第3部 第27話 風の重さ
風車が止まった。
1基だけじゃない。
カナートの丘に並ぶ風車が、まるで誰かに合図されたように、次々と回転を落としていく。
……あれ?
風が止んだのか?
俺は身体の端から細い触手を伸ばした。
確かに、さっきまで吹いていた風が弱くなっている。
だが、空の雲は動いていた。
南から北へ。
それも、かなりの速さで。
……何だ、これ。
頭上だけ風が吹いているのか?
「ノア、広げるな!」
ガランの声に、俺は反射的に触手を縮めた。
「……っ!」
「風が止んだんじゃない。吸われてるんだ!」
……吸われてる?
その言葉を理解した瞬間、俺は南の空を見上げた。
雲の下に、巨大な灰色の影があった。
風喰い。
昨日、峡谷で目撃した魔物だ。
村からはまだ距離がある。
それなのに、周囲の空気が少しずつ、あの巨体へ向かって流れ始めていた。
……おいおい。
本当に、こっちへ来たのかよ。
◇
カナートへ戻った俺たちは、すぐにガランとオルドの報告へ同席した。
村の集会所には、風帆の職人や見張り番、村の代表者たちが集まっている。
壁には周辺の地図。
その中央には、昨日風喰いを見つけた南の峡谷が描かれていた。
「風便は全面停止だ」
ガランが言った。
「南へも北へも、しばらく飛ばせねえ」
集まった人たちがざわつく。
「荷物はどうする?」
「隣の集落へ届ける薬があるんだぞ」
「陸路じゃ何日もかかる」
……ああ。
そうか。
この村にとって、風帆はただの乗り物じゃないんだ。
荷物や人を運ぶ、大切な交通手段。
それを止めれば、生活にも影響が出る。
だが、ガランは引かなかった。
「薬は陸路で運ぶ手配をする。荷物が遅れるのは困るだろうが、人が落ちるよりましだ」
……うん。
そこは、俺も同意だ。
昨日、実際に風帆が墜落しかけるところを見た。
あんなことが何度も起きたら、助ける側だって対応できない。
オルドが地図の南側を指した。
「問題は、あの魔物の進路だ」
集会所が静かになる。
「20年前の記録では、風喰いは数日間、風渡りの丘の上空を移動していた」
「そのとき、村には来なかったんだろ?」
村の代表らしい女性が尋ねた。
オルドは頷いた。
「ああ。ただ、今のカナートは当時より建物が増えている。風車も多くなった」
……なるほど。
昔は何もなかった場所に、今は人が住んでいる。
魔物の方は、20年前と同じ道を通っているだけかもしれない。
それでも、今は危険な場所になっているわけだ。
「倒せないのか?」
誰かが言った。
俺は思わず、そちらを見た。
……倒す、か。
まあ、そういう意見も出るよな。
だが、オルドは首を振った。
「あの高さへ、どうやって近づく?」
「風帆で……」
「近づいた風帆が落とされているんだぞ」
……。
集会所が静まり返った。
そりゃ、そうだ。
風喰いに近づこうにも、まず空へ上がれない。
しかも、あの巨体だ。
仮に近づけたとしても、今の俺たちの力では簡単にどうこうできる相手じゃない。
「なら、逃げるのか?」
別の男が尋ねた。
ガランが口を開く。
「まず、危ない場所から人を離す。風車は止められるものから止める。風帆は固定して、吹き飛ぶ荷物をなくす」
……ああ。
なるほど。
戦うんじゃなくて、被害を減らす。
現実的な方法だ。
ガランは続けた。
「村の南側には、石造りの古い貯蔵庫がある。風が強くなったら、そこへ避難してもらう」
俺は地図を見た。
南の高台。
低い建物。
周囲には、太い石壁が並んでいる。
……あ。
昨日、練習場から見えた場所か。
あそこなら、風が強くても比較的安全そうだ。
「オルド爺さんは見張り台へ。俺は工房と風車を確認する」
ガランは、そこで俺たちを見た。
「ノア、ルナ。頼めるか?」
……お。
俺は顔を上げた。
「村の南側を見て回ってほしい。風で壊れそうなものや、危ない場所があったら教えてくれ」
……なるほど。
俺はすぐに頷いた。
「……やる」
ルナも胸を張る。
「うむ。任せよ」
ガランは少しだけ笑った。
「ただし、今日は飛ぶ練習は禁止だぞ」
……。
……はい。
分かってます。
俺は素直に触手を引っ込めた。
◇
村の南側は、すでに慌ただしくなっていた。
屋根へ登って縄を締め直す人。
風車の羽根を固定する職人。
荷物を運ぶ子どもたち。
みんな、自分の仕事を分かっているらしい。
……すごいな。
この村では、風への備えが生活の一部なんだろう。
俺は低い姿勢で通りを歩き、石壁や木の柵を調べていった。
《微振動感知》。
石へ触れる。
……うん。
こっちは大丈夫そうだ。
次に、木の柱。
……あ。
少し揺れてる。
俺は柱の根元を確かめた。
土が緩んでいる。
……これは、危ないな。
俺は近くの職人を呼んだ。
「……ここ!」
男が振り返る。
「ん?」
俺は柱を指した。
「……ゆれる」
職人は根元を確かめ、顔をしかめた。
「……おっと。これはまずいな」
……だろ?
俺は頷いた。
男はすぐに別の作業員を呼び、柱へ補強用の木材を取りつけ始めた。
……よし。
次へ行こう。
俺が歩き出すと、ルナが隣へ並んだ。
「ふむ。なかなか地味な仕事だな」
……まあな。
俺は小さく身体を揺らした。
でも、大切だと思う。
強い風が来てから柱を直すのは難しい。
今のうちに気づけば、まだ何とかできる。
……うん。
こういうのも、悪くない。
すると、ルナが突然立ち止まった。
「……ノア」
……ん?
俺は顔を向けた。
ルナは、通りの先を見つめている。
「……あそこ」
……どこ?
俺も目を向けた。
大きな屋根。
その下には、布で作られた日除けが広がっていた。
市場の一角らしい。
だが。
……あ。
布の端が、風に揺れている。
固定用の縄も、何本か緩んでいた。
……なるほど。
あれ。
強い風が来たら、危ないんじゃないか?
俺はすぐに身体を持ち上げた。
「……いこう」
ルナが頷く。
「うむ」
俺たちは、市場へ向かった。
◇
「もう片づけてるところなんだがねえ」
市場の店主は、困った顔で言った。
大きな布の日除け。
その下には木箱や樽が並んでいる。
店主たちは荷物を運び出していたが、布を固定するための縄が高い場所にあり、なかなか外せないらしい。
……なるほど。
これは、面倒だな。
俺は屋根を見上げた。
木製の枠。
そこへ布が張られ、何本もの縄で固定されている。
高い場所にあるから、人間が外すには梯子が必要だ。
……でも。
俺なら。
俺は身体から細い触手を伸ばした。
《構造形成》。
先端を鉤の形へ。
……よし。
上まで届く。
俺は縄の結び目を確かめた。
……お。
ここだな。
触手を差し込み、結び目を緩める。
ただし、いきなり全部は外さない。
布が風を受けたまま飛んでいくかもしれないからだ。
俺は店主を見た。
「……ささえる」
男は少し驚いたあと、すぐに頷いた。
「分かった! こっちで押さえる!」
……よし。
俺は縄を少しずつ緩めた。
――するっ。
布が下がる。
店主たちが、その端を掴んだ。
……お。
いい感じ。
続いて、もう1本。
……よし。
これも外れた。
最後の縄へ触手を伸ばしたときだった。
――ヒュウウ……。
……ん?
俺は動きを止めた。
風が、弱くなっている。
さっきまで強く揺れていた布が、急に静かになった。
……あれ?
俺は身体の端を少し伸ばした。
確かに、風がほとんど当たらない。
……何だ?
そのとき。
遠くから、鐘の音が響いた。
――カン! カン!
……っ!
俺は顔を上げた。
見張り台の鐘だ。
短く2回。
ガランが集会所で説明していた、退避の合図。
……まさか。
俺は南の空を見た。
そして。
……いた。
巨大な灰色の影。
風喰い。
さっきより、明らかに近い。
その巨体が、雲の下をゆっくり進んでいた。
……おいおい。
もう、ここまで来たのかよ。
「ノア!」
ルナが叫んだ。
……っ!
俺は反射的に身体を低くした。
その瞬間。
――ゴォォォッ!!
……っ!!
ものすごい風が、通りへ吹き込んだ。
◇
市場の布が、一気に膨らんだ。
……まずい!
俺は反射的に触手を伸ばした。
だが、すぐに止めた。
……違う。
ここで布を掴んだら、俺まで引っ張られる。
昨日、風帆を受け止めたときとは違う。
あのときは網と縄が力を受けていた。
でも、今は俺の身体だけだ。
……だったら。
俺は布を見た。
風を受けているのは、大きく広がった中央部分。
そこへ力が集中している。
……よし。
俺は細い触手を伸ばした。
《硬質外皮》。
先端を刃のように細くする。
ただし、布を切るためじゃない。
最後の結び目へ差し込むためだ。
……そこ!
俺は縄の下へ触手を入れた。
そして、一気に引いた。
――するっ!
……っ!
結び目が外れた!
次の瞬間。
――バサァッ!!
布が、強い風に煽られて大きく跳ねた。
……おい!
飛ぶな!
だが、店主たちが布の下側を掴んでいた。
俺が外したのは、上部の固定だけだ。
布は大きく膨らむ代わりに、片側が下がって風を逃がす。
……よし!
狙いどおりだ!
「今だ! 畳め!」
店主の声が響いた。
みんなが一斉に布を引き下ろす。
ルナも、飛びかけた木箱へ《衝撃》を放った。
――ドンッ!
箱が地面へ押し戻される。
……おお!
助かった!
俺はすぐに布の端へ触手を伸ばした。
《粘着性》。
地面へ押さえつける。
……よし。
これなら、もう飛ばない。
しばらくして、布は完全に畳まれた。
……ふう。
何とかなったな。
だが。
俺は南の空へ目を向けた。
灰色の影は、さらに近づいている。
……まずい。
まだ、終わってない。
◇
「みんな、貯蔵庫へ!」
通りの向こうから、ガランの声が響いた。
住民たちが一斉に動き始める。
俺は、近くの店主たちへ触手を振った。
「……あっち!」
彼らも頷き、荷物を置いて走り出した。
……よし。
俺たちも行こう。
だが、そのとき。
――バキッ!!
……っ!?
大きな音がした。
俺は振り返った。
市場の端。
古い木製の看板が、柱ごと折れていた。
それが風に押され、狭い通りへ倒れ込む。
……おいおい!
そこ、避難する人たちが通る道だぞ!
俺は反射的に駆け出した。
だが、看板はすでに地面へ落ちている。
木の枠が通りを塞ぎ、その向こうでは何人かの住民が立ち止まっていた。
……まずいな。
俺は周囲を見た。
回り道はある。
でも、そちらは風が直接吹き込む広い通りだ。
今の状況では、危険かもしれない。
……だったら。
ここを通れるようにしよう。
俺は倒れた木枠へ近づいた。
《構造形成》。
身体の端を太くする。
先端を平たくし、木枠の下へ差し込んだ。
……よし。
少し持ち上がる。
だが、重い。
俺1人では全部を動かせそうにない。
「ノア!」
ルナが隣へ来た。
……お。
俺は木枠の反対側を指した。
「……そっち!」
ルナはすぐに理解したらしい。
「うむ!」
前脚を上げる。
「《衝撃》!」
――ドンッ!
木枠の端へ、短い力が加わった。
……っ!
少し浮いた!
俺はその隙間へ身体を滑り込ませた。
《硬質外皮》。
細い脚を作り、木枠を下から支える。
……よし。
ただし、全部を持ち上げる必要はない。
人がくぐれる高さだけ作れば十分だ。
「……とおれ!」
俺は向こう側へ声をかけた。
住民たちが、次々に隙間を通っていく。
1人。
2人。
3人。
……よし。
あと少し。
だが。
――ギシッ。
……っ。
俺は身体を低くした。
木枠が、少しずつ沈んでいる。
……重い!
俺の身体だけじゃ、長くは支えられない。
すると、ルナがすぐに叫んだ。
「ノア! 残りは我が誘導する!」
……了解!
俺は頷いた。
ルナが住民たちを急がせる。
その間、俺は身体の中央を厚くし、支える部分へ力を集中した。
《弾性組織》。
急に折れないよう、根元を柔らかく保つ。
……っ。
くそっ。
あと少し!
最後の住民が、隙間を抜けた。
「……よし!」
俺はすぐに身体を縮めた。
――ガタンッ!
木枠が地面へ落ちる。
……っ!
危なかった!
俺は素早く後ろへ下がった。
幸い、誰も怪我をしていない。
ルナも、無事にこちらへ戻ってきた。
「……ノア」
……ん?
俺は顔を向けた。
ルナは、少しだけ笑った。
「よく支えたな」
……ああ。
俺は小さく身体を揺らした。
ただし。
……結構、重かった。
正直、もう1回やれと言われたら、少し困る。
俺が身体を伸ばしていると、ガランが駆け寄ってきた。
「2人とも、無事か!」
……おう。
俺は触手を持ち上げた。
「……へいき!」
ガランは倒れた看板と、避難していく人々を見比べた。
そして、大きく息を吐いた。
「……助かった。あとは俺たちがやる。お前らも貯蔵庫へ入れ!」
……了解。
俺たちは、すぐに走り出した。
◇
貯蔵庫の中は、思っていたより広かった。
厚い石壁。
低い天井。
外へ続く小さな換気口。
住民たちは壁際へ座り、互いに声をかけ合っている。
泣いている子どももいた。
だが、周囲の大人たちが落ち着かせていた。
……よし。
ここなら、ひとまず安全そうだ。
俺は入口近くへ身体を置いた。
ルナも隣へ座る。
しばらくすると、ガランが戻ってきた。
「外の風車は止めた。風帆も全部固定してある」
……お。
よかった。
俺は少し安心した。
だが、ガランは険しい表情をしていた。
「……問題は、あいつだ」
……ああ。
俺も、そう思う。
俺は換気口から外を見た。
灰色の影は、まだ空にいる。
しかも。
……あれ?
動きが、少し変わった?
俺は《視覚》へ意識を集中した。
風喰いは、ゆっくりと身体を傾けていた。
南から北へ。
ただ進むだけじゃない。
時折、巨体が左右へ揺れている。
……ん?
あいつ。
何か、おかしくないか?
俺は少し考えた。
昨日、峡谷で見たとき。
風喰いは、周囲の空気を吸い込み、そのあと真下へ吹き出していた。
それで身体を持ち上げていたんだと思う。
でも、今は違う。
吸い込む動きのあと、身体が大きく横へ傾く。
そのたびに、空の風が乱れる。
……何だ?
うまく飛べてないのか?
俺が考えていると、オルドが貯蔵庫へ入ってきた。
手には、古い筒状の道具を持っている。
……ん?
何だ、あれ。
オルドは筒をガランへ渡した。
「見てみろ」
ガランは筒を目へ当て、空を覗いた。
……お。
望遠鏡みたいなものか。
俺は少し興味を持った。
だが、ガランはすぐに表情を変えた。
「……爺さん」
「気づいたか?」
「……ああ」
……え?
俺は顔を上げた。
オルドが静かに言った。
「風喰いの左側を見ろ」
……左側?
俺は、もう1度空を見た。
巨大な灰色の身体。
側面には、大きな穴がいくつも並んでいる。
昨日、雲を吸い込んでいた部分だ。
……あ。
俺は動きを止めた。
右側の穴は、何度も開いたり閉じたりしている。
だが。
左側は、ほとんど動いていない。
……ん?
どういうことだ?
俺は少し首を傾げた。
オルドが言った。
「風を吸う場所が、左右で違う」
……ああ。
そうか。
俺は、ようやく気づいた。
右側ばかり大きく動いている。
左側は、ほとんど動いていない。
……だったら。
空気を取り込む力も、左右で違うんじゃないか?
俺は、さっきの風帆の練習を思い出した。
翼の形が左右で違うと、身体が傾く。
風を受ける力が偏るからだ。
……まさか。
あいつも、同じなのか?
「……ひだり」
俺は短く言った。
ガランが俺を見る。
「分かるか?」
俺は頷いた。
「……うごかない」
オルドも頷いた。
「そうだ。左側の吸入口が、ほとんど動いていないように見える」
……なるほど。
俺は、もう1度風喰いを見た。
巨大な魔物。
あれほど大きく、強い風を作れる生き物でも。
身体の一部がうまく動かなければ、飛ぶのが難しくなるのかもしれない。
……そうか。
だから、あんなに不安定だったのか。
俺は少し考えた。
だが、まだ分からないことがある。
……どうして、左側だけ動かない?
怪我をしているのか。
何かが詰まっているのか。
それとも、もともとそういう動きなのか。
……分からないな。
オルドは、静かに言った。
「20年前の記録にも、左右の風が違っていたという話がある」
……え?
俺は顔を上げた。
「当時は原因が分からなかった。だが、今の姿を見る限り……」
オルドは少し言葉を切った。
「……あれは、自由に風を操っているわけではないのかもしれん」
……。
俺は、しばらく黙っていた。
自由に、風を操っているわけじゃない。
……そうだな。
俺も、最初はそう思った。
あの巨大な魔物が、好き勝手に風を動かしている。
だから、風帆が落ちた。
村が危険に晒されている。
……でも。
もし、あいつ自身がうまく飛べずにいるのなら。
……話は、少し変わってくる。
◇
そのときだった。
――ォォォン。
低い音が、空から響いた。
俺は反射的に顔を上げた。
風喰いが、大きく身体を傾けている。
……っ。
まずい!
今までより、ずっと大きく傾いている!
右側の穴が、一斉に開く。
周囲の雲が、そこへ吸い寄せられた。
……っ。
また、あの風が来る!
俺はすぐにガランへ向き直った。
「……くる!」
ガランは、俺の声を聞くとすぐに入口へ向かった。
「全員、壁際へ寄れ!」
住民たちが動く。
ルナも、小さな子どもたちを奥へ誘導した。
俺は入口近くで身体を低くした。
……よし。
ここなら、風が直接当たりにくい。
次の瞬間。
――ゴォォォォッ!!
強烈な風が、貯蔵庫の外を通り過ぎた。
石壁が、低く震える。
入口から砂が吹き込んだ。
……っ!
重い!
俺は反射的に身体を丸めた。
《緩衝膜》。
吹き込む砂利が身体へ当たる。
……くっ。
でも、大丈夫。
石壁が、ほとんどの風を受け止めてくれている。
俺が自分の身体で全部を支える必要はない。
……うん。
いい場所だな。
俺は少し安心した。
だが。
――ゴンッ!!
……っ!?
突然、大きな音がした。
俺は顔を上げた。
貯蔵庫の外。
高い場所にあった古い風車の羽根が、1枚折れていた。
それが地面へ落ち、石畳へぶつかったらしい。
……おいおい!
危なかったな!
俺は思わず身体を持ち上げた。
だが、ガランがすぐに手を伸ばした。
「出るな!」
……っ。
俺は足を止めた。
ガランは厳しい顔をしている。
「今、外へ出ても何もできねえ。風が落ち着くまで待て」
……。
……ああ。
そうだな。
俺はゆっくり身体を低くした。
助けたいからといって、危険な場所へ飛び出していいわけじゃない。
今は、ここで待つ。
……うん。
俺は、もう1度空へ目を向けた。
そのとき。
……あれ?
俺は少し驚いた。
風喰いが、さっきより低い場所へいる。
……ん?
気のせいか?
俺は目を凝らした。
巨大な灰色の身体。
その下にある雲。
……違う。
確かに、低くなっている。
しかも、身体の傾きが戻っていない。
……まさか。
あいつ。
高度を保ててないのか?
◇
強い風が過ぎ去ったあと。
村の上空には、妙な静けさが広がっていた。
風車は止まったまま。
広場には折れた木材が散らばっている。
だが、幸い、避難していた住民たちに大きな怪我はなかった。
……よかった。
俺は、少しだけ安心した。
だが、ガランは空を見つめていた。
「……まずいな」
……ん?
俺は顔を上げた。
ガランは、ゆっくりと言った。
「風喰いの高度が落ちてる」
……ああ。
やっぱり。
俺もそう思った。
オルドが、静かに頷いた。
「……このままでは、村の近くへ降りてくるかもしれん」
……。
俺は、もう1度空へ目を向けた。
巨大な魔物が、雲の下をゆっくり進んでいる。
だが、その動きは不安定だ。
時折、身体が大きく揺れ、そのたびに周囲の風が乱れる。
……なるほど。
俺たちは、風喰いが村へ向かっていると思っていた。
でも。
もしかすると。
……違うのかもしれない。
あいつは、村へ来たいわけじゃない。
ただ。
うまく飛べなくなって、少しずつ流されているだけなのかもしれない。
俺は、静かに身体を低くした。
……だとしたら。
どうする?
あの巨体が、村の上へ落ちてきたら危険だ。
でも、あれだけ大きな魔物を、力ずくで追い払うことなんてできない。
まして、傷ついている可能性があるなら。
……うーん。
難しいな。
俺が考えていると、ルナが隣へ来た。
「……ノア」
……ん?
俺は顔を向けた。
ルナは、真剣な表情で空を見ている。
「……あれは、困っておるのか?」
……。
俺は、少し考えた。
分からない。
あいつが何を考えているのかも。
本当に怪我をしているのかも。
……まだ、分からない。
俺は短く答えた。
「……たぶん」
ルナは静かに頷いた。
「……そうか」
そして、空へ目を向けたまま続ける。
「ならば、まずは確かめねばな」
……ああ。
そうだな。
俺は少しだけ身体を持ち上げた。
ただし。
今回は、簡単に近づけそうにない。
空。
強風。
巨大な魔物。
そして、まだ十分には使いこなせない翼。
……うーん。
どうしたものかな。
俺は、自分の身体を見た。
《構造形成》。
《弾性組織》。
《緩衝膜》。
《硬質外皮》。
今まで獲得した性質。
水中での噴射移動。
そして、昨日少しだけ覚えた、空を滑る方法。
……何か、使えるものはないだろうか。
俺が考えていると、ガランがオルドへ向き直った。
「……爺さん」
「何だ?」
「昔の記録に、風喰いが地面へ降りた話はあるか?」
……え?
俺は顔を上げた。
オルドは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくり首を振った。
「……いや。少なくとも、俺が知る限りではない」
……そうなのか。
俺は少し驚いた。
あんなに大きな魔物でも、地面へ降りたことがない?
……何だろう。
少し、不思議だな。
オルドは続けた。
「だが、別の記録はある」
……ん?
俺は顔を上げた。
老人は、遠くの丘を指した。
「20年前、風喰いが現れたとき。風笛石の音が、いつもと違っていたそうだ」
……風笛石?
俺は少し首を傾げた。
昨日、丘で見た石柱。
風が吹くと、笛のような音を出す。
……あれか。
オルドは、ゆっくりと言った。
「風喰いが近づくと、石が長く低い音を出していたらしい」
……低い音。
俺は、少し考えた。
風喰い自身も、低い音を出していた。
――ォォォン。
あの、腹の底へ響くような音。
……まさか。
俺は顔を上げた。
オルドも、同じことを考えているらしい。
「……もしかすると」
老人は、静かに言った。
「風笛石と、あの魔物の音には、何か関係があるのかもしれん」
……。
俺は、しばらく黙っていた。
風笛石。
風喰い。
同じような低い音。
……面白いな。
いや。
今は、面白がっている場合じゃない。
でも。
もし、音に何か意味があるなら。
あの巨大な魔物と、少しでも意思を通わせられるかもしれない。
……そういえば。
レムナでも、似たことがあったな。
地下水域の巨大な魔物。
あいつも、低い振動を出していた。
俺は《共鳴膜》を使い、小さな振動を返してみた。
意味は分からなかったけど。
少なくとも、あいつは反応してくれた。
……だったら。
空でも。
……いや。
同じようにできるとは限らないな。
相手も違う。
距離も違う。
それに、今の俺が出せる音なんて、あの巨体からすれば小さすぎるだろう。
……でも。
風笛石なら。
あの大きな石柱なら、もっと遠くまで音が届くかもしれない。
俺は、ゆっくり顔を上げた。
「……オルド」
老人がこちらを向く。
「何だ?」
俺は、丘の方角を指した。
「……いし」
オルドが目を細めた。
「風笛石か?」
俺は頷いた。
「……おと」
オルドは、しばらく俺を見つめていた。
それから、少しだけ笑った。
「……なるほど。あれを使うつもりか」
……ああ。
俺は小さく身体を持ち上げた。
できるかどうかは、分からない。
あの音が、風喰いへ届くのかも分からない。
でも。
……試してみる価値は、あるかもしれない。
俺は、もう1度空を見上げた。
灰色の巨体は、相変わらず不安定に揺れている。
その下では、風が何度も向きを変えていた。
……よし。
まずは、風笛石だ。
ルナも、俺の隣へ並んだ。
「……ふむ」
……ん?
俺は顔を向けた。
ルナは、少しだけ笑っていた。
「どうやら、貴様はまた妙なことを考えついたようだな」
……まあ。
そうかもしれない。
俺は触手を小さく揺らした。
すると、ルナは静かに頷いた。
「よい。我も付き合おう」
……おう。
頼んだ。
俺たちは、丘の方へ目を向けた。
そこには、風笛石が並んでいる。
風が吹けば、音を鳴らす。
その音が、何を伝えるためのものだったのか。
今はまだ、誰にも分からない。
だが。
もし、あの巨大な魔物が、その音へ反応するのなら。
……もしかしたら。
戦わずに、何かを変えられるかもしれない。
俺は、ゆっくり身体を持ち上げた。
頭上では、灰色の影が雲を引きずりながら、少しずつ高度を落としていた。
――ォォォン。
低い音が、再び響く。
それは、さっきまでよりも。
どこか苦しそうに聞こえた。




