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ゲームだと思ったら原初の生命に転生しました。  作者: くんくん
第2部

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第3部 第33話 空に伸ばした手

東の断崖へ着いたとき、空にはまだ風喰いの姿があった。


灰色の巨体が、雲を引きずるように谷の上を進んでいる。


昨日より、さらに低い。


その左側では、裂けた膜が風を受けるたびにめくれ、黒い縄が不自然に引っ張られていた。


……あれは、痛そうだな。


実際に痛みを感じているかどうかは分からない。それでも、まともに動かせない部分を庇いながら飛んでいるのは、見ていて分かった。


「ノア。最後に確認するぞ」


背後からガランの声がした。


俺は振り返る。


岩棚には、昨日までなかった装置が組み立てられていた。


太い縄。


新しく打ち込まれた固定金具。


巻き上げ機が2台。


そして、崖の端に吊るされた小さな作業台。


「今日は飛ばねえ」


ガランが言った。


……うん。


俺は頷く。


「昨日試した風帆は使わない。あいつの近くで翼を広げたら、風に持っていかれるだけだ」


それも、分かってる。


「作業台を岩棚から少し下ろす。風喰いが十分近づいて、なおかつ風が落ち着いたときだけ、手を伸ばす」


……ああ。


今回の目的は、空を飛ぶことじゃない。


届かない場所へ、できるだけ安全に手を伸ばすことだ。


俺は作業台を見た。


身体を固定するための革帯があり、底には転落防止の網も張られている。


さらに、台を吊るす縄とは別に、俺自身へ命綱を結ぶ。


片方が切れても、もう片方が残るように。


……よく考えてくれたな。


もっとも、どんなに準備しても危険が消えるわけじゃない。


「条件が悪ければ何もせず帰る。それでいいな?」


ガランが念を押した。


俺は迷わず答えた。


「……うん」


すると、隣にいたルナが口を開いた。


「我からも1つ、条件がある」


……ん?


ルナは俺を見た。


「引き上げの合図が出たら、作業の途中でも戻れ」


……。


俺は少し黙った。


今までの俺なら、あと少しだからと粘ってしまったかもしれない。


でも、今回は相手が違う。


自分より遥かに大きな魔物。


それも、周囲の空気を大きく動かす生き物だ。


判断を間違えれば、俺だけじゃなく、縄を握る人たちまで危険にさらす。


俺は触手を伸ばした。


「……やくそく」


ルナは俺の触手へ前脚を重ねた。


「うむ。ならばよい」


◇


準備を手伝っていたのは、ガランだけではなかった。


数日前、風帆の墜落事故で助けたヴァンも来ていた。


右腕にはまだ包帯が巻かれているが、今日は操縦者ではなく、巻き上げ機の監督役だ。


「腕は大丈夫なのか?」


ガランが聞くと、ヴァンは苦笑した。


「医者には重いものを持つなと言われた。だから、口だけ出す」


「それは普段から得意だろうが」


「誰のおかげで口が達者になったと思ってる」


……仲いいな、この2人。


ヴァンは笑いながら、職人たちへ縄の扱いを指示した。


俺たちはまず、俺より重い砂袋を作業台へ載せて試験した。


新しい固定金具の周辺は、昨日のうちにガランたちが調べてある。古い石塔の巻き上げ機や錆びた鎖は使わず、傷みの少ない岩へ別々に固定していた。


――ギギギッ。


作業台が、崖の端からゆっくり下りる。


風に揺れ、少し回転した。


「止めろ」


ヴァンがすぐに声をかけた。


作業台が止まる。


「横の制御索を少し張れ。揺れが収まるまで次は動かすな」


……なるほど。


こういうところは、やっぱり経験者だな。


ヴァンの声に合わせて職人が縄を調整すると、作業台の回転が少しずつ弱まった。


その後も、上げ下ろしを何度か繰り返す。


急に風が強くなったときは作業を中止し、砂袋を引き上げた。


……地味だ。


でも、今までで一番安心できる準備かもしれない。


俺がそんなことを考えていると、ヴァンが笑った。


「何だ。もっと派手に飛ぶつもりだったか?」


俺は触手を横へ振った。


「……ちがう」


「そりゃよかった。俺はもう、空から落ちるのは御免だからな」


……。


説得力がすごい。


◇


昼を少し過ぎた頃、風の向きが変わった。


オルドが岩棚の上に結んだ布を見つめる。


「……来るぞ」


南から吹いていた風が弱まり、代わりに谷の奥から低い音が響き始めた。


――ォォォン。


風喰いだ。


俺は《視覚》を働かせた。


巨大な灰色の身体が、ゆっくりと進路を変えている。


昨日、風胴の音に反応した方向。


東の谷へ向かって。


ただし、今日はまだこちらから音を出していない。


……あれ?


俺は少し不思議に思った。


昨日の場所を覚えているのか。


それとも、もともとこの谷を通るつもりだったのか。


分からない。


「オルド爺さん」


ガランが尋ねた。


「今の風で鳴らしても大丈夫か?」


老人は石の風見を確かめた。


「音を出すなら、1度だけにしておけ。風向きが変われば、すぐ中止だ」


ガランが俺たちを見る。


「風喰いが自分で離れていくなら追わねえ。それでいいな」


俺は頷いた。


ルナも前脚を持ち上げた。


「うむ」


ガランは風胴の位置を確認した。


昨日の実験に使った、低い音を出す道具だ。


今は岩棚の奥へ固定してあり、革袋を押すための紐がルナの前まで伸びている。


「……1回だけだ」


ルナが頷いた。


そして、短く《衝撃》を放った。


――ボォォン。


低い音が、谷へ流れていく。


俺は空を見上げた。


風喰いは、すぐには動かなかった。


巨体がゆっくり上下する。


右側の吸入口が開き、雲が細く伸びた。


……。


やっぱり、反応しないか?


そう思った直後。


金色の瞳が、こちらを向いた。


……っ。


俺は身体を動かさず、その視線を受け止めた。


遠くから見るだけでも巨大な魔物だった。


だが、今日はその目が、はっきり見える。


細長い瞳孔。


その周囲にある、幾重もの皺。


そして、ゆっくり開閉する重そうな瞼。


――ォォォン。


風喰いが鳴いた。


……あ。


返ってきた。


ただし、それが返事なのかどうかは分からない。


声が似ているからといって、同じ意味になるとは限らない。


俺は視線を外さず、じっと待った。


すると、灰色の巨体が少しずつ岩棚へ近づいてきた。


◇


「……近いな」


ヴァンが低く呟いた。


俺も、そう思う。


風喰いが近づくにつれ、その大きさがはっきりしてくる。


側面の吸入口は、俺の身体が丸ごと入りそうなほど大きい。


いや。


実際には、それ以上かもしれない。


……絶対に吸い込まれたくないな。


俺は作業台へ目を向けた。


ガランは、風の状態を確かめている。


オルドは南側の雲を見つめ、ヴァンは縄の張り具合を調べていた。


そして、ルナ。


俺のすぐ隣へ座り、風喰いの動きをじっと見ている。


……みんな、準備してくれてる。


俺がやるべきことも、決まっている。


左側に絡んだ黒い縄。


その金具が古い切り離し具と同じ型なら、細い触手で外せるかもしれない。


ただし、違う型なら無理に動かさない。


膜へ食い込んでいたら、引っ張らない。


それが今日の約束だ。


「ノア」


ガランが呼んだ。


……ん?


「左側がこっちへ向いてる。だが、まだ遠い」


……ああ。


俺も、そう見える。


風喰いは、岩棚の少し手前で高度を保っていた。


時折、右側の吸入口から強い風が吹き出す。


そのたびに巨体が傾き、左側の裂けた膜が揺れた。


……これ以上近づいたら、岩へぶつかるかもしれない。


俺は少し不安になった。


だが、次の瞬間。


風喰いの動きが変わった。


右側の吸入口が小さく閉じる。


巨体が、ゆっくり横へ流れた。


……あ。


こちらへ来る。


今度は、さっきより慎重に。


まるで、岩棚との距離を確かめているようだった。


「……止まった」


オルドが呟いた。


確かに、風喰いは岩棚の近くでほとんど動かなくなっていた。


完全に止まったわけではない。


上下へ、わずかに揺れている。


それでも。


……今なら。


近づけるかもしれない。


ガランが俺を見た。


「準備はいいか?」


俺は短く答えた。


「……いける」


「よし。ただし、風が荒れたら即座に戻す」


……了解。


俺は作業台へ乗った。


革帯を身体へ通す。


さらに、別の命綱を中央へ固定した。


《構造形成》。


身体を小さくまとめ、重さを中央へ集める。


……よし。


準備できた。


すると、ルナが近づいてきた。


「ノア」


……ん?


俺は顔を向けた。


ルナは、少しだけ真剣な表情をしている。


「忘れるでないぞ」


……ああ。


俺は頷いた。


「……かえる」


ルナは小さく笑った。


「うむ。それでよい」


◇


作業台が、ゆっくり崖の外へ出た。


足元には、何もない。


いや。


遥か下に谷底は見える。


でも、今の俺を支えているのは縄だけだ。


……これは。


思っていたより、怖いな。


俺は作業台の縁へ触手を巻きつけた。


《粘着性》。


ただし、必要以上に力は入れない。


揺れたときに、身体が固定されすぎていると危ないかもしれないからだ。


「……少し下げるぞ!」


上からガランの声がした。


俺は触手を上げた。


……了解。


作業台が、ゆっくり下がる。


岩壁が横へ流れていく。


そして。


……見えた。


風喰いの左側。


思っていた以上に近い。


巨大な灰色の身体。


その表面には、細かな皺が走っている。


吸入口の周囲には柔らかそうな膜が重なり、開閉するたびに大きく形を変えていた。


……すごいな。


近くで見ると、本当に生き物なんだと分かる。


ただし。


そのうちの2つが、ほとんど動いていない。


黒い縄が何重にも絡み、膜を押さえつけている。


……これか。


俺は慎重に触手を伸ばした。


だが、まだ届かない。


……あと少し。


俺は上へ合図した。


作業台を、少し横へ動かしてもらう。


――ギギッ。


制御索が張る。


台が、ゆっくり移動した。


……よし。


これなら。


俺はもう1度、触手を伸ばした。


《構造形成》。


先端を細く。


根元は厚く。


……届くか?


あと少し。


もう少し。


――ぺたり。


……っ。


触れた!


俺の触手が、風喰いの身体へ触れた。


◇


最初に感じたのは、振動だった。


《微振動感知》。


巨大な身体の内側から、低く、規則的な揺れが伝わってくる。


……呼吸、みたいなものか?


もちろん、俺には分からない。


でも、何かが大きく動くたびに、皮膚のような膜が震えていた。


……すごい。


俺は、慎重に触手を動かした。


黒い縄。


その根元。


そして、金属の留め具。


……あ。


見つけた。


黒い縄の端に、小さな金属の輪があった。


ガランが見せてくれた、古い切り離し具に似ている。


ただし、表面には傷がつき、膜の一部が輪へ押し込まれていた。


……まずいな。


これ、無理に引っ張ったら傷が広がりそうだ。


俺は細い触手を2本に分けた。


1本は金具を固定。


もう1本で、爪の位置を確かめる。


……ここだ。


金属の小さな突起。


《硬質外皮》。


先端を少し固める。


……よし。


ゆっくり押す。


――……。


動かない。


……あれ?


俺はもう少し力を加えた。


――……。


駄目だ。


錆びているのか。


それとも、変形しているのか。


……うーん。


俺は少し考えた。


力任せに押せば、壊れるかもしれない。


だったら。


……角度を変えてみよう。


俺は触手を一度引き、横から差し直した。


金具の爪が、少し見えやすくなる。


……よし。


今度は、どうだ。


俺は慎重に押した。


――カチッ。


……っ!


動いた!


俺は思わず身体を持ち上げかけた。


だが、すぐに止めた。


……待て。


まだ、全部外れたわけじゃない。


俺は金属の輪を少し回した。


……硬い。


でも、動く。


ゆっくり。


ほんの少しずつ。


――カチン。


……っ!


外れた。


金属の輪が、開いた。


……やった!


俺は声を出しそうになった。


だが、ここは風喰いのすぐ横だ。


大きく動くわけにはいかない。


俺は開いた輪を慎重に引き、黒い縄の端を少し緩めた。


……よし。


これなら。


膜へ食い込んだ部分を、無理に引っ張らず外せるかもしれない。


俺は指先を細くし、縄の間へ差し込んだ。


……あと少し。


そのとき。


――ォォォン。


……っ!


風喰いが、突然低い音を出した。


俺は反射的に動きを止めた。


触手から、大きな振動が伝わってくる。


……まずい。


何か、嫌がってる?


俺はすぐに触手を少し引いた。


……ごめん。


痛かったのかもしれない。


俺はしばらく待った。


すると、風喰いの身体が、ゆっくり動いた。


金色の瞳が、こちらを向く。


……っ。


俺は動きを止めた。


目が合った。


巨大な魔物と。


ほんの少しの距離で。


……怖いな。


正直、怖い。


この距離であいつが少し身体を動かしただけで、俺なんて簡単に吹き飛ばされるだろう。


だが。


風喰いは、すぐには動かなかった。


ただ、じっとこちらを見ている。


……何だろう。


俺が何をしているのか、確かめているようにも見える。


もちろん、本当にそうかは分からない。


俺はゆっくり触手を上げた。


「……だいじょうぶ」


小さな声。


届いたかどうかも分からない。


だが、風喰いはしばらくこちらを見つめたあと、ゆっくり目を細めた。


……。


俺は、もう1度金具へ向き直った。


◇


外れた金具を取り除くと、黒い縄の一部が緩んだ。


ただし、全部ではない。


まだ、別の場所へ絡みついている。


……ああ。


やっぱり、簡単には終わらないか。


俺は慎重に縄の向きを確かめた。


左側の吸入口。


その奥へ、黒い縄が伸びている。


……ん?


これ。


思ったより、深いところまで入り込んでないか?


俺は触手を少し動かした。


すると、縄の奥から金属が擦れるような振動が返ってきた。


……あ。


まだ、別の留め具がある?


俺は、少し考えた。


だが。


これ以上、奥へ触手を伸ばすのは危ない。


吸入口の中へ入れば、強い風に巻き込まれるかもしれない。


……今日は、ここまでにするべきか。


俺が迷っていると。


――カン! カン! カン!


……っ!


上から、短い金属音が3回響いた。


ルナだ。


引き上げの合図。


……っ。


来たか!


俺はすぐに触手を引き戻した。


開いた金具と、緩んだ縄の端だけを持って。


そして、命綱を3回引いた。


……戻る!


上で巻き上げ機が動き始める。


――ギギギッ。


作業台が、ゆっくり岩棚へ引き寄せられた。


その瞬間。


――ゴォォッ!!


……っ!!


風喰いの右側から、強い風が吹き出した。


作業台が大きく揺れる。


……くそっ!


俺は反射的に縁へ触手を巻きつけた。


《粘着性》。


だが、揺れは止まらない。


縄が強く張り、作業台が横へ流される。


……まずい!


岩壁へぶつかる!


俺は身体を縮めた。


《緩衝膜》。


衝撃を受ける側へ、柔らかな膜を作る。


――ゴンッ!


……っ!!


作業台が岩へ当たった。


俺の身体にも、鈍い衝撃が伝わる。


……痛っ!


だが、何とか耐えた。


その直後。


「ノア!」


ルナの声がした。


……っ!


俺は顔を上げた。


岩棚の上。


白銀の相棒が、こちらを見ている。


「今、引くぞ!」


……頼む!


俺は触手を高く上げた。


ヴァンの指示で制御索が張り直され、作業台の回転が弱まる。


続いて、ガランたちが巻き上げ機を動かした。


――ギギギッ!


作業台が、少しずつ上がる。


……よし。


あと少し。


もう少し。


――ごとん。


……っ!


岩棚へ戻った!


俺はすぐに身体を伸ばした。


……ふう。


帰ってこられた。


本当に。


「ノア!」


ルナが駆け寄ってくる。


俺は触手を上げた。


「……へいき」


ただし、少し痛い。


作業台が岩へぶつかったとき、身体の端を擦ってしまったらしい。


……まあ。


この程度で済んでよかった。


ルナは俺の身体を確かめると、小さく息を吐いた。


「……まったく。心配させおって」


……ごめん。


俺は触手を少し下げた。


だが、ルナはすぐに笑った。


「しかし、約束は守ったな」


……ああ。


そこは、ちゃんと。


俺は頷いた。


「……かえった」


「うむ」


ルナは満足そうに頷いた。


◇


「……これを外したのか?」


ガランが、俺の持っていた金具を見つめていた。


……ああ。


俺は触手を伸ばした。


開いた金属の輪。


そこには、黒い縄の一部が残っている。


ガランは慎重に受け取った。


「……古い型だな。間違いない」


……お。


やっぱり。


俺は少し嬉しくなった。


「しかも、爪が開いてる。ちゃんと手順どおりに外したんだな」


……ああ。


教えてもらったとおりだ。


俺が身体を揺らすと、ガランは小さく笑った。


「よくやった」


……ありがとう。


俺は少しだけ身体を持ち上げた。


だが、ガランは続けた。


「ただし、まだ全部じゃねえな?」


……ああ。


俺は頷いた。


「……おく、ある」


ガランが表情を変える。


「奥にもあるのか?」


……そう。


俺は短く説明した。


「……ひも、まだ」


ガランは少し考えた。


「……なるほど。別の場所へも絡んでるのか」


……多分。


俺は頷いた。


確かに、1つ金具を外した。


でも、まだ縄は残っている。


あのままでは、左側の吸入口が完全に動くようにはならないだろう。


……ただ。


少しだけ、変化はあった。


俺は空を見た。


風喰いは、まだ岩棚の近くにいた。


左側の前方。


さっきまでほとんど動かなかった膜が、少しだけ開いている。


……あ。


やっぱり。


俺は思わず触手を上げた。


「……みて!」


ガランたちが空を見上げる。


「……おっ」


ヴァンが声を漏らした。


「左側、少し動いてるな」


……そう!


俺は頷いた。


全部は外せなかった。


でも、少しだけ動くようになった。


……よかった。


本当に。


◇


そのときだった。


風喰いが、ゆっくり身体を傾けた。


……ん?


俺は目を凝らした。


左側の吸入口。


さっき外した部分が、少し開く。


周囲の空気が、そこへ吸い込まれる。


……お。


使えるようになったのか?


俺は少し嬉しくなった。


だが。


次の瞬間。


――ギィィッ!!


……っ!?


今まで聞いたことのない音が響いた。


金属を無理やり引きずるような、不快な音。


俺は反射的に身体を低くした。


風喰いの左側。


奥へ伸びていた黒い縄が、突然ぴんと張った。


……っ!


何だ!?


俺は目を凝らした。


黒い縄が、吸入口の奥へ引っ張られている。


その根元で、裂けた膜が大きくめくれた。


……まずい!


あれ。


さっきまで緩んでいた縄だ!


風が入るようになったせいで、奥へ引き込まれ始めたのか!?


「……ガラン!」


俺は叫んだ。


彼も、すでに空を見上げている。


「……ああ。見えてる!」


……っ!


どうする。


あのまま縄が奥へ引き込まれたら。


せっかく外した部分まで、また傷が広がるかもしれない。


だが、今から戻っても間に合わない。


俺は、思わず身体を持ち上げた。


そのとき。


――ォォォォン!!


風喰いが、大きく鳴いた。


今までより、ずっと低い。


そして、長い。


巨体が、ぐらりと傾く。


……っ。


まずい。


本当に、まずい!


右側の吸入口が一斉に開く。


強い風が、谷へ吹き出した。


だが、左側はうまく動かない。


そのせいか、身体の傾きが戻らなかった。


……おい。


待て。


このままじゃ。


……落ちる!


「全員、岩陰へ!」


ガランの声が響いた。


俺は反射的にルナを見た。


ルナも、すぐに俺の横へ並ぶ。


……くそっ。


あと少しだったのに。


1つ外した。


少しだけ、動くようになった。


それなのに。


……これじゃ。


俺が歯がゆさに身体を縮めた、その瞬間だった。


風喰いが、突然こちらへ顔を向けた。


金色の瞳。


巨大な身体。


そして、まだ動かない左側の吸入口。


……っ。


俺は、その目を見た。


助けを求めているのか。


怒っているのか。


それとも、ただ苦しいだけなのか。


……分からない。


でも。


1つだけ、分かったことがある。


あの黒い縄は、思っていたより深く絡んでいる。


表面の金具を外すだけでは、終わらない。


……だったら。


次は、もっと奥だ。


俺はゆっくり身体を低くした。


ただし、今は動かない。


まずは、全員が安全な場所へ戻ること。


それが、今日の約束だからだ。


「ノア!」


ルナが俺を呼んだ。


……ああ。


分かってる。


俺は短く答えた。


「……いく!」


俺たちは、岩陰へ駆け込んだ。


その背後で。


――ゴォォォォッ!!


巨大な風が、断崖へ叩きつけられた。


そして。


――ギィィィッ!!


もう1度、金属が擦れる音が響いた。


……っ。


俺は、思わず顔を上げた。


風喰いの左側。


黒い縄が、さらに奥へ引き込まれている。


その先で。


何か大きな金属の輪が、吸入口の縁へ姿を現した。


……え?


俺は目を凝らした。


あれ。


昨日見た小さな留め具とは、全然違う。


もっと大きい。


もっと重そうな。


……まさか。


あいつ。


ただの縄だけじゃなくて。


滑走索の大きな金具まで、引っかかっているのか?


俺は息を呑むつもりで、身体を固くした。


……これは。


思っていた以上に、厄介なことになっている。


風喰いは、傾いた身体を必死に戻そうとしていた。


だが、左側の吸入口は動かない。


巨体が、ゆっくり高度を落としていく。


そして。


その下には、東の断崖があった。


……おいおい。


このままじゃ、本当にぶつかるぞ。


俺は、ルナと顔を見合わせた。


ルナも、珍しく険しい表情をしている。


「……ノア」


……ああ。


俺は頷いた。


もう、時間がない。


今日、手は届いた。


でも、それだけじゃ足りなかった。


あの巨大な魔物を助けるには。


次の一手を、今まで以上に慎重に選ばなければならない。


岩陰の外では、風喰いの低い声が響き続けていた。


そして俺は、ようやく理解し始めていた。


本当に難しいのは。


あの空へ手を伸ばすことじゃない。


触れたあと、何をするかだった。

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