言葉よりさきに
第2部 第4話 言葉より先に
朝になったことを教えてくれたのは、鳥の声でも、窓から差し込む光でもなかった。
床の温度だ。
夜の間に冷え切っていた木の板が、少しずつ温かくなっている。
扉の隙間から流れ込む空気にも、昨日とは違う柔らかさがあった。
「……朝か」
俺は干し草の上で身体を伸ばした。
昨夜は久しぶりに、何かに襲われる心配をせず休むことができた。
もちろん、まったく警戒していなかったわけではない。
だが、洞窟の中とは違い、ここには壁と扉がある。
何より、すぐ隣にルナがいた。
「……ん?」
俺は身体を少し動かした。
いつもなら柔らかな毛に触れる位置に、何もない。
代わりに、少し離れた場所から細かな振動が伝わってきた。
……とん。
……ずるっ。
……とん。
「……ルナ?」
俺はそちらへ触手を伸ばした。
すると、すぐに声が返ってきた。
「おお、起きたか。ノア」
声は普段どおりだ。
ただ、何かをしているらしい。
「……何してるんだ?」
俺は触手を持ち上げた。
「少し脚を動かしておった。いつまでも寝ているわけにもいくまい」
……いやいや。
昨日、マルタから安静にしろって言われたばかりだろ。
俺は急いで近づき、ルナの前へ回り込んだ。
そして、床を強く叩く。
……コツ、コツ!
「……何だ?」
もう1度。
……コツ、コツ!
続いて、右後ろ脚を指し、触手を左右へ振った。
「……動くな、と言いたいのか?」
大きく肯定する。
すると、ルナが不満そうに鼻を鳴らした。
「少しくらいよかろう。動かさねば、余計に鈍ってしまう」
……それは治ってからにしてくれ。
俺はルナの進む方向へ身体を広げた。
もちろん、力ずくで押し戻すつもりはない。
ただ、これ以上歩くなら邪魔するぞ、という意思表示だ。
「……ノア」
ルナの声が低くなった。
「貴様、我を子供扱いしておらぬか?」
……してません。
怪我人扱いはしてますけど。
俺が触手を動かすと、ルナはしばらく黙った。
やがて、諦めたように息を吐く。
「……分かった。今日は大人しくしておく」
……よかった。
俺は身体を少し縮めた。
「ただし、いつまでも貴様に世話を焼かれてばかりというのも、落ち着かぬのだ」
その言葉に、俺は動きを止めた。
そうか。
ルナだって、好きで助けられているわけじゃないんだよな。
洞窟では魔術を使って俺を助けてくれたし、川の中でも進む方向を教えてくれた。
本来は、自分で何でもできることに誇りを持っているのだろう。
今の状態が、もどかしくて仕方ないのかもしれない。
俺はそっと触手を伸ばし、ルナの前脚へ触れた。
「……む?」
それから、自分の身体を指し、ルナの方へ触手を向ける。
交互に、何度か。
「……何だ?」
うーん。
伝わらないか。
俺は少し考え、ルナの前脚を軽く叩いた。
続いて、自分の身体を叩く。
また、ルナの前脚。
そして、自分。
「……ああ」
ルナの声が、少し柔らかくなった。
「互いに助け合えばよい、と?」
……正解。
俺は肯定した。
「……ふふっ」
ルナが笑う。
「そうだったな。我が言い出したことだった」
少しだけ間があった。
「ならば、もうしばらく甘えさせてもらおうか」
俺は触手を伸ばし、了承の合図を返した。
……それでいい。
いつか俺が怪我をしたら、そのときは頼むからな。
もっとも、怪我なんてしないに越したことはないけど。
⸻
朝食の時間になると、エマが小屋を訪ねてきた。
「おはようございます!」
扉が開く音とともに、元気な声が飛び込んでくる。
「ルナ、ノア、具合はどうですか?」
「うむ。悪くないぞ」
俺も触手を持ち上げた。
「よかった!」
エマは何かを床へ置いた。
……ことん。
続いて、布を広げる音がする。
「ルナには、お肉を煮たものを持ってきました。あまり濃い味にしない方がいいって、先生が」
「ほう。それはありがたい」
「ノアのご飯は、何がいいか分からなくて……」
……あ。
俺の分まで考えてくれたのか。
「虫なら食べるって聞きましたけど、さすがに虫を持ってくるのもどうかと思いまして」
……いや、全然構いませんけど。
俺が触手を動かすと、エマは少し笑った。
「何だか、怒られた気がします」
……怒ってないですよ。
むしろ、気遣ってくれてありがとう。
「ふふっ。ノアなら自分で食事を探せるだろう」
ルナが助け舟を出してくれた。
「ただし、あまり遠くへ行くなよ」
……了解。
俺は肯定した。
「それと」
エマが何かを取り出した。
小さく、硬いものを床へ置く音。
「今日は、これを持ってきたんです!」
……ん?
俺は触手を伸ばした。
触れたのは、四角い木の枠だった。
その内側には、柔らかなものが詰められている。
……土?
いや、少し違う。
水分を含んでいて、押すと簡単に形が変わる。
「粘土板です!」
……粘土板?
俺は触手を止めた。
「ノア、言葉は分かるのに、お話しできないんですよね?」
肯定する。
「だから、何か伝える方法がないかなって思ったんです」
……おお。
「文字を書けたら、便利じゃないですか?」
「…………」
文字。
俺はその言葉を聞いて、思わず身体を伸ばした。
……そうか!
その手があった!
人間だった頃は、文字なんて当たり前に使っていた。
声が出せなくたって、紙に書けば意思を伝えられる。
どうして今まで思いつかなかったんだろう。
……いや、待て。
「……あれ?」
俺は動きを止めた。
そもそも、この世界の文字を知らない。
それに、目も見えない。
文字が書けたとしても、正しく書けているか確認できないじゃないか。
「……問題だらけだな」
俺が固まっていると、エマが不思議そうに尋ねた。
「ノア?」
俺は触手を左右へ振った。
「……文字は嫌ですか?」
違う違う。
むしろ、ものすごく興味がある。
俺は慌てて肯定した。
「……どっちでしょう?」
……ああ、もう!
こういうとき、本当に不便だ!
俺は触手を粘土板へ押しつけた。
そして、細長い溝を作る。
……ぐにゅ。
「……あっ!」
エマが声を上げた。
「書けるんですね!」
……いや。
正確には、線を引いただけです。
でも、これなら何とかなるかもしれない。
俺はもう1度、粘土を押した。
今度は丸い形。
さらに、その横へ短い線を引く。
「……わあ」
エマが楽しそうに笑った。
「本当に器用ですね!」
……ふふん。
こういう作業なら、わりと得意になってきたんですよ。
「……ノア」
隣からルナの声がした。
「また得意げになっておるな」
……何で分かるんだよ。
⸻
「では、まず簡単なものから始めましょう!」
エマは粘土板の前へ座った。
俺も身体を小さくまとめる。
「最初は、これです」
……ぐっ。
何か細いもので粘土を押す振動が伝わった。
エマが木の棒を使っているらしい。
「これは、『水』を表す文字です」
……水。
俺は粘土板へ触手を伸ばした。
指先ほどの大きさにした先端で、溝をゆっくりなぞる。
曲がった線。
その横に短い線。
さらに、別の方向へ続く線。
……なるほど。
「……ん?」
俺は少し戸惑った。
思っていたより複雑だ。
これを覚えて、同じように書けばいいのか?
「……どうですか?」
俺は少し考えた。
そして、粘土板の空いた場所へ触手を押しつける。
さっき確かめた形を思い出しながら、ゆっくりと線を作った。
最初の曲線。
続いて、短い線。
最後に、もう1本。
……よし。
「……あっ!」
エマが驚いたような声を出した。
「すごい! だいたい合ってます!」
……おお!
俺は嬉しくなった。
「でも、ここが少し違いますね」
エマが俺の書いた線を、木の棒で軽く叩いた。
……こつ。
「ここは、もう少し長く伸ばします」
……なるほど。
俺は言われた部分へ触手を伸ばし、線を修正した。
「そうです! 上手!」
……よし!
俺はもう1度、最初から書いてみた。
今度は少し速く。
「……あれ?」
エマが小さく笑う。
「今度は最後の線が逆ですね」
……ああっ!
文字って難しい!
元の世界では普通に読んだり書いたりしていたのに、まさかこんなところで苦労するとは思わなかった。
しかも、感触だけで形を覚えるのは想像以上に大変だ。
「……焦らなくても大丈夫ですよ」
エマが優しく言った。
「私だって、最初は全然書けませんでしたから」
……そうか。
そうだよな。
俺だって、人間だった頃は少しずつ文字を覚えたはずだ。
だったら、今回も同じことをすればいい。
何度も触れて。
形を覚えて。
繰り返し書く。
「……やってやる」
俺は触手を伸ばした。
今度こそ、正しく書いてみせる。
⸻
それからしばらく、俺は文字を書く練習を続けた。
エマが形を教え、俺が触手でなぞる。
そして、同じ形を作ってみる。
間違えたら、教えてもらって修正する。
ただ、それを繰り返した。
最初は簡単だと思っていたが、実際には難しい。
線の長さ。
曲がる方向。
隣の線との距離。
少し違うだけで、別の文字に見えてしまうらしい。
何より、今の俺には目がない。
完成した文字を自分で眺めて確認することができないのだ。
その代わり、溝の深さや形を触手で確かめる。
これなら、ある程度は判断できる。
「……なるほどな」
俺は少しずつコツを掴んできた。
粘土板の上へ触手を伸ばし、さっき覚えた文字を書いてみる。
……ぐっ。
「……あっ!」
エマが声を上げた。
「今度はちゃんと書けました!」
……本当か!?
俺は思わず身体を揺らした。
「はい! これなら『水』って読めます!」
……やった!
俺は触手を持ち上げた。
すると、隣でルナが笑った。
「……随分と嬉しそうだな」
……そりゃそうだろ!
初めて文字が書けたんだから!
「ふふっ。ならば、次は我の名前でも書いてみるか?」
……え?
ルナの名前?
俺は少し考えた。
……それ、結構難しいんじゃないか?
「……何だ。不満か?」
いやいや。
不満じゃないけど。
まだ水の文字ひとつ覚えただけなんですよ。
「……ふふっ。冗談だ」
……ああ、よかった。
「だが、いつか書けるようになるとよいな」
俺は触手を上下へ動かした。
……もちろん。
いつか、ちゃんと書いてやる。
ルナ。
そして、ノア。
この世界で初めて手に入れた、自分の名前を。
「……次は何を覚えたいですか?」
エマが尋ねてきた。
俺は少し考えた。
水。
食べ物。
危険。
助けて。
伝えたいことはいくらでもある。
でも、今いちばん必要なのは何だろう。
……そうだ。
俺は粘土板へ触手を伸ばした。
そして、短い線を1本。
その横へ、もう1本。
最後に、少し離れた場所へ大きな丸を作った。
「……?」
エマが首を傾げたらしい。
「これは……何でしょう?」
……うーん。
伝わらないか。
俺はもう1度、同じ形を作った。
すると、ルナが口を開いた。
「……ノア。何を伝えたいのだ?」
……それが説明できたら苦労しないんだけど。
俺は少し考えた。
それから、粘土板の上へ触手を2本立てる。
1本をルナの方へ。
もう1本を自分の方へ。
そして、2本の先端をくっつけた。
「……?」
エマはまだ分からないらしい。
だが、ルナは少し黙ったあと、小さく呟いた。
「……仲間、か?」
……おお!
俺は大きく肯定した。
「……ふふっ」
ルナが柔らかく笑う。
「なるほど。仲間という文字を覚えたいのだな」
……そう。
それだ。
エマが感心したように声を上げた。
「素敵ですね!」
俺は少しだけ照れくさくなった。
別に、深い意味があったわけじゃない。
ただ。
今の俺にとって、大切な言葉だったから。
「……分かりました!」
エマは粘土板の空いた場所へ木の棒を押しつけた。
「では、これが『仲間』という意味の言葉です」
……ぐっ。
……ぐぐっ。
複数の線が作られていく。
どうやら、さっきの『水』よりずっと複雑らしい。
俺は慎重に触手を伸ばした。
形をなぞる。
……うわ。
難しい。
線が多い。
しかも、似たような形がいくつも続いている。
「……これは時間がかかりそうだな」
俺が少し困っていると、エマが笑った。
「大丈夫です。少しずつ覚えていきましょう!」
……そうだな。
焦っても仕方ない。
俺はもう1度、最初の線からなぞり始めた。
⸻
昼近くになった頃、マルタが小屋へやって来た。
「エマ、ここにいたのかい」
「先生!」
「薬の調合を手伝うって言ってたのは誰だったかね?」
「……あ」
……あ。
完全に忘れてたな、この子。
「……まったく」
マルタのため息が聞こえる。
「少しは予定を覚えておきなさい」
「すみません……」
「まあ、いい。それで、何をしていたんだい?」
「ノアに文字を教えてたんです!」
……おっと。
俺の話になった。
マルタの足音が近づく。
「……文字?」
「はい! 見てください!」
エマが粘土板を持ち上げたらしい。
「この『水』の文字、ノアが書いたんですよ!」
「……ほう」
マルタが小さく声を漏らした。
「本当に?」
俺は触手を持ち上げた。
そして、もう1度、粘土板へ文字を書いてみる。
……ぐっ。
最初の線。
次の線。
最後の曲線。
……よし。
「……へえ」
マルタの声に、明らかな驚きが混じった。
「これは驚いたね」
……ふふん。
もっと褒めてもいいんですよ。
「……ただし」
……ん?
「随分と歪んでるね」
……ぐはっ。
「まあ、初めてなら上出来だよ」
……ありがとうございます。
一瞬、落ち込みかけたけど。
「それにしても……」
マルタは少し考え込んだ。
「言葉を理解するだけでなく、文字まで覚えようとするとはね」
俺は触手を小さく揺らした。
「……エマ」
「はい?」
「この子、ただ賢いだけじゃないよ」
……え?
俺は動きを止めた。
マルタの声が、少しだけ真剣なものへ変わった。
「学ぼうとしている。自分にできないことを理解して、そのための方法を探しているんだ」
……。
「普通の魔物なら、目の前の獲物や危険に反応するだけで精一杯だ。もちろん、例外はあるけどね」
マルタは続けた。
「でも、この子は違う」
「……先生?」
「何かを覚え、試し、失敗すればやり方を変える。それも、誰かと意思を通わせるためにね」
……そんなに珍しいのか。
俺としては、当たり前のことをしているつもりだった。
話せないなら、別の方法を考える。
見えないなら、触って確かめる。
できないことがあるなら、練習する。
人間だった頃なら、誰だってやっていたことだ。
だが、この世界では。
少なくとも、魔物としては珍しいことらしい。
「……ルナ」
マルタが静かに尋ねた。
「この子とは、どこで出会ったんだい?」
「……岩山の洞窟だ」
ルナが答える。
「我が大百足に襲われ、動けなくなっていたところを助けられた」
「それ以前のことは?」
「……知らぬ」
少し間があった。
「我も、出会ってからまだ日が浅いのだ」
……そうだな。
俺たちは、つい最近出会ったばかりだ。
それでも、随分と長く一緒にいる気がする。
「……なるほどね」
マルタは小さく息を吐いた。
「それなら、なおさら気になる」
……何が?
俺は触手を持ち上げた。
すると、マルタが俺へ向き直った。
「ノア」
……はい。
「お前さん、自分の身体が普通のスライムとは違うことを、どこまで理解しているんだい?」
……また、その質問か。
俺は少し考えた。
違うことは分かっている。
だが、何がどこまで違うのかは知らない。
そもそも、普通のスライムを見たことがない。
「……うーん」
俺は触手を横へ揺らしかけ、途中で止めた。
この質問は、肯定か否定だけで答えられるものじゃない。
すると、マルタが言った。
「……困ったね。もう少し詳しく話せればいいんだけど」
……まったくです。
俺は粘土板へ触手を伸ばした。
さっき覚えた『水』の文字を書く。
続いて、丸い形を作る。
だが、それ以上どうすればいいか分からなかった。
「……ふふっ」
マルタが小さく笑った。
「焦らなくていい。今日中に何もかも分かる必要はないさ」
……そうか。
「ただね、ひとつだけ気をつけておくれ」
その声が、少しだけ低くなった。
「お前さんのような珍しい魔物がいると知れば、興味を持つ者は必ず現れる」
……興味?
「親切な者ばかりとは限らないよ」
俺は動きを止めた。
マルタは続けた。
「珍しい魔物を捕まえて売ろうとする者もいる。研究のためだと言って、無理に連れていこうとする者だっている」
……あ。
なるほど。
俺は少しだけ身体を縮めた。
確かに、そういう人間はいるだろう。
元の世界にだって、珍しい生き物を捕まえて売る人はいた。
まして、この世界には魔物という存在がいる。
その身体から取れる素材が貴重だったり、使役する価値があったりするなら、狙う人間がいてもおかしくない。
「……だから、しばらくは村の中へ出ない方がいい」
マルタは静かに言った。
「ルナの怪我が治るまでは、私たちが面倒を見る。安心して休んでおいで」
……ありがとう。
俺は触手をゆっくり上下へ動かした。
「……ふふっ」
マルタが笑う。
「礼を言うのは、元気になってからでいいさ」
⸻
その日の午後。
エマは薬の調合を手伝うため、マルタと一緒に村へ戻っていった。
小屋には、俺とルナだけが残された。
外からは、風に揺れる草木の振動が伝わってくる。
遠くには、人間たちの足音もあった。
ただ、ここまで近づいてくる者はいない。
俺は粘土板の前に身体を置き、もう1度文字の練習を始めた。
最初に覚えた『水』。
そして、まだ形を完全に覚えられていない『仲間』。
触手の先端を細くする。
粘土へ押しつける。
少しずつ動かし、線を作る。
間違えたら、表面を均して書き直す。
……ぐっ。
……ぐぐっ。
「……よし」
今度は、さっきよりうまく書けた気がする。
もちろん、正解かどうかは分からない。
だが、最初よりも形を覚えてきた実感はあった。
「……ノア」
背後からルナの声が届いた。
「まだ練習しておるのか?」
俺は肯定した。
「……熱心なことだ」
ルナが小さく笑った。
それから、少し間を置いて続けた。
「なあ、ノア」
……ん?
俺は触手を持ち上げた。
「貴様は、どうしてそこまでして言葉を伝えたいのだ?」
「…………」
俺は動きを止めた。
どうして。
そう聞かれると、少し難しい。
人間だった頃は、話せることが当たり前だった。
何かを見れば感想を言い、困れば助けを求め、嬉しいことがあれば誰かに伝えた。
だが、今は違う。
声を出すことさえ難しい。
伝えたいことがあっても、相手に理解してもらえるとは限らない。
……だから。
「……話したいんだよな」
俺は心の中で呟いた。
この世界のことを聞きたい。
自分が何者なのかを知りたい。
そして、何より。
隣にいるルナと、普通に話してみたい。
何を考えているのか。
何が好きなのか。
どうしてあの洞窟にいたのか。
そんな、何でもないことを。
俺は粘土板へ触手を伸ばした。
そして、さっきまで練習していた文字を、もう1度書き始めた。
ゆっくりと。
できるだけ丁寧に。
……ぐっ。
……ぐぐっ。
最後の線を引き終える。
「……ルナ」
もちろん、声にはならない。
俺は代わりに、粘土板を触手で叩いた。
……こつ。
「……ん?」
ルナが近づいてきた。
そして、しばらく黙った。
「……これは」
俺は少しだけ緊張した。
文字は、ちゃんと書けているだろうか。
変な形になっていないだろうか。
やがて。
「……ふふっ」
ルナが笑った。
「随分と不格好だな」
……ぐっ。
やっぱり駄目か。
だが、次の言葉は予想と違っていた。
「それでも、ちゃんと読めるぞ」
……え?
俺は動きを止めた。
「『仲間』、だな」
「…………」
……読めた。
ちゃんと。
伝わった。
俺はゆっくりと触手を持ち上げた。
すると、ルナが柔らかく笑った。
「……ああ」
その声は、いつもより少し優しかった。
「我らは仲間だ」
俺は、しばらく動けなかった。
たったひとつの言葉。
それを伝えるために、随分と苦労した気がする。
だが。
……悪くないな。
むしろ、こんなに嬉しいとは思わなかった。
「……ふふっ」
ルナが笑いながら続けた。
「ならば、次は我の名前を書けるようになってもらおうか」
……おっと。
また難易度を上げてきたな。
俺は少しだけ身体を揺らした。
だが、今度は嫌だと思わなかった。
いつか、書けるようになろう。
ルナの名前も。
自分の名前も。
そして、もっとたくさんの言葉を。
……そのときだった。
……ざっ。
小屋の外から、足音が伝わってきた。
俺は動きを止めた。
エマでも、マルタでもない。
少なくとも、今まで聞いたことのある歩き方とは違っていた。
……ざっ。
……ざっ。
足音は、まっすぐ小屋へ近づいてくる。
「……ん?」
俺は《微振動感知》を広げた。
人数は、おそらく2人。
歩幅が大きく、足取りも重い。
それに、何か硬いものを身につけているらしく、歩くたびに金属の触れ合う音が混じっていた。
「……ルナ」
俺はすぐに床を叩いた。
……コツ、コツ!
ルナが反応する。
「……何者か来たのか?」
肯定する。
すると、ルナの呼吸がわずかに変わった。
「……分かった。貴様は下がっておれ」
俺は素直に身体を小さくまとめた。
そして、粘土板の陰へ滑り込む。
その直後。
……コン、コン。
扉が叩かれた。
「……誰だ?」
ルナが静かに問いかける。
少しの沈黙。
そして。
「エルデ村の警備隊だ」
低い男の声が響いた。
「この小屋に、魔獣がいると聞いて来た」
「…………」
俺は身体を強張らせた。
……警備隊?
「村長から確認するよう命じられている」
男は続けた。
「危害を加えるつもりはない。だが、事情を聞かせてもらいたい」
ルナはすぐには答えなかった。
俺も、動かなかった。
マルタの言葉が、頭の中をよぎる。
珍しい魔物を見つければ、興味を持つ者は必ず現れる。
そして、すべての人間が親切とは限らない。
……まさか。
こんなに早く、別の人間が来るとは思わなかった。
俺は身体の中心へ意識を向けた。
《中枢核》。
その周囲を、薄く硬質化する。
今の俺は、まだ十分に回復していない。
ルナも負傷している。
できれば、争いは避けたい。
……いや。
絶対に避けなければならない。
「……ノア」
ルナが小さく声をかけてきた。
「案ずるな。まずは話を聞こう」
俺は触手をゆっくり上下へ動かした。
……分かった。
そして。
「……入るがよい」
ルナの声が響いた。
次の瞬間。
……ぎぃ。
小屋の扉が、ゆっくりと開いた。
外から流れ込んできた風が、粘土板の表面をわずかに乾かしていく。
俺は身体を縮めたまま、足音へ意識を集中させた。
これまで出会った人間たちは、俺たちを助けてくれた。
だが、今度の相手はどうだろう。
仲間という言葉を覚えたばかりの俺は、まだ知らなかった。
人間と仲良くなることと、人間の社会に受け入れられることは、必ずしも同じではないのだと。




