薬師の条件
第2部 第3話 薬師の条件
荷車が止まった。
それまで規則正しく続いていた車輪の振動が消え、代わりに馬が地面を踏み鳴らす音が伝わってくる。
「着いたぞ。ここがエルデ村の入口だ」
ボルクの声が、荷台まで届いた。
「……おお」
俺は身体を少し伸ばした。
ついに村まで来たのか。
洞窟で目覚めたときは、人間に出会えるかどうかさえ分からなかった。それが今では、人間の荷車に乗せてもらい、村の入口まで運ばれている。
人生、何が起こるか分からない。
……いや、今の俺に人生という言葉が合っているのかは微妙だけど。
「ノア、あまり動くなよ」
隣からルナの声がした。
「村へ入る前に、エマが薬師を呼んでくる手はずだっただろう」
そうだった。
俺たちは魔物だ。
特に俺なんて、正体不明の粘液生物である。
荷車から降りて村の中を歩き回ったら、騒ぎになるかもしれない。
「……残念」
俺が身体を縮めると、ルナが小さく笑った。
「そう拗ねるな。村が逃げるわけでもあるまい」
……それもそうか。
俺は荷台へ身体を密着させ、周囲の振動を探った。
踏み固められた道の向こうから、いくつもの足音が伝わってくる。
大きなもの。
小さなもの。
ゆっくり歩くものもあれば、駆け足で通り過ぎるものもある。
その数は、洞窟で感じていた生物の気配とは比べものにならなかった。
「……すごいな」
どうやら、人間は本当に大勢いるらしい。
木の床へ耳代わりの感知膜を押しつけてみる。
すると、荷車の外から声が届いた。
「エマ、頼んだぞ」
「はい! すぐに先生を呼んできます!」
軽い足音が遠ざかっていく。
エマだ。
それを追うように、セインの声が響いた。
「走って転ぶなよ!」
「転びませんって!」
……。
少しして。
「きゃっ!」
……どたっ。
「…………」
荷台に沈黙が落ちた。
やがて、セインの深いため息が聞こえてくる。
「……だから言っただろ」
……エマ。
頼むから、怪我しないでくれよ。
今、治療が必要な人が増えたら困るんだから。
⸻
エマが戻ってくるまで、俺たちは荷車の上で待つことになった。
ボルクは馬に水を飲ませに行き、セインは荷車の近くで見張りをしている。
俺はその間に、身体の調子を確かめていた。
洞窟を脱出してから、随分と消耗している。
木の根元で虫を何匹か食べたおかげで多少は回復したが、失った身体の量はまだ戻りきっていない。
中枢核の周囲を硬質化することはできる。
触手を伸ばすことも問題ない。
ただ、複数の構造を同時に維持しようとすると、以前より早く疲労を感じる。
「……まだ無理はできないな」
俺は身体の一部を細く伸ばした。
そして、先端へ《硬質外皮》を集中させる。
……こつ。
荷台の床を軽く叩いた。
続いて、《構造形成》で小さな支えを作る。
……ぐにゅ。
支えが途中で曲がった。
「……あれ?」
もう1度試す。
今度は、少し短く。
……ぐっ。
うん。
これなら維持できる。
どうやら、身体の量が減っている分、無理に大きな構造を作ろうとすると負担が増すらしい。
まあ、当然といえば当然か。
材料が足りないのに、大きなものを作れるわけがない。
俺は支えを解除した。
「……ノア」
ルナが声をかけてきた。
「また何か試しておるのか?」
肯定の合図を返す。
「ふふっ。本当に落ち着きのないやつだな」
……いや、今回は遊んでるわけじゃないんだけど。
「だが、その熱心さは悪くない」
その言葉に、俺は少しだけ身体を揺らした。
「ただし、今は休め。いざというときに動けなくなっては困る」
……ごもっともです。
俺は素直に構造を解除し、ルナの隣へ身体を寄せた。
すると、柔らかな毛が触れた。
温かい。
この世界で初めて触れた、安心できる相手の温もりだ。
「……そういえば」
俺はふと思った。
ルナは、どうしてあの洞窟にいたのだろう。
大百足に襲われたことは聞いた。
だが、そもそも何をしに入ったのかは知らない。
それに、ルナは人間の言葉を話せる。
魔術も使える。
しかも、人間と接触することを随分と警戒していた。
……考えてみれば、謎だらけじゃないか。
俺は触手を持ち上げた。
「……ん?」
ルナが反応する。
だが、そこで困った。
どうやって質問すればいい?
肯定と否定は伝えられるようになった。
しかし、複雑な質問をする手段はまだない。
「……不便だなぁ」
俺は触手を下ろした。
すると、ルナが少しだけ笑った。
「何か聞きたいことがあるのか?」
……おお。
よく分かったな。
俺は肯定した。
「……ふむ」
しばらく考えるような間があった。
「我のことか?」
……え?
俺は思わず身体を震わせた。
何で分かるんだ?
「……図星か」
ルナが楽しそうに笑う。
「貴様は随分と分かりやすい。何か気になることがあると、すぐ身体が動くからな」
……そんなに?
「まあ、我のことなら、いずれ話してやる」
また、いずれか。
俺は少し不満を感じた。
だが、ルナは続けた。
「ただ、今は少々事情があってな。もう少し落ち着いてからにしたい」
その声は、さっきまでより静かだった。
……事情、か。
俺は触手を小さく動かした。
無理に聞くつもりはない。
俺だって、自分の事情をすべて説明できるわけじゃないのだから。
「……ありがとう、ノア」
ルナが柔らかく呟いた。
俺は何となく照れくさくなって、身体を小さくまとめた。
⸻
「先生! こっちです!」
しばらくして、エマの声が聞こえてきた。
足音が2人分。
そのうち1人は、ゆっくりとした歩調で近づいてくる。
「まったく、エマ。少しは落ち着いて歩きなさい」
年配の女性らしい声が届いた。
落ち着いているが、どこか厳しそうな響きだった。
「でも先生、急がないと!」
「怪我人がいるのは分かっているよ。だからといって、あんたまで転んでどうするんだい」
……あ。
やっぱり転んだの、バレてるんだな。
「……それは、たまたまで」
「膝に土がついてるよ」
「……はい」
……エマ。
どうやら、先生には頭が上がらないらしい。
やがて、足音が荷車のすぐ近くで止まった。
「それで、怪我をした魔獣というのは?」
「こちらです!」
エマの声に続き、荷車の側面を何かが叩く。
……こん。
「……ほう」
女性が小さく声を漏らした。
「白銀の毛並みか。随分と立派な魔獣だね」
「……貴様が薬師か?」
ルナが問いかける。
すると、女性の動きが止まった。
「……なるほど。喋るという話は本当だったのかい」
驚いてはいるようだが、エマたちほど大きな反応ではない。
むしろ、興味深そうな声だった。
「私はマルタ。エルデ村で薬師をやっている」
「我はルナリス。ルナと呼ぶがよい」
「分かったよ、ルナ。それで、怪我をしたのは右後ろ脚だったね?」
「うむ」
「まずは診せてもらおうか」
エマが荷車へ上がってきた。
続いて、マルタも荷台へ乗り込む。
木の床が、小さく軋んだ。
俺は邪魔にならないよう、荷物の陰へ身体を移動させた。
だが。
「……ん?」
マルタの声が止まった。
「エマ」
「はい?」
「……あれは何だい?」
……あれ?
俺は動きを止めた。
嫌な予感がする。
「ノアです!」
エマが元気よく答えた。
「……いや、名前じゃなくてね」
……ですよね。
「その、身体が透けてるやつは何なのかって聞いてるんだよ」
……ああ。
やっぱり俺か。
「ノアはルナを助けてくれたんです。人間の言葉も分かるんですよ!」
「……ほう?」
マルタの足音が近づいてきた。
俺は少し警戒した。
この人も、俺を見て武器を抜いたりしないだろうな?
だが、マルタは一定の距離で止まった。
「……随分と変わったスライムだね」
……またスライム。
もう訂正するのは諦めようかな。
「お前さん、私の言っていることが分かるかい?」
俺は触手を1本持ち上げ、肯定の合図を返した。
「……へえ」
少しだけ、感心したような声。
「では、ひとつ聞こう。お前さんは、この白い魔獣の仲間なのかい?」
もう1度、肯定する。
「……なるほど」
マルタは小さく息を吐いた。
「見た目は魔物でも、随分と賢いようだね」
……ありがとうございます。
俺は触手を小さく揺らした。
すると。
「ただし」
マルタの声が、少しだけ厳しくなった。
「治療の邪魔はしないこと。いいね?」
……はい。
俺は素直に触手を下ろした。
どうやら、この人には逆らわない方がよさそうだ。
⸻
「……これは酷いね」
ルナの傷を確認したマルタが、低い声で呟いた。
「噛み傷が深い。それに、周囲の筋肉まで痺れが広がっている」
エマのときとは違い、触診の手つきには迷いがないようだった。
ルナが痛みを訴える前に力を緩め、別の場所を調べている。
「……やはり、大百足の毒か」
「大百足に襲われたんです」
エマが説明する。
「洞窟から逃げてきたそうで……」
「聞いているよ」
マルタは短く答えた。
「問題は、どの程度まで毒が回っているかだね」
何かを取り出す音。
……かちゃ。
「ルナ、少し痛むよ」
「……構わぬ」
「では、力を抜いて」
次の瞬間、ルナの身体が小さく震えた。
「……っ!」
俺は反射的に触手を伸ばしかけた。
だが、すぐに止めた。
治療の邪魔はしない。
さっき約束したばかりだ。
「……ふむ」
マルタが静かに呟いた。
「傷の周囲には感覚が残っている。だが、脚の先へ行くほど反応が鈍い」
「……そうなのか?」
「自分では分からないかい?」
「痺れておるのは確かだが、どこまでなのかは……」
「そうだろうね」
マルタは少し考え込んだ。
「エマ、薬箱の青い瓶を取っておくれ」
「はい!」
小さな瓶が触れ合う音。
続いて、液体を容器へ注ぐ振動が伝わってきた。
「……何をするのだ?」
ルナが尋ねる。
「毒の影響を調べる薬だよ。傷そのものへ使うんじゃない。まずは少量で反応を確かめる」
マルタはそう説明し、慎重に作業を続けた。
俺は近くの床へ身体を広げ、ルナの動きを探っていた。
すると。
……ぴくっ。
右後ろ脚の先で、小さな振動が起きた。
「……ん?」
もう1度。
……ぴくっ。
今度は少し強い。
ルナ自身が動かしているのだろうか。
俺は《微振動感知》へ意識を集中させた。
すると、脚の付け根と先端で、動き方に違いがあることに気づいた。
付け根の方は、ルナの呼吸や姿勢の変化に合わせて動いている。
だが、脚の先は違う。
時折、何の前触れもなく小さく痙攣しているのだ。
「……これ、まずくないか?」
俺は迷った。
治療の邪魔をするなと言われたばかりだ。
だが、気になるものは仕方ない。
俺は荷台の床を軽く叩いた。
……コツ。
マルタは反応しない。
もう1度。
……コツ、コツ。
「……ん?」
今度はエマが気づいた。
「ノア? どうしたの?」
俺はルナの右後ろ脚へ触手を向けた。
ただし、触れない。
「……脚?」
俺は肯定した。
「……何かあるの?」
もう1度、床を叩く。
すると、マルタがこちらへ意識を向けた。
「……どうしたんだい?」
俺は脚の先を示した。
続いて、触手の先端を小刻みに震わせる。
……ぴく、ぴく。
「……?」
マルタが少し黙った。
そして。
「……痙攣しているってことかい?」
……おお!
俺は大きく肯定した。
「……なるほど」
マルタはルナの脚をもう1度確かめた。
しばらくして、小さく息を吐く。
「確かに、脚の先が勝手に動いているね」
……やっぱりか。
「ルナ、自分で動かしたかい?」
「……いや」
「ならば、毒が神経へ影響している可能性が高い」
マルタの声が少し厳しくなった。
「これは、思っていたより厄介だね」
荷台の空気が変わった。
エマも黙り込んでいる。
俺は思わず身体を縮めた。
……そんなに悪いのか?
「……治せるのか?」
ルナが静かに尋ねた。
マルタはすぐには答えなかった。
何かを考えるような間が続く。
やがて。
「……手はある」
その言葉に、俺は身体を持ち上げた。
「ただし、簡単ではないよ」
⸻
マルタの説明によると、大百足の毒は、傷口を洗っただけでは取り除けないらしい。
体内へ入った毒が筋肉や神経の働きを乱し、痺れや痙攣を引き起こす。
ルナの場合、長い距離を移動したことで身体への負担も大きくなっていた。
「今のところ、呼吸や意識に大きな異常はない。だから、慌てすぎる必要はないよ」
マルタは落ち着いた声で言った。
「ただし、これ以上無理に歩かせるのはよくない。毒の影響が広がるかもしれないからね」
……なるほど。
俺はルナの方へ意識を向けた。
今まで、脚を支えながら歩かせていた。
それが負担になっていた可能性もあるのか。
「……ノア」
ルナが声をかけてきた。
「気にするな。我が歩くと言ったのだ。貴様のせいではない」
……うん。
でも、もう少し早く治療できていれば。
そんなことを考えていると、マルタが続けた。
「まずは毒の影響を抑える薬を使う。それから、傷の回復を待ちながら様子を見ることになるね」
「薬はあるのか?」
「あるよ。ただし、この種類の毒にどれほど効くかは、使ってみなければ分からない」
……完全に治せる保証はないのか。
「それに、薬を飲めばすぐ歩けるようになるわけじゃない。回復には時間が必要だ」
ルナはしばらく黙っていた。
やがて、静かに答える。
「……分かった。任せよう」
「素直で助かるよ」
マルタは小さく笑った。
「では、薬を準備しようか」
エマがすぐに返事をする。
「はい!」
荷台の上で、瓶や布を扱う音が続いた。
俺は邪魔にならない場所で、その様子をじっと感じ取っていた。
何もできない。
いや、正確には、できることがない。
《構造形成》で道具の代わりを作ることはできる。
《硬質外皮》で身体を守ることもできる。
だが、毒そのものを取り除く力は持っていない。
「……治癒術か」
俺は自分の身体の奥へ意識を向けた。
未成熟な魔力器官。
まだ、魔力を動かすことさえ満足にできない。
……いつか、使えるようになるのだろうか。
そんなことを考えていたときだった。
「……お前さん」
マルタの声が届いた。
「さっきの脚の痙攣、どうやって気づいたんだい?」
……え?
俺は動きを止めた。
「触ってもいなかっただろう?」
……そういえば。
俺には普通の感覚だが、人間からすると不思議なのかもしれない。
俺は床へ触手を押しつけた。
そして、小さく叩く。
……コツ。
マルタは少し考えた。
「……振動?」
肯定する。
「なるほどね。身体全体で振動を感じ取っているのかい」
……すごい。
この人も、すぐに理解してくれた。
「エマ、この子の動きをよく見ておきな」
「え?」
「目や耳があるようには見えない。それなのに、こちらの動きも言葉も理解している」
……おお。
なかなか鋭い。
「普通のスライムとは、ずいぶん違うようだね」
俺は身体を小さく揺らした。
その言葉を待っていた。
俺は原初種。
少なくとも、普通のスライムではない。
……たぶん。
「……興味深いね」
マルタの声に、微かな好奇心が混じった。
「お前さん、一体何者なんだい?」
……それ。
俺が一番知りたいことかもしれない。
⸻
治療が終わる頃には、周囲の空気が少し冷たくなっていた。
ルナの右後ろ脚には、薬を塗った布が巻かれているらしい。
さらに、体内の毒の影響を抑える薬も飲ませてもらった。
ただし、すぐに効くものではないという。
「今夜は安静にしておくこと。明日の朝、もう1度様子を診よう」
マルタが言った。
「痺れが強くなるようなら、すぐに知らせるんだよ」
「……承知した」
ルナが答える。
俺も近くで触手を動かした。
すると、マルタが少し笑った。
「お前さんも、ちゃんと見張っておくんだよ」
……任せてください。
そう言いたかった。
だが、まだ発声はうまくできない。
俺は代わりに、触手を1本立てた。
「……ふふっ。頼もしいね」
少しだけ、嬉しかった。
ただ、その直後。
「それと、もうひとつ」
マルタの声が真面目になった。
「2人には、守ってもらいたいことがある」
……ん?
俺は動きを止めた。
「何だ?」
ルナが尋ねる。
「村の中へは、まだ入らないこと」
……あ。
やっぱり。
「事情を知らない村人が見れば、騒ぎになる可能性がある。特に、喋る魔獣となればね」
ルナは静かに頷いたらしい。
「……それは承知しておる」
「だから、しばらくは村の外れにある古い小屋を使ってもらおうと思っている」
……小屋?
俺は思わず身体を伸ばした。
「昔、炭焼きに使っていた小屋があるんだよ。今はほとんど使われていないけど、屋根と壁はしっかりしている」
「……そこを借りられるのか?」
「ボルクに話をつけてもらう必要はあるけどね。あの小屋は、あの人の持ち物だから」
……へえ。
ボルクって、村の外にも小屋を持ってるのか。
「治療が終わるまで、そこで休むといい。私も様子を見に行けるし、村人の目も避けられる」
それはありがたい。
俺は触手を持ち上げた。
だが、マルタは続けた。
「ただし、ノア」
……はい。
「お前さんには、もうひとつ約束してもらうよ」
……え?
俺は少し身構えた。
「村の家畜や人間を、絶対に襲わないこと」
「…………」
……ああ。
そういうことか。
俺はゆっくりと肯定した。
もちろん、そのつもりなんて最初からない。
「食べ物が必要なら、森で虫を捕まえるのは構わない。ただし、村の畑や家畜には手を出さないこと」
……了解。
「それから、村人に見つかっても、急に近づかないこと。怖がられて攻撃されるかもしれないからね」
……それも分かる。
俺はもう1度、触手を動かした。
すると、マルタが満足そうに息を吐いた。
「……よし。約束だよ」
……約束。
俺はその言葉を、少しだけ不思議に感じた。
この世界へ来てから、俺はずっと生き残るために行動してきた。
相手が敵なら逃げる。
食べられるものなら捕まえる。
危険なら、近づかない。
それが当たり前だった。
だが、今は違う。
誰かと一緒に暮らすためには、守るべき決まりがある。
当たり前のことなのに、何だか久しぶりに思い出した気がした。
「……分かった」
俺はゆっくりと触手を下ろした。
すると、ルナが静かに言った。
「安心するがよい。ノアはそのようなことをせぬ」
……ルナ。
「こやつは少々落ち着きがないが、無闇に他者を傷つけるような性格ではない」
……少々?
いや、そこは別に言わなくてもよくない?
「ふふっ」
マルタが笑った。
「ずいぶん信用しているんだね」
「……当然だ」
ルナは迷わず答えた。
「我の命の恩人だからな」
その言葉に、俺は身体を動かせなくなった。
……命の恩人。
そんなふうに思ってくれていたのか。
「……まったく」
少しだけ、照れくさい。
俺は身体を小さくまとめ、ルナの隣へ寄った。
すると、柔らかな尻尾がそっと触れてきた。
「……ふふっ」
ルナが小さく笑う。
「これからも頼むぞ、ノア」
……こちらこそ。
俺は触手を伸ばし、ルナの前脚へ軽く触れた。
⸻
ボルクが小屋を貸してくれることになったのは、それから間もなくのことだった。
「構わねえよ。使ってない小屋だし、雨風を凌ぐくらいなら十分だ」
ボルクは気前よくそう言った。
「ただし、荷物は少し残ってるからな。勝手に壊すなよ」
……もちろんです。
俺は肯定の合図を返した。
「ははっ。分かってるならいい」
セインが荷車へ戻ってくる。
「じゃあ、俺が先に行って中を確認してくる。危ないものがあったら片づけておくよ」
……おお。
最初に剣を向けてきた人とは思えないな。
俺がそんなことを考えていると、セインが小さく咳払いした。
「……何だよ」
……いや、別に。
「……その」
少しだけ、言いにくそうな間があった。
「さっきは悪かったな」
……え?
俺は動きを止めた。
「剣を向けたことだよ。魔物だと思って、つい反射的に動いちまった」
……ああ。
そのことか。
「まあ、実際に魔物なんだろうけどさ」
……そこは否定できないな。
「でも、荷車の故障にも気づいてくれたし、悪いやつじゃないってのは分かった」
セインは少し照れくさそうに続けた。
「……だから、その。悪かった」
俺は触手を伸ばした。
そして、ゆっくり左右へ振る。
気にしていない。
そう伝えたかった。
「……許してくれるのか?」
肯定する。
すると、セインが小さく笑った。
「……ありがとな、ノア」
……うん。
どういたしまして。
それから、セインは荷車を降りて小屋へ向かった。
俺はその足音を感じ取りながら、少しだけ考えた。
人間って、面白いな。
最初は怖いと思っていた。
だが、話してみれば意外と普通だ。
警戒することもある。
間違えることもある。
それでも、謝ることができる。
……元の世界と、あまり変わらないのかもしれない。
⸻
小屋へ到着した頃には、外の空気が随分と涼しくなっていた。
「……着いたぞ」
ボルクの声が響く。
荷車が止まり、木の床へ伝わる振動が消えた。
「中は確認した。多少埃っぽいが、使えそうだ」
セインが戻ってきたらしい。
「寝床になる干し草もある。水は近くの井戸から運べるし、しばらく困らないだろう」
……おお。
思ったより快適そうだ。
「ただし、夜は冷えるぞ。扉はしっかり閉めておけよ」
……了解。
俺は身体を伸ばし、荷台の縁へ触手を固定した。
そこから、ゆっくりと地面へ下りる。
……ぺたり。
柔らかい土の感触。
続いて、草。
そして、少し離れた場所にある硬い木の柱。
「……ここか」
俺は慎重に周囲を探った。
小屋は木造らしい。
地面から伸びる柱。
その上に広がる壁。
さらに、少し奥には木の扉がある。
洞窟とは違う。
人間が作った建物だ。
俺は少しだけ興奮した。
「……ノア、また何か気になるのか?」
ルナの声が届いた。
俺は触手を持ち上げた。
……もちろん。
家だぞ。
この世界へ来てから、初めて入る家なんだから。
もっとも、炭焼き小屋らしいけど。
「……ふふっ」
ルナが笑う。
「では、入ってみるか」
俺は肯定し、身体を伸ばした。
ルナはセインに支えられながら、ゆっくりと小屋へ入っていく。
俺もその後に続いた。
……ぺたり。
床は木でできていた。
荷車よりもずっと広く、少し湿った感触がある。
周囲には、乾いた草のようなものが積まれている。
さらに、壁際には硬い箱や道具らしきものが置かれていた。
「……へえ」
俺は触手を伸ばし、床へ密着させた。
振動の伝わり方が、外とは違う。
木の床を通じて、小屋全体の様子が何となく分かる。
「……面白いな」
そんなことを考えていると、ルナが声をかけてきた。
「……ノア、こちらだ」
俺は身体を動かした。
柔らかな干し草の感触。
どうやら、寝床が用意されているらしい。
「……ここなら、少しは休めそうだな」
ルナが静かに言った。
俺はその隣へ移動した。
……ふさっ。
柔らかな毛が触れる。
「……ふふっ」
ルナが小さく笑った。
「本当に、我のそばが好きだな」
……いや。
今は、ここが一番安心できるんだから仕方ないだろ。
俺は少しだけ身体を揺らした。
すると、ルナが静かに続けた。
「……ノア」
俺は触手を持ち上げた。
「ありがとう」
……え?
「洞窟で助けてくれたことも、ここまで支えてくれたことも。まだ、きちんと礼を言っていなかったからな」
「…………」
俺は動きを止めた。
ルナの声は、今までよりもずっと穏やかだった。
「我は、貴様と出会えてよかったと思っている」
……ルナ。
俺は少しだけ身体を伸ばした。
そして、そっと前脚へ触れる。
ルナは何も言わなかった。
代わりに、柔らかな尻尾が俺の身体へ寄せられた。
……温かい。
俺はしばらく、その感覚を味わっていた。
洞窟で目覚めたとき、俺は何も持っていなかった。
名前も。
仲間も。
自分が何者なのかさえ、分からなかった。
だが、今は違う。
名前をくれた相手がいる。
助け合える仲間がいる。
そして。
この世界で、初めて休める場所まで手に入った。
「……悪くないな」
俺は身体を小さくまとめた。
……そのときだった。
「……そういえば」
小屋の入口から、マルタの声が届いた。
どうやら、まだ帰っていなかったらしい。
「ノア。最後にひとつだけ、聞いておきたいことがあるんだ」
……ん?
俺は触手を持ち上げた。
「お前さん、自分が普通のスライムとは違うことを、分かっているのかい?」
……え?
俺は動きを止めた。
その質問は、今までのものとは少し違っていた。
マルタは静かに続けた。
「身体の作り方も、感覚の使い方も、普通のスライムとはまるで違う。それに、身体の中心にある硬い核……」
……っ!
俺は思わず身体を縮めた。
中枢核。
俺にとって、最も大切な部分だ。
「……安心しな。別に取って食おうってわけじゃないよ」
マルタが小さく笑った。
「ただ、気になっただけさ」
……そうか。
俺は少しだけ身体の力を緩めた。
だが、マルタの言葉は続いていた。
「お前さんほど不思議な魔物なら、自分の種族くらい知っているのかと思ってね」
……種族。
俺は心の中で、その言葉を繰り返した。
原初種。
俺がこの世界へ来たとき、確かにそう表示されていた。
だが、それがどんな存在なのかは知らない。
普通のスライムと何が違うのか。
この世界に、ほかの原初種がいるのか。
そもそも、どうして俺はこの種族として生まれ変わったのか。
……何も分からない。
ただ、ひとつだけ。
自分の種族名は、知っている。
俺は触手をゆっくりと上下へ動かした。
すると、マルタが反応した。
「……ほう。知っているのかい?」
もう1度、肯定する。
「……それは興味深いね」
マルタは少し考え込んだ。
そして。
「ならば、いつか教えておくれ」
……え?
俺は動きを止めた。
「今は話せないんだろう? だったら、話せるようになってからでいい」
その声は、思っていたよりも優しかった。
「お前さんが何者なのか、私も少し知りたくなったんだ」
……なるほど。
俺は触手を小さく揺らした。
それなら、いつか。
ちゃんと話せるようになったら。
俺が原初種であることを、教えてみよう。
そして、そのときは。
俺自身にも、もっと詳しく知る方法があるといい。
「……ふふっ」
マルタが笑った。
「楽しみにしているよ、ノア」
そう言い残して、マルタは小屋を出ていった。
扉が閉まる音。
……ことん。
俺はしばらく、その場で動かなかった。
……原初種。
今まで、ただの種族名だと思っていた。
だが、普通のスライムとは違うと言われると、少し気になってくる。
この世界で、俺は一体どんな存在なのだろう。
そして、どこまで変わることができるのだろう。
俺は身体の中心へ意識を向けた。
《捕食》。
《性質吸収》。
《構造形成》。
今まで手に入れた力。
そして、まだ眠っているかもしれない可能性。
……いつか、確かめてみたいな。
そんなことを考えていると、隣からルナの声が届いた。
「……ノア」
俺は触手を持ち上げた。
「難しいことは、明日考えればよい」
……え?
「今日はもう休め。貴様も疲れているだろう」
……ああ。
それもそうだな。
俺は身体を小さくまとめ、柔らかな干し草の上へ落ち着いた。
小屋の外では、風が木々を揺らしている。
遠くからは、人間たちの足音や声が微かに伝わってきた。
洞窟とは、まるで違う夜。
その中で、ルナが小さく呟いた。
「……おやすみ、ノア」
俺は触手を1本だけ伸ばし、そっと前脚へ触れた。
……おやすみ、ルナ。
そして、ゆっくりと意識を休ませた。
この世界で初めて迎える、人の暮らしがすぐそばにある夜だった。




