第3部 第26話 風の空白
「風が消えた、というのは正確じゃない」
オルドは机の上に広げた地図へ、細い木の棒を置いた。
「そこにあった風が、別の方向へ引っ張られたんだ」
……引っ張られた?
俺は首を傾げた。
風って、そんな簡単に動かせるものなのか?
少なくとも、昨日までの俺には無理だった。
ほんの少し翼を広げただけで、身体ごと持っていかれそうになるくらいだ。
そんな風を、好きな方向へ動かす。
……随分、物騒な話だな。
「爺さん」
向かいに座ったガランが、低い声で尋ねた。
「何か心当たりがあるのか?」
オルドはすぐには答えなかった。
窓の向こうで回っている風車を眺め、それから古い地図へ目を戻す。
「……20年ほど前にも、似たことがあった」
◇
昨日、カナートの空で風便が墜落しかけた。
操縦していたヴァンは、村の救い網へ落ちたおかげで無事だったが、風帆の翼は大きく破れてしまった。
幸い、怪我は軽い。
それでも、あれだけ飛び慣れた人が立て直せなかったのだから、ただの強風では済まないだろう。
今朝、俺とルナはガランに呼ばれ、オルドの家を訪ねていた。
家の中には古い道具が並んでいる。
風向きを示す金属板。
細長い笛。
色の違う石で作られた重り。
それから、何枚もの古い地図。
……何だか、研究室みたいだな。
俺が道具を眺めている間にも、オルドの話は続いていた。
「当時も南の峡谷で、風帆が何度か落ちた。上昇風に乗っていたはずなのに、突然、真下へ叩き落とされたそうだ」
「原因は?」
ルナが尋ねる。
オルドは首を横に振った。
「分からなかった。だが、目撃した者はいた」
……目撃?
俺は顔を上げた。
老人は、地図の南側を指した。
「雲の下に、巨大な影を見たという話だ」
……あ。
昨日と同じだ。
俺は思わず身体を持ち上げた。
ガランも表情を変える。
「翼のない影か?」
「そうだ。鳥でも竜でもない。何か大きなものが、空に浮いていたらしい」
……浮いていた?
俺は少し考えた。
翼がないのに飛ぶ。
そんなことが、この世界では本当にできるのか?
いや。
そもそも、俺だって普通の生き物じゃない。
身体の形を変えて、水中を進んだり、翼を作ったりできる。
だったら、空を飛ぶための性質を持つ魔物がいても不思議じゃないのか。
「……その影は、どうなったのだ?」
ルナが聞く。
「数日で消えた。そのあとは風も元へ戻ったらしい」
「それだけか?」
「ああ。ただ、1つ妙な記録が残っている」
オルドは地図の下から、古びた帳面を取り出した。
開かれた頁には、図と数字が並んでいる。
……お。
数字なら少し分かるぞ。
ただし、文字は相変わらず読めない。
俺が覗き込むと、オルドは頁の端を指した。
「この印だ」
そこには、細長い円のような形が描かれていた。
その周囲を、何本もの線が囲んでいる。
……ん?
俺は目を凝らした。
風を表しているのだろうか。
線は円へ向かって集まり、その下側から何本も伸びている。
「当時の見張り番が描いたものだ」
オルドが言った。
「影の周りへ風が集まり、下へ落ちていったように見えたそうだ」
……。
俺は図を見つめた。
上から下へ。
空気が、落ちる。
……もしかして。
昨日ヴァンが言っていた、あの話。
空に穴が開いたようだった、という。
それは単なる例えじゃなくて。
本当に、何かが周囲の風を動かしていたのかもしれない。
◇
「……調べに行くのか?」
ルナが、俺を見た。
……え?
俺は少し驚いた。
いや。
興味はあるけど。
昨日、あれだけ危ない目に遭った場所だぞ。
いきなり飛び込むのは、さすがに無謀じゃないか?
俺が迷っていると、オルドが静かに言った。
「空へ出る必要はない」
……ん?
俺は顔を上げた。
「南の峡谷には、古い見張り台がある。そこなら地面から空の様子を確かめられる」
……見張り台。
なるほど。
それなら、俺でも行けそうだ。
「ただし、風が荒れれば引き返す。昨日のような下降風が来たら、谷の縁に立つだけでも危険だ」
……ああ。
そこは、気をつけないとな。
ガランが腕を組んだ。
「今朝、南へ出る予定だった風便は止めてある。だが、ほかの集落からこちらへ向かっている便もあるはずだ」
……あ。
そうか。
カナートから出る便だけ止めても、向こうから来る人は知らないんだ。
ガランは続けた。
「何が起きてるのか、できるだけ早く確かめたい」
……なるほど。
俺は地図を見た。
南の峡谷。
昨日、ヴァンが墜落しかけた場所。
その上空に現れた、翼のない影。
……よし。
それなら、行こう。
俺は触手を持ち上げた。
「……いく」
ルナが頷く。
「うむ。我も行こう」
オルドは少し笑った。
「頼もしいな。ただし、今日は飛ぶ練習は禁止だぞ」
……。
……はい。
分かってます。
俺は素直に身体を低くした。
隣では、ルナが満足そうに頷いていた。
◇
南の峡谷へ向かう道は、思っていたより静かだった。
カナートの近くでは風車の音や人の声が絶えず聞こえていたが、村を離れるにつれて周囲は草原と岩ばかりになる。
ときどき、頭上をフウバネが飛んでいく。
ただし、その群れはどれも同じ方向へ向かっていた。
……北か。
俺は空を見上げた。
南から来たフウバネが、谷へ近づく前に大きく向きを変えている。
1匹だけなら気まぐれかもしれない。
でも、何匹も同じ動きをしているとなると、少し気になる。
「……オルド」
老人が振り返る。
「何だ?」
俺は空を指した。
「……みんな、きた」
オルドは空を見上げた。
北へ向かうフウバネの群れ。
そして、しばらく目を細める。
「……ああ。南から逃げてきたようにも見えるな」
……逃げてる?
俺は少し驚いた。
ルナも耳を立てた。
「魔物が、何かを怖がっているということか?」
「分からん。ただ、あいつらは風を読むのが上手い。危険な場所へわざわざ入ったりはしない」
……なるほど。
俺はもう1度、空を見た。
さっきまで見えていたフウバネたちは、すでに北の丘へ消えている。
……確かに。
昨日も、妙な飛び方をしていたな。
もしかすると、あいつらは俺たちより先に異変を感じていたのかもしれない。
「着いたぞ」
オルドの声がした。
俺は顔を戻した。
そこには、小さな石造りの建物があった。
壁は厚く、窓は細い。
その横には、古い鉄製の鐘が吊るされている。
……見張り台?
思っていたのと少し違うな。
高い塔というより、岩壁へ半分埋め込まれた小屋みたいだ。
「ここは、風を観測するための場所だ」
オルドが説明した。
「昔は毎日見張り番がいたが、今は悪天候のときくらいしか使わん」
……なるほど。
俺は石の壁へ触手を当てた。
《微振動感知》。
……お。
しっかりしてる。
風に吹かれても、壁全体が大きく揺れることはなさそうだ。
俺は少し安心した。
だが、オルドはすぐに続けた。
「安心するのは早いぞ。ここから先は、谷の風が直接当たる」
……。
はい。
油断しません。
俺は、もう1度身体を低くした。
◇
見張り台の裏には、狭い観測用の通路があった。
岩壁に沿って作られた石の道で、その先から南の峡谷を見渡せる。
ただし、谷の縁には頑丈な柵が設けられていた。
……なるほど。
ここからなら、地面を離れずに空を見られる。
俺は柵へ近づいた。
《視覚》。
……おお。
すごい。
眼下には、深い谷が広がっていた。
左右には切り立った岩壁。
その間を、細い川が流れている。
さらに遠くには、何本もの崖が重なり、その上を雲が流れていた。
……随分、広いな。
レムナの地下水域も大きかったけど、ここはまた別の迫力だ。
「ノア」
ガランが声をかけた。
……ん?
俺は振り返る。
彼は、小さな布切れを何枚か持っていた。
「風向きを調べたいんだろ?」
……あ。
俺は少し驚いた。
分かってたのか。
ガランは笑った。
「昨日から、お前が風を確かめるのを見てたからな」
……なるほど。
俺は触手を持ち上げた。
ガランは布を柵へ結びつけた。
1枚。
2枚。
3枚。
それぞれ、少しずつ高さを変える。
すると。
――ぱたぱた。
布が、別々の向きへなびいた。
……ん?
俺は首を傾げた。
一番上は右。
真ん中は左。
そして、一番下はほとんど動いていない。
……何だ、これ。
同じ場所なのに、全然違う方向へ動いてるぞ。
「谷では珍しくない」
ガランが言った。
「岩壁へ当たった風が、あちこちへ回り込むからな」
……なるほど。
俺は布を眺めた。
水の中でも、似たようなことがあった。
岩や水門の近くでは、流れが複雑になる。
ただし、空気は目に見えない。
だから、布で確かめるわけか。
……よし。
俺もやってみよう。
俺は身体の端から、細い触手を3本伸ばした。
《構造形成》。
先端を薄く、短い帯の形へ。
ただし、身体が飛ばされないよう、根元は太くしておく。
……よし。
柵へ固定。
《粘着性》。
触手を、それぞれ違う方向へ向ける。
風が当たる。
……お。
分かる。
右側は、強く押される。
左側は、少し弱い。
そして、上へ伸ばした触手には、下へ押しつけるような力がかかっていた。
……ん?
俺は動きを止めた。
下へ?
今、そんな風が吹いてるのか?
俺は上側の触手を少し動かした。
すると、急に力が弱まった。
……あれ?
もう1度、元の位置へ。
――ぐっ。
……お。
やっぱり、押される。
どうやら、ごく狭い範囲だけ、下向きの流れがあるらしい。
俺はガランを呼んだ。
「……ここ!」
彼が近づいてくる。
「何だ?」
俺は薄い触手を指した。
「……した」
ガランが目を細める。
「下向きに押されてるのか?」
俺は頷いた。
彼は布を1枚取り、同じ位置へかざした。
――ふわっ。
布が、斜め下へ引かれる。
「……本当だな」
……だろ?
俺は小さく身体を揺らした。
すると、オルドが静かに言った。
「……少し早いぞ」
……え?
俺は顔を上げた。
「さっき見た記録では、下降風が始まる前に、しばらく風向きが乱れていた。今は、もう下へ引っ張られている」
……つまり。
何かが、近づいてる?
俺は南の空へ目を向けた。
雲が、ゆっくり流れている。
今のところ、特別なものは見えない。
……でも。
何だろう。
妙に、嫌な感じがする。
◇
最初に気づいたのは、ルナだった。
「……ノア」
……ん?
俺は顔を向けた。
ルナは、南の空をじっと見つめていた。
「……聞こえる」
……音?
俺は耳を澄ませるつもりで、身体の振動へ意識を向けた。
風の音。
布のはためく音。
遠くで鳴くフウバネ。
……いや。
違う。
もっと低い音がある。
――……ォォン。
……ん?
俺は顔を上げた。
――……ォォォン。
腹の底へ響くような、鈍い音。
風笛石とはまるで違う。
オルドも、表情を変えていた。
「……あの記録にあった音だ」
……え?
俺は彼を見た。
「20年前の見張り番が、同じような音を書き残している」
……そんな。
俺はもう1度、空へ目を向けた。
すると。
雲の端が、ゆっくり盛り上がった。
……ん?
最初は、雲の形が変わっただけだと思った。
だが。
……違う。
雲の下から、何かが出てくる。
黒い。
いや、灰色?
巨大な影だ。
……おいおい。
あれ。
本当に、生き物なのか?
俺は思わず身体を持ち上げた。
その影には、翼がなかった。
細長い胴体。
丸みを帯びた背中。
そして、身体の側面にいくつも並ぶ、大きな穴のようなもの。
尾の部分は細く、長い布のようなものが垂れ下がっている。
……何だ、あれ。
魚?
いや。
空を泳ぐ魚なんて、さすがに。
……でも。
そうとしか見えない。
大きさは、昨日助けた風帆の何倍もあった。
その巨体が、羽ばたくこともなく空中へ浮かんでいる。
……すごい。
だが、次の瞬間。
――ォォォン。
低い音が、もう1度響いた。
影の側面に並んだ穴が、大きく広がった。
……ん?
俺は目を凝らした。
周囲の雲が、その穴へ向かって細く伸びていく。
……え?
雲が。
吸い込まれてる?
俺は、思わず動きを止めた。
穴の周りへ、白い筋が集まっていく。
同時に、俺の薄い触手が急に引っ張られた。
……っ!?
何だ!?
さっきまで下へ押されていたのに。
今度は、南の空へ向かって引っ張られている。
……まさか。
あいつ。
風を吸ってるのか!?
◇
「……伏せろ!」
オルドの声が響いた。
俺は反射的に身体を縮めた。
ルナも、すぐに低い姿勢になる。
その直後。
――ゴォォォッ!!
……っ!!
巨大な風が、谷へ叩きつけられた。
上から下へ。
岩壁をなぞるように。
それまで上へ吹き上がっていた風が、無理やり押し潰されたように動いた。
……重い!
俺は地面へ触手を固定した。
《粘着性》。
さらに、身体の中央を低く保つ。
……くそっ。
昨日の救い網でも感じたけど。
風って、こんなに力があるのか!
俺は必死に姿勢を保った。
だが、ふと気づいた。
……あれ?
今の風。
ただ強いだけじゃない。
上から下へ。
ものすごく大きな流れが、一定の方向へ向かっている。
……そうか。
さっき、あの影の側面へ雲が集まっていた。
そして、今は下へ。
……まさか。
あいつが吸い込んだ空気を、下へ吐き出したのか?
俺は少し驚いた。
もしそうなら。
あの巨大な生き物は、周囲の空気を取り込んで、飛ぶ力にしているのかもしれない。
……とんでもないな。
俺は空へ目を向けた。
灰色の巨体は、さっきより少し高い位置にいた。
穴の周囲から、白い筋が消えている。
……なるほど。
あの力で、自分を持ち上げているのか。
ただし、その下にあるものは大変だ。
風帆が飛んでいたら。
あの下降風へ巻き込まれたら。
……そりゃ、落ちるよな。
俺は、ようやく昨日の事故が少し理解できた気がした。
◇
「……あれが、原因か」
ガランが低く呟いた。
俺は頷いた。
少なくとも、昨日の下降風と関係がある可能性は高い。
オルドは、静かに空を見つめていた。
「……昔の連中は、あれを風喰いと呼んだそうだ」
……風喰い。
俺は顔を上げた。
「風を飲み込み、空に大きな穴を作る魔物だと、そう言い伝えられていた」
……なるほど。
名前の由来は、何となく分かるな。
だが、俺はもう1度、空の影を見た。
本当に風を食べているわけではないのかもしれない。
ただ、自分が空へ浮くために、空気を大きく動かしている。
……そういう生き物なのか?
オルドは続けた。
「実物を見た者はほとんどいない。俺も、昔はただの言い伝えだと思っていた」
……へえ。
そんなに珍しい魔物なのか。
俺は少し興味を持った。
だが、ガランは険しい表情のままだった。
「……珍しいだけなら、いいんだがな」
……ん?
俺は彼を見た。
ガランは、谷の向こうを指した。
「見ろ。あいつの進んでる方向だ」
……進んでる方向?
俺は空へ目を向けた。
風喰いと呼ばれた魔物は、ゆっくり移動している。
南から北へ。
……あ。
俺は動きを止めた。
北。
それって。
……カナートの方じゃないか?
ガランが低く言った。
「このまま村の上空へ来られたら、風帆どころの騒ぎじゃないぞ」
……。
俺は少し黙った。
確かに。
さっきの下降風は、谷全体を揺らすほど強かった。
あれが村の上へ来れば、屋根や風車にも影響が出るかもしれない。
……まずいな。
俺はもう1度、風喰いを見た。
巨体は、相変わらずゆっくり動いている。
だが、その進路は少しずつ北へ向かっていた。
……どうする。
倒す?
いや。
あんな大きな相手を、今の俺が倒せるわけがない。
しかも、空だ。
俺がようやく数歩滑れるようになった程度の場所だぞ。
……無理だろ。
だったら。
……まず、知らせないと。
俺は見張り台の鐘へ目を向けた。
あれは、何のためにあるんだ?
「……かね!」
俺が叫ぶと、ガランが振り返った。
……ん?
俺は鐘を指した。
「……かね!」
彼はすぐに理解したらしい。
「……ああ! 警報か!」
……そう!
俺は頷いた。
風便が近づいてくるかもしれない。
村の人たちにも知らせる必要がある。
だったら。
まず、危険を知らせよう。
ガランはすぐに鐘へ向かった。
だが。
「……くそっ!」
……ん?
俺は顔を上げた。
鐘の下には、長い縄が垂れているはずだった。
しかし、今は途中で切れていた。
どうやら、古い縄が風に煽られて傷んでいたらしい。
……おいおい。
こんなときに!
俺は思わず身体を持ち上げた。
だが、ガランは鐘の上部を見た。
「……直接叩けば鳴らせるが、足場が悪い」
……なるほど。
俺も鐘を見た。
高さは、それほどでもない。
ただし、鐘の周りは風が強く、足場の石も狭い。
人間が登るには危険だ。
……だったら。
俺が。
そう考えた瞬間。
「……ノア」
ルナが隣へ来た。
……ん?
俺は顔を向けた。
ルナは、鐘を見ている。
そして、静かに言った。
「……我に任せよ」
……え?
俺は少し驚いた。
ルナは鐘へ向き直った。
「直接叩けばよいのであろう?」
……あ。
そうか。
俺はすぐに頷いた。
《衝撃》。
ルナなら、離れた場所から狙ったものへ力を加えられる。
鐘だって、叩けるはずだ。
……よし。
俺は触手を持ち上げた。
「……たのむ!」
ルナは少しだけ笑った。
「うむ」
そして、鐘へ向けて前脚を上げる。
「《衝撃》!」
――カァン!!
……っ!
大きな音が、峡谷へ響いた。
……おお!
鳴った!
ルナは続けて、もう1度力を放つ。
――カァン!!
さらに、もう1度。
――カァン!!
3回の大きな鐘の音が、風に乗って広がっていく。
……よし!
俺は思わず身体を持ち上げた。
「……できた!」
ルナは得意そうに胸を張った。
「当然であろう」
……はは。
そうだな。
俺は少し笑った。
だが、オルドはすぐに空へ目を向けた。
「これで、近くの見張り番にも伝わるはずだ」
……なるほど。
鐘の音が、さらに別の場所へ伝わっていくのか。
俺は少し安心した。
だが、そのとき。
――……ォォン。
低い音が、もう1度響いた。
……っ。
俺は反射的に空を見た。
風喰いの巨体が、少し向きを変えている。
そして。
……あれ?
金色のような、小さな光。
いや。
……目?
俺は目を凝らした。
灰色の巨体の側面。
その奥に、細い裂け目のようなものがあった。
そこが、ゆっくり開く。
……っ。
目だ。
あいつ。
こっちを見てる。
俺は思わず、身体を低くした。
風喰いは、しばらくこちらへ顔を向けていた。
鐘の音が聞こえたのか。
それとも、たまたまなのか。
……分からない。
ただ。
その視線を受けた瞬間、俺は妙な感覚を覚えた。
相手が、大きすぎる。
今まで見てきた魔物とは、規模が違う。
あの水門の巨大な魔物だって、十分大きかった。
でも。
こいつは、空そのものを動かしている。
……強いな。
俺は静かに身体を低くした。
今の俺では、あの相手に勝てない。
それどころか。
近づくことさえ、難しいだろう。
……でも。
だからこそ。
どういう生き物なのか、もっと知りたい。
どうして、こんなところへ現れたのか。
何を求めて、北へ向かっているのか。
……分からないことだらけだ。
俺が考えていると、ルナが隣へ来た。
「……ノア」
……ん?
俺は顔を向けた。
ルナは、静かな表情で空を見つめていた。
「……あれは、強いな」
……ああ。
俺は頷いた。
「今の我らでは、簡単には相手にできぬだろう」
……そうだな。
俺も、そう思う。
ルナは、少しだけ目を細めた。
「……だが」
……ん?
「だからといって、何もできぬわけではあるまい」
……。
俺は、少し驚いた。
ルナは続けた。
「風帆を止めることもできる。村へ知らせることもできる。あの魔物の動きを調べることもできる」
……ああ。
そうだな。
俺は少しだけ身体を持ち上げた。
確かに。
今の俺たちには、できることがある。
全部を一気に解決する必要はない。
まずは、今できることをやればいい。
……うん。
俺は短く答えた。
「……やる」
ルナが静かに笑った。
「うむ」
◇
帰り道。
俺たちは、いつもより早足でカナートへ向かっていた。
オルドは、途中の見張り場にも声をかけていくという。
ガランは先に村へ戻り、風便の運航を止める準備を始めることになった。
俺とルナは、ガランと一緒に丘を下っていた。
……しかし。
何だろうな。
この世界。
水の中には、あんな大きな魔物がいる。
そして、空にはさらに大きな魔物がいる。
……もしかして。
まだまだ、とんでもない生き物がいるんじゃないか?
俺は少し考えた。
洞窟で目を覚ました頃の俺なら、今の話を聞くだけで逃げ出したかもしれない。
でも。
今は、少し違う。
怖いとは思う。
実際、あれだけ大きな相手を見れば、誰だって怖いだろう。
ただ。
それと同じくらい。
……知りたい。
もっと、この世界のことを。
俺は、空へ目を向けた。
風喰いは、すでに遠くの雲へ紛れていた。
ただし、その影はまだ見える。
北へ。
ゆっくりと。
カナートのある方角へ。
……よし。
まずは村へ戻ろう。
それから、ガランたちと相談だ。
今度は、ただ飛ぶ練習をしている場合じゃない。
風の流れを変える魔物。
そいつが近づいてくるなら。
……何か、対策を考えないとな。
俺は短い脚を動かし、坂道を下り始めた。
隣では、ルナが静かに歩いている。
いつものように、白銀の尻尾を揺らしながら。
……なあ、ルナ。
今度の相手、随分大きいな。
俺が心の中でそう呟くと、ルナがふと顔を向けた。
「……ノア」
……ん?
「貴様、また空を飛びたくなったのではあるまいな?」
……。
…………。
いや。
今回は、少し違う。
俺は空を見上げた。
さっきまで風喰いがいた場所。
雲の間に、細い光が差している。
……飛びたい。
それは、確かにそうだ。
でも。
今は、それだけじゃない。
あの空で、何が起きているのか知りたい。
そして。
もし、あの魔物が村へ来るなら。
……みんなを守りたい。
俺は短く答えた。
「……まもる」
ルナが少し目を丸くした。
それから、静かに笑った。
「……そうか」
……ああ。
俺は頷いた。
ルナは、少しだけ尻尾を持ち上げた。
「ならば、我も手を貸そう」
……おう。
頼んだ。
俺たちは、再び歩き出した。
丘の向こうでは、カナートの風車が回っている。
だが、そのさらに南側。
雲の下を進む巨大な影の周囲では。
今も、風が吸い寄せられ、真下へ落ちていた。
――ォォォン。
その低い音が。
まるで、遠くの空から響く鐘のように。
いつまでも、耳の奥へ残っていた。




