牙の向こう
第13話 牙の向こう側
……カツン。
……ずりっ。
岩の向こうから伝わる振動を頼りに、俺は狭い通路を進んでいた。
さっきまで聞こえていた助けを求める声は、もう途切れている。
正確には、聞こえたというより、薄い膜で受け取った振動から言葉を読み取っただけなのだが。
それでも、確かに誰かがいた。
「……まだ生きてるよな?」
俺は身体の先端を細く伸ばし、前方の岩肌を探った。
通路は少しずつ広くなっている。
それに、今までとは違う感触があった。
地面に細かな傷がいくつも残っているのだ。
硬い何かが、岩を引っかいたような跡。
さらに進むと、身体の先端に湿ったものが触れた。
「……水?」
いや、違う。
妙に粘り気がある。
しかも、触れた瞬間に身体の奥から奇妙な反応が生まれた。
栄養として取り込もうとする、あの感覚だ。
「……まさか」
俺は慌てて身体を引っ込めた。
血。
そう考えれば、地面に残された傷の説明もつく。
何かが怪我をして、ここを通ったのだ。
そして、その何かが助けを求めていた。
「……本当に怪我してるのか」
俺は少し迷った。
血の匂いを頼りに獲物を探す生物だっている。
もしここに大量の血が流れているなら、危険な魔物が集まってくるかもしれない。
それに、助けを求めていた相手が安全な生物とは限らない。
……だが。
「ここまで来たんだしな」
俺は岩肌へ身体を密着させ、ゆっくりと進んだ。
中枢核は身体の中心へ引き込み、周囲を薄い硬質層で覆っておく。
これなら、多少の攻撃は防げるかもしれない。
もちろん、気休め程度だが。
やがて、通路の先に少し広い空間が現れた。
正確には、岩の反響が変わり、周囲に空間が広がっていることが分かったのだ。
そして。
……とくん。
……とくん。
規則正しい振動。
水たまりの底で感じたものとは違う。
もっと速く、不規則で。
生き物の鼓動に近い。
「……いた」
俺は動きを止めた。
少し離れた場所に、何かが横たわっている。
身体の大きさは、俺よりずっと大きい。
だが、以前遭遇した巨大な化け物ほどではない。
地面に触れている部分から、おおよその輪郭を探っていく。
胴体らしきもの。
細長い脚。
そして、身体の後方でわずかに動く、柔らかそうな部分。
「……四足歩行の動物?」
猫か。
犬か。
それとも、まったく別の生物か。
少なくとも、虫ではなさそうだった。
俺は慎重に距離を詰めた。
その瞬間。
「……近づくな!」
鋭い振動が、感知用の膜へ飛び込んできた。
「うおっ!?」
思わず身体を縮める。
同時に、地面を引っかく強い振動が走った。
……ガリッ!
何かが動いた。
そして、俺のすぐ前で硬いものが岩を叩いた。
「……っ!」
俺は反射的に後退した。
危ない!
あと少し近づいていたら、まともに攻撃を受けていたかもしれない。
「なんだ、貴様……!」
再び声が届く。
今度は、さっきよりはっきりしていた。
低く唸るような、しかし確かに言葉として意味を持った声だ。
「……本当に喋った」
俺は驚きのあまり、動きを止めてしまった。
相手が人間なのかどうかは分からない。
だが、確かに言葉を話している。
しかも、その意味が理解できる。
「聞こえぬのか! 近づくなと言っている!」
おっと。
感動している場合じゃなかった。
俺は慌てて身体を引っ込めた。
相手との距離を取り、岩の陰へ隠れる。
すると、警戒するような低い唸り声が続いた。
……どうやら、歓迎されていないらしい。
まあ、当然か。
怪我をして動けないところへ、正体不明の柔らかい魔物が近づいてきたのだ。
俺だって、同じ立場なら警戒する。
「……さて、どうしたもんかな」
俺は岩の陰から、そっと触手を伸ばした。
相手はまだこちらを警戒している。
地面へ伝わる振動から察するに、身体を起こそうとしているらしい。
だが、うまくいかないようだった。
……ずるっ。
……ガリッ。
そのたびに、苦しそうな声が漏れる。
「……くっ」
どうやら、かなり重傷らしい。
「……放っておけないよな」
俺は身体の一部に、発声用の構造を作った。
空気を取り込む小さな空洞。
振動する膜。
そして、音を変えるための出口。
昨日まで何度も練習した仕組みだ。
「……あ」
かすかな振動が生まれた。
だが、相手は反応しない。
もう少し強く空気を押し出してみる。
「……あぁ」
今度は、はっきりと膜が震えた。
すると。
「……何だ?」
相手の動きが止まった。
「貴様、今のは……?」
「……あ」
俺はもう1度、音を出した。
……よし。
どうやら届いているらしい。
しかし、問題はここからだった。
「あ」だけで、どうやって敵意がないことを伝えればいい?
「……お」
今度は別の音を出してみた。
「……?」
相手が沈黙する。
俺も沈黙した。
……。
…………。
「……貴様、我を馬鹿にしているのか?」
「……っ!?」
違う!
そうじゃない!
俺は慌てて身体を震わせた。
だが、それが悪かった。
「やはり魔物か! 妙な鳴き声を出しおって!」
……いや。
魔物なのは否定できないけど。
俺は発声用の構造を解除した。
駄目だ。
今の状態では、まともな会話にならない。
せめて「敵じゃない」くらい言えればいいのだが、子音を作る仕組みがまだ分からない。
無理に発声を続ければ、体力を消耗するだけだ。
「……別の方法を考えるか」
俺は岩の上へ触手を伸ばした。
そして、先端を硬くする。
……コツ。
小さく岩を叩いた。
相手の動きが止まる。
もう1度。
……コツ、コツ。
「……何をしている?」
俺は少し考えた。
今度は3回。
……コツ、コツ、コツ。
「……?」
相手は黙ったままだ。
……まあ、そうなるよな。
意味を決めていない合図なんて、ただの音でしかない。
俺は自分の行動が少し間抜けに思えてきた。
せっかく言葉を話せる相手に出会えたというのに、こちらには意思を伝える手段がほとんどない。
「……不便だなぁ」
人間だった頃なら、たったひと言で済むのに。
俺はしばらく考え、ある方法を思いついた。
「……そうだ」
相手には目があるはずだ。
だったら、音ではなく動きで伝えればいい。
俺は岩の陰から、短い触手を1本だけ伸ばした。
ゆっくりと持ち上げる。
そして、左右へ振ってみた。
「……何だ、その動きは」
反応があった。
俺はもう1度、触手を振った。
今度は少し大きく。
「……貴様、何がしたい?」
……うん。
少なくとも、こちらを見てくれてはいるらしい。
だったら、もう少し分かりやすくしてみよう。
俺は触手を2本に増やした。
その先端を広げ、相手へ向けてゆっくりと動かす。
「……っ!」
途端に、鋭い声が飛んできた。
「やめろ! それ以上近づけるな!」
「……あっ」
まずい。
どうやら、攻撃しようとしているように見えたらしい。
俺は慌てて触手を引っ込めた。
……難しいな、意思疎通。
⸻
しばらくして、ようやく分かったことがある。
相手は、俺がすぐに襲ってこないことに気づき始めているらしい。
最初は少し動くだけで威嚇していたが、今は岩の陰から触手を出しても、すぐには攻撃してこなくなった。
その代わり、ずっとこちらを警戒している。
「……貴様、何者だ?」
問いかけられても、答えられない。
俺は触手を小さく揺らした。
「……分からぬ」
だよなぁ。
「魔物にしては妙だな。人を襲うでもなく、妙な音を出して……」
俺はその言葉に反応した。
人。
今、人って言ったよな?
ということは、やっぱりこの世界には人間がいるのか?
「……っ!」
興奮して身体を大きく動かしてしまった。
すると、相手がびくりと反応する。
「な、何だ!?」
「……あ」
俺は慌てて元の形へ戻った。
危ない危ない。
せっかく少し落ち着いてきたのに、また警戒されるところだった。
「……落ち着け、俺」
まずは相手の怪我だ。
話を聞くのは、それからでも遅くない。
俺は《微振動感知》を使い、相手の身体の動きを探った。
どうやら、後ろ脚の1本がうまく動いていないらしい。
身体を起こそうとするたび、そこから不規則な振動が伝わってくる。
さらに、地面には液体が落ちている。
さっき触れた血と同じ感覚だった。
「……結構まずいんじゃないか?」
出血量までは分からない。
だが、相手の動きは明らかに弱くなっている。
しかも、呼吸らしき振動も荒い。
俺は考えた。
今の俺には《微弱毒分泌》がある。
だが、治癒に使える性質は持っていない。
魔力器官も未成熟で、魔法の使い方さえ分からない。
つまり、直接傷を治す手段がないのだ。
「……せめて、水くらい」
そこまで考えて、俺は動きを止めた。
そうだ。
水なら運べるかもしれない。
この洞窟には、あちこちに湿った岩がある。
少し戻れば、水滴が落ちている場所もあったはずだ。
今の俺なら、身体の一部に小さな袋を作ることができる。
そこへ水を溜めれば……。
「……よし」
俺は慎重に岩の陰から離れた。
すると、相手が反応した。
「……逃げるのか?」
俺は振り返ろうとして、やめた。
いや、そもそも首がない。
代わりに触手を1本伸ばし、小さく揺らした。
「……何なのだ、あやつは」
呆れたような声が届いた。
……俺だって、自分が何なのか知りたいよ。
そんなことを考えながら、俺は水のある場所へ向かった。
⸻
水を運ぶのは、思った以上に難しかった。
まず、身体の一部に袋を作る。
そこへ水滴を取り込む。
そして、こぼれないように閉じる。
理屈は簡単だ。
だが、実際にやってみると、袋の形を維持したまま移動するのが難しい。
少しでも意識を緩めると、形が崩れて水が漏れてしまう。
「……くそっ」
俺は何度も失敗した。
最初は袋を大きくしすぎた。
次は、閉じ方が甘かった。
その次は、移動中に身体が変形して中身が流れ出した。
「……これ、結構大変だな」
それでも、諦めるつもりはなかった。
袋を小さくする。
身体の中心に近い場所へ作る。
そして、その周囲を少しだけ硬くして形を保つ。
すると、ようやく安定した。
「……よし!」
量は少ない。
だが、確かに水を運べている。
俺は慎重に移動を始めた。
普段なら簡単に通れる岩の隙間も、今は少し厄介だ。
袋を潰さないように、身体の他の部分だけを変形させなければならない。
何度か水をこぼしかけたが、何とか元の場所へ戻ることができた。
「……ただいま」
もちろん、声は出していない。
俺は岩の陰から、そっと触手を伸ばした。
すると。
「……戻ってきたのか」
相手の声が届いた。
さっきよりも弱い。
だが、まだ意識はあるらしい。
「……何を持っている?」
俺は少し驚いた。
どうやら、身体の中に作った袋が見えているらしい。
半透明だから、中身が透けているのかもしれない。
「……水か?」
おお。
分かってくれた!
俺は嬉しくなり、袋を持ち上げた。
そして、ゆっくりと相手の方へ伸ばす。
「……待て」
鋭い声。
俺はすぐに動きを止めた。
「……それを、我に渡すつもりか?」
俺は触手を上下に動かした。
何度も。
分かってくれ!
頼むから、分かってくれ!
「……頷いている、のか?」
「……あ!」
思わず声が出た。
いや、今のは偶然じゃない。
ちゃんと発声用の構造を使って出した音だ。
相手はしばらく沈黙していた。
やがて。
「……妙な魔物だな」
呆れたような声が返ってきた。
「だが、少なくとも我を食うつもりではないらしい」
……そうそう!
そのとおり!
俺はさらに触手を上下へ動かした。
「……分かった、分かった。そんなに動くな」
少しだけ、声の調子が柔らかくなった気がした。
俺は慎重に袋を近づけた。
今度は威嚇されない。
相手は警戒しながらも、俺の動きを見ているようだった。
「……そこへ置け」
俺は言われたとおり、地面へ袋を下ろした。
そして、先端を少し開く。
中に溜めていた水が、小さな窪みへ流れ出した。
「……ほう」
相手がゆっくりと身体を動かす。
地面を擦る振動。
荒い呼吸。
そして、水へ近づく気配。
……ぺろっ。
柔らかいものが、水面に触れた。
「……!」
俺は思わず身体を縮めた。
舌だ。
たぶん、今のは舌だった。
ということは、やっぱり哺乳類に近い生物なのかもしれない。
相手はゆっくりと水を飲んだ。
量が少なかったため、すぐに飲み終わってしまったが。
「……ふぅ」
小さく息を吐く振動が伝わってきた。
そして。
「……助かった」
俺は動きを止めた。
今、何て?
「礼は言っておく。……その、妙な魔物よ」
……おお。
おおお!
初めて感謝された!
いや、転生してからという意味だけど。
俺は嬉しくなって、身体を大きく揺らした。
「うわっ!? な、何だ急に!」
……しまった。
また驚かせてしまった。
俺は慌てて身体を元に戻した。
すると、相手はしばらく沈黙したあと、小さく息を吐いた。
「……本当に、変わったやつだな」
さっきよりも、少しだけ穏やかな声だった。
⸻
水を飲んだことで多少落ち着いたのか、相手はゆっくりと身体を横たえた。
俺はその近くで、岩へ張りついたまま様子を探っていた。
もちろん、距離は保っている。
まだ完全に信用されたわけではない。
それに、俺自身も相手の正体を知らないのだ。
「……貴様」
突然、声が届いた。
俺は触手を持ち上げる。
「……言葉が分かるのか?」
おっ。
これは答えられる質問だ。
俺は触手を上下へ動かした。
「……本当か?」
もう1度、上下へ。
「……では、我の言っていることを理解しているのだな?」
さらに上下へ。
すると、相手が小さく笑ったような振動を発した。
「……ふふっ。面白いやつだ」
……よし。
何とか意思疎通ができている。
俺は少し安心した。
「では、質問を変えよう。貴様は、この洞窟に棲んでいる魔物なのか?」
……うーん。
難しいな。
この洞窟で目覚めたのは確かだ。
だが、もともとここに棲んでいたわけじゃない。
そもそも、転生してからどれくらい経ったのかも分からないし。
俺は迷った末、触手を左右へ振った。
「……違うのか?」
上下へ。
「では、外から来たのか?」
……どう答えればいいんだ?
俺は動きを止めた。
すると、相手が不思議そうな声を出した。
「……分からぬのか?」
上下へ。
「……自分がどこから来たのかも?」
もう1度、上下へ。
相手はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……記憶がないのか。それとも、生まれたばかりなのか……」
俺は思わず身体を震わせた。
生まれたばかり。
そう言われれば、確かに近いのかもしれない。
元の世界で生きていた記憶はある。
だが、この身体になってからの経験は、まだほんのわずかだ。
「……まあよい」
相手は少し疲れたように言った。
「少なくとも、貴様に敵意がないことは分かった」
俺は触手を持ち上げた。
今度は、大きく上下へ。
「……だから、そんなに動くなと言っているだろう」
……はい。
すみません。
どうも、嬉しくなると身体が勝手に動いてしまう。
人間だった頃は、こんなことなかったんだけどな。
「……それにしても」
相手が小さく呟いた。
「まさか、こんな場所で言葉を理解する粘液の魔物に出会うとはな」
……粘液の魔物。
うん。
間違ってない。
間違ってないんだけど、何だか複雑だ。
「しかも、水まで運んでくるとは……」
少しだけ、考え込むような間があった。
「……貴様、本当に何者なのだ?」
俺は身体を小さく揺らした。
それを説明できるなら、とっくにしている。
原初種。
捕食によって性質を取り込み、身体を変化させる生物。
今の俺が分かっているのは、それくらいだ。
自分がどこから来たのか。
なぜ転生したのか。
この世界で何をするべきなのか。
そんなことは、まだ何も分からない。
「……まあ、今はいいか」
俺は相手の呼吸へ意識を向けた。
少し落ち着いたように感じる。
だが、怪我が治ったわけではない。
後ろ脚はまだ動かせないらしく、ときおり苦しそうな振動が伝わってくる。
「……傷、どうにかならないかな」
俺は自分の身体を確かめた。
今までに手に入れた性質。
《微振動感知》。
《粘着性》。
《硬質外皮》。
《微弱毒分泌》。
《摩擦発音》。
そして、変異によって得た《構造形成》。
魔力器官もあるが、まだ未成熟だ。
どれも、直接傷を治すための能力ではない。
「……無理に触る方が危険か」
怪我の状態が分からない以上、下手なことはできない。
毒を持つ生物に襲われた可能性だってある。
そんなところへ俺が身体をくっつけたら、余計に悪化させるかもしれない。
「……せめて、安全な場所に移動できれば」
そう考えていたときだった。
「……貴様」
相手が静かに声をかけてきた。
「まだ、そこにいるのか?」
俺は触手を持ち上げた。
上下へ動かす。
「……そうか」
相手は少しだけ安心したようだった。
だが、その直後。
「……ならば、ひとつ頼みがある」
俺は動きを止めた。
初めて、相手の方から何かを頼まれた。
「……何だ?」
もちろん、声にはならない。
俺は触手を伸ばし、相手の言葉を待った。
すると。
「……我が動けるようになるまで、周囲を見張っていてくれぬか」
……見張り?
俺は少し考えた。
《微振動感知》なら、近づいてくる生物をある程度察知できる。
視界はないが、地面を伝わる振動については、むしろ普通の生物より敏感かもしれない。
それくらいなら、できそうだ。
俺は触手を上下へ動かした。
「……本当か?」
もう1度。
「……ふふっ」
相手が小さく笑った。
「頼もしいのか、頼りないのか……よく分からぬやつだな」
……それは俺も思う。
「だが、助かる」
その言葉を聞いて、俺は少し嬉しくなった。
この世界へ来てから、俺はずっと独りだった。
食べること。
逃げること。
強くなること。
そればかり考えてきた。
だが、今は違う。
俺の隣には、言葉を話す生き物がいる。
しかも、俺を頼ってくれている。
「……悪くないな」
俺は身体を岩へ密着させ、周囲の振動を探った。
洞窟の奥。
風の流れてくる方向。
そして、俺たちが通ってきた狭い通路。
今のところ、危険な反応はない。
「……よし」
俺は触手を小さく動かした。
すると、相手が不思議そうに問いかけてきた。
「……どうした?」
俺は触手を左右へ振った。
何でもない。
そう伝えたかったのだが、相手に通じたかどうかは分からない。
「……妙なやつめ」
小さな笑い声が返ってきた。
そして、しばらくして。
「……少し、眠る」
相手はそう言った。
「何か近づいてきたら、知らせてくれ」
俺は触手を上下へ動かした。
「……頼んだぞ」
それきり、声は聞こえなくなった。
呼吸の振動が、少しずつ穏やかになっていく。
どうやら、本当に眠ったらしい。
「……さて」
俺は周囲へ意識を向けた。
初めての見張り役だ。
絶対に失敗するわけにはいかない。
……もっとも、敵が来たら俺も一緒に逃げるしかないんだけど。
いや。
待てよ。
相手は怪我をしていて動けない。
もし危険な生物が近づいてきたら、俺だけ逃げるわけにはいかないじゃないか。
「……あれ?」
俺は今さらながら、自分が引き受けた役目の重さに気づいた。
……大丈夫か、俺?
まあ、引き受けてしまったものは仕方ない。
いざとなったら、何とかするしかないだろう。
そう考えながら、俺は《微振動感知》を広げた。
……静かだ。
しばらくの間、何も起こらなかった。
俺は警戒を続けながら、身体の一部で発声用の構造を作る練習をしていた。
相手が起きたら、もう少しまともに話せるようになっていたい。
せめて、自分が何を考えているのかくらいは伝えたい。
そんなことを考えていた。
……そのときだった。
ズ……。
「……ん?」
俺は動きを止めた。
遠くから、微かな振動が伝わってきた。
最初は、岩のどこかが崩れただけかと思った。
だが。
ズズ……。
……カリ。
ズズズ……。
「…………」
俺は身体を強張らせた。
この振動。
覚えがある。
以前、洞窟の奥で感じた、あの巨大な生物の動きだ。
長い身体を引きずるような振動。
そして、いくつもの硬い脚が岩へ触れる感覚。
「……嘘だろ」
俺は慌てて振動の方向を確かめた。
まだ遠い。
だが、確実に近づいてきている。
しかも。
……ズズズ。
今度は、以前よりもはっきりとした振動が伝わってきた。
「……まずい」
俺は眠っている相手へ触手を伸ばした。
そして、地面を強く叩いた。
……カツン!
反応がない。
もう1度。
……カツン! カツン!
すると。
「……何だ?」
眠そうな声が返ってきた。
俺は触手を何度も動かした。
「……どうした? 何かあったのか?」
俺は地面を叩き続けた。
……カツン! カツン!
「……っ!?」
相手の呼吸が急に速くなった。
そして。
「……まさか」
低い声が漏れた。
俺は動きを止めた。
「……あやつが、来たのか?」
……あやつ?
相手は何かを知っているらしい。
俺は触手を上下へ動かした。
すると、相手は苦しそうに身体を起こそうとした。
……ガリッ。
だが、傷ついた脚がうまく動かず、すぐに崩れてしまう。
「……くそっ!」
悔しそうな声。
そして、次の瞬間。
「……まずいぞ、貴様」
相手が俺へ向かって言った。
「ここにいては、我らは食われる」
俺は身体を縮めた。
……我ら?
今、我らって言ったよな?
俺も含まれているのか?
いや、そんなことを考えている場合じゃない。
ズズズ……。
遠くから、再び振動が届く。
先ほどよりも強い。
確実に、こちらへ向かってきていた。
「……逃げねばならぬ」
相手はそう呟いた。
だが、その声には焦りが混じっていた。
「……あの大百足に見つかる前に」
……大百足?
俺は思わず動きを止めた。
百足。
ムカデ。
あの、脚がたくさんある生物か?
しかも、大きい?
「……勘弁してくれよ」
俺は身体を小さく縮めた。
元の世界でも、ムカデは苦手だった。
それが巨大化しているなんて、想像したくもない。
だが。
そんな俺の気持ちとは関係なく。
ズズズズ……。
洞窟の奥から、重い振動が近づいてくる。
そして、隣では怪我をした生物が、必死に立ち上がろうとしていた。
「……くっ、脚が……!」
俺はその様子を感じ取りながら、考えた。
逃げるか。
それとも、助けるか。
……いや。
もう答えは決まっていた。
俺は身体を伸ばし、相手の近くへ移動した。
「……何をする気だ?」
警戒する声が届く。
俺は触手を1本伸ばし、相手の身体へ触れない位置で止めた。
そして、ゆっくりと上下へ動かした。
「……?」
相手は不思議そうにしている。
俺は今度、触手を地面へ伸ばした。
《硬質外皮》を発動。
短い支えを作る。
そして、もう1本の触手を伸ばし、岩へ固定した。
「……貴様」
相手が小さく呟いた。
「……まさか、我を運ぶつもりか?」
俺は触手を上下へ動かした。
できるかどうかは分からない。
相手は俺よりずっと大きい。
今の身体では、持ち上げるなんて無理かもしれない。
それでも、何か方法はあるはずだ。
身体を広げて支える。
《粘着性》で固定する。
硬い構造を作って、少しずつ引っ張る。
今まで手に入れた性質を組み合わせれば、何とかできるかもしれない。
「……無茶なやつだ」
相手が小さく笑った。
だが、その声には先ほどまでの警戒心がほとんど感じられなかった。
「……よかろう」
少しだけ間を置いて。
「貴様を信じてみる」
その言葉を聞いた瞬間、俺は身体を大きく揺らした。
……よし。
絶対に助けてやる。
この世界へ来てから、初めてできた話し相手なのだ。
こんなところで失うわけにはいかない。
俺は《微振動感知》で周囲を探りながら、身体を大きく広げた。
巨大な百足の振動は、まだ遠い。
だが、確実に近づいている。
時間は、あまり残されていなかった。




