第3部 第35話 じっとしててくれ
風喰いの呼吸で、拳ほどの石が転がった。
――ゴロッ、ゴロゴロッ。
……おい。
息をしただけだぞ?
俺は石棚の手前で足を止めた。
目の前に横たわっているのは、灰色の巨大な魔物。
あれほど遠く感じていた風喰いが、今は地面の上にいる。
近づこうと思えば、手が届く距離だ。
ただし。
「……でかいな」
ガランが呟いた。
……まったくだ。
空にいるときも大きかったけど、こうして地面へ降りていると、何だか岩山そのものが生きているみたいだ。
右側の吸入口が開く。
――ゴォッ。
岩の表面を、風が走った。
俺の身体が押される。
ルナの毛並みも、一斉に逆立った。
「……むう」
ルナが不機嫌そうに尻尾を押さえる。
「貴様、笑ったな?」
……笑ってない。
まだ。
「まだ、とは何だ!」
……心を読むなよ!
そんなやり取りをしている間にも、風喰いは苦しそうに身体を動かしていた。
笑っていられるのも、今のうちかもしれない。
◇
東の石棚へ続く道は、古い採石場の裏側にあった。
石を運び出すために造られたらしい坂道が、崖に沿って緩やかに下っている。
昔は荷車も通っていたそうだが、今では草や砂利に埋もれ、ところどころ崩れていた。
俺たちは時間をかけてそこを下り、ようやく風喰いのいる石棚へ辿り着いた。
同行しているのは、俺とルナ、ガラン、オルド、それからヴァン。
ただし、ヴァンはまだ腕を痛めている。
だから今日は、少し離れた場所で周囲の風を監視してもらうことになった。
「いいか。むやみに近づくなよ」
ガランが俺たちへ言った。
「こいつが少し身じろぎしただけで、人間なんざ簡単に潰される」
……うん。
それは分かる。
俺だって、あの身体の下敷きになりたいとは思わない。
俺は短い脚を作り、地面へ低く構えた。
《構造形成》。
風を受ける面積を減らす。
さらに、万が一に備えて《粘着性》を使えるよう意識しておく。
ただし、まだ固定はしない。
危なくなったら、すぐ逃げられる方がいいからな。
「ノア」
ルナが隣へ並んだ。
「まずは、我が様子を見る」
……え?
俺は顔を向けた。
「貴様は金具を外す役目がある。近づけるかどうかは、我も確かめよう」
……なるほど。
俺は少し考えた。
ルナの感覚は鋭い。
風喰いが動く気配も、俺より早く気づけるかもしれない。
……うん。
頼んだ。
俺は頷いた。
「……おねがい」
ルナは、得意そうに胸を張った。
「うむ」
◇
最初に動いたのは、風喰いの目だった。
巨大な金色の瞳が、ゆっくりこちらを向く。
……っ。
俺は思わず身体を低くした。
何度見ても、迫力がすごい。
瞳だけで、俺の身体より遥かに大きい。
しかも、今は地面にいる。
空にいたときより、ずっと近い。
……怒ってないよな?
俺は少し不安になった。
風喰いは、しばらく俺たちを見つめていた。
そして、低く鳴いた。
――ォォン。
……。
俺は身体を止めた。
金色の瞳。
ゆっくり開閉する吸入口。
そして、左側に絡まった黒い縄。
……ああ。
まだ、外れてない。
俺は慎重に触手を持ち上げた。
「……ノア」
自分の名前を言ってみる。
通じるとは思わない。
でも、俺がここにいることくらいは、伝わるかもしれない。
風喰いは、すぐには動かなかった。
そのまま、じっとこちらを見ている。
……うん。
少なくとも、今すぐ攻撃してくる様子はない。
ただし、それだけで安全だとは言えない。
ガランも、少し離れた場所で様子を見ていた。
「……落ち着いてるな」
……ああ。
俺も、そう思う。
「ただし、息を吐くときは危ない。あの穴の前には立つなよ」
……了解。
俺は頷いた。
◇
俺たちは、風喰いの左側へ回り込んだ。
ただし、吸入口の真正面は避ける。
身体の斜め後ろ。
岩棚と魔物の間に、少しだけ風が弱い場所があった。
……ここなら、近づけそうだ。
俺は触手を伸ばした。
《微振動感知》。
まず、地面へ触れる。
……ん?
さっきから、微かな振動が続いている。
大きく、ゆっくり。
そして、不規則に。
……これ。
風喰いの身体の振動が、石へ伝わっているのか?
俺は少し驚いた。
巨大な生き物が呼吸するだけで、地面まで震える。
……とんでもないな。
俺が考えていると、ガランが隣へ来た。
「見えるか?」
……ああ。
俺は左側の吸入口を指した。
黒い縄。
その奥へ引っかかった、大きな金属の輪。
昨日、崖の岩へ引っかかっていたものだ。
今は風喰いの身体へぶら下がり、裂けた膜を引っ張っている。
……あれか。
俺は目を凝らした。
金属の輪は、想像以上に大きかった。
人間の腰ほどの幅がある。
しかも、ただの輪ではない。
内側に小さな車輪がついた、古い滑車枠のようなものだ。
……なるほど。
これが、昔の滑走索の部品なのか。
ガランが低く言った。
「……厄介だな」
……ああ。
俺も、そう思う。
「縄を切れば外れると思ってたが、輪そのものが膜へ食い込んでる」
……うん。
見れば分かる。
無理に引けば、確実に傷が広がるだろう。
……どうする。
俺は少し考えた。
すると、ガランが道具袋から小さな金具を取り出した。
「まず、重さを預かる」
……重さ?
俺は首を傾げた。
ガランは金属の輪を指した。
「今は、あの輪の重さが膜へかかってる。それを先に支えれば、縄を緩められるかもしれねえ」
……あ。
なるほど。
俺は少し驚いた。
そうか。
無理に引っ張るんじゃない。
先に、支えるんだ。
ガランは、持ってきた滑車と縄を組み立て始めた。
俺はその様子を見ながら、少し考えた。
レムナでも、同じようなことがあったな。
古い水門。
巨大な扉。
重い金属の部品。
……結局。
大きなものを動かすときに大切なのは、力任せに引くことじゃない。
どこへ重さがかかっているかを知ることなんだ。
◇
作業は、想像以上に慎重なものになった。
まず、金属の輪へ新しい縄を通す。
ただし、風喰いの身体へ触れないよう、輪の外側だけを使う。
俺が細い触手で縄を通し、ガランが少し離れた場所から張り具合を確かめる。
……よし。
通った。
次に、縄を滑車へ通す。
滑車は、石棚の端にある頑丈な岩へ固定した。
もちろん、古い設備は使わない。
新しく持ってきた金具と縄だ。
……うん。
これなら、少しは安心できる。
「ゆっくり引くぞ」
ガランが言った。
俺は頷いた。
「……うん」
縄が、少しずつ張っていく。
――ギギ……。
金属の輪が、ほんの少し持ち上がった。
……お。
動いた。
ただし、まだ膜へ引っかかったままだ。
「ここから先は、お前の仕事だ」
ガランが言った。
……ああ。
俺は頷いた。
《構造形成》。
細い触手を2本作る。
1本は金属の輪を支える。
もう1本で、黒い縄の絡まり方を確かめる。
……よし。
まずは、ここ。
俺は慎重に触手を差し込んだ。
黒い縄は、何重にも巻きついていた。
しかも、一部は裂けた膜の奥へ入り込んでいる。
……ああ。
これ。
かなり厄介だな。
俺は少し考えた。
無理に全部を外そうとすれば、傷が広がる。
だったら。
まずは、外側の縄から。
……うん。
少しずつ、だ。
◇
最初の縄は、比較的簡単に外れた。
金属の輪の重さをガランたちが支えてくれているおかげで、張りが弱くなっていたからだ。
俺は細い触手を使い、結び目をほどくように縄を緩めた。
――するっ。
……お。
外れた。
俺は少し嬉しくなった。
だが、すぐに次の問題が見つかった。
……ん?
俺は目を凝らした。
黒い縄の下。
そこには、金属の小さな爪が食い込んでいた。
昨日、風喰いから外した留め具とは別のものだ。
しかも、形が少し違う。
……あ。
これ。
押して外すタイプじゃないのか?
俺は少し考えた。
ガランへ顔を向ける。
「……これ」
彼が近づいた。
俺は金属の爪を指した。
「……ちがう」
ガランが目を細めた。
「……ああ。これは固定爪だな」
……固定爪?
「滑車枠が勝手に回らないよう、押さえるための部品だ」
……なるほど。
俺は少し考えた。
固定するための爪なら、外すための仕組みもあるはずだ。
だが、ガランは首を振った。
「……これは、簡単には外れねえ」
……え?
俺は顔を上げた。
「本来なら、工具で曲げて固定する部品だ。外すときは、切るか、折るかするしかない」
……。
……なるほど。
面倒だな。
俺は金属の爪を見た。
かなり古い。
表面には錆も浮いている。
ただし、根元はまだ丈夫そうだった。
……うーん。
俺の《硬質外皮》で、切れるかな。
試しに細い触手を硬くし、爪へ当ててみる。
……。
……硬い。
全然、動かない。
……駄目だ。
これを切るには、もっと硬い道具が必要だな。
「ノア」
ガランが小さな工具を取り出した。
「こいつを使え」
……お。
俺は顔を上げた。
先端が細く、少し曲がった金属の道具。
小さな切断具らしい。
「ただし、無理に力を入れるな。刃が滑ったら膜を傷つける」
……ああ。
分かってる。
俺は慎重に受け取った。
そして、金属の爪へ近づけた。
……よし。
まず、位置を確かめる。
爪の根元。
そのすぐ下には、風喰いの膜。
……危ないな。
これ。
下手に切ったら、刃がそのまま当たるぞ。
俺は少し考えた。
だったら。
先に、膜との間へ何か挟もう。
俺は身体の一部を薄く伸ばした。
《緩衝膜》。
柔らかな膜を、金属の爪と風喰いの身体の間へ差し込む。
……よし。
これなら。
多少刃が滑っても、直接傷つける危険は減らせる。
もちろん、完全ではないけどな。
俺は慎重に切断具を当てた。
……いくぞ。
――ギリッ。
……硬い。
俺は少し力を加えた。
――ギリギリッ。
……もう少し。
そのとき。
――ォォォン。
……っ!
風喰いが、低く鳴いた。
俺は反射的に動きを止めた。
……あ。
やばい。
痛かったのか?
俺はすぐに切断具を離した。
すると、風喰いの身体が、ゆっくり動いた。
金色の瞳が、こちらを向く。
……っ。
俺は少し身体を低くした。
ごめん。
無理やり、やりたかったわけじゃないんだ。
ただ、これを外したいだけで。
……どうすれば伝わる?
俺は少し考えた。
そして。
《共鳴膜》。
身体の一部へ、微かな振動を作った。
短く。
弱く。
昔、レムナの水中で試したものと似たやり方だ。
ただし、今回は水ではない。
触れている身体へ、直接振動を伝える。
……大丈夫。
何もしない。
少し、待ってくれ。
そんな気持ちを込めたつもりだった。
もちろん、意味が伝わるかは分からない。
風喰いは、しばらくこちらを見ていた。
そして。
――……ォン。
小さな音を返した。
……っ。
俺は思わず身体を持ち上げた。
……返事?
いや。
そうと決まったわけじゃない。
ただ、風喰いはそのあと、ゆっくり身体の力を抜いたように見えた。
……今なら。
もう少しだけ、作業できるかもしれない。
俺は慎重に触手を伸ばした。
「……すこし、だけ」
小さく声を出す。
そして、もう1度切断具を当てた。
◇
――パキンッ!
金属の爪が、折れた。
……っ!
やった!
俺は反射的に触手を引いた。
切れた金属の欠片を落とさないよう、別の触手で受け止める。
……よし。
これで、固定爪は外れた。
ガランが声をかける。
「どうだ!」
俺は触手を高く上げた。
「……できた!」
「よし! じゃあ、少しだけ縄を緩めるぞ!」
……了解!
ガランたちが、滑車へ通した縄を調整する。
金属の輪の重さが、少しずつ移動した。
……お。
膜への負担が、弱くなってる。
俺は慎重に黒い縄を動かした。
――するっ。
……っ。
1本、外れた。
続いて、もう1本。
……よし。
順調だ。
だが。
最後の縄へ触手を伸ばした瞬間。
――ゴォォッ!!
……っ!?
突然、強い風が吹いた。
風喰いの右側からだ。
その反動で、巨大な身体が少し動く。
……まずい!
俺は反射的に身体を低くした。
《粘着性》。
地面へ固定する。
だが、金属の輪はまだ宙へ浮いている。
風喰いが動けば、輪も揺れる。
――ギギギッ!
……っ!
輪が、また膜へ引っ張られた!
……くそっ。
あと少しなのに!
俺は反射的に触手を伸ばしかけた。
だが、そのとき。
「ノア!」
ルナの声が響いた。
……っ。
俺は顔を向けた。
ルナは少し離れた場所で、真剣な顔をしていた。
「退け!」
……。
俺は一瞬、迷った。
最後の縄。
あと少しで外せそうだ。
だが。
――ゴォォッ!!
さらに強い風が吹いた。
……っ!
駄目だ。
今は、危ない!
俺はすぐに触手を引き戻した。
「……もどる!」
ルナが頷く。
「うむ!」
俺は低い姿勢のまま、岩陰へ下がった。
その直後。
――ガァン!!
金属の輪が、大きく揺れた。
……っ。
危なかった!
あと少し遅れていたら、触手を挟まれていたかもしれない。
俺は思わず身体を縮めた。
ルナが隣へ来る。
「……無事か?」
……ああ。
俺は頷いた。
「……へいき」
ルナは小さく息を吐いた。
「……ならばよい」
……うん。
本当に。
俺は少しだけ身体を伸ばした。
◇
風が落ち着くまで、しばらく待つことになった。
その間、ガランは金属の輪を支える縄の張り具合を確認していた。
オルドは少し離れた場所から、風喰いの呼吸を観察している。
「……妙だな」
……ん?
俺は顔を上げた。
オルドは風喰いを見ていた。
「右側の吸入口が開く間隔が、少しずつ長くなっておる」
……え?
俺は目を凝らした。
確かに。
さっきまでは、何度も短く開閉していた。
でも、今は違う。
大きく開く。
ゆっくり閉じる。
そして、しばらく動かない。
……あ。
疲れてるのか?
俺は少し不安になった。
だが、オルドは続けた。
「苦しさが減っているのか、それとも力が尽きかけているのか。今は分からん」
……そうだな。
俺も、判断できない。
ただし。
これ以上、時間をかけすぎるのも危ないかもしれない。
俺は金属の輪を見た。
残っているのは、最後の縄だけだ。
……どうする。
もう1度、近づくか?
俺は少し考えた。
だが、今は風が落ち着いている。
この状態が続くなら、作業できるかもしれない。
俺はガランを見た。
「……あと、ひとつ」
彼は俺を見つめた。
「最後の1本か?」
俺は頷いた。
ガランは風喰いの動きを確かめた。
そして、静かに言った。
「……よし。ただし、すぐ退ける位置からだ」
……了解。
俺は、もう1度風喰いへ近づいた。
◇
最後の縄は、思っていたより厄介だった。
ほかの縄より太く、金属の輪へ深く絡みついている。
しかも、裂けた膜の端を引っ張っていた。
……うーん。
これ。
ほどくのは難しいな。
俺は少し考えた。
だが、ガランが持ってきた切断具は、まだ使える。
……だったら。
切るしかないか。
俺は、慎重に位置を確かめた。
黒い縄。
その下にある膜。
……危ない。
ここで切れば、風喰いの身体を傷つけるかもしれない。
俺は少しだけ触手を動かした。
《緩衝膜》。
柔らかい層を、縄と身体の間へ差し込む。
……よし。
さらに、別の触手で縄を少し持ち上げる。
……ここだ。
これなら、刃が直接当たらない。
俺は切断具を当てた。
ゆっくり。
少しずつ。
――ギリッ。
……硬い。
だが、さっきよりは切りやすい。
……もう少し。
――ギリギリッ。
……あと少し。
そのとき。
風喰いの身体が、ゆっくり動いた。
……っ。
俺は一瞬、手を止めた。
金色の瞳が、こちらを見ている。
……頼む。
もう少しだけ。
俺は、小さく声を出した。
「……じっと、してて」
もちろん、通じるかは分からない。
だが、風喰いはそれ以上動かなかった。
……よし。
俺は切断具へ力を込めた。
――パチンッ!
……っ!
切れた!
最後の縄が、2つに分かれた。
その瞬間。
金属の輪が、少しだけ下がった。
……っ。
俺は反射的に身体を引いた。
ガランたちが、滑車を使って輪を支えている。
……よし。
あとは、ゆっくり下ろせば。
「……ガラン!」
俺は叫んだ。
「……とれた!」
「よし! 離れろ!」
……了解!
俺はすぐに身体を縮めた。
金属の輪から距離を取る。
その直後。
ガランたちが、縄を少しずつ緩め始めた。
――ギギギッ。
大きな輪が、ゆっくり下がる。
風喰いの膜から、完全に離れた。
……あ。
やった。
本当に。
外れた!
――ゴトン。
金属の輪が、地面へ降ろされた。
……っ!
俺は思わず身体を持ち上げた。
「……できた!」
ルナが駆け寄ってくる。
「うむ! 見事だ、ノア!」
……おお。
ありがとう!
俺は嬉しくなって触手を高く上げた。
だが。
まだ、終わったわけじゃない。
俺は風喰いを見た。
巨大な灰色の身体。
左側の吸入口。
そこには、まだ裂けた膜が残っている。
……ああ。
傷は、そのままだ。
縄を外したからといって、すぐに治るわけじゃない。
それに。
あんなに大きな魔物が、今すぐ飛べるようになるかどうかも分からない。
俺は少しだけ身体を低くした。
……大丈夫かな。
◇
最初に変化したのは、音だった。
――ォォォン。
風喰いが、ゆっくり鳴いた。
今までより、少し長い。
そして、低い。
……ん?
俺は顔を上げた。
巨大な身体が、ゆっくり動く。
右側の吸入口が開く。
続いて。
……あ。
左側。
今までほとんど動かなかった膜が、少しずつ広がり始めた。
……っ!
動いた!
俺は思わず身体を持ち上げた。
「……ひだり!」
ガランも、すぐに気づいた。
「……ああ。動いてる!」
……そう!
俺は頷いた。
ただし、完全ではない。
左側の膜はまだ裂けている。
開くときも、右側より遅い。
でも。
さっきまでとは、明らかに違う。
……よかった。
本当に。
風喰いは、もう1度大きく呼吸した。
右側。
左側。
どちらも、ゆっくり動く。
……おお。
少しは、楽になったのかもしれない。
俺は静かに身体を揺らした。
そのとき。
風喰いが、ゆっくりこちらへ顔を向けた。
金色の瞳。
巨大な頭部。
……っ。
俺は少し緊張した。
だが、風喰いは動かなかった。
ただ、しばらく俺たちを見ている。
そして。
――ォン。
短い音を出した。
……。
俺は、少しだけ身体を持ち上げた。
返事なのか。
ただの呼吸なのか。
それは、分からない。
でも。
……俺は、少し嬉しかった。
「……どういたしまして」
小さく言ってみる。
もちろん、通じるかは分からないけどな。
◇
夕方。
俺たちは、石棚から少し離れた場所で休んでいた。
風喰いは、まだ地面へ横たわっている。
ただし、さっきまでより落ち着いた様子だった。
右側と左側。
どちらの吸入口も、ゆっくり開閉している。
……うん。
よかった。
俺は少し安心した。
すると、ガランが隣へ来た。
「……ノア」
……ん?
俺は顔を向けた。
ガランは、地面へ下ろした大きな金属の輪を見ていた。
「助かったな。お前がいなけりゃ、あれを外すのは難しかった」
……いや。
俺だけじゃ無理だったよ。
俺は触手を振った。
滑車を作ったのはガラン。
縄を支えたのは職人たち。
風を見張ってくれたのはオルドとヴァン。
そして、危ないときに止めてくれたのはルナだ。
……うん。
みんなのおかげだ。
俺は短く答えた。
「……みんな」
ガランは少し驚いたあと、笑った。
「……ああ。そうだな」
……そう。
俺は頷いた。
すると、ルナが隣へ座った。
「ふん。貴様も随分と素直になったものだ」
……え。
俺、前から素直だろ?
ルナは、少しだけ目を細めた。
「……そういうことにしておこう」
……おい。
絶対、納得してないだろ。
俺が触手を振ると、ルナは楽しそうに笑った。
◇
だが、まだ問題は残っていた。
風喰いは、地面へ降りたまま動かない。
左側の膜が動くようになったとはいえ、傷は残っている。
それに、あれほど大きな身体だ。
ここで長く休むには、石棚の広さも十分とは言えない。
……どうする。
俺は少し考えた。
飛ぶための力が戻るまで、ここにいてもらう?
それとも、もっと広い場所へ移動してもらう?
……いや。
そもそも。
あいつが地面で、どれくらい休めるのかも分からない。
俺が悩んでいると、オルドが静かに言った。
「……しばらく様子を見よう」
……ん?
俺は顔を上げた。
老人は風喰いを見ている。
「今すぐ飛ばそうとしても、傷が広がるだけかもしれん。まずは、落ち着いて休めるようにするべきだ」
……ああ。
確かに。
俺は頷いた。
「それに、村へ戻って知らせる必要もある」
……そうだな。
巨大な魔物が石棚へ降りた。
しかも、まだ飛べない。
……これは、村の人たちにとっても大きな問題だ。
俺たちだけで決めることじゃない。
ガランも頷いた。
「……ああ。風便も、まだ飛ばせねえな」
……うん。
しばらくは、様子を見るしかなさそうだ。
俺は、もう1度風喰いへ目を向けた。
巨大な灰色の身体。
そして、ゆっくり開閉する吸入口。
……よし。
今日は、ここまでだな。
俺は身体を少し伸ばした。
すると、ルナが隣へ来た。
「……ノア」
……ん?
俺は顔を向けた。
ルナは、少しだけ笑っていた。
「今日は、ちゃんと戻ってきたな」
……ああ。
俺は頷いた。
「……かえった」
ルナは満足そうに頷く。
「うむ」
……そうだな。
俺は少し笑った。
あれだけ大きな相手。
あれだけ複雑な問題。
正直、途中ではどうなるかと思った。
でも、何とかできた。
もちろん、全部が終わったわけじゃない。
それでも。
……少しは、助けられたんじゃないかな。
俺は遠くの風喰いを見た。
すると。
――ォォン。
低い音が、また響いた。
今度は、さっきより穏やかに聞こえた。
……ああ。
そうか。
俺は小さく身体を揺らした。
言葉は通じない。
相手が何を考えているのかも、分からない。
でも。
こうして同じ場所へ立ち、少しずつ近づいてみれば。
何かは、伝わるのかもしれない。
俺は、ゆっくり身体を持ち上げた。
そして、静かに呟いた。
「……また、くる」
風喰いは、返事をしなかった。
ただ、金色の瞳を細め、ゆっくり呼吸を続けていた。
その様子を見て、俺は少しだけ安心した。
……よし。
次は、あいつがちゃんと飛べるようになるまで。
何か、手伝えることを考えよう。
俺は、ルナと一緒に石棚をあとにした。
背後では、風喰いの大きな身体が静かに横たわっている。
そして、その左側では。
今まで動かなかった膜が、ゆっくりと風を受けていた。




