第3部 第29話 届いた音の先
「……これが、風喰いを呼ぶ道具?」
俺は工房の床に置かれた筒を見つめた。
長さは、人間の腕より少し長いくらい。
太い木製の胴に金属の輪が巻かれ、側面には細長い穴が開いている。端には、大きな革袋が取りつけられていた。
……何だろう。
見た目だけなら、妙な楽器だ。
「呼べるかどうかは、まだ分からねえよ」
ガランが答えた。
「そもそも、あいつが音に引き寄せられる生き物なのかも確かじゃない」
……ああ。
そうだった。
昨日、風笛石の7本目が、風喰いの低い鳴き声に反応していることを確かめた。
そして、向こうも一度はこちらを見た。
ただし、それが音への反応だったのか、偶然だったのかは分からない。
……だから、今日は実験だ。
問題は。
相手が、あの巨大な風喰いだということなんだけど。
「怖気づいたか?」
ルナが横から笑った。
……いや。
別に、怖いわけじゃない。
……ちょっとは怖いけど。
俺が身体を縮めると、ガランが豪快に笑った。
「怖がるくらいでちょうどいい。あの大きさを見て何も感じねえ奴の方が、俺は信用できん」
……。
なるほど。
そう言われると、少し気が楽になった。
◇
ガランの工房では、朝から風胴の調整が続いていた。
仕組みは意外と単純だ。
革袋を押すと、空気が木の筒へ送り込まれる。
その空気が内部の狭い通路を抜けることで、低い音が鳴る。
金属の輪を動かせば、空気の通る穴の長さが変わり、音の高さも変わるらしい。
「……こうだ」
ガランが革袋を押した。
――ボォォン。
……お。
低い音。
ただし、風喰いの鳴き声とは少し違う。
あいつの声は、もっと身体の奥へ響く感じだった。
俺は木の筒へ触手を当てた。
《微振動感知》。
……なるほど。
音が鳴ると、筒全体が震える。
しかも、金属の輪を少し動かすだけで、振動の速さが変わっていた。
「どうだ?」
ガランが尋ねる。
俺は少し考えた。
それから、触手を左右へ振った。
「……ちがう」
「まだ高いか?」
……ああ。
もう少し低い方が近いと思う。
俺は触手で輪を指し、下げるように動かした。
ガランが調整する。
もう1度、革袋を押す。
――ボォォォン。
……お。
さっきより近い。
俺は小さく頷いた。
「……もう、すこし」
「よし。これならどうだ?」
――ヴォォォン。
……っ。
俺は思わず身体を持ち上げた。
これだ。
昨日、風笛石が震えたときの感覚に似ている。
もちろん、まったく同じ音かどうかは分からない。
だが、少なくとも、かなり近い。
「……これ!」
ガランが満足そうに笑った。
「よし!」
そのとき。
「では、我の出番だな」
ルナが前へ出た。
……ん?
俺は顔を向けた。
ルナは得意そうに風胴を見上げている。
「革袋を押すだけでは、毎回同じ音にならぬのであろう?」
「そうだな。力の入れ方で少し変わる」
「ならば、我の《衝撃》で押してみよう」
……ああ。
そういうことか。
確かに、ルナなら狙った場所へ一定の力を加えられる。
ただし、筒そのものを叩いたら壊してしまう。
革袋を押す程度に調整する必要があるな。
ガランは腕を組んだ。
「……やってみるか。ただし、弱くな」
「うむ。心得ておる」
ルナは革袋へ前脚を向けた。
「《衝撃》」
――ぼふっ。
革袋が、少しだけ縮んだ。
――ボォン。
……お。
鳴った。
今度は、さっきより短い音だ。
「もう1度」
ガランが言う。
ルナが頷く。
――ボォン。
……よし。
ほとんど同じだ。
俺は思わず触手を振った。
「……ルナ、すごい」
ルナは少しだけ尻尾を持ち上げた。
「ふん。当然であろう」
……はいはい。
でも、本当に助かる。
俺が自分の《共鳴膜》で同じ音を出そうとしても、この筒ほど大きな振動にはならないだろう。
今回は、道具とルナの力を合わせる方がよさそうだ。
すると、奥からオルドが姿を見せた。
「……準備は進んでいるようだな」
「音は作れた」
ガランが答える。
「ただし、鳴らす場所と退く道を確かめてからだ」
オルドは頷いた。
「うむ。それがいい」
……ああ。
今回は、そこが一番大切だ。
◇
東の岩棚へ向かう道は、普段あまり使われていないらしい。
村の南東にある尾根を回り込み、細い坂を登っていく。
その先には、広い谷があった。
……おお。
随分、何もない場所だな。
岩と草。
それから、ところどころに低い木が生えている。
人の住む建物は見当たらない。
「ここなら、もし風喰いが寄ってきても村の真上を通らせずに済むかもしれん」
オルドが地図を指した。
俺は、その位置を確かめた。
南から近づく風喰い。
北西側にあるカナート。
そして、少し東へ離れた岩棚。
……なるほど。
ここから音を出して、風喰いが東へ向きを変えれば。
少なくとも、村から遠ざけることはできる。
ただし。
「……もし、こっちへ急に降りてきたら?」
ガランが尋ねた。
オルドは岩棚の背後を指した。
「向こうに石の割れ目がある。人が入れるだけの幅だが、上には厚い岩が張り出している。待避場所に使える」
……お。
俺は早速、そこへ近づいた。
確かに、岩の下に狭い空間がある。
入り口は低いが、奥は少し広い。
《微振動感知》で壁を確かめる。
……うん。
少なくとも、表面がぐらついている様子はない。
ただし、巨大な魔物が直接ぶつかっても安全かどうかまでは分からない。
……絶対に近づけすぎない方がいいな。
ガランは風胴を岩の台へ固定し、そこから長い紐を伸ばした。
革袋を押すための仕組みだ。
これなら、風胴の真横へ立たずに音を出せる。
「最初は1回だけ鳴らす」
ガランが言った。
「反応がなければ、いったん終わりだ」
……うん。
俺は頷いた。
「もし向こうが急に近づいてきたら、すぐに音を止めて避難する。無理に誘導を続けるなよ」
ルナも真剣な顔で頷く。
「心得た」
オルドは遠くの見張り台へ目を向けた。
村には、実験のことを伝えてある。
見張り番が空を監視し、危険な変化があれば鐘を鳴らす手はずだ。
……よし。
準備はできた。
あとは。
あいつが、どこにいるかだな。
◇
風喰いは、南の空にいた。
昨日より、さらに低い。
雲の下をゆっくり移動しながら、ときどき巨体を左右へ傾けている。
……やっぱり。
あの左側、おかしいな。
俺はガランから望遠筒を借りた。
視覚器官を細く伸ばし、筒の位置へ合わせる。
……よし。
見えた。
灰色の身体。
左右へ並んだ大きな吸入口。
右側は、規則的に開閉している。
だが、左側は不安定だ。
特に前方の2つは、ほとんど動いていない。
……あ。
俺は目を凝らした。
昨日見た、破れた膜。
その周辺が、風を受けるたびに引っ張られている。
……痛そうだな。
ただし、痛いのかどうかは本人に聞かないと分からない。
それでも。
あのまま飛び続けるのは、かなり大変そうだった。
「……どうだ?」
ガランが尋ねる。
俺は望遠筒を下ろした。
「……まだ、わるい」
彼は少しだけ眉を寄せた。
「……そうか」
オルドが空を見上げた。
「そろそろだな」
……ああ。
俺は岩の陰へ移動した。
ルナも隣へ並ぶ。
風胴は、岩の台へ固定されている。
そこから伸びた紐が、俺たちの手元まで続いていた。
……さて。
本当に、反応するんだろうか。
俺は少し緊張した。
「……始めるぞ」
ガランが言った。
俺は頷いた。
ルナが前脚を構える。
そして。
「《衝撃》」
――ボォォン。
低い音が、東の谷へ広がった。
◇
……。
しばらく、何も起きなかった。
風が吹く。
草が揺れる。
遠くの空では、風喰いが相変わらずゆっくり移動している。
……ん?
聞こえてないのか?
俺は身体を持ち上げかけた。
だが、すぐに止めた。
……待て。
まだ、決めつけるには早い。
俺は望遠筒へ視覚器官を合わせた。
風喰いの頭部。
金色の瞳。
……あ。
動いた。
ほんの少し。
だが、確かに。
風喰いが、こちらへ顔を向けた。
……っ!
俺は思わず身体を持ち上げた。
「……みた!」
オルドが顔を上げる。
「こちらを見たか?」
俺は頷いた。
「……うん!」
ガランは、しばらく空を見つめた。
「……もう1度鳴らすか?」
……。
俺は少し考えた。
最初の音で顔を向けた。
でも、それだけだ。
まだ、近づいてはいない。
……なら。
もう1度。
俺は頷いた。
「……いっかい」
ルナが前脚を上げる。
――ボォォン。
2回目の音。
今度は、少し長く響いた。
……。
風喰いが、ゆっくりと身体を傾けた。
右側の吸入口が開く。
周囲の雲が、そこへ集まる。
そして。
――ォォォン。
……っ!
返ってきた。
低い音。
風笛石の7本目が震えたときと、よく似た響き。
俺は、思わず望遠筒を覗き込んだ。
風喰いは、こちらを向いていた。
そして。
……あ。
動いた。
南から北へ進んでいた巨体が、ゆっくり東へ向きを変え始めた。
……おい。
本当に?
俺は目を見開いた。
「……ひがし!」
ガランが空を見上げる。
「……曲がったな」
オルドも、静かに頷いた。
「……ああ。確かに」
……おお。
俺は嬉しくなった。
音に反応した。
しかも、進む方向まで変わった。
……すごい。
本当に、届いたんだ。
だが、そのとき。
ガランが厳しい声で言った。
「……まだ喜ぶな」
……え?
俺は顔を上げた。
「こっちへ向かってる」
……。
…………。
……あ。
そうだった。
俺は思わず身体を低くした。
風喰いが東へ向きを変えた。
つまり。
今度は、俺たちのいる岩棚へ近づいてくる。
……ちょっと待て。
これ、思っていたより危なくないか?
◇
最初の変化は、風の向きだった。
さっきまで西から吹いていた風が、急に弱くなる。
続いて、南側の草が一斉に倒れた。
……っ。
来る。
俺は反射的に触手を縮めた。
《構造形成》。
身体を低く、細くする。
岩の陰へ移動し、脚を固定した。
《粘着性》。
ルナも、俺の隣へ入った。
「……ノア」
……ああ。
分かってる。
もう音は鳴らさない。
俺は短く頷いた。
ガランも風胴から紐を離していた。
「……これ以上は近づけねえ」
……そうだな。
俺は空へ目を向けた。
風喰いは、確かに東へ向いている。
村からは遠ざかっている。
だが、こちらへ近づくにつれ、巨体が大きく揺れ始めた。
……ん?
左側が、また動かなくなってる?
俺は目を凝らした。
右側の吸入口が開く。
雲が吸い込まれる。
その直後。
――ゴォォッ!
強い下降風が、東の谷へ落ちた。
……っ!
うわっ!
岩陰にいても、身体が押される!
俺は脚をさらに低くした。
ガランが叫ぶ。
「全員、退避だ!」
……了解!
俺たちは風胴をその場へ残し、背後の石の割れ目へ向かった。
だが。
――ガラッ!
……っ!?
突然、岩棚の端で石が崩れた。
俺は反射的に振り返った。
風胴を固定していた岩の台。
その下の砂利が、強い風で削られている。
……まずい。
このままだと、風胴ごと谷へ落ちるかもしれない。
俺は一瞬、身体を伸ばしかけた。
だが。
「ノア!」
ルナが叫んだ。
……っ。
俺は動きを止めた。
……そうだ。
今は、道具を守ってる場合じゃない。
風胴が壊れても、また作れる。
俺たちが落ちたら、そうはいかない。
俺はすぐに身体を縮めた。
「……いく!」
ルナが頷く。
「うむ!」
俺たちは、石の割れ目へ滑り込んだ。
◇
――ゴォォォォッ!
風が、頭上を通り過ぎた。
砂が舞い上がる。
小石が岩へぶつかる。
そして、遠くで何かが折れる音がした。
……っ。
すごいな。
さっきまで、比較的穏やかだったのに。
風喰いが近づくだけで、こんなに変わるのか。
俺は岩の内側へ身体を低くした。
《緩衝膜》。
飛んでくる細かな石を受け流す。
ただし、全部を防ごうとはしない。
石壁の陰へ入れば、大きなものはほとんど当たらない。
……よし。
これなら大丈夫。
俺が少し安心した、そのときだった。
――ォォォン。
低い音が、すぐ近くで響いた。
……え?
俺は反射的に顔を上げた。
風喰いだ。
もう、随分近い。
岩の割れ目から見える空が、灰色の巨体で半分ほど塞がれている。
……おいおい。
でかすぎるだろ。
俺は思わず身体を縮めた。
昨日、遠くから見たときでも大きかった。
でも、近くで見ると比べものにならない。
あの水門にいた巨大な魚だって、これほどじゃなかった。
……本当に。
この世界、どこまで大きな生き物がいるんだよ。
だが。
俺は、すぐに別のことへ気づいた。
風喰いは、岩棚の上を通り過ぎようとしていなかった。
少し手前で、ゆっくりと身体を傾けている。
まるで、何かを確かめているように。
……ん?
俺は目を凝らした。
金色の瞳。
それが、岩棚の方を向いている。
……あ。
あいつ。
音が出ていた場所を、見てるのか?
俺は壊れかけた風胴へ目を向けた。
さっきまで音を出していた木の筒。
今は、もう鳴っていない。
それでも、風喰いはその周囲から離れようとしなかった。
……なるほど。
音が止まっても、場所を覚えてるのかもしれない。
俺は少し考えた。
だが、そのとき。
風喰いが、もう1度大きく身体を傾けた。
……っ。
危ない!
俺は反射的に身構えた。
右側の吸入口が開く。
左側は、ほとんど動かない。
巨体が、ぐらりと揺れた。
……まずい。
このままだと、岩棚へぶつかる!
だが。
次の瞬間。
――ゴォッ!
風喰いは右側から強く空気を吐き出した。
その反動で、巨体がゆっくり横へずれる。
……あ。
避けた。
自分で、岩棚を避けたんだ。
俺は少し驚いた。
あれだけ不安定なのに。
まだ、ちゃんと周囲を見ている。
……すごいな。
俺は、もう1度空を見上げた。
◇
「……ノア」
オルドが、静かに声をかけた。
……ん?
俺は振り返った。
老人は望遠筒を持っていた。
「今なら、左側がよく見える」
……あ。
そうだ。
風喰いが身体を傾けているおかげで、傷ついた側がこちらへ向いている。
俺は望遠筒を受け取った。
視覚器官を伸ばす。
……よし。
見えた。
灰色の身体。
何本もの吸入口。
そして、左側の前方。
……っ。
俺は動きを止めた。
近くで見ると、想像以上に酷い。
薄い膜が、途中から裂けている。
その端が、風に引っ張られて何度も折れ曲がっていた。
しかも。
……ん?
何か、引っかかってる?
俺は目を凝らした。
裂けた膜の奥。
黒い筋のようなものが、何本も絡みついている。
……何だ、あれ。
ただの傷じゃない。
細長いものが、膜を押さえつけている。
……あ。
俺は少し驚いた。
もしかして。
あれが、左側の吸入口が動かない原因なのか?
俺は望遠筒をガランへ渡した。
「……ひだり!」
「ん?」
「……くろい、ひも!」
ガランが眉を寄せる。
「紐?」
俺は頷いた。
「……からまる!」
ガランはすぐに望遠筒を覗いた。
しばらくして、低く息を吐く。
「……確かに、何か絡んでるな」
……だろ?
俺は身体を持ち上げた。
ガランは、さらに目を細めた。
「……待てよ」
……ん?
彼の声が変わった。
「……あれ」
……何だ?
俺は顔を上げた。
ガランは、しばらく言葉を探していた。
そして、低く呟いた。
「……風帆の引き綱に、似てる」
……え?
俺は一瞬、動きを止めた。
風帆?
あの、人間が空を飛ぶための道具?
ガランは続けた。
「黒い繊維を編んで、外側を樹脂で固める。うちの工房でも使ってるやつだ」
……なるほど。
俺は、もう1度風喰いを見た。
巨大な魔物の身体。
その左側へ絡みついた、黒い筋。
……まさか。
人間が使っていた縄が、引っかかったのか?
だが、ガランはすぐに首を振った。
「いや。まだ断言できねえ。似たようなものかもしれん」
……ああ。
そうだな。
俺も、そこまでは分からない。
ただし。
もし、本当に縄が絡まっているなら。
……あいつ。
飛びにくくなってるのも、そのせいかもしれない。
俺は少し考えた。
レムナで出会った、大きな黒緑色の魚。
あいつも、古い鉄輪が鰭へ食い込んでいた。
それを外したら、水門へ身体を擦りつけなくなった。
……何だろう。
似たようなことが、また起きてるのか?
だが、今度は相手が空にいる。
しかも、巨大だ。
……困ったな。
水の中なら、まだ近づく方法を考えられる。
でも。
あの高さへ、どうやって行く?
俺は自分の身体を見た。
薄い翼。
小さな尾翼。
ほんの数歩だけ、空を滑れるようになった身体。
……無理だな。
今の俺じゃ、届かない。
◇
そのとき。
――バキッ!
……っ!?
大きな音がした。
俺は反射的に顔を上げた。
風喰いの左側。
裂けた膜が、強い風を受けて大きく揺れている。
その端から、何かが外れた。
……あ。
黒いものだ!
俺は目を凝らした。
細長い影が、空中を回転しながら落ちていく。
そして。
――ガラガラッ!
岩棚の下へ、何かがぶつかった。
……っ。
俺は思わず身体を持ち上げた。
「……おちた!」
ガランが顔を上げる。
「何が?」
俺は谷の方を指した。
「……くろい!」
オルドも目を細めた。
「……何かが落ちたのか」
……ああ。
俺は頷いた。
ただし、今は風が強い。
岩棚の外へ出れば、また飛ばされるかもしれない。
……待とう。
俺は身体を低くした。
ルナが隣へ来る。
「……気になるか?」
……ああ。
めちゃくちゃ。
だが、今は動かない。
俺は小さく頷いた。
「……あとで」
ルナは少し笑った。
「うむ。それがよい」
……なんか。
最近、ちゃんと待てるようになったな、俺。
自分でも、少し驚く。
◇
風喰いが東の谷へ離れたのは、それからしばらくしてだった。
大きな灰色の身体が、ゆっくり向きを変える。
今度は、村の方ではない。
東の谷に沿って、少しずつ移動していく。
……お。
行った。
俺は少し安心した。
少なくとも、今はカナートから離れている。
風喰いの巨体は、何度か左右へ揺れた。
だが、最後には雲の陰へ消えていった。
……ふう。
何とか、うまくいったのか?
俺は身体を持ち上げた。
「……むら、だいじょうぶ」
ガランが頷いた。
「ああ。今のところはな」
……よし。
それなら、ひとまず目的は達成だ。
音へ反応することも分かった。
進む方向を変えられる可能性も見えた。
ただし。
次も同じように動いてくれるかは分からない。
それに、風喰いの怪我は残ったままだ。
……うん。
まだ、終わりじゃないな。
オルドが空を見上げた。
「……今のうちに、落ちたものを確かめてみるか」
……お。
俺はすぐに頷いた。
「……いく!」
ルナが笑う。
「ふん。今度は我も気になるぞ」
……ああ。
そうだろうな。
俺たちは、風が落ち着いたことを確かめてから岩棚を出た。
◇
落ちていたものは、思っていたより小さかった。
黒い縄。
ただし、普通の縄ではない。
何本もの細い繊維が編まれ、その表面には硬い樹脂のようなものが残っている。
片方の端は、細かく裂けていた。
もう片方には、金属製の小さな輪がついている。
……おい。
これ。
本当に、風帆の道具みたいじゃないか?
俺は触手を伸ばし、慎重に持ち上げた。
《硬質外皮》。
先端を少し固める。
……うん。
硬い。
しかも、かなり丈夫そうだ。
俺が縄を見つめていると、ガランが近づいてきた。
「……見せてくれ」
……ああ。
俺は縄を差し出した。
ガランは金属の輪を確かめた。
そして、表情を変える。
「……やっぱり」
……ん?
俺は顔を上げた。
「これ、風帆用の引き綱だ」
……っ。
俺は思わず身体を持ち上げた。
本当に!?
ガランは輪の内側を見せた。
そこには、小さな刻印があった。
俺には読めないが、ガランは知っているらしい。
「カナートの工房で昔使ってた印だ。今のとは少し違う」
……なるほど。
つまり。
昔の風帆に使われていた縄が、風喰いへ絡まっていたってことか?
ガランは低く息を吐いた。
「……ああ。少なくとも、この一部はそう見える」
……。
俺は、しばらく黙った。
風喰い。
巨大な魔物。
村へ近づき、強い風を起こす危険な存在。
そう思っていた。
だが。
もしかすると。
あいつが飛びにくくなった原因の1つは。
……人間が使っていた道具なのかもしれない。
もちろん、まだ全部は分からない。
いつ絡まったのか。
どうして絡まったのか。
そもそも、誰のものだったのか。
……でも。
少なくとも。
あの黒い縄は、自然に生えてきたものじゃない。
俺は小さく身体を低くした。
……これは。
ちょっと、考えさせられるな。
◇
「……ガラン」
オルドが静かに声をかけた。
「何だ?」
「20年前の記録を、もう1度調べたい」
……ん?
俺は顔を上げた。
オルドは、黒い縄を見つめている。
「当時、南の峡谷で風帆が行方不明になったという記録があったはずだ」
……え?
俺は驚いた。
行方不明?
風帆が?
ガランも表情を変えた。
「……そんな話、初めて聞いたぞ」
「随分昔のことだからな。詳しい事情は、俺も覚えておらん」
……なるほど。
俺は、もう1度縄を見た。
古い金属の輪。
擦り切れた繊維。
……もし。
この縄が、20年前のものだったとしたら。
あの風喰いは、随分長い間、絡まったまま飛んでいたことになる。
……そんなこと、あるのか?
いや。
分からない。
あいつが、20年前に目撃された個体と同じかどうかも分からないんだ。
……まずは、記録だな。
俺は頷いた。
「……しらべる」
オルドも頷く。
「うむ」
そのとき、ルナが静かに言った。
「……ノア」
……ん?
俺は顔を向けた。
ルナは、遠くの東の空を見つめていた。
「……あれは、助けを求めておったのだろうか」
……。
俺は少し考えた。
風喰いは、音に反応した。
こちらを見た。
近づいてきた。
そして、傷ついた左側を見せた。
……確かに。
助けを求めていたようにも見える。
でも。
本当に、そうだったのかは分からない。
俺は短く答えた。
「……まだ、わからない」
ルナは静かに頷いた。
「……うむ。そうだな」
俺は、黒い縄へ目を向けた。
少なくとも。
あの魔物が、何かに困っている可能性は高い。
そして、その原因の1つが見つかった。
……だったら。
次は、それをどうするかだ。
◇
カナートへ戻ったのは、夕方だった。
村の風車はまだ止められたままだが、人々の表情は朝より落ち着いている。
風喰いが東の谷へ移動したことは、すでに見張り番から伝わっているらしい。
……よかった。
俺は少し安心した。
ただし、ガランは工房へ戻るとすぐに机へ向かった。
黒い縄を置き、古い道具箱を開け始める。
「……これだな」
……ん?
俺は覗き込んだ。
中には、古い金属製の留め具が並んでいた。
ガランは、その1つを縄の輪へ近づける。
――カチッ。
……あ。
ぴったり合った。
「古い型の緊急切り離し具だ」
……緊急?
俺は首を傾げた。
ガランが説明する。
「風帆が何かに引っかかったとき、縄だけを切り離すための仕組みだ。今は別の型を使ってる」
……なるほど。
俺は金具を見た。
小さな爪。
細い溝。
そして、押し込むための部分。
……あ。
そういうことか。
ここを動かせば。
……縄が外れる?
ガランは頷いた。
「ただし、残っている方にも同じ金具がついてるとは限らねえ。それに、あんな高さまでどうやって近づくかだ」
……。
俺は黙った。
そうだった。
仕組みが分かっても、届かなければ意味がない。
俺は自分の身体を見た。
薄い翼。
小さな尾翼。
ほんの少しだけ空を滑れるようになった身体。
……まだ、足りない。
でも。
ガランの手元にある金具を見て、俺は少し考えた。
縄を切る。
金具を外す。
膜に絡んだ部分を取り除く。
……それなら。
もしかすると、今の俺にもできるかもしれない。
もちろん、近づければ、だけど。
……うーん。
どうする。
俺が考え込んでいると、ガランが静かに言った。
「……ノア」
……ん?
俺は顔を上げた。
彼は、机の上の黒い縄を見ている。
「お前さん、あいつを助けたいのか?」
……。
俺は、少し考えた。
助けたい。
それは、確かにそうだ。
でも、それだけじゃない。
村も守りたい。
風帆で飛ぶ人たちも守りたい。
そして、あの巨大な魔物が、無理に飛び続けて傷を広げるのも避けたい。
……全部を、簡単に守れるわけじゃない。
それは、レムナで嫌というほど知った。
だが。
だからといって、何もしない理由にはならない。
俺は、ゆっくり頷いた。
「……たすけたい」
ガランは、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに笑った。
「……そうか」
……ああ。
俺は頷いた。
ガランは、古い留め具を手の中で転がした。
「なら、少し考えてみるか」
……え?
俺は顔を上げた。
「どうやって、あんなところまで近づくかをな」
……っ。
俺は、思わず身体を持ち上げた。
本当に?
ガランは笑った。
「ただし、無茶な方法は却下だ。俺は落ちる奴を増やすつもりはねえ」
……。
……はい。
分かってます。
俺は素直に身体を低くした。
すると、隣にいたルナが声を上げた。
「ふん。我も忘れるでないぞ」
……あ。
もちろん。
俺は顔を向けた。
ルナは胸を張っている。
「貴様1人で、あの大物へ近づくつもりではあるまいな?」
……いや。
それは、まだ。
俺が言葉を探していると、ルナは静かに笑った。
「どうするにせよ、我も考える。勝手に決めるでないぞ」
……ああ。
そうだな。
俺は触手を伸ばした。
ルナも前脚を持ち上げる。
軽く触れ合う。
……よし。
今度の相手は、空だ。
水の中とは違う。
地面の上とも違う。
だからこそ、もっと考えないといけない。
ガランも。
オルドも。
ルナもいる。
俺1人で、全部やろうとする必要はない。
……うん。
きっと、何か方法があるはずだ。
俺は机の上の黒い縄へ目を向けた。
古い金属の輪。
風喰いの身体へ絡まっていたもの。
それが、今ここにある。
……この小さな手がかりから。
あの巨大な空の住人を、助ける方法が見つかるかもしれない。
俺は、ゆっくり身体を持ち上げた。
そのとき。
工房の窓の外で、風車が1基だけ回り始めた。
――カラカラ……。
……あ。
風が、戻ってきた。
俺は窓へ目を向けた。
東の空には、もう風喰いの姿は見えない。
だが、まだ遠くへ去ったわけではないはずだ。
……さて。
次は、どうするか。
俺は、もう1度黒い縄を見つめた。
そして、少しだけ笑った。
どうやら。
空を飛ぶための練習が、思っていたより早く役立つことになるかもしれなかった。




