第3部 第31話 断崖に残された道
「……これ、本当に道なのか?」
俺は目の前の岩壁を見上げた。
細い足場。
片側は切り立った崖。
反対側には、ほとんど垂直に近い岩の壁が続いている。
しかも、風が強い。
……いやいや。
道って、もっと安心して歩けるものじゃなかったっけ?
「昔は荷車も通れたらしいぞ」
ガランが平然と言った。
……え?
俺は足元を見た。
幅は、人間が2人並べばいっぱいだろう。
こんなところを荷車が?
「崩れたんだよ。使われなくなってから随分経つからな」
……先に言ってくれよ!
俺が触手を振ると、ガランは愉快そうに笑った。
「だから、命綱をつけてるんだろ?」
……。
まあ、そうなんだけど。
俺は身体の中央へ通した縄を確かめた。
もう1本は、岩壁に打ち込まれた新しい金具へ繋がっている。
ルナも専用の胴帯を着けていた。
「ふん。こんな崖程度で情けないぞ、ノア」
……いや。
お前は4本脚でしっかり歩けるだろ。
俺なんて、脚の数から自分で決めないといけないんだぞ。
そう反論しようとしたところで、風が吹いた。
――ビュウッ!
「……っ!」
俺は反射的に身体を低くした。
《粘着性》。
脚を岩へ固定する。
……よし。
今度は飛ばされない。
ルナがちらりと俺を見た。
「……慣れてきたな」
……おう。
嫌でも慣れるよ。
カナートへ来てから、何回風に吹かれたと思ってるんだ。
◇
東の断崖。
それが、今日の目的地だった。
昨日、俺たちはカナートの工房で、風を利用して吊り台を持ち上げる装置を試した。
結果は、ひとまず成功。
俺が乗った吊り台は地面から数歩分だけ浮き、姿勢を調整しながら安全に降りることができた。
ただし、風喰いまでの距離を考えれば、まだ足りない。
圧倒的に足りない。
そこで、ガランが提案したのが、この東の断崖だ。
昔、崖と崖の間で荷物を運ぶための滑走索が使われていたらしい。
高い場所から始めれば、吊り上げる距離を短くできるかもしれない。
……まあ。
考え方は分かる。
分かるんだけど。
俺はもう1度、足元を見た。
遥か下には、細い川が流れている。
……落ちたら、終わりだな。
「ノア」
ルナが声をかけた。
……ん?
「下ばかり見るな。進む方を見よ」
……あ。
そうだな。
俺は顔を上げた。
確かに、下ばかり気にしていても仕方ない。
今は、安全に進むことを考えよう。
「……ありがと」
ルナは得意そうに頷いた。
「うむ」
その後ろで、オルドが小さく笑った。
「いい相棒だな」
……ああ。
それは間違いない。
◇
岩壁沿いの道を抜けると、突然、視界が開けた。
「……おお」
俺は思わず声を漏らした。
目の前に、広い岩棚があった。
そこからは東の峡谷を一望できる。
そして、岩棚の端には。
……あれ。
塔?
俺は首を傾げた。
石造りの低い塔が、2本並んでいる。
その間には大きな金属の輪があり、太い鎖が巻きついていた。
ただし、鎖の先はどこにも繋がっていない。
片方の端が、崖の外へ垂れ下がっている。
「……これが昔の滑走索だ」
オルドが言った。
……なるほど。
俺は近づいてみた。
塔の表面には、風雨で削られた跡がある。
だが、石そのものはかなり頑丈そうだった。
その間に設置された大きな巻き上げ機。
金属の歯車。
太い軸。
……おお。
随分、本格的な設備だな。
ガランは早速、道具袋から小さな金槌を取り出した。
「まずは状態を確かめるぞ」
……了解。
俺は触手を持ち上げた。
ただし、今回は勝手に動かさない。
古い設備は怖い。
レムナで何度も経験したからな。
◇
「……こっちは駄目だな」
ガランが鎖を調べながら言った。
……ん?
俺は顔を向けた。
「錆が深い。見た目より弱くなってる」
……なるほど。
俺は鎖へ触手を伸ばした。
《微振動感知》。
……。
確かに。
軽く叩いたときの振動が、途中で不自然に途切れる。
鎖の内側に、傷んだ部分があるのかもしれない。
……これに命を預けるのは嫌だな。
俺は触手を引っ込めた。
すると、ガランは大きく頷いた。
「今あるものをそのまま使うのは却下だ」
……ああ。
俺も賛成。
ルナが首を傾げた。
「では、ここへ来た意味はないのか?」
「いや。そうでもねえ」
ガランは石造りの塔を指した。
「見ろ。塔そのものは、まだ使えそうだ」
……お。
俺は顔を上げた。
「もちろん詳しい検査は必要だが、ここへ新しい金具を取りつければ、巻き上げ機を固定する場所としては悪くない」
……なるほど。
古い鎖は使わない。
でも、塔の位置は利用できる。
そういうことか。
俺は少し感心した。
全部を捨てる必要もないし、全部を信じる必要もない。
……うん。
こういう考え方、好きだな。
ガランは、続いて崖の向こうを指した。
「それに、あっちを見ろ」
……ん?
俺は顔を向けた。
峡谷の反対側。
少し低い位置に、もう1本の石塔が立っている。
その近くには、平らな岩場が広がっていた。
……あ。
なるほど。
昔は、あそこへ荷物を運んでいたんだな。
今は鎖が切れているけど。
「向こう側へ直接渡れなくても、ここからなら谷を横切る風を使える」
ガランが言った。
……おお。
それなら。
吊り台を持ち上げるだけじゃなく、少し横へ移動させることもできるかもしれない。
ただし。
俺は峡谷を見た。
……かなり距離があるな。
さすがに、簡単ではなさそうだ。
◇
「……ノア」
ルナが突然、耳を動かした。
……ん?
俺は顔を向けた。
「何か聞こえる」
……音?
俺は周囲を見回した。
風の音。
岩の間を通る、低い響き。
それから、遠くの川。
……ん?
確かに。
何かある。
――カン……。
……あ。
金属の音だ。
俺はもう1度、耳を澄ませるつもりで身体の振動へ意識を向けた。
――カン……カン……。
小さく、不規則な音。
どこからだ?
俺が首を傾げていると、ルナが塔の裏側へ歩き出した。
「こちらだ」
……お。
俺も後を追った。
塔の裏には、小さな石段があった。
その先には、壁に半分埋まった金属製の箱。
……何だ、これ。
俺は覗き込んだ。
箱の蓋は開きかけており、中には小さな歯車がいくつも見える。
その一部が、風に揺れる細い棒へ繋がっていた。
――カン。
……あ。
音の正体、これか。
ガランも近づいてきた。
「……懐かしいな」
……ん?
俺は顔を上げた。
「昔の通過合図だ」
……通過合図?
ガランは箱を指した。
「荷物を送る前と、受け取ったあとに鳴らす仕組みだ。向こうの塔にも同じものがある」
……なるほど。
昔は、ここで荷物のやり取りをしていたんだな。
だが、オルドが少し不思議そうな顔をした。
「……おかしいな」
……え?
俺は顔を向けた。
老人は金属の棒を見つめている。
「この合図器は、滑走索が動くときだけ鳴るはずだ」
……ん?
俺はもう1度、箱を見た。
古い歯車。
細い棒。
そして、外へ伸びる金属の軸。
……あ。
俺は気づいた。
箱の一部が、まだどこかへ繋がっている。
俺は触手を伸ばした。
《構造形成》。
先端を細くし、箱の奥へ差し込む。
……よし。
触れた。
金属の棒。
その先には、細い鎖が続いている。
……ん?
俺は少し首を傾げた。
鎖の向きが、変だ。
外へ垂れ下がっているはずなのに。
なぜか、塔の裏側へ伸びている。
……何だ、これ。
俺はさらに触手を進めた。
だが、すぐに止めた。
……いや。
無理に引っ張るのはやめよう。
俺はガランへ顔を向けた。
「……うしろ」
彼が近づいてくる。
「何だ?」
俺は箱の奥を指した。
「……くさり、ある」
ガランは目を細めた。
「……まだ繋がってるのか?」
俺は頷いた。
すると、ガランは少し考えてから言った。
「……よし。塔の裏を確かめよう」
◇
塔の裏側は、崖の影になっていた。
そこには、細い溝が何本も刻まれている。
古い排水溝かと思ったが、どうやら違うらしい。
金属の鎖を通すための道だ。
……なるほど。
俺は触手を溝へ沿わせた。
《微振動感知》。
……。
……あ。
まだ、動いてる。
ものすごく弱い。
でも、確かに。
何かが引っ張られているような振動だ。
……え?
俺は少し驚いた。
滑走索は、もう使われていないはずだ。
外へ伸びる鎖も、途中で切れている。
なのに、どうして。
俺は顔を上げた。
すると、ガランが塔の外側を調べていた。
「……見つけたぞ」
……ん?
俺は近づいた。
塔の下部。
そこには、古い金属の輪が埋め込まれていた。
その輪から、細い黒い縄が伸びている。
……っ。
俺は動きを止めた。
黒い縄。
表面には、硬い樹脂のようなもの。
そして、細かな繊維を編み込んだ構造。
……これ。
昨日、風喰いから落ちてきた縄と同じじゃないか?
俺は思わず触手を伸ばした。
だが、ガランがすぐに言った。
「触るな」
……っ。
俺は止まった。
ガランは、縄をじっと見つめている。
「まだ、張ってる」
……え?
俺は顔を上げた。
確かに。
縄は、ぴんと伸びている。
その先は、崖の下へ続いていた。
……まさか。
俺は少し嫌な予感がした。
ガランは慎重に、縄の向きを確かめた。
そして。
「……おいおい」
低く呟いた。
……何だ?
俺は顔を向けた。
ガランは崖の下を指した。
「……見ろ」
俺は、恐る恐る覗き込んだ。
そこには、細長い黒いものが見えた。
岩壁へ張りつくように、斜めへ伸びている。
……縄?
いや。
違う。
もっと太い。
何本もの縄が、束になっている。
しかも、その先には金属の輪がついていた。
……あ。
俺は少し驚いた。
これ。
昔の滑走索の一部か?
ガランが頷いた。
「……そうだな。たぶん、古い補助索だ」
……補助索?
「荷物を送るとき、横へ振られないようにするための縄だ。今は使われてないはずなんだが……」
……なるほど。
俺はもう1度、縄を見た。
崖の下で、風に揺れている。
その振動が、塔の内側へ伝わり、古い合図器を鳴らしていたらしい。
……ああ。
そういうことか。
だが。
俺は少し考えた。
この縄。
昨日、風喰いから落ちてきたものと、よく似ている。
……まさか。
俺はガランを見た。
彼も、同じことを考えているようだった。
◇
「……確認しておこう」
ガランが道具袋から、昨日回収した黒い縄を取り出した。
俺はその隣へ近づいた。
古い補助索。
そして、風喰いから落ちてきた縄。
……。
似てる。
かなり。
太さも。
編み方も。
表面の硬い樹脂も。
ただし、完全に同じかどうかは分からない。
俺は慎重に触手を伸ばした。
《微振動感知》。
……うん。
表面の硬さも、似ている。
ガランは金属の輪を見比べた。
そして、少しだけ表情を変えた。
「……これ」
……ん?
俺は顔を上げた。
ガランは輪の内側を指した。
「刻印が同じだ」
……刻印?
俺は覗き込んだ。
小さな印。
3本の斜め線。
そして、その下に短い数字。
……お。
本当だ。
少なくとも、俺にも形が似ていることは分かる。
「……同じ工房で作られたものだろうな」
ガランが言った。
……なるほど。
俺は少し考えた。
ただし。
それだけで、風喰いへ絡まった縄がここから飛んでいったとは言えない。
昔の風帆にも、同じ部品が使われていたかもしれないからな。
ガランも慎重だった。
「……確かに同じ型だ。だが、これが直接の原因かは分からねえ」
……ああ。
俺は頷いた。
オルドは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくり言った。
「……20年前、この滑走索は突然使われなくなった」
……え?
俺は顔を上げた。
「当時の記録では、設備が壊れたとしか書かれていない」
……なるほど。
俺は塔を見た。
古い鎖。
壊れた巻き上げ機。
そして、今も崖の下へ伸びている補助索。
……何だろう。
少し気になるな。
オルドは続けた。
「ちょうど、その頃だ。風喰いが最初に目撃されたのは」
……っ。
俺は動きを止めた。
20年前。
風喰いが現れた時期。
そして、滑走索が使われなくなった時期。
……同じなのか?
俺はもう1度、黒い縄を見た。
この縄が、風喰いへ絡まった原因かもしれない。
……いや。
まだ、決めつけるのは早い。
でも。
偶然にしては、少し気になるな。
◇
「……ノア」
ルナが静かに声をかけた。
……ん?
俺は顔を向けた。
ルナは、崖の下へ目を向けていた。
「この縄、まだ動いておるぞ」
……ああ。
俺も、さっきから気になってた。
風が吹くたびに、縄が揺れている。
ただし、その揺れ方が少し変だ。
普通なら、風に煽られて左右へ動くだけのはずだ。
でも。
……ん?
俺は触手を伸ばした。
《微振動感知》。
……。
引っ張られる。
緩む。
また引っ張られる。
……あれ?
何か、一定の間隔で動いてるぞ。
俺は顔を上げた。
崖の下。
縄の先。
……まさか。
まだ、どこかに固定されてるのか?
俺はガランを呼んだ。
「……まだ、つながる」
彼が顔を向ける。
「何?」
俺は縄を指した。
「……さき」
ガランは、しばらく考えた。
そして、すぐに反対側の塔を見た。
「……向こうにも残ってるのか?」
……ああ。
そうかもしれない。
俺は峡谷の向こうを見た。
反対側の塔。
あそこにも、古い金属の輪が残っている。
もし、この補助索がまだ向こうへ繋がっているなら。
……そうか。
完全に切れたわけじゃない。
地上の設備は壊れていても。
崖の下には、まだ古い縄が残っているんだ。
ガランは少し考えた。
「……今度、向こう側からも調べる必要があるな」
……ああ。
俺は頷いた。
ただし。
ここからでは、直接渡れない。
昔の滑走索は壊れている。
……どうする。
俺が考え込んでいると、オルドが口を開いた。
「……別の道がある」
……え?
俺は顔を上げた。
「昔、見張り番が使っていた岩の道だ。少し遠回りになるが、峡谷の南側から向こうへ回れる」
……お。
それは助かる。
俺は少し嬉しくなった。
だが、オルドは続けた。
「ただし、今は風が荒れている。今日は行かん方がいい」
……ああ。
そうだな。
俺は素直に頷いた。
無理に進む必要はない。
今日の目的は、まず東の断崖を調べることだった。
それだけでも、かなりいろんなことが分かった。
……よし。
今日は、ここまでにしよう。
◇
帰る前。
俺たちは、もう1度岩棚へ戻った。
ガランは、石塔の周囲へ新しい金具を取りつけるための位置を確かめている。
オルドは、古い記録と塔の構造を見比べていた。
俺とルナは、その間、崖の端から少し離れた場所で待っていた。
……さて。
今日は、随分いろんなことがあったな。
古い滑走索。
まだ残っていた補助索。
そして、風喰いから落ちてきた縄と同じ刻印。
……うん。
少しずつ、繋がってきた気がする。
ただし。
まだ、大きな問題が残っている。
どうやって、風喰いへ近づくか。
それに、近づいたとして。
……本当に、助けられるのか。
俺は少し考えた。
相手があれだけ大きければ、縄を外すだけでも相当大変だろう。
しかも、身体の側面には強い風が流れている。
近づけば、俺の身体が吹き飛ばされるかもしれない。
……難しいな。
でも。
今日見つけた古い補助索。
あれは、少し気になる。
もし本当に、あの縄が風喰いへ絡まった原因なら。
……その構造を調べれば、外す方法も分かるかもしれない。
俺は、もう1度崖の下へ目を向けた。
そのときだった。
――ォォォン。
……っ。
俺は顔を上げた。
低い音。
聞き覚えのある響き。
……風喰い?
俺は南の空を見た。
雲の向こう。
巨大な灰色の影が、ゆっくりと姿を現していた。
……おいおい。
また、近くまで来たのか?
俺は思わず身体を低くした。
ルナも耳を立てる。
「……ノア」
……ああ。
見えてる。
風喰いは、少しずつ東の峡谷へ近づいていた。
ただし、いつもより低い。
……あれ?
俺は目を凝らした。
巨大な身体が、時折大きく傾いている。
やはり、左側の吸入口がうまく動いていないらしい。
……まずいな。
俺は少し不安になった。
このままでは、どこかへぶつかるかもしれない。
だが。
次の瞬間。
――ォォォン。
風喰いが、もう1度低い音を出した。
それに反応するように。
――カン……。
背後の古い合図器が鳴った。
……え?
俺は振り返った。
石塔。
金属の箱。
そして、崖の下へ伸びる補助索。
……あ。
まさか。
俺はもう1度、風喰いを見た。
巨大な魔物が、こちらへ顔を向けている。
……何だ?
音が聞こえてるのか?
それとも。
……この場所を、覚えてるのか?
俺は、しばらく動けなかった。
オルドも、静かに空を見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「……昔、ここで何があったんだろうな」
……。
俺は、もう1度黒い縄を見た。
古い刻印。
切れた補助索。
そして、風喰いの身体へ絡まった縄。
……そうだな。
その答えを知ることができれば。
あの巨大な魔物が、なぜこの空を飛び続けているのか。
少しは分かるかもしれない。
俺は、ゆっくり身体を持ち上げた。
ただし。
今は、まだ動かない。
風喰いが近づいている。
それだけで、この場所の風は急に変わる。
……まずは、安全を確かめよう。
俺はルナへ顔を向けた。
「……もどる」
ルナは小さく頷いた。
「うむ。今日は十分だ」
……ああ。
俺も、そう思う。
俺たちは、ガランたちへ声をかけた。
そして、古い石塔から少しずつ離れていく。
その背後では。
――カン……。
古い合図器が、また1度鳴った。
まるで、誰かの帰りを知らせるように。
俺は、思わず振り返った。
風喰いは、まだそこにいた。
遠くの空で。
灰色の身体をゆっくり揺らしながら。
……なあ。
お前。
もしかして。
ここに、何か用があるのか?
もちろん、答えは返ってこない。
ただ。
――ォォォン。
低い音が、峡谷へ響いた。
そして、古い石塔が。
もう1度だけ、小さく鳴った。




