魔物の言い分
第2部 第5話 魔物の言い分
扉が開くと、冷たい風が小屋の中へ流れ込んできた。
続いて、重い足音が2つ。
片方はゆっくりとした歩調で、もう片方は少し落ち着きがない。歩くたびに金属が触れ合う音がすることから、どちらも武装しているらしい。
俺は粘土板の陰に身体を隠したまま、感知膜を扉の方へ向けた。
「エルデ村警備隊のハルドだ。こちらは部下のミロ。突然訪ねてすまない」
落ち着いた男の声だった。
少なくとも、いきなり剣を抜くような雰囲気ではない。
「我はルナリス。ルナと呼ぶがよい」
ルナはいつもどおり、堂々と答えた。
「話を聞きたいとのことだったな?」
「ああ。村長から確認を頼まれている」
「何をだ?」
「村の外れに、人間の言葉を話す魔獣が滞在していると報告があった。それも、正体不明のスライムを連れているらしい」
……またスライム。
俺は身体を小さく縮めた。
まあ、見た目でそう判断されるのは仕方ないか。
ハルドは少し間を置いて続けた。
「村へ危険が及ばないか確かめるのが、俺たちの仕事だ。事情を聞かせてもらいたい」
「構わぬ。ただし、我らはここを貸してもらっている身だ。無用な騒ぎは避けたい」
「それはこちらも同じだ」
短いやり取りだったが、互いに警戒しているのが分かった。
ハルドの声は落ち着いている。
ルナも強気な態度を崩していない。
だが、両者とも相手を信用しているわけではないのだろう。
「まず、怪我をしていると聞いたが」
「右後ろ脚を大百足に噛まれた。毒も受けておる」
「岩山の大百足か?」
「そうだ」
ハルドが小さく息を呑んだ。
隣にいたミロも、驚いたように声を上げる。
「隊長、あの大百足って、冒険者が何人もやられたっていう……」
「分かっている」
ハルドは短く答えた。
「それで、どうやって逃げた?」
「岩を崩し、地下河川を利用した。簡単な話ではなかったがな」
「その怪我で、よく生き延びられたな」
「我だけの力ではない」
ルナの声が、少しだけ柔らかくなった。
「ノアが助けてくれた」
……おっと。
俺の話になった。
「ノア?」
ハルドが聞き返す。
「ああ。我の仲間だ」
「……そのスライムの名前か?」
「だから、そやつはノアだと言っておる」
ルナの声が少しだけ不機嫌になった。
どうやら、何度もスライムと呼ばれるのが気に入らないらしい。
……俺以上に気にしてないか?
「分かった。ノアだな」
ハルドは素直に訂正した。
そして、足音がこちらへ向く。
「そのノアというのは、どこにいる?」
「そこだ」
ルナが答えた。
「粘土板の陰に隠れておる」
……えっ。
ちょっと。
いきなり教えちゃうの?
俺は思わず身体を縮めた。
すると、ルナが小さく笑った。
「案ずるな。こちらから危害を加えぬ限り、いきなり斬りかかってくるような男ではなさそうだ」
「……信用してもらえて何よりだ」
ハルドが苦笑した。
「だが、念のため確認はさせてもらうぞ」
重い足音が近づいてくる。
俺は少し迷った末、粘土板の陰から短い触手を伸ばした。
そして、ゆっくりと左右へ揺らす。
「……お?」
ミロが声を上げた。
「隊長、何か出てきましたよ」
「見えている」
「触手、ですよね?」
「そうだな」
「……何で手を振ってるんでしょう?」
……挨拶ですけど。
俺はもう1度、触手を揺らした。
すると、ハルドが小さく息を吐いた。
「ルナ。こいつは、俺たちの言葉を理解しているのか?」
「理解しておる。ただし、まだまともに話せぬ」
「なるほど」
ハルドは少し考えたあと、俺へ声をかけてきた。
「ノア。俺の言っていることが分かるなら、触手を上げてくれ」
俺は素直に持ち上げた。
「……ほう」
「隊長、本当に理解してますよ!」
「まだ分からん。動きを真似ただけかもしれないだろう」
……慎重だな、この人。
でも、確かにそのとおりだ。
俺はハルドの顔を見ることができない。
相手がどこまで警戒しているのかも、声と動きから推測するしかない。
「では、次だ」
ハルドが続けた。
「触手を床につけてくれ」
俺は指示どおりにした。
「もう1度、持ち上げてくれ」
持ち上げる。
「今度は左右へ振ってみてくれ」
左右へ。
「……なるほど」
少しだけ、声の調子が変わった。
「確かに理解しているらしい」
……ようやく信じてもらえたか。
俺は身体の力を緩めた。
だが。
「だからといって、安全だと決まったわけではない」
ハルドは静かに続けた。
「知恵のある魔物ほど危険な場合もある。言葉が分かるというだけでは、村へ近づける理由にはならん」
……うん。
それも正論だ。
少し残念だけど。
「ノアは人を襲わぬ」
ルナが言った。
「少なくとも、我と共にいる間は、そのようなことをしたことがない」
「それは分かった。だが、俺たちは村人の安全を預かっている。確かめずに大丈夫だとは言えん」
ハルドの声には、敵意よりも責任感が感じられた。
この人は、ただ魔物が嫌いなわけじゃない。
仕事をしているのだ。
……それなら、俺も協力するしかないか。
⸻
「ところで、これは何だ?」
ハルドが何かに気づいた。
続いて、粘土板が動く振動が伝わってくる。
「ああ、それはノアが使っているものだ」
ルナが答えた。
「粘土板か。文字の練習でもしていたのか?」
「そうだ」
「誰が?」
「ノアだ」
「…………」
沈黙。
少しして、ミロが笑った。
「いやいや、隊長。いくら賢くても、スライムが字を書くなんて……」
「ノアだ」
ルナが即座に訂正した。
「あっ、はい。ノアですね」
……ルナ、そこは本当に譲らないな。
「それに、実際に書けるぞ」
「……本当ですか?」
「疑うなら、試してみればよい」
……え?
俺は動きを止めた。
ちょっと待ってくれ。
まだ文字を覚え始めたばかりなんですけど。
「……面白い」
ハルドが低く呟いた。
「ノア。ここに書いてある文字は、お前が書いたのか?」
俺は肯定した。
「『仲間』と読める。少々歪んではいるがな」
……そこは言わなくてもいいのに。
「では、ほかの文字も書けるか?」
……ほか?
俺は考えた。
今、確実に書ける文字。
それは。
「……水、だな」
俺は身体を伸ばし、粘土板の端へ移動した。
触手の先端を細くする。
そして、覚えた形を思い出しながら、ゆっくりと線を引いた。
最初の曲線。
続いて、短い線。
最後に、もう1本。
……ぐっ。
よし。
俺は触手を引っ込めた。
「……水?」
ミロが驚いたように声を上げた。
「隊長、これ、本当に『水』って書いてありますよ!」
……おお。
ちゃんと読めた!
「……なるほどな」
ハルドはしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「これは、エマが書かせたのか?」
俺は触手を左右へ振った。
「自分で書いた?」
肯定する。
「……誰かに教わったのか?」
もう1度、肯定した。
「なるほど。少なくとも、言葉を理解して学ぶ能力はあるわけだ」
……そうです。
できれば、もう少し勉強したいと思ってます。
「隊長、すごくないですか?」
ミロの声が弾んだ。
「魔物が文字を書くなんて、初めて見ました!」
「俺もだ」
ハルドが短く答える。
「だからこそ、慎重に扱う必要がある」
……ん?
俺は動きを止めた。
「どういう意味だ?」
ルナが尋ねる。
「珍しい魔物だと知られれば、騒ぎになる。好奇心で近づく者もいれば、捕まえようとする者も出てくるだろう」
……ああ。
マルタも同じことを言っていたな。
「それに、村人が勝手に危険だと判断して襲いかかる可能性もある」
ハルドは少しだけ声を落とした。
「そうなれば、互いに不幸なことになる」
ルナは黙っていた。
俺も、すぐには動けなかった。
確かに、そのとおりだ。
俺が人間を襲うつもりはなくても、人間が俺を恐れる可能性はある。
逆に、何も知らない人間へ突然触手を伸ばせば、攻撃だと勘違いされるかもしれない。
洞窟でルナと出会ったときも、似たようなことがあった。
「……難しいな」
俺は粘土板へ触手を押しつけた。
文字が書けるようになったからといって、すべてが解決するわけじゃない。
むしろ、伝えるべきことが増えた気がする。
⸻
「ひとつ確認したい」
ハルドの声が、さらに真面目になった。
「ルナ。ノアは、お前の従魔なのか?」
……従魔?
俺は動きを止めた。
初めて聞く言葉だった。
「……どういう意味だ?」
ルナも少しだけ声を低くする。
「人間の中には、魔物を使役する者がいる。主人の命令に従わせ、仕事や戦闘を手伝わせるんだ」
……へえ。
そんなことができるのか。
「従魔として管理されているなら、扱いを判断するための情報になる。だが、野生の魔物なら話は別だ」
なるほど。
人間の管理下にいるかどうかが重要なのか。
俺は少し考えた。
ただ、それなら答えは簡単だ。
俺はルナの従魔じゃない。
そもそも、誰かに使役された覚えなんてない。
「……違う」
ルナが即答した。
「ノアは我の従魔ではない」
「そうか」
「そもそも、我も人間の従魔ではない」
「……なるほどな」
ハルドが考え込む。
「となると、扱いが難しい」
……そんなに?
俺は触手を持ち上げた。
「悪く思うな。村の外にいるだけならともかく、魔物が村人の生活圏へ入り込むとなれば、誰かが責任を持たなければならん」
……責任。
その言葉には、妙に覚えがあった。
元の世界でも、似たような話は何度も聞いた。
何か問題が起きたとき、誰が責任を取るのか。
安全をどう確保するのか。
面倒な話ではある。
だが、必要なことでもある。
「……ならば、我が責任を持とう」
ルナが言った。
「ノアが何か問題を起こしたなら、我が対処する」
「気持ちは分かる。だが、村の側からすれば、お前も魔獣だ」
「……何?」
ルナの声が低くなった。
「我の言葉を信用できぬと?」
「そうではない」
ハルドは落ち着いて答えた。
「お前が約束を守るつもりなのは伝わる。だが、村の決まりを守らせる立場として、言葉だけで判断するわけにはいかん」
「……ふむ」
ルナが黙った。
俺も考え込んだ。
どちらの言い分も、分かる。
ルナは俺を守ろうとしてくれている。
ハルドは村人を守ろうとしている。
どちらかが間違っているわけじゃない。
ただ、守りたいものが違うのだ。
……だったら。
「……俺は、どうすればいい?」
俺は粘土板へ触手を伸ばした。
自分にできること。
それを考える。
約束を守る。
勝手に村へ入らない。
人間を襲わない。
必要なら、マルタやエマに相談する。
……それくらいなら、できる。
だが、その意思をどう伝えればいい?
文字は、まだ2つしか覚えていない。
「……くそっ」
俺は少しだけ悔しくなった。
伝えたいことはあるのに、言葉が足りない。
そんな俺の様子に気づいたのか、ハルドが声をかけてきた。
「ノア。お前自身は、どう考えている?」
……え?
俺は触手を止めた。
「この村で人を襲うつもりはあるか?」
左右へ振る。
「村の畑や家畜を荒らすつもりは?」
もう1度、否定。
「では、勝手に村へ入ってはいけないと言われたら、守れるか?」
肯定する。
「……そうか」
ハルドは小さく息を吐いた。
「少なくとも、話は通じるわけだな」
……はい。
そこは、本当に。
「では、もうひとつ聞こう」
少しだけ間があった。
「お前は、ルナと一緒にいたいのか?」
「…………」
俺は動きを止めた。
何で、そんなことを聞くんだ?
少し不思議に思った。
だが、答えは決まっている。
俺は触手をゆっくりと持ち上げ、大きく肯定した。
「……そうか」
ハルドが静かに答えた。
その声は、さっきまでよりも少しだけ柔らかかった。
「ならば、無理に引き離す必要はなさそうだな」
……え?
俺は身体を伸ばした。
「隊長?」
ミロも驚いたらしい。
「いいんですか?」
「まだ何も決めていない」
ハルドはそう言って、足の向きを変えた。
「ただ、少なくとも今すぐ拘束する理由はないだろう」
……拘束。
そんな可能性もあったのか。
俺は少しだけ身体を縮めた。
「それに、マルタが治療を引き受けている。あの人が危険だと判断すれば、俺たちにも知らせてくるはずだ」
……なるほど。
マルタって、結構信用されているんだな。
「村長へは俺から報告する。それまでは、この小屋で静かにしていてくれ」
「……承知した」
ルナが答えた。
俺も触手を持ち上げた。
だが、ハルドは続けた。
「ただし、条件がある」
……おっと。
まだ終わりじゃなかった。
⸻
「まず、村の中へ勝手に入らないこと」
俺は肯定した。
「次に、人間や家畜へ危害を加えないこと」
もう1度。
「それから、見知らぬ者が訪ねてきても、勝手に小屋から出ないこと。何かあればマルタかボルクを通して知らせてくれ」
……了解。
どれも難しいことではない。
少なくとも、今の俺には。
「ルナの治療を優先する。滞在については村長と相談し、改めて知らせよう」
「……分かった」
ルナの声からも、緊張が少し薄れた。
「思っていたより、話の分かる男だな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
ハルドが小さく笑った。
「俺たちだって、魔物を見つければ何でも斬るわけじゃない」
その言葉に、俺は少し安心した。
セインもそうだった。
最初は剣を向けてきたが、最後には謝ってくれた。
そして今、ハルドも俺たちの話を聞いてくれている。
もちろん、全員がそうだとは限らない。
だが、少なくとも今のところ、人間に対して悪い印象ばかりが残っているわけではなかった。
「……では、今日はこれで失礼する」
ハルドがそう言って、扉へ向かった。
ミロも後に続く。
だが、途中で足音が止まった。
「……隊長」
「何だ?」
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「……何をだ」
ミロの足音が、こちらへ向く。
「ノアって、本当に魔物なんでしょうか?」
……え?
俺は動きを止めた。
「見た目はスライムですけど、言葉も理解するし、文字まで書けるんですよね?」
「……そうだな」
「だったら、俺たちと何が違うんでしょう?」
「…………」
小屋の中が静かになった。
俺も、思わず考え込んでしまった。
人間と魔物。
その違いは何だろう。
姿か?
生まれた種族か?
魔力を持っているかどうか?
……いや。
少なくとも、人間だって魔術を使うらしい。
それなら、魔力の有無だけで区別できるわけじゃない。
俺は原初種。
自分が魔物であることは、何となく理解している。
だが。
「……何が違うんだろうな」
そう考えたとき、ハルドが口を開いた。
「……難しい質問だな」
少しだけ苦笑したような声だった。
「人間と魔物は違う。少なくとも、俺たちはそう教わっている」
……うん。
「だが、魔物の中にも知恵のあるものはいる。人間の言葉を理解するものも、まれには存在するらしい」
……へえ。
「ただ、だからといって、すべてを人間と同じように扱えるわけじゃない」
その言葉には、少しだけ重みがあった。
「俺たちは、村の安全を守らなければならん。そのために確認することも、決まりを守ってもらうことも必要だ」
……なるほど。
「だが」
ハルドは続けた。
「相手が何者なのかも確かめず、危険だと決めつけるのは違うだろうな」
「……そうですね」
ミロが静かに答えた。
俺は、しばらく動けなかった。
……意外だった。
もっと簡単に、魔物だから駄目だと言われると思っていた。
だが、この人たちは違う。
ちゃんと考えてくれている。
それが、少しだけ嬉しかった。
「……ノア」
ハルドが俺へ声をかけた。
「お前のことは、まだ何も分からん。正直に言えば、警戒もしている」
……はい。
「だが、話が通じることは分かった。それだけでも、今日ここへ来た意味はあった」
俺は触手を持ち上げた。
そして、ゆっくりと上下へ動かした。
「……ああ」
ハルドが小さく笑った。
「また来る。それまで大人しくしていてくれ」
……分かりました。
そう答える代わりに、俺はもう1度、触手を動かした。
⸻
2人が帰ったあと、小屋には静けさが戻った。
扉が閉まる音。
遠ざかっていく足音。
そして、外を吹き抜ける風。
俺はようやく身体を広げた。
「……ふぅ」
正直、疲れた。
戦ったわけでもない。
何かに追いかけられたわけでもない。
それなのに、洞窟で魔物と向き合っていたときとは違う疲労感があった。
相手の考えを理解する。
自分の意思を伝える。
誤解されないように行動する。
……これって、意外と大変なんだな。
「……ノア」
ルナが声をかけてきた。
「疲れたか?」
俺は触手を上下へ動かした。
「ふふっ。無理もない」
少しだけ、楽しそうな声だった。
「我も、ああいうやり取りは得意ではない」
……そうなのか?
俺は少し驚いた。
ルナは随分と堂々としていた気がするけど。
「何だ、その反応は」
俺は触手を小さく揺らした。
すると、ルナが笑った。
「我とて、面倒なものは面倒だ。特に、人間の決まりごとというのは厄介でな」
……なるほど。
どうやら、過去に何かあったらしい。
気になる。
かなり気になる。
だが、今は聞く手段がない。
俺は仕方なく、粘土板へ触手を伸ばした。
すると、ルナが不思議そうに尋ねてきた。
「……まだ練習するのか?」
肯定する。
「まったく、貴様は……」
呆れたような声。
だが、その後に小さな笑いが続いた。
「……まあ、よい。好きにするがよい」
俺は触手の先端を細くした。
そして、粘土板の表面へ押しつける。
最初に書いたのは、『水』。
続いて、『仲間』。
どちらも、まだ少し歪んでいるらしい。
だが、エマが教えてくれた形は何となく覚えている。
「……よし」
俺は書き終えた文字を、触手で確かめた。
少しずつ。
ゆっくりと。
昨日より、ほんの少しだけ上達している気がした。
「……ノア」
ルナが静かに声をかけてきた。
「何を考えておる?」
俺は少し迷った。
何を考えているか。
もちろん、いろいろある。
ハルドの言葉。
人間と魔物の違い。
村の決まり。
そして、自分が何者なのか。
だが、それ以上に。
「……もっと話せるようになりたいな」
そう思った。
自分のことを説明できれば。
相手の質問に、ちゃんと答えられれば。
さっきのような場面でも、もう少しできることが増えるはずだ。
俺は粘土板へ触手を押しつけた。
そして、新しく短い線を1本引いた。
……ぐっ。
その隣へ、もう1本。
……ぐぐっ。
意味のある文字にはなっていない。
ただの練習だ。
それでも。
「……いつか、ちゃんと伝えてやる」
俺は心の中で呟いた。
自分が原初種であること。
ルナとは、主人と従魔の関係ではないこと。
そして、誰かを傷つけるためにここへ来たわけではないこと。
伝えたいことは、たくさんある。
「……ふふっ」
ルナが笑った。
「何やら、また難しいことを考えておるようだな」
俺は触手を持ち上げた。
「だが、焦る必要はないぞ」
その声は、いつもより少し穏やかだった。
「文字を覚えるにも、声を出すにも、時間はかかる。貴様の身体は便利だが、何もかもすぐできるわけではあるまい」
……そうだな。
俺はゆっくり肯定した。
「ならば、少しずつ覚えればよい」
ルナは続けた。
「少なくとも、我は貴様の言いたいことを、以前より随分と分かるようになったぞ」
……本当か?
俺は少し嬉しくなった。
すると、ルナが小さく笑った。
「……今も喜んでおるだろう?」
……あ。
ばれてる。
「ふふっ」
柔らかな尻尾が、俺の身体へ触れた。
「それで十分だ。今はな」
俺はしばらく動かなかった。
確かに、そうかもしれない。
言葉がなくても伝わることはある。
それでも、言葉があればもっと伝えられる。
だから、諦めるつもりはなかった。
⸻
その日の夕方。
エマが小屋を訪ねてきた。
「ルナ、ノア! お薬を持ってきました!」
軽い足音が近づき、扉が開く。
「先生から、夕方の分を預かってきたんです」
「うむ。世話になる」
ルナが答えた。
俺も触手を持ち上げる。
「ふふっ。ノアも元気そうですね」
……まあまあです。
「そういえば、さっき警備隊の人が来たって聞きましたけど……大丈夫でした?」
ルナが事情を説明する。
エマは途中で何度も驚いたような声を上げたが、最後には安心したらしい。
「……よかったぁ」
大きく息を吐いた。
「何かあったらどうしようって、心配してたんです」
……ありがとう。
俺は触手を小さく揺らした。
「でも、村長さんへ報告するんですよね?」
「そうらしいな」
「……そっか」
エマは少しだけ考え込んだ。
それから、俺へ向かって言った。
「ノア」
……ん?
「明日、また文字の練習をしましょう!」
俺は触手を持ち上げた。
「今度は、ちゃんと自分の名前を書けるようにしましょうね!」
……おお!
それはいい!
俺は勢いよく肯定した。
「それから、『ありがとう』とか、『助けて』とか!」
……いいな。
本当に、いい。
「そういう言葉が書けるようになれば、きっともっと便利になりますよ!」
……そのとおりだ。
俺は身体を小さく揺らした。
すると、エマが楽しそうに笑った。
「ふふっ。明日が楽しみですね!」
……うん。
俺も楽しみだ。
ただ、その直後。
「……あっ」
エマが突然、何かを思い出したような声を出した。
「そうだ。もうひとつ、伝えなきゃいけないことがあったんです」
……ん?
俺は触手を止めた。
「何だ?」
ルナが尋ねる。
「村長さんが、明後日こちらへ来るそうです」
……村長?
俺は思わず身体を縮めた。
「警備隊のハルドさんから話を聞いたらしくて、直接会って確かめたいって」
……なるほど。
どうやら、今日の話だけでは終わらないらしい。
「ただ……」
エマの声が、少しだけ不安そうになった。
「村長さん、魔物に対してはかなり慎重な人なんです」
「……そうか」
ルナが静かに答えた。
「それは当然だろう。村を預かる立場なのだからな」
「はい。でも、話を聞いてくれる人ではありますから!」
エマは慌てて付け加えた。
「私も、ちゃんと説明します!」
……ありがとう。
俺は触手を持ち上げた。
すると、エマが笑った。
「大丈夫ですよ、ノア。きっと分かってもらえます!」
……そうだといいな。
俺は粘土板へ触手を伸ばした。
そこには、今日書いた文字が残っている。
『水』。
『仲間』。
まだ、たったそれだけだ。
だが、明日になれば、もう少し増えるかもしれない。
自分の名前。
感謝の言葉。
助けを求める言葉。
そして、いつか。
自分が何者なのかを説明できる言葉も。
「……よし」
俺は身体を小さく揺らした。
明後日、村長が来る。
そのときまでに、どこまでできるようになるかは分からない。
だが、少なくとも何もしないつもりはなかった。
この世界では、俺は魔物だ。
人間からすれば、正体不明の存在なのだろう。
けれど、それだけで終わりたくはない。
俺には名前がある。
考えることができる。
学ぶこともできる。
そして、守りたい仲間がいる。
……それくらいは、ちゃんと伝えたい。
俺は粘土板の表面を均し、もう1度触手を伸ばした。
明日、エマに教えてもらう前に、少しでも練習しておこう。
今の俺にできることは、まだ少ない。
それでも。
できることを、ひとつずつ増やしていけばいい。
最初に虫を捕まえたときも、そうだったのだから。




