刃の先にあるもの
第2部 第2話 刃の先にあるもの
「……まずは、その物騒なものを下ろしてもらおうか」
ルナの声が、街道脇の草むらに響いた。
その直後、周囲の動きがぴたりと止まる。
俺のすぐ前には、地面へ突き立てられた金属製の何かがある。おそらく剣だろう。
少し動けば届いてしまいそうな距離だ。
「……今の、あんたが喋ったのか?」
低い男の声が、感知膜へ伝わってきた。
「ほかに誰がいるというのだ」
ルナが平然と答える。
「いや、そういう問題じゃ……」
「喋る魔獣が珍しいか?」
「珍しいに決まってるだろ!」
……ですよね。
俺だって、最初にルナが喋ったときは驚いた。
いや、あのときは言葉を話す相手に出会えたことが嬉しくて、驚く余裕もなかったかもしれない。
「セインさん、剣を下ろしてください」
今度は、さっきの若い声だった。
「この子たち、何もしてないじゃないですか」
「エマ、お前な。魔物相手に油断するなって、何度言えば分かるんだ」
「でも、先に剣を抜いたのはセインさんですよね?」
「それは……」
男が言葉に詰まった。
……おお。
なかなか強いな、この子。
エマと呼ばれた声の主は、さらに続けた。
「それに、この白い子、怪我してるんですよ。早く手当てしないと」
「分かってる。だが、隣にいるやつが何なのか……」
「我の仲間だ」
ルナが即答した。
「……仲間?」
「そうだ。そやつは我を助け、ここまで連れてきてくれた。少なくとも、貴様らに危害を加えるつもりはない」
俺は思わず身体を揺らした。
……ルナ。
「そもそも、何もしておらぬ相手へ刃を向ける方が、よほど物騒だと思うがな」
「……ぐっ」
また男が黙った。
……ルナ、強い。
魔力を使い切って、右後ろ脚もまともに動かないはずなのに、まったく引く気配がない。
「……セイン」
少し離れた場所から、別の男の声が届いた。
「ひとまず剣を収めろ。あの魔獣の言うことにも一理ある」
「ボルクさんまで……」
「相手が話せるなら、まずは話を聞けばいい。荷車を守るのがお前の仕事だが、無用な争いを起こすことじゃない」
落ち着いた声だった。
セインと呼ばれた男は、しばらく黙っていた。
やがて。
……しゃりん。
金属が擦れ合う振動。
続いて、俺の前にあった硬い気配が離れていく。
「……分かったよ。ただし、何か妙な動きをしたらすぐに止めるぞ」
……助かった。
俺は身体の力を少し緩めた。
すると、ルナがこちらへ声をかけてきた。
「ノア、もう出てきてよいぞ」
……え?
いいの?
「ただし、急に触手を伸ばすなよ。驚かせるからな」
……はい。
以前、ルナにも同じようなことを言われた気がする。
俺は慎重に木の根元から身体を滑り出させた。
できるだけ小さく。
ゆっくりと。
相手に警戒されないように。
「……うわ」
セインの声が届いた。
「本当にスライムみたいだな……」
……だから原初種ですって。
まあ、見た目は似ているのかもしれないけど。
「……かわいい」
今度はエマの声だった。
「…………」
……え?
かわいい?
俺が?
「ほら、見てくださいよ。ぷるぷるしてます」
「いや、それが怖いんだろうが」
「そうですか? 小さくてかわいいと思いますけど」
……おお。
何だ、この子。
ものすごくいい子じゃないか。
俺は嬉しくなり、身体を小さく揺らした。
「ほら! 今、反応しましたよ!」
「……おい、まさか言葉が分かるのか?」
セインが警戒を滲ませた声で尋ねる。
「分かるぞ」
答えたのはルナだった。
「ただし、そやつはまだまともに話せぬ。代わりに身体を動かして意思を伝える」
「……本当か?」
俺は触手を1本持ち上げた。
そして、ゆっくり上下へ動かす。
「……おお」
ボルクが感心したように声を漏らした。
「随分と賢い魔物なんだな」
……ふふん。
もっと褒めてもいいんですよ。
「……ノア。調子に乗るな」
ルナが静かに言った。
……何で分かるんだよ。
⸻
「さて、話は済んだだろう。そろそろ我の脚を診てもらえぬか?」
ルナの言葉で、全員の意識が怪我へ戻った。
「あっ、そうでした!」
エマが慌てて動き出す。
「セインさん、薬箱を取ってください!」
「お前、自分で持ってきただろ」
「……あれ?」
「荷車の後ろに置いてあったぞ」
「そうでした!」
……大丈夫か、この子。
さっきまで随分しっかりしていると思っていたんだけど。
まあ、人間らしくて親しみやすいかもしれない。
エマが荷車へ向かって駆け出した。
軽い足音が遠ざかり、少しして戻ってくる。
「お待たせしました!」
何かを地面へ置く振動が伝わった。
……ことん。
「私はエマといいます。薬師の見習いをしているんです」
「薬師か。ならば、少しは期待できそうだな」
「はい! まだ勉強中ですけど、できることはやってみます」
エマはそう言って、ルナの近くへしゃがみ込んだらしい。
「触っても大丈夫ですか?」
「……うむ。頼む」
「ありがとうございます。では、少し失礼しますね」
衣擦れの音。
それから、ルナの身体が小さく動く振動。
「……っ!」
「ごめんなさい! 痛かったですか?」
「いや、よい。傷が深いだけだ」
俺は少しだけ身体を近づけた。
今の俺には傷の様子が見えない。
ただ、ルナが痛みを堪えていることは、呼吸の変化から分かった。
「……これは」
エマの声が低くなった。
「何かに噛まれたんですか?」
「大百足だ。岩山の洞窟で襲われた」
「……大百足?」
セインが反応した。
「おい、まさかあの洞窟にいるって噂のやつか?」
「知っているのか?」
「岩山の奥に、とんでもなく大きな百足が棲みついているって話だ。荷運びをしてる連中の間じゃ有名だぞ」
……へえ。
あいつ、そんなに知られているのか。
「実際に見たやつは少ないけどな。洞窟へ入ったきり戻らなかった冒険者もいるって聞く」
……それ、かなり危険なやつじゃないか。
よく生きて逃げられたな、俺たち。
「その大百足から逃げてきたのか?」
「ああ。ノアがいなければ、我はここにはおらぬだろう」
ルナの声に、少しだけ柔らかさが混じった。
俺は何となく照れくさくなり、身体を小さくまとめた。
「……このスライムが?」
セインはまだ信じられないらしい。
「ノアだ」
ルナが訂正した。
「……ん?」
「そやつの名はノアという。スライムと呼ぶより、そちらで呼んでやれ」
「……名前まであるのか」
……ありますよ。
しかも、名付け親はそこにいるルナです。
「ノアちゃん、ですか」
エマが楽しそうに言った。
「かわいい名前ですね」
……ちゃん?
俺は思わず動きを止めた。
いや、名前を褒めてもらえるのは嬉しいんだけど。
ノアちゃん、か。
何だか少し複雑だ。
「ふふっ。気に入らぬらしいぞ」
ルナが笑った。
……余計なこと言わなくていいから!
「えっ、そうなんですか?」
エマの声に驚きが混じる。
俺は慌てて触手を左右へ振った。
「……違う?」
今度は上下へ。
「……あ、名前はいいけど、ちゃん付けが嫌なんですね?」
……おお!
正解!
俺は大きく肯定した。
「ふふっ。分かりました。じゃあ、ノアって呼びますね」
……よろしくお願いします。
俺は触手を小さく揺らした。
こんなやり取りができるだけでも、嬉しかった。
だが、次の瞬間。
「……皆さん、少し静かにしてください」
エマの声が真剣なものへ変わった。
「傷を確認します」
⸻
しばらくの間、エマはルナの右後ろ脚を調べていた。
俺には見えないが、何かを動かすたびに小さな音が届いてくる。
布を広げる音。
水を注ぐ音。
そして、ときおりルナが痛みを堪える声。
俺はすぐ近くで、じっと待っていた。
「……やっぱり、毒が入っていますね」
エマが静かに言った。
「傷の周りが腫れていますし、脚の先まで痺れが出ているようです」
「治せるのか?」
ルナが尋ねる。
少し間があった。
「……私の手持ちでは、完全な解毒は難しいと思います」
俺は身体を強張らせた。
……そんな。
「ただ、傷を洗って保護することはできます。炎症を抑える薬もありますから、何もしないよりはずっといいはずです」
「……そうか」
ルナは静かに答えた。
「ならば、頼む」
「はい」
エマが再び作業を始めた。
俺は地面へ身体を密着させ、ルナの呼吸を確かめる。
少し速い。
だが、洞窟で倒れていたときほどではない。
「……大丈夫だよな」
そんなことを考えていると、セインが口を開いた。
「エマ。その毒、村で診てもらえば何とかなるか?」
「断言はできません。でも、私の師匠なら毒の種類を調べられると思います」
「……師匠?」
「はい。薬の知識も治癒術の経験も、私とは比べものになりませんから」
……おお。
それはありがたい。
俺は思わず身体を伸ばした。
すると、エマが笑った。
「ノアも心配なんですね」
……そりゃ、もちろん。
「大丈夫。できるだけのことはしますから」
その言葉に、少しだけ安心した。
もちろん、まだ何も解決したわけじゃない。
でも、少なくとも方法はありそうだ。
「……そうか」
ルナも静かに息を吐いた。
「世話になるな」
「いえ。困っている子を放っておけませんから」
「……子、か」
ルナの声が妙に低くなった。
……ん?
「我を子扱いするとは、なかなか大胆な娘だな」
「えっ?」
エマが慌てた。
「あっ、すみません! その、見た目がかわいかったので、つい……」
「……かわいい?」
「は、はい」
少しだけ沈黙が流れた。
その後。
「……ふん」
ルナが鼻を鳴らした。
「まあ、悪い気はせぬな」
……嬉しいんじゃないか。
俺は身体を小さく震わせた。
すると。
「ノア」
……はい。
「今、笑っただろう」
……なぜ分かる。
まだ声もまともに出せないのに。
⸻
「……さて、問題はここからだな」
ルナの傷を洗い終えたところで、ボルクが口を開いた。
「エマの師匠がいるのは、俺たちの向かっているエルデ村だ。ここからなら荷車で行ける」
……村!
俺は思わず反応した。
人間の村。
この世界へ来てから、初めて耳にする具体的な地名だった。
「ただな」
ボルクは少し困ったように続けた。
「その2匹を連れて村へ入るとなると、話は別だ」
……あ。
そうだった。
俺もルナも、人間じゃない。
しかも、見た目は魔物そのものだ。
突然村へ現れたら、騒ぎになるかもしれない。
「俺は魔獣について詳しいわけじゃないが、普通の村人なら驚くだろうな」
「……それは承知しておる」
ルナが答える。
「だからといって、ここに残るわけにもいかぬ」
「分かってる。だから、少し考えさせてくれ」
ボルクは腕を組んだらしい。
衣服が擦れる音がした。
「……エマの師匠なら、事情を説明すれば診てくれるだろう。ただ、村へ入る前に相談した方がいいかもしれんな」
「それなら!」
エマが勢いよく声を上げた。
「私が先に行って、師匠を呼んできます!」
「お前1人で行かせられるか」
セインが即座に否定する。
「そもそも、お前が薬箱を届けるために荷車へ乗せてもらったんだろうが」
「……あ」
……また忘れてたのか、この子。
「だったら、みんなで村まで行けばいいじゃないですか」
エマはあっさりと言った。
「荷車に乗ってもらって、村の手前で待ってもらうんです。私が師匠を呼んでくれば、無理に村へ入らなくても治療できますよ」
……なるほど。
確かに、その方法なら問題は少なそうだ。
「……荷車に魔物を乗せるのか?」
セインが渋い声を出した。
「駄目ですか?」
「駄目というか……」
「怪我してるんですよ?」
「それは分かってるって!」
どうやら、セインはエマに弱いらしい。
俺は少し面白くなってきた。
「……ふむ」
ボルクが考え込む。
「荷車の積み荷は布と日用品だ。危険なものはない。隅に場所を空ければ、乗せられないこともないな」
「ボルクさん!?」
「ただし、条件はつけさせてもらう」
男の声が少し真面目になった。
「荷台では暴れないこと。積み荷を傷つけないこと。それから、村の手前で必ず降りてもらう。いいか?」
「……構わぬ」
ルナが答えた。
俺も触手を上下へ動かす。
すると、ボルクが小さく笑った。
「……面白いな。本当に言葉を理解してるんだな」
……まあ、それだけが取り柄というわけでもないんですけど。
「では、決まりだ」
ボルクが言った。
「エルデ村まで、一緒に行こう」
……おお!
俺は思わず身体を揺らした。
今度は、ルナも止めなかった。
⸻
荷車へ乗るのは、思っていたより大変だった。
まず、ルナが自分で飛び乗れない。
右後ろ脚を怪我しているため、地面から荷台へ身体を持ち上げることが難しいのだ。
俺は身体の一部を広げ、いつものように支えを作った。
だが、荷車の高さは洞窟の段差よりも大きい。
「……うーん」
どうしたものか。
すると、セインが近づいてきた。
「……おい、俺が持ち上げてもいいか?」
ルナが少し警戒した。
「……貴様が?」
「別に変なことはしねえよ。脚が悪いんだろ?」
少しぶっきらぼうな声だったが、敵意は感じられない。
「……頼めるか」
「ああ。ただ、暴れるなよ」
「貴様こそ、乱暴に扱うな」
「分かってるって」
……この2人、意外と気が合うんじゃないか?
そんなことを考えていると、セインがルナの身体を持ち上げた。
「……おっと」
少し驚いたような声。
「見た目より重いな」
「……失礼な男だな」
「いや、褒めてないけど貶してもいないからな?」
「……ふん」
ルナが鼻を鳴らす。
俺はそのやり取りを聞きながら、荷車の側面へ触手を伸ばした。
《粘着性》を使って固定する。
それから、身体を細長く引き伸ばした。
……ぐいっ。
荷車の縁へ到達する。
続いて、身体を引き寄せる。
……ぺたり。
「……よし」
何とか登れた。
すると。
「おおっ!」
ボルクが驚いたように声を上げた。
「本当に登ったぞ!」
……登れますよ。
まあ、少し時間はかかるけど。
「……便利な身体だなぁ」
ボルクは感心しているらしい。
「普通のスライムは、そこまで器用に動かないぞ」
……そうなのか?
俺は思わず身体を止めた。
普通のスライム。
ということは、やっぱりこの世界にはスライムが存在するんだな。
しかも、俺とは違うらしい。
「……何だ?」
ボルクが不思議そうに尋ねてきた。
俺は触手を左右へ振った。
今は説明できない。
だが、少し気になる情報だった。
「……ノア、こっちだ」
ルナの声が聞こえた。
俺は身体を動かし、声のする方向へ向かった。
すると、柔らかな毛に触れた。
……ふさっ。
「……そこだ」
ルナが小さく笑った。
「我の隣にいればよい」
……了解。
俺はルナのすぐ横へ身体を落ち着けた。
荷台の床は木でできているらしく、洞窟の岩とは感触が違った。
少しだけ柔らかく、細かな凹凸がある。
しかも、触れた部分から木の内部へ振動が伝わっていく。
「……へえ」
俺は試しに身体を広げた。
すると、荷台全体の様子が何となく分かった。
木の板が並んでいる場所。
硬い荷物が置かれている場所。
そして、車輪の回転によって伝わってくる細かな振動。
「……面白いな」
この身体だと、荷車に乗るだけでも新しい発見がある。
「……では、出すぞ!」
ボルクの声が響いた。
続いて、馬の足音。
……どっ。
……どっ。
荷車がゆっくりと動き始めた。
……ごとごと。
木の床が震える。
俺はその振動を感じながら、少しだけ身体を縮めた。
「……おお」
乗り物だ。
この世界へ来てから、初めての乗り物。
……いや、ルナの脚代わりになっていたことを考えると、俺の方が乗り物だった気もするけど。
そんなことを考えていると、ルナが声をかけてきた。
「……ノア」
俺は触手を持ち上げた。
「少し休め。貴様も、まだ身体が戻りきっておらぬだろう」
……うん。
確かに、完全には回復していない。
食事のおかげで多少は楽になったが、大百足に引きちぎられた部分はまだ補えていない。
それに、慣れない外の環境で感知を続けていたせいか、少し疲れていた。
「……分かった」
俺は身体を小さくまとめた。
すると、ルナが柔らかな尻尾らしきものを俺の近くへ寄せた。
……ふさっ。
「……ここにいろ」
その声は、随分と穏やかだった。
俺は身体を動かさず、ただその温かさを感じていた。
……悪くないな。
人間の荷車。
初めて出会った人たち。
そして、隣にはルナがいる。
洞窟にいた頃には、想像もしなかった光景だ。
もちろん、俺には見えていない。
だが、今はそれでも十分だった。
⸻
しばらく進んだ頃だった。
……がたん。
荷車が小さく揺れた。
俺はその振動で、少しだけ意識を戻した。
「……ん?」
何か、変だ。
馬の足音。
車輪の回転。
木の板が擦れ合う振動。
その中に、妙な揺れが混じっていた。
……ごと。
……ごとん。
……ごと。
一定の間隔で、右側から少し大きな振動が伝わってくる。
「……何だろう」
俺は荷台へ身体を広げた。
すると、振動の出どころが少しずつ分かってきた。
どうやら、車輪の近くにある木の部品が、何かとぶつかっているらしい。
しかも、揺れるたびに少しずつ位置が変わっているような感覚がある。
「……これ、大丈夫なのか?」
俺は少し迷った。
だが、もし壊れかけているのなら、知らせた方がいい。
俺は身体の一部に硬い突起を作った。
そして、荷台の床を叩いた。
……コツ、コツ!
「……ん?」
セインの声が届く。
俺はもう1度叩いた。
……コツ、コツ!
「どうした、スライム……じゃなかった、ノア」
……よし。
気づいてくれた。
俺は触手を荷車の右側へ伸ばした。
そして、そこを何度も指し示す。
「……何だ?」
セインは少し困ったようだった。
「……右側?」
俺は肯定する。
「……何かあるのか?」
もう1度、肯定。
すると、ルナが声をかけてきた。
「ノア。何か異常を感じたのか?」
俺は触手を大きく持ち上げた。
「……ふむ」
ルナは少し考えた。
それから、御者台へ向かって声を上げた。
「ボルク! 少し荷車を止めてくれぬか!」
「……どうした?」
「ノアが何か気づいたらしい。右側を調べてみてくれ」
……ごとごと。
荷車がゆっくりと止まった。
ボルクが降りる。
続いて、車輪の近くへ歩いていく足音。
「……右側、だったな」
しばらくの間、何かを確かめるような音が続いた。
……こん。
……がたっ。
そして。
「……おいおい」
ボルクが驚いたような声を上げた。
「車輪を固定してる楔が緩んでるじゃねえか」
……お?
「このまま走ってたら、車輪が外れていたかもしれんな」
……えっ。
そんなに危なかったのか?
俺は思わず身体を縮めた。
「……まさか」
セインが呟いた。
「ノア、それに気づいたのか?」
俺は触手を上下へ動かした。
「……すげえな」
今度は、明らかに感心した声だった。
「振動だけで分かったのかよ」
……まあ、そういうことです。
正確には何が壊れかけていたのかまでは分からなかったけど。
「……助かったぞ、ノア」
ボルクが声をかけてきた。
「こんな場所で車輪が外れたら、えらいことになってた」
……どういたしまして。
俺は身体を小さく揺らした。
すると、エマが楽しそうに言った。
「やっぱりノアって、すごいんですね!」
……いやあ。
それほどでも。
「……ふふっ」
ルナが笑う。
「よかったな、ノア」
……うん。
何だか、少し嬉しかった。
さっきまでは、正体不明の魔物として警戒されていた。
だが、今は違う。
少なくとも、俺が役に立てることを知ってもらえた。
言葉を話せなくても、伝えられることはある。
それを、少しだけ実感できた気がした。
⸻
荷車の修理を終えた俺たちは、再び街道を進み始めた。
エマはルナの傷の様子を確かめ、セインは周囲を警戒している。
ボルクは馬を操りながら、ときおり昔の旅の話をしてくれた。
俺はそのすべてを完全に理解できたわけではない。
感知膜に風が当たると、言葉が途切れてしまうからだ。
それでも、分かることはあった。
この世界には、人間の村がある。
街道がある。
薬師がいて、荷物を運ぶ商人がいる。
当たり前のように仕事をし、誰かを心配し、笑い合っている人たちがいる。
……俺が知らなかっただけで。
この世界にも、ちゃんと暮らしがあるんだな。
そんなことを考えていると、ルナが静かに声をかけてきた。
「……ノア」
俺は触手を持ち上げる。
「貴様、楽しそうだな」
……分かる?
「分かるとも。さっきから身体が小刻みに揺れておる」
……ああ。
そういうことか。
俺は少しだけ照れくさくなった。
「……ふふっ」
ルナが柔らかく笑う。
「これから先、もっといろいろなものを見ることになるぞ」
……見る、か。
俺はその言葉を聞いて、少しだけ身体を止めた。
今の俺には目がない。
ルナの姿も。
エマたちの顔も。
この街道の景色も。
まだ、何ひとつ見ることができない。
だけど。
「……いつか」
俺は身体の中心へ意識を向けた。
捕食。
性質吸収。
そして、変異。
俺には、まだ知らない可能性がある。
いつか、光を感じる性質を手に入れられるかもしれない。
そうしたら。
今、隣で笑っているルナの姿を、自分の目で確かめられる。
「……楽しみだな」
俺は触手を小さく揺らした。
すると、ルナが静かに言った。
「……そうだな」
その声は、少しだけ嬉しそうだった。
荷車は、ゆっくりと街道を進んでいく。
向かう先は、エルデ村。
ルナの怪我を治すために。
そして、俺が初めて人間の暮らしへ触れるために。
まだ分からないことは山ほどある。
だが、不安ばかりではなかった。
なぜなら、俺たちを運んでいるのは、さっきまで見ず知らずだった人間たちなのだから。
……本当に、世の中は分からないものだ。
洞窟の中では、近づいてくる生物はみんな敵だと思っていた。
だが、外の世界では違うらしい。
少なくとも。
剣を向けてきた相手が、同じ荷車に乗る仲間になることだってある。
俺は木の床へ身体を預け、規則正しく続く車輪の振動を感じていた。
その振動は、洞窟で聞いたどんな音よりも、不思議と心地よかった。




