流れの向こう
第16話 流れの向こう
冷たい水が、容赦なく身体を押し流していく。
岩にぶつかる水の振動。
複雑に入り組んだ流れ。
そして、川底を這う巨大な生物の気配。
「……しつこすぎるだろ!」
俺はルナの身体へ巻きついたまま、必死に周囲の状況を探っていた。
《微振動感知》は、ほとんど役に立たない。
水の流れが強すぎるのだ。
普段なら小さな虫の足音まで感じ取れる能力も、今は大量の振動に埋もれてしまっている。
それでも、時折伝わってくる重い衝撃だけは分かった。
大百足。
あいつは、まだ俺たちを追っている。
川底の岩へ無数の脚を引っかけ、流れに逆らいながら移動しているらしい。
「……どんだけ頑丈なんだよ」
普通なら、とっくに下流へ流されていてもおかしくない。
だが、相手は巨大な魔物だ。
俺の常識なんて、最初から通用しないのだろう。
「ノア!」
ルナの声が、感知用の膜へ伝わってきた。
「左へ寄れ! その先は岩がせり出している!」
……左!
俺は身体の一部を伸ばした。
だが、流れが強い。
岩へ張りつこうとしても、触手の先端が押し戻されてしまう。
「……くそっ!」
もう1度。
今度は先端を細くし、流れの抵抗を減らす。
……ぺたり。
岩に触れた!
俺は《粘着性》を強め、身体を引き寄せた。
ぐいっ!
ルナの身体が、わずかに横へ動く。
「……よし!」
その直後。
ゴゴゴッ!
俺たちのすぐ横を、大量の水が流れ抜けた。
どうやら、岩の張り出しによって流れが分かれていたらしい。
もしそのまま進んでいたら、まともに岩へ叩きつけられていただろう。
「……助かった!」
もちろん、声にはならない。
だが、ルナも無事だったらしい。
「ふぅ……間一髪だったな」
息を吐く振動が伝わってきた。
ただ、その呼吸はかなり荒い。
負傷した脚。
大百足の毒。
そして、使い切った魔力。
ルナの状態は、決してよくなかった。
「……早く川から出ないと」
俺は身体を伸ばし、周囲の岩を探った。
だが、どこも流れが速い。
しかも、水面から上へ伸びる岩壁は、かなり急な角度になっていた。
俺1人なら登れるかもしれない。
だが、ルナを抱えたままでは無理だ。
「……どうする?」
そのときだった。
ズズズッ!
川底から、強い振動が伝わってきた。
……近い。
さっきよりも、明らかに。
「……まずい!」
俺は咄嗟に身体を広げた。
ルナを包む部分は維持したまま、反対側へ細い触手を伸ばす。
すると。
ガギンッ!
硬い何かが、すぐ近くの岩へぶつかった。
「……っ!?」
衝撃が水を伝わってくる。
大百足だ!
しかも、今度はほとんど真下にいる!
「ノア! 下だ!」
……分かってる!
俺は身体を縮め、流れへ身を任せた。
次の瞬間、何か鋭いものが身体の端を掠めた。
「――っ!」
痛みが走る。
だが、引きちぎられてはいない。
俺は傷ついた部分を引っ込め、ルナを包み込む身体の位置を調整した。
「……危なかった」
大百足は水中でも獲物を捕まえようとしているらしい。
しかも、こちらを見失っていない。
これ以上近づかれたら、逃げ切れないかもしれない。
「ノア、無事か!?」
俺は触手をルナの肩口へ伸ばした。
そして、軽く2回叩く。
……こつ、こつ。
「……そうか」
ルナが小さく息を吐いた。
「ならば、もう少しだけ耐えてくれ」
……何かあるのか?
俺が触手を動かすと、ルナは少し先を見ているらしく、顔の向きを変えた。
「……あの先だ」
弱々しい声だったが、どこか確信があった。
「川が分かれている。右側の岩壁に、細い横穴が見える」
……横穴?
「水がそちらへも流れている。うまく入り込めれば、あの大百足は追ってこられぬはずだ」
俺は意識を集中させた。
水の振動が入り乱れる中、右側の岩壁へ触手を伸ばす。
……届かない。
まだ距離がある。
だが、少し先で流れが変わっていることは分かった。
「……あそこか!」
俺はルナの身体をしっかりと固定した。
狙うのは右側。
ただし、問題がある。
水の主流は、そのまま真っすぐ進んでいるのだ。
俺たちが何もしなければ、横穴を通り過ぎてしまう。
「……どうやって曲がる?」
ルナは泳げるのかもしれない。
だが、右後ろ脚は動かない。
しかも、ほとんど魔力を使い切っている。
今の状態で無理をさせるわけにはいかなかった。
「……俺がやるしかないな」
俺は身体の一部を細長く伸ばした。
《構造形成》。
まず、触手の先端を薄く広げる。
続いて、その縁だけを硬くする。
水の流れを受けられるように、少し湾曲した形を作った。
「……こういう感じか?」
人間だった頃に見た、船の舵を思い出す。
正確な仕組みなんて知らない。
だが、水の流れを受ける面の向きを変えれば、多少は進行方向を調整できるはずだ。
俺は形成した板状の部分を、水流へ差し込んだ。
……ぐいっ!
「うおっ!?」
想像以上の力が加わった。
身体が大きく引っ張られる。
慌てて角度を変えると、今度は反対方向へ傾いた。
「……難しい!」
水の力が強すぎる。
今の身体では、少し形を間違えただけで制御できなくなる。
だが、完全に無駄というわけでもなかった。
ルナを包んだ身体が、ほんのわずかに右へ移動している。
「……いける!」
俺は角度を調整した。
少しずつ。
無理に大きく動かそうとせず、水の力を利用する。
すると。
「……ノア!」
ルナが声を上げた。
「寄っているぞ! そのままだ!」
……よし!
俺は身体の形を維持した。
だが、その瞬間。
ぐらっ。
「……っ!?」
身体の奥に、強い疲労感が広がった。
まずい。
構造を維持する負担が、予想以上に大きい。
それに、ルナを包み込むための《粘着性》も使い続けている。
中枢核を守る《硬質外皮》だって、解除するわけにはいかない。
「……限界、近いな」
俺は必死に意識を集中させた。
あと少し。
横穴へ入るまで。
それまでは、何としても維持しなければ。
……そのとき。
ガリガリガリッ!
背後から、嫌な振動が迫ってきた。
「……嘘だろ」
大百足だ。
あいつも、こちらへ向かっている。
しかも、川底の岩を伝いながら、確実に距離を詰めていた。
「……ノア、急げ!」
ルナの声が震える。
俺は身体をさらに右へ傾けた。
横穴までは、もう少し。
だが、大百足も近い。
そして。
ガキンッ!
すぐ後ろで、硬いものが岩を叩いた。
「……っ!」
俺は反射的に身体を縮めた。
次の瞬間、細長い何かが水を切って伸びてくる。
鋭い顎。
いや、脚かもしれない。
とにかく、硬く尖ったものだ。
「……くそっ!」
俺はルナを包む身体を動かし、攻撃を避けようとした。
だが、間に合わない。
……ガリッ!
身体の一部が引っかけられた。
「――――っ!!」
痛みが走る。
そして、強烈な力で引き戻される。
「……まずい!」
このままでは、ルナまで引きずり込まれる。
俺は咄嗟に身体を細く伸ばした。
掴まれた部分を、できるだけ本体から遠ざける。
ぐぐっ……。
身体が引っ張られる。
中枢核の周囲にまで、嫌な圧力が伝わってきた。
「……離せ!」
俺は必死に《硬質外皮》を発動した。
掴まれている部分の形を変える。
硬くする。
細くする。
少しだけ捻る。
だが、相手の力が強すぎる。
「ノア!」
ルナの声。
「身体が……!」
……分かってる!
俺は思い切って、掴まれた部分の構造を崩した。
硬質化を解除。
粘着性も弱める。
すると、相手の顎が身体へ食い込む。
……だが。
「……今だ!」
俺は掴まれていない部分を一気に縮めた。
ぐにゅっ!
柔らかくなった身体が、顎の間を滑り抜ける。
一部は引きちぎられた。
だが、中枢核は無事だ。
そして、ルナも離していない。
「……よし!」
俺は流れに身を任せた。
大百足が再び追おうとする。
だが、そこで流れが大きく変わった。
……ぐんっ!
「……っ!?」
身体が右へ引っ張られた。
横穴だ!
水の一部が、岩壁の奥へ流れ込んでいる。
俺たちはその流れに乗ったらしい。
「ノア! そのまま行け!」
……任せろ!
俺は身体を細長く伸ばし、横穴の内側へ触手を差し込んだ。
……ぺたり。
岩に触れた。
《粘着性》を強める。
そして、身体を引き寄せる。
ぐいっ!
「……よし!」
ルナの身体が横穴へ入り込んだ。
だが、入口は思っていた以上に狭かった。
「……くっ!」
ルナが苦しそうに声を漏らす。
岩に身体が擦れているらしい。
俺はすぐに身体を薄く広げ、ルナと岩の間へ入り込んだ。
柔らかい身体を緩衝材代わりにする。
「……大丈夫か?」
もちろん、声にはならない。
だが、ルナは俺の動きを察したようだった。
「……平気だ。進める」
……よし。
俺はさらに奥へ身体を伸ばした。
そのとき。
ドンッ!
背後から、凄まじい衝撃が伝わってきた。
「……っ!?」
大百足が、横穴の入口へ身体をぶつけたのだ。
ガリガリガリッ!
無数の脚が岩を引っかく。
硬い甲殻が、入口へ押しつけられる。
「……来るなって!」
俺は必死に身体を縮めた。
幸い、横穴は大百足が通れるほど広くない。
だが、相手は諦めていないらしい。
何度も身体をぶつけ、そのたびに岩が大きく震えた。
「……まずいぞ、ノア」
ルナが低い声で言った。
「奴が入口を崩せば、この穴も塞がるかもしれぬ」
……それは困る!
俺は《微振動感知》で周囲を探った。
横穴は奥へ続いている。
しかも、途中で少し広くなっているらしい。
「……急ぐしかない!」
俺は身体を伸ばした。
ルナの下へ滑り込み、傷ついた脚を支える。
そして、岩へ触手を固定しながら、少しずつ前へ進んだ。
背後では、大百足が暴れている。
だが、距離は確実に開いていた。
……ガリガリッ!
……ドンッ!
やがて、振動が少しずつ遠ざかっていく。
「……ふぅ」
俺はようやく身体の力を緩めた。
逃げ切った。
……いや。
まだ安心するのは早いか。
俺は《微振動感知》を使い、横穴の奥を探った。
少なくとも、大型生物の反応はない。
川の流れも、さっきまでよりずっと穏やかになっている。
「……助かった、のか?」
そう考えた瞬間。
「……ノア」
ルナが静かに声をかけてきた。
「もう、大丈夫そうだな」
俺は触手を上下へ動かした。
すると、ルナが小さく笑った。
「……ふふっ。本当に、よく頑張った」
その声を聞いて、俺は少しだけ身体を揺らした。
褒められた。
……いや、そんなことを喜んでいる場合じゃないんだけど。
それでも、何だか嬉しかった。
「……貴様がいなければ、我は今頃あの大百足の腹の中だっただろう」
俺は触手を左右へ振った。
違う。
ルナがいなければ、俺だって逃げ切れなかった。
岩を崩したときも。
川の中で進む方向を教えてくれたときも。
俺1人では、絶対に無理だった。
「……何だ、その動きは」
ルナが不思議そうに言った。
俺はもう1度、触手を左右へ振った。
すると、少しだけ考えるような間があった。
「……我も役に立った、とでも言いたいのか?」
……おお!
分かってくれた!
俺は勢いよく触手を上下へ動かした。
「……ふふっ」
ルナが笑った。
「そうか。ならば、互いに助け合ったということだな」
……そうそう。
そのとおり。
俺は満足しながら、身体を岩へ密着させた。
今までずっと、独りで生き残ることばかり考えていた。
強くならなければ。
食われないようにしなければ。
もっと多くの性質を手に入れなければ。
そんなことばかりだった。
だが、今回の逃走で分かったことがある。
自分にできないことでも、誰かと一緒ならできる場合がある。
俺には目がない。
ルナには、今は自由に動かせない脚がある。
だが、俺には柔らかい身体と振動を感じ取る能力がある。
ルナには、魔術と知識、そして周囲を見る目がある。
互いの足りない部分を補い合えば、強い相手からだって逃げられる。
「……仲間、か」
俺はその言葉を心の中で繰り返した。
悪くない。
本当に、悪くない響きだった。
⸻
横穴の奥は、少しずつ上り坂になっていた。
水の流れも弱まり、やがて足元に浅い水が残る程度になった。
「……ようやく歩けるな」
ルナが安堵したように呟いた。
俺は身体を伸ばし、右後ろ脚を支え直した。
だが、そこで問題が起きた。
「……あれ?」
身体が思うように動かない。
触手を伸ばそうとしても、途中で形が崩れてしまう。
《硬質外皮》を発動しようとしても、普段よりずっと時間がかかった。
「……まずいな」
どうやら、かなり消耗しているらしい。
大百足に引きちぎられた部分も、まだ戻っていない。
そのうえ、長時間ルナを支え続けたことで、身体の中に残っている栄養も少なくなっていた。
「……ノア?」
ルナが心配そうに声をかけてきた。
俺は触手を上下へ動かそうとした。
……だが。
ぐにゃっ。
うまく動かない。
「……おい」
ルナの声が鋭くなる。
「貴様、まさか限界なのか?」
……いや。
まだ大丈夫。
たぶん。
俺は必死に触手を持ち上げた。
だが、すぐに崩れてしまった。
「……馬鹿者」
ルナが小さく呟いた。
そして、次の瞬間。
「少し休め」
……え?
俺は動きを止めた。
「これ以上、無理をするな。今度は我が周囲を見張る」
……いやいや。
ルナだって怪我してるだろ。
俺は慌てて身体を動かそうとした。
だが、ルナは静かに続けた。
「我の脚は動かぬが、目まで見えなくなったわけではない」
……それは、そうだけど。
「それに、ここまで来れば大百足も追ってこられまい。少なくとも、すぐに襲われる心配はなさそうだ」
俺は周囲の振動を探った。
確かに、大型生物の反応はない。
水の流れも穏やかだ。
ここなら、少し休めるかもしれない。
「……分かった」
俺は身体を小さくまとめた。
ルナのすぐ近くに寄り、岩へ密着する。
すると、ルナが小さく笑った。
「……ふふっ。ようやく素直になったか」
……俺だって、いつも無茶してるわけじゃないんだけどな。
そんなことを考えながら、俺は身体を休めた。
⸻
どれくらい時間が経ったのだろう。
再び意識がはっきりしたとき、最初に感じたのは、身体の表面を撫でる柔らかな空気の流れだった。
「……ん?」
風だ。
しかも、今まで洞窟の中で感じていたものとは違う。
冷たさの中に、微かな温かさが混じっている。
俺は身体を伸ばした。
……動く。
さっきより、少しだけ軽い。
完全に回復したわけではないが、少なくとも触手を作るくらいなら問題なさそうだった。
「……ノア?」
すぐ近くから、ルナの声が届いた。
俺は触手を持ち上げた。
「……目覚めたか」
上下へ動かす。
「よかった。ずいぶん静かだったから、少し心配したぞ」
……すみません。
俺は触手を小さく揺らした。
すると、ルナが柔らかく笑った。
「……さて、少し先へ進んでみるか?」
俺は触手を持ち上げた。
「この先、何やら明るいのだ」
……明るい?
俺は動きを止めた。
今、明るいって言った?
「どうした?」
俺は触手を大きく上下へ動かした。
「……ああ、そうか。貴様には見えぬのだったな」
ルナが少し考えるように言った。
「この通路の先から、光が差し込んでいる。どうやら、出口が近いらしい」
「…………」
出口。
洞窟の出口。
……まじか。
俺は思わず身体を大きく伸ばした。
「うわっ!? 急に動くな!」
……ごめん!
でも!
ようやく!
ようやく外に出られるのか!
俺は嬉しくなって、何度も触手を動かした。
「……ふふっ。そんなに嬉しいか?」
……そりゃそうだろ!
この身体になってから、ずっと洞窟の中だったんだから!
周囲は岩ばかり。
食べ物は虫ばかり。
出会う生物は、俺を食おうとするやつばかり。
……まあ、ルナは違ったけど。
「……よし」
俺は身体を伸ばした。
そして、ルナの右後ろ脚を支える。
「……大丈夫なのか?」
俺は触手を上下へ動かした。
さっきよりは、ずっと動ける。
もちろん、万全ではない。
だが、出口が近いのなら、もう少しだけ頑張れそうだ。
「……ならば、行こう」
ルナが静かに言った。
俺は身体を固定し、ゆっくりと前へ進んだ。
⸻
通路は、少しずつ広くなっていった。
最初は岩の隙間を這うように進んでいたが、やがてルナが身体を起こせるほどの高さになったらしい。
水の流れも、ほとんど感じなくなっている。
代わりに、風が強くなってきた。
「……おお」
俺は思わず身体を揺らした。
今まで洞窟の中でも風を感じることはあった。
だが、今は違う。
どこか広い場所から、絶えず空気が流れ込んできている。
しかも、その風には微かな温かさがあった。
「……近いな」
俺は確信した。
出口は、もうすぐそこだ。
「ノア」
ルナが声をかけてきた。
「前方に段差がある。少し高いが、越えられるか?」
俺は触手を伸ばした。
岩の表面を探る。
……なるほど。
確かに段差がある。
だが、今の俺なら登れない高さではない。
問題は、ルナだ。
後ろ脚を怪我している状態で、この段差を越えられるだろうか。
「……どうする?」
俺は少し考えた。
そして、身体の一部を大きく広げた。
《構造形成》。
短い支えを3本。
さらに、岩へ固定するための触手を2本。
そのうちの1本へ《硬質外皮》を集中させる。
「……よし」
俺はルナの身体を支え直した。
今度は、怪我をした脚だけではない。
胴体の下へ柔らかい身体を広げ、段差を越える際の負担を減らす。
「……ほう」
ルナが感心したような声を出した。
「なかなか器用になったな、ノア」
……おかげさまで。
俺は身体を小さく揺らした。
そして、ゆっくりと段差を登り始めた。
……ぐぐっ。
重い。
だが、支えられる。
ルナも前脚を使い、必死に身体を持ち上げた。
「……くっ!」
俺は岩へ触手を固定し、さらに引っ張る。
……ぐいっ!
「……よし!」
段差を越えた。
ルナの身体が、上の岩へ移動する。
俺も続いて身体を引き上げた。
「……ふぅ」
ルナが大きく息を吐いた。
「……やったな」
俺は触手を上下へ動かした。
……やった。
本当に、やった。
あとは、もう少し進むだけ。
「……さあ、行こう」
ルナが静かに言った。
俺は身体を伸ばし、隣へ並んだ。
そして、2人で通路の奥へ進み始めた。
⸻
最初に変わったのは、温度だった。
ひんやりとしていた岩が、少しずつ温かくなっていく。
続いて、風。
今まで感じたことのないほど、柔らかな空気が身体を包み込んだ。
「……何だ、これ」
俺は思わず身体を広げた。
心地いい。
ただ、それだけではない。
身体の表面へ、微かな熱が伝わってくる。
一定の方向から、優しく温められているような感覚。
「……もしかして」
俺は動きを止めた。
この温かさ。
覚えがある。
元の世界で、外を歩いていたとき。
晴れた日に、肌へ降り注いでいたもの。
「……太陽?」
そう考えた瞬間、胸の奥が熱くなった。
……いや、胸なんてないけど。
それでも、そうとしか表現できない感覚だった。
「……ノア」
ルナが静かに声をかけてきた。
「もう、少しだぞ」
俺は触手を上下へ動かした。
そして、最後の岩の段差を越えた。
……その瞬間。
身体を包み込んでいた冷たい空気が、ふっと変わった。
広い。
今までとは、まるで違う。
周囲を遮る岩壁の感触がなくなり、風が自由に吹き抜けていく。
俺は身体を伸ばした。
岩の表面は、まだ足元にある。
だが、その先には、今まで感じたことのない空間が広がっていた。
「…………」
しばらく、何も考えられなかった。
「……ノア?」
ルナの声が届く。
俺はゆっくりと身体を揺らした。
……ここは。
「……ふふっ」
ルナが小さく笑った。
「どうやら、ようやく出られたようだな」
俺は動きを止めた。
「洞窟の外だ」
……外。
その言葉が、ゆっくりと頭の中へ染み込んでいく。
洞窟の外。
ついに。
「……やった」
俺は身体を大きく広げた。
温かい。
風が気持ちいい。
そして、何より。
もう、あの冷たい岩壁に囲まれていない。
「……やったぞ!」
もちろん、声にはならなかった。
だが、今だけは構わない。
俺は何度も身体を伸ばし、縮めた。
嬉しくて仕方がなかった。
「……ふふっ。落ち着け、ノア」
ルナが笑っている。
「そんなに動いていたら、また疲れてしまうぞ」
……分かってる。
分かってるけど!
嬉しいんだから、仕方ないだろ!
俺はさらに身体を揺らした。
すると、ルナが少しだけ大きく笑った。
「……まったく。本当に面白いやつだな」
その声が、妙に心地よかった。
⸻
しばらくして、ようやく落ち着いた俺は、身体を小さくまとめた。
足元には、硬い岩。
だが、少し離れた場所には柔らかいものが広がっている。
俺は触手を伸ばした。
……ふさっ。
「……ん?」
何だ、これ。
柔らかい。
細長いものが、いくつも集まっている。
しかも、風に合わせて微かに揺れている。
「……草?」
俺は思わず身体を震わせた。
草だ。
たぶん、草だ。
この身体になってから、初めて触れる。
俺は慎重に触手を動かした。
すると、細い茎が柔らかく曲がった。
「……おお」
本当に、草らしい。
それが分かった瞬間、急に実感が湧いてきた。
ここは洞窟じゃない。
外の世界だ。
「……ノア」
ルナが静かに声をかけてきた。
「見えるか?」
俺は触手を左右へ振った。
「ああ……そうだったな」
ルナは少し申し訳なさそうに呟いた。
だが、すぐに言葉を続けた。
「ならば、我が教えてやろう」
俺は触手を持ち上げた。
「ここは、どうやら山の麓らしい。背後には大きな岩山があって、前方には森が広がっている」
……森。
「木々は背が高く、葉もよく茂っている。遠くには、さらに大きな山も見えるぞ」
俺は黙って聞いていた。
「それから……そうだな」
ルナが少しだけ楽しそうに言った。
「空が、とても綺麗だ」
……空。
「雲が少し浮かんでいるが、青く澄んでいる。太陽も高い位置にあって、今日はよい天気だな」
俺は身体を動かさず、その言葉を聞いていた。
青い空。
白い雲。
温かな太陽。
元の世界では、当たり前に見ていたものだ。
朝になれば太陽が昇り、夜になれば星が輝く。
そんな景色を、俺はもう見ることができない。
……少なくとも、今は。
「……見たいな」
思わず、そう考えた。
自分の目で。
この世界の空を。
山を。
森を。
そして、隣にいるルナの姿を。
俺はまだ、ルナがどんな姿をしているのかさえ知らないのだ。
「……ノア?」
ルナが不思議そうに声をかけてきた。
「どうした?」
俺は触手を小さく揺らした。
そして、ルナの方へ伸ばす。
「……ん?」
触手の先端が、柔らかなものに触れた。
……ふさっ。
毛だ。
柔らかく、少し長い。
「……お?」
俺は思わず触手を動かした。
すると。
「ひゃっ!?」
ルナが妙な声を出した。
「こ、こら! 急に触るな!」
……あ。
またやってしまった。
俺は慌てて触手を引っ込めた。
「……まったく」
ルナが小さく息を吐く。
だが、怒っているというより、少し呆れているようだった。
「……貴様、本当に我の姿が見えていないのだな」
俺は触手を左右へ振った。
「……そうか」
少しだけ、静かな時間が流れた。
やがて、ルナがゆっくりと口を開いた。
「ならば、いつか見られるようになるとよいな」
……え?
「貴様の身体は、随分と不思議な力を持っている。姿を変え、硬くなり、触手まで作るのだろう?」
俺は触手を上下へ動かした。
「ならば、目を作ることだって、いつかできるかもしれぬ」
「…………」
俺は動きを止めた。
目を作る。
……そうか。
今まで、考えていなかったわけじゃない。
だが、実際にはどうすればいいのか分からなかった。
目という器官は、単純な形だけで成り立っているわけではない。
光を感じる仕組みも、その情報を理解するための仕組みも必要だ。
今の俺には、それがない。
だが。
「……いつか、か」
俺は身体の中心へ意識を向けた。
《万能適応型》。
捕食によって得た性質を、必要に応じて組み合わせる。
それが、俺の選んだ変異だ。
今はまだ、手に入れた性質も少ない。
身体の構造を作る技術だって未熟だ。
それでも、可能性はある。
この世界には、まだ知らない生物がいくらでもいるのだから。
「……そうだな」
俺は触手をゆっくりと上下へ動かした。
ルナが小さく笑った。
「……ふふっ。期待しているぞ、ノア」
その言葉に、俺は少しだけ身体を揺らした。
……任せろ。
いつか、絶対に。
俺はこの世界を、自分の目で見てやる。
⸻
「……さて」
ルナが少し真面目な声になった。
「いつまでも、ここにいるわけにはいかぬな」
俺は触手を持ち上げた。
「我の脚も、まだ治っておらぬ。それに、ここが安全な場所とも限らない」
……確かに。
洞窟の外へ出られたからといって、危険がなくなったわけではない。
むしろ、これからは知らないものばかりだ。
森には、どんな生物がいるのか。
人間はどこに住んでいるのか。
この世界には、どんな国があるのか。
何も分からない。
「……だが」
ルナが言葉を続けた。
「少なくとも、あの大百足からは逃げ切れた」
俺は触手を上下へ動かした。
「それだけでも、十分な成果だろう」
……そうだな。
俺は身体を小さく揺らした。
最初にあの巨大な振動を感じたとき、俺は逃げることしか考えられなかった。
それが今では、ルナと一緒に岩を崩し、川を利用して逃げ切ることができた。
もちろん、まともに戦えば今でも勝てないだろう。
だが、勝てないからといって、何もできないわけじゃない。
自分にできることを探す。
足りない部分は、別の方法で補う。
そして、時には誰かの力を借りる。
「……大事なことを覚えた気がするな」
俺は身体を伸ばし、ルナの隣へ移動した。
すると、ルナが小さく笑った。
「……何だ。まだ我のそばにいるつもりか?」
俺は触手を上下へ動かした。
「……ふふっ」
少しだけ、嬉しそうな声だった。
「ならば、しばらく一緒に行くか?」
……え?
俺は動きを止めた。
「我も今は、この脚ではまともに歩けぬ。それに、貴様は外の世界について何も知らぬのだろう?」
……そのとおりです。
「ならば、互いに助け合えばよい」
……おお。
俺は思わず身体を震わせた。
「どうだ、ノア?」
俺は勢いよく触手を上下へ動かした。
何度も。
何度も。
すると、ルナが笑い出した。
「……ははっ! 分かった、分かった!」
その声を聞いて、俺も笑ったような気分になった。
実際には、身体がぷるぷる震えているだけだったが。
「……では、決まりだな」
ルナが静かに言った。
「これからよろしく頼むぞ、ノア」
……こちらこそ。
俺は触手を伸ばし、ルナの前脚へそっと触れた。
今度は、驚かれなかった。
それどころか。
……ふさっ。
柔らかな毛に覆われた脚が、俺の触手へ軽く押し返してきた。
「……ふふっ」
ルナが笑った。
「変わったやつだが……悪くない」
俺はその言葉を聞きながら、身体を小さく揺らした。
この世界へ来てから、ずっと独りだった。
何も分からず。
何も見えず。
何も話せず。
ただ、生き残るために必死だった。
だが、今は違う。
名前がある。
声を出すための手段も、少しずつ手に入れている。
そして何より。
一緒に歩いてくれる仲間ができた。
「……よし」
俺は身体を伸ばした。
ルナの右後ろ脚を、ゆっくりと支える。
すると、ルナが小さく笑った。
「……本当に、世話好きなやつだな」
……いや。
それは、お互い様だろ。
俺は触手を上下へ動かした。
そして、2人でゆっくりと歩き始めた。
足元には草。
周囲には風。
そして、頭上には俺の知らない青い空が広がっているらしい。
まだ、何も見えない。
この世界がどんな場所なのかも分からない。
それでも。
身体の表面を温める太陽の熱が、確かに伝わってくる。
俺はその感覚を、しばらく味わっていた。
……ああ。
ようやく、実感できた。
洞窟で目覚めたときは、ただの柔らかい塊だった。
何もできず、小さな虫を捕まえることさえ難しかった。
それが今では、身体を変え、性質を使い分け、誰かと一緒に歩いている。
まだ弱い。
まだ知らないことばかりだ。
だけど。
「……ここからだな」
俺は身体を大きく伸ばした。
そして、温かな風を全身で受け止める。
これから先、何が待っているのかは分からない。
危険な魔物がいるかもしれない。
恐ろしい場所へ迷い込むかもしれない。
それでも、もう立ち止まるつもりはなかった。
俺はノア。
原初種として、この世界に生まれ変わった存在だ。
そして今。
ようやく、最初の一歩を踏み出した。
「……行こう、ルナ」
まだ声にはならない言葉を、心の中で呟く。
すると、まるで伝わったかのように、ルナが答えた。
「……うむ。行こう、ノア」
俺は嬉しくなって、身体を小さく揺らした。
そして、もう1度だけ、温かな風へ意識を向けた。
外だ――。
本当に、外へ出られたんだ。
【第1部完結記念・ノアのステータス】
名前:ノア
種族:原初種
レベル:未確認
変異段階:第1段階
変異形態:万能適応型
HP:未確認
MP:未確認
魔力器官:未成熟
■ 種族固有能力
《捕食》
《性質吸収》
■ 変異能力
《構造形成》
■ 獲得した性質
《微振動感知》
《粘着性》
《硬質外皮》
《微弱毒分泌》
《摩擦発音》
■ 身体特性
・不定形の流動体
・中枢核形成済み
・身体の一部を硬質化可能
・獲得した性質を組み合わせた構造形成が可能
■ 現在の状態
視覚:未獲得
聴覚:振動感知による簡易的な音の認識
発声:母音に近い音を発声可能
魔法:未習得
身体:負傷・栄養不足
――――――――――
【作者あとがき】
第1部、最後までお読みいただきありがとうございます!
何も見えず、喋ることもできなかったノアが、捕食と変異を繰り返し、ようやく洞窟の外へ出ることができました。
まだまだ弱い原初種ですが、その可能性は未知数です。
第2部では、ルナとともに広い世界へ踏み出していきます。
これからノアがどんな性質を獲得し、どんな姿へ成長していくのか。
引き続き、楽しんでいただければ嬉しいです!




