあれほど人間とのやり取りで疲れておったのに、懲りぬやつだ」


……だからこそ、なんだけどな。


昨日、小屋を訪ねてきた警備隊のハルドとは、何とか意思疎通ができた。


だが、質問のほとんどは相手からしてもらう必要があった。


俺が何か伝えたくても、相手に質問してもらえなければ答えられない。


それが、思っていた以上にもどかしかった。


「……もう少し、どうにかしたい」


俺は触手を細くし、もう1度粘土へ押しつけた。


すると、ルナが静かに言った。


「ならば、今日はエマにしっかり教わるとよい。あの娘も楽しみにしておったからな」


……そうだな。


俺は粘土板の表面を均した。


今日の目標は、自分の名前。


まずは、それを覚えることにしよう。


⸻


「おはようございます!」


扉が開き、元気な声が小屋へ飛び込んできた。


エマだ。


続いて、少し遅れて別の足音が入ってくる。


「朝から元気だねえ。そんなに大きな声を出さなくても聞こえているよ」


マルタだった。


「だって先生、今日はノアに名前の書き方を教えるんですよ!」


「分かってるよ。その前にルナの診察だ」


「あっ、そうでした!」


……エマ。


俺は思わず身体を揺らした。


「おや、ノアも起きているね」


マルタが声をかけてくる。


俺は触手を持ち上げ、挨拶代わりに小さく振った。


「ふふっ。元気そうで何よりだよ」


マルタはそのままルナの方へ歩いていった。


「さて、脚の具合はどうだい?」


「昨日よりは少し楽になった。だが、痺れはまだ残っておる」


「痛みは?」


「傷の周りは痛む。ただ、触れられたときの感覚が少し戻った気がするな」


「それなら、薬が効き始めているのかもしれないね」


布をほどく音がした。


俺は邪魔にならないよう、少し離れた場所へ移動する。


「……ふむ」


マルタはしばらく傷を調べていた。


途中、何度かルナへ質問する。


触れた場所が分かるか。


脚の先に力が入るか。


痺れは広がっていないか。


ルナはそのひとつひとつに答えていた。


やがて、マルタが小さく息を吐く。


「悪くはなっていないね」


……おお。


俺は思わず触手を持ち上げた。


「ただし、まだ安心するには早いよ。痙攣は減っているようだけど、毒の影響が完全に消えたわけじゃない」


……なるほど。


「傷の腫れも残っている。今日は引き続き安静。勝手に歩くんじゃないよ」


「……分かっておる」


ルナが少し不満そうに答えた。


マルタは間髪入れずに続ける。


「昨日もそう言ったはずだけどね」


「…………」


……あ。


もしかして。


「ノア」


ルナがこちらへ声を向けた。


「余計な反応をするな」


……まだ何もしてないだろ!


俺は少しだけ身体を縮めた。


マルタが笑いながら、傷へ新しい薬を塗っていく。


「まったく、元気な患者だこと。まあ、その調子なら回復する見込みはあるよ」


「……そうか」


ルナの声が、少しだけ柔らかくなった。


俺も安心した。


すぐに治るわけではない。


それでも、悪化していないと分かっただけで十分だった。


⸻


診察が終わると、エマが待ちきれない様子で粘土板を持ってきた。


「それじゃあ、始めましょう!」


……おお。


来たな。


「今日はノアの名前です!」


俺は触手を持ち上げた。


「昨日、先生にも相談したんですけど、最初は音を表す文字から覚えた方がいいそうです」


……音を表す文字?


「人の名前は、音に合わせて文字を組み合わせて書くことが多いんです。ノアなら、覚える文字は2つですね」


……なるほど。


この世界の文字がどうなっているのかは、まだよく分からない。


だが、少なくとも名前を書くために、膨大な数の文字を覚える必要はなさそうだ。


エマは木の棒を使い、粘土板へ何かを書き始めた。


……ぐっ。


……ぐぐっ。


「はい。これが『ノ』の音を表す文字です」


俺は触手を伸ばし、溝をなぞった。


少し長い線。


途中で曲がり、最後に短い線が続く。


「……ふむ」


形そのものは、それほど複雑ではない。


ただ、俺には文字を見ることができない。


線の長さや角度を、触手で確かめながら覚えるしかなかった。


「……では、書いてみましょう!」


俺は空いた場所へ触手を押しつけた。


最初の線。


少し曲げる。


最後に短く。


……よし。


「……あれ?」


エマが首を傾げたらしい。


「ノア、最後の線が反対です」


……あ。


やっぱり。


俺は書いた部分へ触手を伸ばした。


だが、どこが違うのか分からない。


「ここです」


エマが木の棒で、間違えた部分を軽く叩いた。


……こつ。


「こっちへ伸ばすんですよ」


……なるほど。


俺はもう1度、同じ形を書いた。


今度は慎重に。


「……あっ、できました!」


……おお!


「ちゃんと読めます!」


俺は嬉しくなって身体を揺らした。


すると、隣でルナが笑った。


「まだ1文字だぞ、ノア」


……分かってるよ。


でも、最初の1文字って大事じゃないか。


「ふふっ。では、次だな」


エマも楽しそうに続けた。


「はい! 次は『ア』です!」


⸻


2つ目の文字は、最初の文字より難しかった。


曲線が多く、途中で線が交わっている。


触手でなぞるだけなら問題ない。


だが、自分で同じ形を作ろうとすると、なぜか位置がずれてしまう。


「……あれ?」


また失敗した。


俺は粘土を均し、書き直した。


今度は線が長すぎた。


次は、曲げる位置が違った。


「……くそっ」


俺は少しだけ焦っていた。


《構造形成》を使えば、細い触手くらい簡単に作れる。


岩の亀裂へ入り込むことだってできる。


それなのに、たった1文字を思いどおりに書けない。


「……難しいな」


俺が手を止めると、エマが声をかけてきた。


「ノア、少し休みますか?」


俺は否定した。


「でも、ずっと練習してますよ?」


……大丈夫。


まだ続けられる。


俺は触手を伸ばしかけた。


だが、そこでルナが口を開いた。


「ノア」


……ん?


「急いで覚える必要はないぞ」


俺は動きを止めた。


「貴様は、できぬことがあるとすぐに何とかしようとする。それ自体は悪くないが、焦れば余計にうまくいかぬこともある」


……うっ。


思い当たる。


かなり思い当たる。


洞窟でも、身体を思いどおりに動かせなくて何度も失敗した。


声を出そうとして、構造を崩したこともあった。


「それに、文字というものは形を作れば終わりではない。相手に伝わらねば意味がなかろう?」


……そのとおりだ。


俺は触手を引っ込めた。


少しだけ考える。


今、俺がやろうとしているのは、文字の形を覚えること。


だが、俺には目がない。


普通の人間と同じ方法で覚えようとしても、難しいのは当然だ。


だったら。


「……別の方法を考えるか」


俺はエマの書いた文字へ触手を伸ばした。


溝をなぞる。


そのまま、もう1度。


今度は線の長さだけでなく、曲がる位置を意識する。


続いて、触手を動かす順番を覚えた。


どこから始めるか。


どの方向へ進むか。


どこで止めるか。


文字そのものではなく、書く動きを覚える。


「……これなら」


俺は粘土板の空いた場所へ移動した。


そして、さっき覚えた動きをそのまま再現する。


……ぐっ。


……ぐぐっ。


最後の線を引き終えた。


「……あっ!」


エマが声を上げる。


「できました!」


……本当か!?


「今度はちゃんと『ア』になってます!」


……よし!


俺は身体を大きく揺らした。


「ふふっ。やったな、ノア」


ルナが笑っている。


俺は嬉しくなり、もう1度同じ文字を書いた。


今度は、さっきより少しだけ速く。


「……あ、こっちは少し歪んでますけど、読めます!」


……十分だ!


俺は触手を持ち上げた。


できた。


ようやく、できた。


もちろん、まだ2文字を覚えただけだ。


だが。


その2文字があれば。


「……ノア」


俺は心の中で、自分の名前を呟いた。


そして、粘土板の表面を均した。


⸻


最初に『ノ』。


続いて『ア』。


覚えた動きを、ゆっくりと再現する。


線を引く。


曲げる。


止める。


もう1度、線を引く。


……ぐっ。


……ぐぐっ。


最後に、触手を離した。


「…………」


俺は動かなかった。


自分で確かめた限りでは、形は合っていると思う。


だが、本当に正しいかどうかは分からない。


しばらくして。


「……ノア」


エマの声が届いた。


いつもより少し静かな声だった。


「……できましたよ」


「…………」


……え?


「ちゃんと、ノアって書いてあります」


俺はゆっくりと触手を持ち上げた。


「……本当か?」


もちろん、声にはならない。


だが、エマは俺の反応を見て笑った。


「はい! ちゃんと読めます!」


……おお。


俺は粘土板へ触手を伸ばした。


自分で書いた文字を、もう1度なぞる。


最初の文字。


次の文字。


その組み合わせが、俺の名前を表している。


ノア。


ルナがつけてくれた名前。


今まで、誰かに呼んでもらうことしかできなかった。


だが、今は違う。


自分の意思で、その名前を形にできた。


「……やったな」


ルナが静かに言った。


「うむ。よくできておる」


その声には、いつものからかうような響きがなかった。


俺は何となく嬉しくなり、身体を小さく揺らした。


「じゃあ、次はルナの名前ですね!」


エマが明るく言った。


「……む?」


ルナが反応する。


「我の名か?」


「はい! ノア、きっと書きたいと思いますよ!」


……まあ、書きたいけど。


「……そうか」


ルナは少しだけ黙った。


そして、何でもないことのように言った。


「ならば、楽しみにしておこう」


……お?


今の声。


何だか、ちょっと嬉しそうじゃなかったか?


俺が触手を揺らすと、ルナがすぐに反応した。


「……何だ、ノア」


……いや、別に。


「妙なことを考えておらぬだろうな?」


……考えてませんよ。


俺は素早く触手を引っ込めた。


すると、エマが楽しそうに笑い始めた。


「ふふっ。2人とも、本当に仲良しですね!」


……まあ。


それは否定しないけどな。


⸻


昼を過ぎた頃、思いがけない訪問者が現れた。


……ざっ。


……ざっ。


小屋へ近づいてくる、重い足音。


俺は粘土板から身体を離し、扉の方向へ感知を広げた。


エマも気づいたらしい。


「……あれ? 誰でしょう?」


「マルタではないのか?」


ルナが尋ねる。


俺は触手を左右へ振った。


違う。


少なくとも、マルタの歩き方ではない。


やがて、扉が叩かれた。


……コン、コン。


「すみません。誰かいますか?」


低い男の声だった。


エマが立ち上がる。


「はい!」


扉が開く音。


すると、男が少し驚いたように言った。


「……おや、薬師のところのエマちゃんか」


「こんにちは。どうしたんですか?」


「いや、村の外れに魔獣がいるって聞いてね」


……ん?


俺は身体を小さく縮めた。


「それで、様子を見に来たんだが……」


男の声には、明らかな警戒が混じっていた。


「本当にいるのかい?」


エマが少し困ったように答える。


「いますけど、危険な子たちじゃありませんよ」


「……そうは言ってもねえ」


男は小さく息を吐いた。


「うちには鶏もいるし、畑もある。魔物が近くに棲みついたと聞けば、心配になるさ」


……なるほど。


俺は静かに身体を縮めた。


マルタや警備隊のハルドからも、似たような話を聞いていた。


だが、実際に村人本人から言われると、少し印象が違う。


この人は、俺たちを嫌っているわけじゃないのかもしれない。


ただ、自分の暮らしが危険に晒されることを心配している。


「……貴様」


ルナが口を開いた。


男の動きが止まる。


「……え?」


「我らは、村の家畜や畑を荒らすつもりなどない。無用な心配はせずともよい」


「…………」


沈黙。


やがて。


「……喋った?」


男の声が震えた。


「い、今、魔獣が……?」


「そうだが?」


「…………」


……ああ。


やっぱり驚くよな。


「……エマちゃん」


男が小さく言った。


「これは、聞いていたより大変な話じゃないのかい?」


……大変?


俺は少しだけ身体を強張らせた。


男は続けた。


「言葉を話す魔獣なんて、普通じゃないだろう。そんなものが村の近くにいて、本当に大丈夫なのか?」


「大丈夫です!」


エマが即座に答える。


「ルナもノアも、ちゃんと話が通じますから!」


「ノア?」


「もう1人の子です。こっちに……」


「待て、エマ」


ルナが止めた。


「無理に見せる必要はない。この男は、まだ我らを恐れておる」


……ルナ。


俺は動きを止めた。


確かに、そのとおりだ。


相手が警戒している状態で、俺まで姿を見せたら余計に驚かせるかもしれない。


だが。


「……本当に、それでいいのか?」


俺は少し考えた。


今の俺は、ただ隠れていればいいのだろうか。


怪我をしているルナ。


俺たちを庇おうとしてくれているエマ。


そして、村の生活を心配している男。


それぞれが、違う立場で話をしている。


なのに。


当事者である俺だけが、何も伝えられない。


「……いや」


何も伝えられないわけじゃない。


俺は、足元の粘土板へ触手を伸ばした。


⸻


「……ノア?」


エマが俺の動きに気づいた。


俺は粘土板の表面を均した。


そして、覚えたばかりの文字を書き始めた。


最初の文字。


次の文字。


ゆっくりと、間違えないように。


「……何をしておる?」


ルナも不思議そうにしている。


だが、俺は手を止めなかった。


最後の線を引き終え、触手を離す。


そして、粘土板を軽く叩いた。


……こつ。


「……あっ」


エマが声を上げた。


「ノア、これを見せたいんですね?」


肯定する。


「……分かりました」


エマは少し迷ったようだったが、やがて男へ声をかけた。


「あの、これを見てもらえますか?」


「……何だい?」


「ノアが書いたんです」


「……書いた?」


男の足音が近づいてくる。


ただし、エマのいる場所までで止まった。


どうやら、慎重に距離を保っているらしい。


「……これは」


男が呟く。


「名前かい?」


「はい。ノアって読むんです」


「……誰が書いたって?」


「ノアです」


「…………」


しばらく沈黙が続いた。


やがて。


「……魔物が?」


エマが頷いたらしい。


「はい!」


男は何も言わなかった。


俺は粘土板へ触手を伸ばした。


そして、覚えているもうひとつの文字を書き始めた。


『仲間』。


こちらはまだ難しい。


線の順番を間違えないよう、慎重に進める。


途中で少し曲がりすぎた部分があった。


だが、今さら消して最初から書く余裕はない。


そのまま最後まで書き終えた。


「……あっ」


エマが声を上げる。


「これは、『仲間』ですね!」


……よかった。


読めた。


俺はルナの方へ触手を向け、それから自分の身体を軽く叩いた。


そして、もう1度文字を示す。


「……そういうことか」


ルナが静かに言った。


「ノアは、我の仲間だと伝えたいのだな」


俺は肯定した。


男は、しばらく黙っていた。


やがて。


「……なるほどねえ」


少しだけ、声の調子が変わった。


「本当に、言葉を理解してるんだな」


……はい。


俺は触手を持ち上げた。


「それに、自分の名前まで書けるのか」


男は考え込むように呟いた。


「……こんな魔物は、初めて見たよ」


俺は何も動かなかった。


何を言われるのか、少しだけ緊張していた。


すると。


「……正直に言えば、まだ怖い」


男がそう言った。


……うん。


「言葉が分かるからって、絶対に安全だとは限らないだろう?」


俺は静かに肯定した。


そのとおりだと思う。


人間だって、言葉を話せるからといって、誰もが安全なわけじゃない。


「でも……少なくとも、こっちの話を聞こうとしてるのは分かった」


……。


「俺たちが怖がってることも、分かってくれてるのかい?」


俺は触手をゆっくり上下へ動かした。


すると、男が少しだけ息を吐いた。


「……そうか」


しばらくの間、誰も話さなかった。


そして。


「悪かったね。いきなり押しかけて」


男が静かに言った。


「ただ、村の人間としては心配なんだ。それだけは分かっておくれ」


俺はもう1度、肯定した。


……分かるよ。


少なくとも、分かろうとは思ってる。


「明日、村長が来るんだろう?」


「うむ」


ルナが答えた。


「そのときに、きちんと話をしようと思っておる」


「……そうしてくれると助かる」


男は少しだけ安心したようだった。


「俺も、今日見たことは村長に伝えておくよ」


……え?


俺は身体を止めた。


何を伝えるんだろう。


少し不安になったが、男は続けた。


「魔物が文字を書いたなんて、信じてもらえるか分からないけどね」


エマが笑った。


「本当なんですから、きっと信じてもらえますよ!」


「……ははっ。そうだといいね」


男も小さく笑った。


そして、しばらくして小屋を出ていった。


⸻


「……ふぅ」


男の足音が遠ざかると、俺はようやく身体の力を抜いた。


疲れた。


ただ文字を書いただけなのに、随分と疲れた気がする。


「……ノア」


ルナが声をかけてきた。


「よくやったな」


……ん?


俺は触手を持ち上げた。


「我が話をすれば済むことだと思っていた。だが、貴様自身が意思を示したことで、あの男の反応も変わったようだ」


……そうかな。


俺には相手の顔が見えない。


だから、本当にどう思ったのかは分からない。


ただ、最後の声は最初ほど警戒していなかった気がする。


「……ふふっ」


ルナが小さく笑った。


「名前を書けるようになって、早速役に立ったではないか」


……そうだな。


俺は粘土板へ触手を伸ばした。


さっき書いた文字が残っている。


ノア。


そして、仲間。


自分の名前と、ルナとの関係。


たったそれだけしか伝えられなかった。


だが、何もできなかった昨日までとは違う。


「……次は、もっと」


俺は心の中で呟いた。


自分がどこから来たのか。


何ができて、何ができないのか。


どんなことを考えているのか。


それを、いつか自分の言葉で伝えたい。


「……ノア」


今度はエマが声をかけてきた。


「明日の村長さんとのお話、私も一緒にいていいですか?」


俺は肯定した。


「よかった!」


エマが嬉しそうに笑う。


「ノアが何か書きたくなったら、粘土板を準備しますね!」


……それは助かる。


俺は触手を小さく揺らした。


すると、ルナが静かに言った。


「……だが、ひとつだけ覚えておけ」


……ん?


俺はルナの方へ意識を向けた。


「貴様は、無理に人間へ気に入られる必要などない」


「…………」


俺は動きを止めた。


「危害を加えぬことと、何でも言うことを聞くことは違う。相手を尊重するのは大切だが、自分の意思まで捨てる必要はない」


……ルナ。


「我らは、誰かの持ち物ではないのだからな」


その言葉に、俺はゆっくり触手を持ち上げた。


……そうだな。


今まで、人間に受け入れてもらうことばかり考えていた。


だが、俺たちは別に、人間の従魔になりたいわけじゃない。


ただ、安心して暮らせる場所がほしい。


傷が治るまで休みたい。


そして、いつか自由に旅をしたい。


それだけだ。


「……分かった」


俺はゆっくり肯定した。


すると、ルナが満足そうに笑った。


「……うむ。それでよい」


⸻


夕方。


エマが村へ戻ったあと、俺はもう1度粘土板へ向かっていた。


書くのは、自分の名前。


何度も練習したおかげで、最初より少しだけ速く書けるようになってきた。


もちろん、まだ歪んでいる部分はある。


だが、線の順番と形は覚えた。


「……よし」


俺は最後の線を引き終えた。


そして、その横へ別の文字を書き始める。


『仲間』。


こちらは、まだ少し時間がかかった。


それでも、何とか書き終えた。


「……ルナ」


俺は粘土板を叩いた。


すると、柔らかな足音が近づいてきた。


「……ん?」


ルナが文字を確かめる。


そして、小さく笑った。


「……また書いたのか」


俺は肯定した。


「『ノア』と『仲間』だな」


……うん。


そのとおり。


「……ふふっ」


ルナが笑う。


「では、次は我の名前だな」


……ああ。


そうだった。


俺は少しだけ身体を揺らした。


「約束しただろう?」


……はいはい。


分かってますよ。


俺は触手を持ち上げ、了承の合図を返した。


すると、ルナが満足そうに息を吐いた。


「楽しみにしておるぞ」


……プレッシャーだなぁ。


だが、嫌な気分ではなかった。


明日は村長が来る。


恐らく、簡単な話にはならないだろう。


俺たちは魔物で、人間とは違う。


互いのことを、まだほとんど知らない。


だからこそ、話す必要がある。


それが難しいなら、文字でもいい。


身振りでもいい。


少しずつ、伝えていけばいいのだ。


俺は粘土板へ触手を伸ばした。


自分の名前を、もう1度確かめる。


ノア。


ルナがくれた名前。


そして今は、俺自身が他人へ示せる名前だ。


「……悪くないな」


俺は身体を小さくまとめた。


そのとき、ルナがぽつりと呟いた。


「……ノア」


俺は触手を持ち上げた。


「明日、もし村長が我らを追い出すと言ったら、どうする?」


……え?


俺は動きを止めた。


少し考える。


ルナの脚は、まだ治っていない。


俺の身体も、完全には戻っていない。


今すぐ別の場所へ移動するのは、かなり難しいだろう。


だが、もし本当に追い出されるのなら。


「……どうするかな」


俺はしばらく考えた。


それから、ルナの方へ触手を伸ばした。


そして、そっと前脚へ触れる。


「……ん?」


ルナが不思議そうに声を漏らした。


俺は粘土板を叩いた。


……こつ。


書いてあるのは『仲間』。


その文字を示し、もう1度ルナの前脚へ触れる。


しばらく、沈黙が続いた。


やがて。


「……ふふっ」


ルナが小さく笑った。


「そうか」


その声は、どこか安心したように聞こえた。


「……ならば、どこへ行くことになっても一緒だな」


俺は大きく肯定した。


……もちろん。


それだけは、もう決めている。


ルナが傷ついたままなら、俺が支える。


俺にできないことがあれば、ルナに教えてもらう。


行き先が決まらないなら、2人で考えればいい。


「……よし」


俺は身体を小さく揺らした。


明日、どんな話になるのかは分からない。


だが、少なくとも。


自分の名前くらいは、ちゃんと伝えられるようになった。


次は、自分の意思だ。


それを伝えるために、俺はもう1度、粘土板の表面を指先でなぞった。


小屋の外では、夕暮れの風が木々を揺らしている。


そして、その向こうにあるエルデ村では、明日の面会に向けた話が進んでいるのだろう。


人間にとっては、ただの魔物との話し合いかもしれない。


けれど、俺にとっては違う。


この世界で、自分がどんな存在として生きていくのか。


その最初の答えを、求められているような気がした。

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