第3部 第37話 石が鳴く朝
最初に聞こえたのは、風の音ではなかった。
――ミシッ。
岩が軋む音だ。
俺は足元へ意識を向けた。
《微振動感知》。
硬い石の奥から、細かな振動が伝わってくる。
……ん?
昨日は、こんな振動なかったぞ。
――ミシ、ミシッ。
少しずつ、音が大きくなる。
俺は振り返った。
「……ガラン!」
「どうした!」
「……いわ、われる!」
その瞬間、石棚の端から拳ほどの石が転がり落ちた。
――ガラガラッ!
ガランの顔色が変わる。
「全員、奥へ下がれ!」
……おいおい。
ちょっと待ってくれ。
その上には。
まだ、風喰いが寝てるんだけど。
◇
朝、カナートの風車は久しぶりに勢いよく回っていた。
昨日までの南風とは違う。
西から吹く、乾いた風だ。
「いい風だな」
工房の前で空を見上げたガランが、そんなことを言った。
俺は身体の端を短く伸ばした。
確かに、風が強い。
だが、昨日までのように不規則ではない。
一定の方向から、しっかり吹いている。
……これが、オルドの言ってた西風か。
「風喰いには好都合かもしれんな」
ガランが続ける。
……ああ。
俺も、そう思う。
東の石棚は、谷の東側にある。
西から吹いた風が向かいの岩壁へぶつかれば、上へ流れる場所ができるはずだ。
風喰いが自分で身体を持ち上げる力に、その上昇風を足せるかもしれない。
ただし、問題もある。
あいつの左側の膜は、まだ傷ついたままだ。
縄や金具を外したからといって、すぐ元どおりになるわけじゃない。
……飛べるといいけどな。
俺が考えていると、白銀の相棒が隣へ来た。
「ノア。今日は少し寒いな」
……ん?
俺はルナを見た。
風に揺れる毛並み。
ふさふさの尻尾。
……寒い?
俺には、あまり分からない。
暑さや冷たさは感じるけど、人間やルナとは感覚が違う。
「貴様は平気そうだな」
……まあ。
俺は身体を小さく揺らした。
すると、ルナが俺をじっと見た。
「……少し、羨ましいぞ」
……え。
珍しいな。
ルナが俺を羨ましがるなんて。
俺は身体の一部を薄く広げ、風上側へ寄せた。
ただし、昨日みたいな大きな膜にはしない。
ルナの前へ、低い壁を作る程度だ。
……これなら、少しは風を防げるか?
ルナが目を丸くした。
「……む?」
風が、俺の膜へ当たる。
少しだけ、ルナの方が静かになった。
「ほう。なかなか気が利くではないか」
……だろ?
俺が得意になった、そのとき。
――びゅうっ!
強い風が吹いた。
俺の膜が、ぐいっと引っ張られる。
……っ!
危ない!
慌てて縮めた。
ルナは、しばらく俺を見つめていた。
それから、吹き出した。
「ふふっ。まだ凧になるつもりか?」
……もう、その話はやめようぜ。
◇
東の石棚へ向かう道の入口では、トーマたちが柵を設置していた。
古い採石場へ続く道を、一般の人が使えないようにするためだ。
トーマは俺たちに気づくと、金槌を腰へ戻した。
「また見に行くのか?」
ガランが頷く。
「ああ。西風が入ってきたからな」
「……飛び立つかもしれんってことか」
「その可能性はある」
トーマは、少し考えた。
それから、俺たちの方へ歩いてきた。
「俺も行く」
……え?
俺は顔を上げた。
昨日まで、風喰いを怖がっていた人だ。
それが、自分から近づこうとするなんて。
「何だ、その顔は」
トーマが俺を見た。
……いや。
顔はないんだけど。
「勘違いするなよ。あそこは昔、俺の爺さんたちが石を切ってた場所なんだ」
……へえ。
そうなのか。
「道のどこが危ないかなら、お前たちより詳しい」
ガランが腕を組む。
「確かに、採石場のことならお前が一番だな」
「だろ?」
トーマは少し得意そうに笑った。
……なるほど。
それなら、頼りになりそうだ。
俺は触手を持ち上げた。
「……よろしく」
トーマは俺を見下ろし、苦笑した。
「……おう」
◇
風喰いは、昨日と同じ石棚にいた。
巨大な灰色の身体を横たえ、ゆっくり吸入口を開閉している。
ただし、昨日とは少し違っていた。
金色の瞳が開いている。
そして、西から風が吹くたびに、身体の端がわずかに持ち上がっていた。
……あ。
もう、飛ぼうとしてるのか?
俺は思わず足を止めた。
オルドが、低い声で言った。
「……風を確かめておるのかもしれんな」
……そうか。
俺は風喰いを見た。
右側の吸入口。
左側の吸入口。
どちらも動いている。
ただし、左側はまだ少し遅い。
裂けた膜も、完全には戻っていない。
……無理しないでくれよ。
そんなことを考えていると、トーマが突然しゃがみ込んだ。
「……待て」
……ん?
俺は顔を向けた。
トーマは地面を見ている。
そこには、細い亀裂が走っていた。
……あれ?
俺も近づいた。
《微振動感知》。
石の奥へ、意識を向ける。
――ミシッ。
……っ。
俺は身体を止めた。
何だ、この振動。
トーマが顔をしかめる。
「……まずいな」
ガランも近づいた。
「どうした?」
「この石棚、下に古い切り出し面がある」
……切り出し面?
俺は首を傾げた。
トーマは地面を指した。
「昔、ここでは岩を段々に削って石を運び出してた。今見えてる平らな場所も、自然にできたものじゃない」
……なるほど。
俺は周囲を見た。
確かに、石棚は不自然なくらい平らだった。
だが、よく見ると、端の方には削った跡が残っている。
「風喰いが落ちたときの衝撃で、古い亀裂が広がったんだろう」
……え。
俺は風喰いを見た。
あの巨大な身体が、この石棚の上に乗っている。
……おいおい。
まさか。
「このまま崩れるのか?」
ガランが尋ねた。
トーマは首を振った。
「分からん。ただ、端の方は危ない。昔から、あそこは石が剥がれやすかったんだ」
……なるほど。
俺は少し考えた。
飛び立つために身体を動かせば、石棚へ大きな力がかかる。
それで亀裂が広がったら。
……まずいな。
俺は、もう1度地面へ触手を当てた。
小さな振動。
その奥に、時々混じる鈍い音。
……ああ。
これは、確かに危ない。
◇
「……では、どうする?」
ルナが尋ねた。
トーマは石棚の東側を指した。
「こっちの奥は、比較的しっかりしてる。昔の石切り場でも、重い荷物を集めてた場所だ」
……お。
俺は目を向けた。
そこには、広い岩場が続いていた。
ただし。
途中に、大きな石がいくつも積まれている。
昔の採石作業で残されたものらしい。
……なるほど。
あそこへ移動できれば、少しは安全なのか。
ガランが風喰いを見た。
「だが、あの巨体をどう動かす?」
……。
全員、黙った。
そりゃ、そうだ。
俺たちが押して動かせる大きさじゃない。
どんなに頑張っても、無理だろう。
すると、オルドが静かに言った。
「……本人が動けばよい」
……え?
俺は顔を上げた。
老人は風喰いを見ている。
「右側も左側も、少しずつ動くようになった。地面から身体を浮かせることくらいは、できるかもしれん」
……あ。
なるほど。
俺は少し考えた。
昨日も、ほんの少し浮いていた。
だったら、短い距離だけなら移動できる可能性はある。
ただし。
どこへ動けばいいのか、伝えられるか?
それが問題だ。
ガランが腕を組んだ。
「音を使うか?」
……。
俺は、少し迷った。
風喰いは、風胴の低い音に反応した。
だが、同じ音を出せば思いどおりに動くとは限らない。
もし驚いて暴れたら、余計に危ない。
……うーん。
俺は風喰いを見た。
金色の瞳が、こちらを向いている。
……そうだな。
音で無理に動かすんじゃなくて。
あいつが動きたい方向を、邪魔しないようにできないだろうか。
俺は、もう1度岩場を見た。
積み上げられた石。
崩れかけた足元。
そして、その向こうにある広い場所。
……まずは。
道を作ろう。
俺は触手を持ち上げた。
「……いし、どける」
トーマがこちらを向く。
「石を?」
俺は頷いた。
「……あっち、あける」
トーマは俺が示した岩場を見た。
しばらく考えたあと、頷く。
「……なるほど。あそこへ動けるように、邪魔な石を片づけるのか」
……そう!
俺は身体を少し揺らした。
無理に移動させる必要はない。
ただ、動ける場所を作っておく。
あとは、風喰い自身がどうするかだ。
トーマが、少し笑った。
「それなら、俺たちの仕事だな」
◇
作業は、思っていたより手際よく進んだ。
トーマが石の種類と重さを確かめる。
ガランたちが、道具を使って大きな石を移動させる。
俺は細い触手を使い、隙間へ詰まった小石を取り除いていった。
《構造形成》。
先端を平たくする。
……これなら、掃除しやすい。
ただし、無理に大きな石を持ち上げようとはしない。
俺の身体は、形を変えられる。
でも、重さが増えるわけじゃない。
……できることには、限界があるからな。
その横では、ルナが小さな石を動かしていた。
「《衝撃》!」
――コツン。
石が、少しだけ横へずれる。
……お。
いい感じ。
ルナも、力加減が上手くなったな。
俺が見ていると、ルナがこちらを向いた。
「何だ?」
……いや。
褒めようと思っただけ。
俺は短く答えた。
「……じょうず」
ルナは一瞬、目を丸くした。
それから、少しだけ尻尾を持ち上げた。
「……ふん。見ておったか」
……見てたよ。
俺は小さく笑った。
だが、次の瞬間。
――ミシッ。
……っ。
まただ。
俺は反射的に地面へ触手を当てた。
《微振動感知》。
……まずい。
さっきより、振動が強い。
亀裂の奥で、何かが動いている。
俺は顔を上げた。
「……ガラン!」
彼が振り返る。
「何だ!」
「……いわ、われる!」
その直後。
――ガラガラッ!
石棚の端から、拳ほどの石が転がり落ちた。
……っ!
俺は身体を低くした。
トーマもすぐに叫んだ。
「全員、奥へ下がれ!」
……くそっ。
時間がない!
◇
風喰いの巨体が、ゆっくり動き始めた。
右側の吸入口が開く。
続いて、左側。
――ゴォォ……。
大きな風が、石棚へ吹きつけた。
……っ!
俺は反射的に脚を固定した。
《粘着性》。
だが、今回は風を受けている場合じゃない。
風喰いの身体が、ほんの少し持ち上がっている。
……あ。
浮いた。
昨日より、少し高い。
でも。
――ミシミシッ!
その下の石棚が、嫌な音を立てている。
……まずい!
俺は思わず身体を持ち上げた。
風喰いは、自分の身体を持ち上げようとしている。
だが、まだ十分な高さにはならない。
巨体が上下するたび、石棚へ重さがかかる。
……これ。
何度も繰り返したら、本当に崩れるぞ!
「ノア!」
ルナが叫ぶ。
……っ。
俺は顔を向けた。
「こちらへ来い!」
……ああ。
分かってる。
俺は身体を縮め、岩場の奥へ下がった。
その瞬間。
――ガゴンッ!!
大きな音がした。
石棚の端が、崩れた。
……っ!!
俺は反射的に振り返った。
岩の塊が、谷へ落ちていく。
そのあとには、大きな亀裂。
……おいおい。
あれ。
本当に危なかったな。
だが、風喰いはまだ石棚の上にいる。
しかも。
さっきの衝撃で、身体が少し傾いてしまった。
……まずい。
このままだと、崩れた側へ引っ張られる!
「ガラン!」
俺は叫んだ。
「……あぶない!」
「見えてる!」
ガランは、すぐに周囲を見回した。
だが、俺たちにできることは限られている。
あの巨大な身体を、直接支えることなんてできない。
……どうする。
俺は、必死に考えた。
風喰いは、まだ自分で動ける。
右側も、左側も。
完全ではないが、吸入口は使える。
……だったら。
あいつ自身に、もう1度力を使ってもらうしかない。
俺は、風喰いを見た。
金色の瞳が、こちらを向いている。
……なあ。
あっちだ。
俺は広い岩場を指した。
「……あっち!」
風喰いの瞳が、わずかに動いた。
……っ。
見た?
俺は、もう1度触手を伸ばした。
「……あっち!」
もちろん、言葉が通じるとは限らない。
ただ、俺の指した方向を見てくれるかもしれない。
そんな期待だけだった。
だが、そのとき。
――ォォン。
風喰いが、低く鳴いた。
そして、右側の吸入口を大きく開いた。
……っ!
来る!
俺は反射的に身体を低くした。
――ゴォォォッ!!
強い風が、谷へ吹き出した。
その反動で、風喰いの巨体が少し持ち上がる。
……お!
いける!
続いて、左側の吸入口も開いた。
――ゴォッ!
今度は、左右の動きが少し揃っていた。
……っ!
浮いた!
本当に!
風喰いの身体が、石棚から離れた!
ただし、高さはまだ低い。
地面から、ほんの少しだけ。
それでも。
……すごい。
自分の力で、ちゃんと浮いてる!
◇
「……動くぞ!」
オルドが叫んだ。
俺は顔を上げた。
風喰いが、ゆっくり東へ流れている。
西風が、巨体を押しているのだ。
そして、東側の岩壁へ当たった風が上昇し、身体を少しずつ持ち上げていた。
……そうか。
今の風なら。
左側の力が十分じゃなくても、少しは浮いていられるのかもしれない。
俺は、少し嬉しくなった。
だが、次の瞬間。
――ぐらっ。
風喰いの身体が、大きく傾いた。
……っ。
まずい!
左側の膜が、強い風を受けて揺れている。
裂けた部分が、何度もめくれていた。
……くそっ。
やっぱり、まだ完全じゃない。
俺は思わず身体を持ち上げた。
だが、ルナが隣で言った。
「……ノア」
……ん?
「見ておれ」
……え?
俺は顔を向けた。
ルナは、空を見ている。
「今は、我らが手を出す場面ではない」
……。
俺は、少し黙った。
確かに。
今の風喰いは、自分で飛ぼうとしている。
右側の吸入口を開き、左側を少しずつ動かす。
そして、風に合わせて身体の向きを変えている。
……そうか。
今まで、俺たちは助けることばかり考えていた。
縄を外す。
石を片づける。
危ない場所を避ける。
……でも。
飛ぶことそのものは。
あいつ自身がやらなきゃいけないんだ。
俺は、ゆっくり身体を低くした。
……頑張れ。
俺は心の中で呟いた。
風喰いは、もう1度大きく身体を動かした。
――ゴォォッ!
右側から風が吹き出す。
続いて、左側。
――ゴォッ!
……っ。
揃った!
完全ではない。
でも、さっきよりずっと安定している。
灰色の巨体が、ゆっくり高度を上げていく。
石棚から。
少しずつ。
少しずつ。
……おお。
俺は思わず身体を持ち上げた。
本当に。
……飛んでる。
◇
だが、最後の問題があった。
風喰いが向かっている先。
東の岩壁。
その上には、古い石柱が立っていた。
採石場の道標だ。
ただし、根元がかなり傷んでいる。
……あれ。
危なくないか?
俺は目を凝らした。
風喰いが近づくにつれ、石柱の周囲で風が強くなっている。
――ミシッ。
……あ。
嫌な音。
俺は反射的に地面へ触手を当てた。
《微振動感知》。
……まずい。
石柱の根元が、揺れてる。
俺はガランを呼んだ。
「……あれ!」
彼が顔を上げた。
「あの柱か!」
俺は頷いた。
「……たおれる!」
ガランは、すぐに周囲を見回した。
「……トーマ!」
石切り職人が振り返る。
「何だ!」
「あの柱、倒れるぞ!」
トーマは一瞬、目を見開いた。
そして、石柱を見上げる。
「……くそっ。あれは古い道標だ!」
……ああ。
俺は少し考えた。
石柱が倒れれば、風喰いの身体へ当たるかもしれない。
しかも、まだ飛び始めたばかりだ。
……何とかしないと。
だが、あんな大きな石柱を、俺たちの力で止めることなんてできない。
俺は周囲を見回した。
すると、トーマが突然走り出した。
「……こっちだ!」
……え?
俺は顔を向けた。
トーマが向かったのは、石柱の根元ではない。
少し離れた場所にある、古い石の溝だった。
「こいつを開ければ、柱は谷側へ倒れる!」
……え?
俺は少し驚いた。
トーマは溝の端にある小さな楔を指した。
「昔、倒す方向を決めるために切った溝だ。柱を壊すとき、こっちへ倒れるようになってる!」
……なるほど!
俺は、すぐに理解した。
石柱を支えるんじゃない。
倒れる方向を、最初から決めておく。
……それなら。
俺たちにもできるかもしれない。
ただし、近づくのは危険だ。
風が強く、石柱は今にも倒れそうだった。
「ルナ!」
俺は相棒を呼んだ。
ルナは、すでに前脚を構えている。
「分かっておる!」
……お。
頼もしい!
俺は楔の位置を指した。
「……そこ!」
ルナの目が細くなる。
「《衝撃》!」
――コンッ!
小さな衝撃が、楔へ当たった。
――カチンッ!
……っ!
動いた!
続けて、もう1度。
「《衝撃》!」
――カンッ!
楔が、外れた。
その瞬間。
――ミシミシッ!
石柱が、大きく傾き始めた。
……っ!
来る!
俺は反射的に身体を低くした。
だが、石柱は風喰いの方ではなく、谷側へ向かって倒れていく。
――ドォン!!
大きな音が響いた。
石柱が、岩場の外側へ倒れた。
……っ。
よし!
風喰いには、当たらなかった!
俺は思わず触手を高く上げた。
「……できた!」
トーマが大きく息を吐く。
「……危なかった」
……ああ。
本当に。
俺は、空へ目を向けた。
◇
風喰いは、まだ飛んでいた。
ただし、もう石棚の上ではない。
東の谷に沿って、少しずつ高度を上げている。
左右の吸入口が、ゆっくり開閉していた。
まだ不安定だ。
時折、大きく身体が傾く。
だが、そのたびに風を受け直し、姿勢を戻している。
……すごいな。
俺は、しばらく見入ってしまった。
空へ戻ったんだ。
あの巨体が。
傷ついたまま。
それでも、自分の力で。
……すごい。
本当に。
俺は、少しだけ身体を揺らした。
すると、風喰いがゆっくりこちらへ顔を向けた。
金色の瞳。
巨大な灰色の身体。
そして、低い声。
――ォォォン。
……あ。
俺は顔を上げた。
何だろう。
別れの挨拶?
それとも、ただの鳴き声?
……分からない。
でも。
俺は、触手を持ち上げた。
「……いってらっしゃい」
風喰いは、もう1度ゆっくり鳴いた。
そして、東の空へ向かって進んでいく。
まだ、完全に元気になったわけじゃない。
傷も、きっと残っている。
それでも。
あいつは、もう地面へ縛りつけられてはいなかった。
◇
「……行ったな」
ガランが呟いた。
俺は頷いた。
「……うん」
隣では、オルドが静かに空を見つめている。
「……20年前も、ああして飛んでいったのかもしれんな」
……そうだな。
俺は少し考えた。
20年前の風喰い。
あの古い滑走索。
絡まった黒い縄。
……本当のところは、まだ分からない。
今の風喰いが、20年前と同じ個体なのかも。
何がきっかけで縄が絡まったのかも。
……でも。
今、1つだけ確かなことがある。
あいつは、飛んでいった。
俺たちが、ほんの少し手を貸して。
最後は、自分の力で。
……うん。
それで十分だ。
俺は少しだけ身体を持ち上げた。
すると、トーマが隣へ来た。
「……なあ、ノア」
……ん?
俺は顔を向けた。
トーマは、少し困ったように頭を掻いている。
「俺は、あの魔物が怖かった」
……ああ。
俺は頷いた。
「今でも、怖い」
……うん。
それも、分かる。
トーマは、東の空を見た。
「でも、あんなふうに飛んでいくのを見ると……」
彼は少し言葉を探した。
「……まあ、悪い気はしないな」
……。
俺は、少し嬉しくなった。
別に、好きになる必要はない。
怖いままでもいい。
ただ、相手がどんな生き物なのか。
少しでも知ろうとしてくれたなら。
……それだけで、十分だ。
俺は触手を伸ばした。
「……ありがと」
トーマは一瞬、驚いた顔をした。
それから、笑った。
「……礼を言うのは、こっちだろ」
……はは。
そうかもしれない。
◇
帰り道。
俺とルナは、最後尾を歩いていた。
ガランたちは、石棚の亀裂と倒れた石柱について話している。
危ない場所を封鎖し、後日、採石場の設備を調べ直すらしい。
……まあ。
風喰いが飛んでいったからって、全部が終わったわけじゃないよな。
残された危険も、ちゃんと片づけなきゃいけない。
俺は、少しだけ空を見上げた。
もう、風喰いの姿は見えない。
東の雲の向こうへ消えてしまった。
……本当に、行ったんだな。
すると、ルナが隣で言った。
「……ノア」
……ん?
俺は顔を向けた。
ルナは、少しだけ笑っていた。
「貴様、嬉しそうだな」
……ああ。
俺は頷いた。
「……とべた」
ルナも空へ目を向ける。
「うむ。見事だった」
……そうだな。
俺は少し考えた。
あいつは、ずっと飛べなかった。
巨大な身体へ縄が絡み、膜が傷つき、風をうまく扱えなくなっていた。
それでも。
最後は、自分の力で飛んでいった。
……何だか。
俺にも、少し分かる気がする。
洞窟で目を覚ました頃。
俺は、まともに歩くことさえできなかった。
それが今では。
こうして、旅をしている。
ルナと一緒に。
……うん。
やっぱり。
できなかったことができるようになるって、嬉しいよな。
俺が考えていると、ルナが突然言った。
「……さて」
……ん?
俺は顔を向けた。
ルナは、少しだけ得意そうに胸を張っている。
「次は、貴様の番だな」
……え?
俺は首を傾げた。
「風喰いは飛べた。では、貴様はいつ我を乗せて飛ぶのだ?」
……。
…………。
……いや。
ちょっと待ってくれ。
俺、まだ数歩しか滑れないんだけど!?
ルナは、楽しそうに笑った。
「ふん。約束したであろう?」
……したけどさ!
俺は思わず触手を振った。
ルナは、ますます楽しそうに笑っている。
……まったく。
本当に。
俺の相棒は、随分と気が早いな。
でも。
俺は空へ目を向けた。
風喰いが飛んでいった、東の空。
その向こうには、まだ知らない景色が広がっている。
……いつか。
俺も、飛べるようになったら。
そのときは。
ルナと一緒に、あの景色を見てみたい。
俺は、少しだけ身体を持ち上げた。
「……いつか」
ルナは満足そうに頷いた。
「うむ。待っておるぞ」
……ああ。
俺は小さく笑った。
ただし。
今は、まだ地面を歩く旅だ。
それでも、十分楽しい。
俺たちは、風渡りの丘を抜ける道へ向かって歩き始めた。
頭上では、フウバネの群れが静かに旋回している。
そして、遠くの空から。
――ォォォン。
低い音が、1度だけ聞こえた気がした。
俺は、思わず足を止めた。
……ん?
今の。
風喰いか?
それとも、ただの風か。
……まあ。
どっちでもいいか。
俺は、もう1度歩き出した。
ルナが、すぐ隣へ並ぶ。
風が吹く。
白銀の毛並みが揺れる。
その向こうには、まだ見たことのない道が続いていた。




