第3部 第38話 風便の代わりに
風喰いが飛び去った翌朝、カナートの風車はよく回っていた。
風は穏やかで、空には薄い雲が流れている。少し前まで村全体が避難騒ぎになっていたなんて、嘘みたいな天気だ。
ただし、人間の生活というのは、天気がよくなったからといって簡単に元へ戻るものでもないらしい。
「風便は、あと3日は飛ばせねえな」
工房の前で、ガランがそう言った。
……え。
風喰い、もう行ったのに?
「風帆の点検が終わってない。南の峡谷も、風の流れを調べ直す必要がある。それに、救い網の支柱が1本曲がっちまった」
ガランが指した先では、職人たちが大きな木材を運んでいた。
折れた風帆の修理。古い滑走索の撤去。崩れた採石場への立ち入り禁止措置。
考えてみれば、やることは山ほど残っている。
……そうだよな。
巨大な魔物を助けて、めでたしめでたし。
それで終われば楽なんだけど。
「で、お前は何をしてる?」
ガランが俺を見下ろした。
俺は工房の床に並べられた金具を、細い触手で仕分けていた。
使えるものは右。
錆びているものは左。
判断がつかないものは、ガランの前へ。
「……しごと」
「見りゃ分かる。誰に頼まれたんだ?」
……。
そういえば、誰にも頼まれてないな。
昨日回収した部品が散らかっていたから、何となく手をつけただけだ。
俺が触手を止めると、ガランは笑った。
「ありがてえけどな。旅人がいつまでも工房で働いてどうする」
……あ。
そうだった。
俺たち、旅の途中なんだよな。
◇
カナートに来てから、思った以上に時間が経っていた。
風帆の練習をして、風喰いが現れて、村中を巻き込む騒ぎになって。
最初は数日で抜けるつもりだったのに、気づけばすっかり顔馴染みになっている。
悪い気はしない。
工房の職人たちは俺の身体を見ても驚かなくなったし、ルナは宿の主人からすっかり気に入られていた。
ただ、あまり居心地がよくなると、出発する理由を見失いそうだ。
……いや。
別に、急いでいるわけじゃないんだけどさ。
「ノア!」
工房の入口から、ルナの声がした。
振り返ると、白銀の相棒が得意そうに立っていた。
口には、小さな布包みをくわえている。
……何だ、それ。
ルナは包みを床へ置いた。
「宿の主人が持たせてくれた」
中には、干した肉が何枚か入っていた。
……おお。
よかったな。
「うむ。なかなか気が利く」
俺が頷くと、ルナは少しだけ目を細めた。
「貴様の分もあるそうだぞ」
……え。
俺の分?
俺は布包みを覗き込んだ。
肉が4枚。
……ああ。
なるほど。
俺も食べられないわけじゃない。
《捕食》で取り込むことはできる。
ただし、味は分からないし、人間みたいに食事を楽しめる身体でもない。
……だったら。
俺は肉を1枚だけ取り、残りをルナの方へ寄せた。
「……どうぞ」
ルナが目を丸くする。
「よいのか?」
……おう。
すると、ルナは嬉しそうに頷いた。
「ふむ。では、遠慮なく」
……。
最初から、そのつもりだっただろ。
俺が身体を揺らすと、ルナは知らん顔で肉をくわえた。
◇
昼前、集会所からガランを呼びに来た男がいた。
「北行きの荷が残ってるんだ。今後どうするか、相談したい」
……北行き?
俺は触手を止めた。
ガランがこちらを見る。
「お前ら、次は北へ向かうんだったな」
……ああ。
俺は頷いた。
レムナでシエナにもらった地図には、風渡りの丘の先に大きな岩山が描かれている。
そこが、次に行ってみたい場所だった。
「ちょうどいい。来てみるか?」
……お。
俺はルナを見る。
ルナも興味を持ったらしい。
「うむ。話だけでも聞こう」
俺たちはガランのあとについて集会所へ向かった。
◇
集会所の裏には、小さな荷物置き場があった。
木箱が積まれ、丈夫な布袋が並んでいる。
その横で、荷獣らしい茶色い生き物が草を食べていた。
耳が長く、脚は太い。背中には荷台が取りつけられている。
……ロバみたいだな。
ただし、額から短い角が1本生えていた。
……この世界、普通のロバはいないんだろうか。
俺が眺めていると、荷獣がこちらを見た。
目が合う。
……。
……。
次の瞬間、荷獣は草をくわえたまま後ずさった。
……え。
ちょっと。
そんなに怖がらなくてもよくない?
「こら、ベク。失礼だよ」
女の声がした。
荷獣の横にいたのは、背の高い女性だった。
日に焼けた顔に、短く束ねた茶色い髪。
丈夫そうな旅装を着て、腰には小さな道具袋を提げている。
「すまないね。見慣れないものには慎重な奴なんだ」
……ああ。
それなら、仕方ないか。
俺だって、生まれて初めて見る不定形の生き物が足元を歩いてきたら、ちょっと警戒すると思う。
女は俺たちを見比べた。
「私はイルマ。北の石灯宿まで荷物を運ぶ仕事をしてる」
「我はルナ。こちらはノアだ」
……お。
紹介してくれた。
俺は触手を上げた。
「……よろしく」
イルマは一瞬だけ目を丸くした。
だが、すぐに笑った。
「喋るんだね。こりゃ面白い」
……まあ。
少しだけ、だけどな。
「ところで、あんたたちが噂の2人かい?」
……噂?
俺は首を傾げた。
イルマはガランへ目を向ける。
「巨大な魔物の縄を外したって聞いたよ。どうやって近づいたんだい?」
「そいつを説明すると長くなる」
ガランが答える。
「何しろ、途中で2回も装置を作り直したからな」
「へえ。じゃあ、後でゆっくり聞こうか」
……いや。
そんなに面白い話でもないと思うけど。
俺としては、風に飛ばされかけた記憶の方が強い。
◇
イルマが運ぶ予定だったのは、薬と日用品だった。
行き先は、北の岩山の麓にある石灯宿。
鉱山で働く人や、峠を越える旅人が立ち寄る小さな集落らしい。
「元々は風便に乗せる予定だったんだけどね。あの騒ぎで止まっちまった」
イルマが木箱を指した。
「薬は傷まないように詰めてあるけど、いつまでも置いておくわけにもいかない」
……なるほど。
前に集会所で話していた荷物か。
あのとき、薬を待っている集落があるって言ってたな。
イルマは、ベクの背中に載せた荷を軽く叩いた。
「私は陸路で行くつもりさ。峠までの道は分かる。ただ、最近は石が崩れた場所もあるらしいから、慎重に進むことになるね」
……ふむ。
俺は地図を取り出した。
ドーラが取りつけてくれた留め具を外し、広げる。
レムナ。
風渡りの丘。
カナート。
そして、北の岩山。
地図の端に、石灯宿らしい印があった。
……あ。
本当だ。
行こうと思ってた方向と、ほとんど同じじゃないか。
俺は地図をイルマへ向けた。
「……ここ?」
彼女が覗き込む。
「そうそう。ここだよ。古い地図だけど、道は大体合ってる」
……お。
それなら。
一緒に行けるんじゃないか?
俺はルナを見た。
ルナも地図を覗いている。
「……ふむ。ちょうどよいな」
……だよな。
俺は頷いた。
すると、イルマが笑った。
「もしかして、同行してくれるのかい?」
俺は触手を上げた。
「……いっしょ」
「そりゃ助かる。ただし、護衛を無料で頼む気はないよ」
……え?
俺は少し驚いた。
イルマは腰の袋を叩いた。
「道案内と荷運びの手伝いをしてくれるなら、道中の宿代と食料はこっちで持つ。それでどうだい?」
……おお。
ちゃんと仕事として扱ってくれるのか。
俺は少し嬉しくなった。
そうだよな。
人を助けるのはいい。
でも、旅を続けるには食料も道具も必要だ。
前世で働いていた頃、給料が出ると分かっているだけで、随分やる気が違ったし。
……いや。
そんなこと考えてる場合じゃないか。
俺はルナへ顔を向けた。
「……どう?」
ルナは、しばらく考えていた。
そして、イルマへ言った。
「我らは急いでおらぬ。ただし、ノアを危険な場所へ無理に入らせる仕事は断るぞ」
……おお。
頼もしい。
というか、完全に俺の交渉役になってるな。
イルマは笑った。
「もちろん。荷運びは無事に着いてこその仕事だからね」
ルナは満足そうに頷いた。
「うむ。ならばよい」
……決まったな。
◇
出発は翌朝になった。
ガランにその話をすると、少し意外そうな顔をされた。
「もう行くのか?」
……ああ。
俺は頷いた。
「……きた」
「そうか。石灯宿まで行くなら、道には困らねえだろう」
ガランは工房の奥へ戻り、しばらくして薄い板を持ってきた。
それは、カナート周辺の道を描いた地図だった。
ただし、シエナにもらった地図より細かい。
岩陰になる場所。
風が強く吹き抜ける尾根。
古い見張り小屋の位置。
そんなものが書き込まれていた。
「こっちの道は遠回りだが、荷獣を連れて歩くなら安全だ。崖沿いの近道は使うなよ」
……なるほど。
俺は地図を見た。
風帆の職人だけあって、風の強い場所には詳しいらしい。
「……ありがと」
ガランは笑った。
「礼を言うのはこっちだ。お前らのおかげで助かった」
……いや。
俺たちも、いろいろ教えてもらったよ。
俺は少し考えてから、触手を持ち上げた。
「……また、くる」
「おう。そのときまでには、もう少しまともな練習用の翼を用意しとく」
……。
あ。
それは楽しみだな。
俺が身体を揺らすと、ガランが笑った。
「ただし、今度は勝手に崖から飛ぶなよ」
……分かってますって。
◇
翌朝。
カナートの北門には、イルマとベクが待っていた。
荷物はすでに積み終わっている。
木箱は揺れないように固定され、薬の入った箱は防水布で二重に包まれていた。
……おお。
手慣れてるな。
俺が感心していると、イルマが手招きした。
「ノア。これ、少し見てもらえる?」
……ん?
俺は荷台へ近づいた。
「こっちの留め具が、ちょっと緩い気がするんだ」
……なるほど。
俺は触手を伸ばした。
《構造形成》。
先端を細くして、金具へ差し込む。
……あ。
これ。
向きが逆だ。
俺は金具を少し回し、正しい位置へ戻した。
――カチッ。
……よし。
「……できた」
イルマが目を丸くする。
「ずいぶん器用だねえ。荷運び屋に向いてるよ、あんた」
……え。
そうかな。
俺は少し嬉しくなった。
だが、ルナが隣から言った。
「褒めすぎるでないぞ。すぐ調子に乗る」
……おい。
そんなに簡単に調子に乗らないって。
イルマは笑い、ベクの首を軽く叩いた。
「なら、行こうか。昼前には最初の峠を越えたい」
……おう。
俺たちは北へ歩き始めた。
◇
カナートから離れると、景色は少しずつ変わっていった。
背の低い草原が減り、代わりに角ばった岩が増えてくる。
道の両側には、風に削られた石柱が並んでいた。
足元の土も、だんだん硬くなっていく。
……なるほど。
北の岩山が近いんだな。
俺は前を歩くベクを見た。
大きな荷物を背負っているのに、足取りは安定している。
ただし、俺が近づくと、まだ少し警戒するらしい。
……うーん。
仲良くなれないかな。
俺はそっと触手を上げた。
「……どうも」
ベクが振り返る。
……。
……。
草を食べ始めた。
……無視された。
ルナが隣で笑う。
「ふふっ。なかなか手強い相手だな」
……そうだな。
風喰いとは意思疎通できたような気がするのに、ロバみたいな生き物には無視される。
……何だろう。
妙に悔しいな。
イルマは、その様子を見て笑っていた。
「ベクはね、初対面の相手には愛想がないんだ。2日くらい一緒に歩けば慣れるよ」
……2日か。
意外と長いな。
俺は少し考えた。
……まあ。
焦ることもないか。
◇
昼を過ぎた頃、俺たちは岩山の麓へ続く道へ入った。
そこから先は、空気が少し違っていた。
風が弱い。
いや、正確には、風が大きな岩に遮られているのだろう。
カナートでは、ずっと何かが風に揺れる音を聞いていた。
風車の羽根。
風笛石。
屋根の端に結ばれた布。
でも、ここにはそれがない。
代わりに聞こえるのは、ベクの蹄が石を踏む音と、荷台の金具が小さく鳴る音くらいだった。
……静かだな。
俺は身体の端を少し伸ばした。
そのとき。
――……コツ。
……ん?
俺は足を止めた。
何か、感じた。
俺は地面へ触手を当てた。
《微振動感知》。
……。
……あれ?
石の奥から、微かな振動が伝わってくる。
ベクの足音ではない。
もっと遠く。
もっと深い場所から。
――……コツ、コツ。
……何だ?
俺は首を傾げた。
誰かが、岩を叩いているのか?
そう思って周囲を見る。
だが、人影はない。
大きな岩。
細い道。
そして、遠くに見える北の山。
……鉱山があるって言ってたな。
だったら、石を掘る音かもしれない。
俺はイルマを呼んだ。
「……イルマ」
「どうしたんだい?」
俺は地面を指した。
「……おと」
イルマが首を傾げる。
「音?」
俺は頷いた。
「……いし、なか」
イルマは少し考えた。
それから、北の岩山へ目を向けた。
「……ああ。採掘の音かもしれないね」
……やっぱり。
俺は少し安心した。
だが、イルマは続けた。
「ただ、ちょっと変だねえ」
……ん?
俺は顔を上げた。
「北側の採掘場は、しばらく前から作業を止めてるはずなんだよ」
……え?
俺は動きを止めた。
作業を止めてる?
じゃあ、この音は。
俺は、もう1度地面へ触手を当てた。
――……コツ。
……。
……コツ、コツ。
確かに、何かが叩くような振動だ。
しかも、今度は少し近く感じる。
……何だろう。
俺が考えていると、ルナが隣へ来た。
「……ノア」
……ん?
「貴様にも、何か分かるのか?」
俺は頷いた。
「……した、おと」
ルナは耳を立て、しばらく周囲を確かめていた。
やがて、首を振る。
「我には聞こえぬな」
……そうか。
まあ、そうだよな。
《微振動感知》は、地面へ触れて初めて分かるものだ。
耳で聞ける音とは、少し違う。
俺は地面から触手を離した。
……うーん。
気になる。
だが、今は荷物を運ぶ途中だ。
しかも、もう夕方が近い。
こんな場所で立ち止まっても、原因が分かるとは限らない。
……まずは、石灯宿まで行こう。
俺は身体を低くした。
「……いこう」
イルマが頷いた。
「ああ。日が暮れる前に着きたいからね」
俺たちは、再び歩き始めた。
◇
石灯宿が見えたのは、日が山の向こうへ沈みかけた頃だった。
大きな岩壁の下に、低い建物が並んでいる。
屋根には石板が使われ、家々の間には細い水路が走っていた。
カナートとは、まるで違う景色だ。
……へえ。
ここも、面白そうな場所だな。
俺は少し嬉しくなった。
だが、イルマは集落の入口で足を止めた。
「……あれ?」
……ん?
俺は顔を上げた。
石灯宿の門の前には、数人の男たちが集まっていた。
何かを話し合っているらしい。
そのうちの1人が、こちらに気づいた。
「イルマ!」
「おや、久しぶり」
イルマが手を上げる。
男は、すぐに駆け寄ってきた。
「薬は持ってきてくれたのか?」
「もちろん。風便が止まったから、陸路になったけどね」
男は大きく息を吐いた。
「助かった。ちょうど在庫が少なくなってたところだ」
……よかった。
俺は少し安心した。
ちゃんと届けられそうだ。
イルマが荷台の箱を確かめていると、男は俺たちへ目を向けた。
「……そちらは?」
「道中を手伝ってくれた旅人だよ。北の山へ行くつもりらしい」
男の表情が、少し変わった。
「……北の山?」
……ん?
俺は首を傾げた。
何だ?
男は、しばらく俺たちを見つめていた。
そして、静かに言った。
「悪いことは言わない。今は山へ入らない方がいい」
……え?
俺は顔を上げた。
「どうしてだい?」
イルマが尋ねる。
男は、少し言葉を探していた。
それから、低い声で答えた。
「……岩の中で、何かが動いてる」
……。
俺は、思わず身体を止めた。
岩の中。
何かが動いてる。
……さっきの音か?
男は続けた。
「採掘場の作業を止めてからも、奥で音がするんだ。しかも、だんだん近づいてきてる」
……。
俺は、もう1度北の山を見た。
大きな岩壁。
その奥へ続く、暗い谷。
……なるほど。
どうやら。
次の目的地も、ただの観光では終わりそうにない。
……いや。
まだ、何も起きてないけどな。
俺は自分に言い聞かせた。
まずは話を聞こう。
何が起きているのか。
本当に危険なのか。
それから考えればいい。
すると、ルナが隣で小さく笑った。
「……ノア」
……ん?
俺は顔を向けた。
「貴様、また考え込んでおるな」
……ああ。
俺は頷いた。
「……きになる」
ルナは、静かに目を細めた。
「ふん。我もだ」
俺たちは、石灯宿の門をくぐった。
背後では、ベクがようやく俺のそばを怖がらずに歩いている。
……あ。
そういえば。
こいつ、慣れてくれたのか?
俺は少し嬉しくなった。
試しに、触手を上げてみる。
「……どうも」
ベクは俺を見た。
そして。
――ぶふっ。
鼻息を吹きかけてきた。
……。
…………。
これ。
挨拶でいいんだよな?
ルナの笑い声が、石造りの門に響いた。
その足元のずっと深いところで。
俺にだけ分かる、小さな振動がもう1度伝わってきた。
――……コツン。




