第3部 第25話 空の落とし穴
カナートの空に、鐘が3回鳴った。
――カン! カン! カン!
「救い網を張れ!」
誰かの叫び声が、風に乗って広場へ届く。
俺は反射的に顔を上げた。
南の空に、風帆が2つ。
そのうち1つが、妙な角度で傾いていた。
……あれ?
翼の右側が、ほとんど風を受けていない。
それなのに、左側だけが大きく膨らんでいる。
風帆は身体をひねるように旋回し、ぐんぐん高度を落としていった。
……おいおい。
あれ、墜落するんじゃないか!?
「ノア、走るぞ!」
ガランが工房から飛び出してきた。
その手には、太い縄が握られている。
「ルナも来い! 手が足りねえ!」
「うむ!」
ルナが即座に駆け出した。
俺も短い脚を作り、2人のあとを追う。
……ちょっと待ってくれ。
飛ぶ練習を始めて、まだ2日目なんですけど!
◇
その日の朝、俺は工房の裏で奇妙な道具と向き合っていた。
木枠に張られた布。
長い紐。
そして、地面に打ち込まれた杭。
小さな風帆の模型だ。
「今日はこいつを使う」
ガランが紐を俺へ渡した。
……え?
飛ばないのか?
俺が首を傾げると、ガランは鼻で笑った。
「昨日、ようやく数歩滑った奴が、いきなり空を飛べると思うなよ」
……ですよね。
俺は素直に頷いた。
「今日は、風に合わせて翼を動かす練習だ。自分の身体を浮かせなくても、覚えられることは山ほどある」
なるほど。
確かに、昨日は翼を保つだけで精いっぱいだった。
しかも最後は姿勢を崩し、地面へ落ちている。
……よし。
地味だけど、大切な練習だな。
俺は模型を受け取った。
ガランが紐を少し緩めると、模型が風を受けて持ち上がる。
――ふわっ。
……お。
昨日の俺より、ずっと安定してる。
「右へ曲げてみろ」
……右?
俺は模型の右側へ触手を伸ばした。
端を少し引く。
すると模型は、くるりと回った。
……おお。
曲がった。
「やりすぎだ。少し動かせば十分だぞ」
……あ。
はい。
俺は引く力を弱めた。
今度は緩やかに向きが変わる。
……へえ。
ほんの少しの違いで、こんなに変わるのか。
「風帆を動かすのは腕力じゃない。力を加える場所と、加減だ」
……なるほど。
俺は模型を観察した。
翼の右と左。
紐の張り方。
風を受ける角度。
……これ。
《構造形成》と似てるな。
俺も、身体の一部を硬くしたり柔らかくしたりする。
だが、全部を硬くしたからといって、強くなるわけじゃない。
必要な場所へ、必要な力を使う。
……そういうことか。
俺はもう1度模型を動かした。
すると、隣から声がした。
「……ノア」
……ん?
ルナだ。
彼女は小さな木箱の上に座り、俺の練習を眺めていた。
「今のは、なかなかよかったぞ」
……お。
褒められた。
俺は少し得意になった。
すると、ルナが続けた。
「昨日より、ずっと落ち着いておる」
……まあな。
昨日は、浮いただけで興奮してたから。
俺は小さく身体を揺らした。
すると、ガランが笑った。
「よし。次は急に風向きが変わったときの――」
そこで、言葉が途切れた。
……ん?
ガランが空を見上げている。
俺も、つられて顔を上げた。
何羽ものフウバネが、村の南側を飛んでいた。
だが、いつもとは様子が違う。
群れがまとまっていない。
大きく翼を広げたまま、何度も方向を変えている。
……あれ?
何だか、飛びにくそうだな。
ガランは、しばらく空を見つめていた。
「……妙だな」
……ん?
「今日は南の風が落ち着いてるはずなんだが」
俺は身体の端を伸ばした。
風が当たる。
……うん。
今のところ、昨日ほど強くない。
だが、ガランは眉を寄せていた。
「……オルド爺さんに聞いてみるか」
そう言って工房へ戻ろうとした、そのときだった。
――カン! カン! カン!
村の見張り台から、鐘が鳴った。
◇
「南からの風便だ!」
見張り台の男が叫んでいた。
「1機、姿勢を崩してる!」
俺は南の空を見た。
2つの風帆が、谷を越えてこちらへ向かっている。
先頭の風帆は、比較的安定していた。
だが、後ろを飛ぶ風帆は違った。
翼の右側が大きく垂れ下がり、身体が斜めに傾いている。
……まずい。
あれ。
普通に飛べてないぞ。
ガランが顔をしかめた。
「……下降風か!」
……下降風?
俺は首を傾げた。
「上から下へ落ちる風だ。あれに捕まると、翼に十分な速さで風を当てても高度を失うことがある!」
……え。
そんなものまであるのか。
俺はもう1度、空を見た。
風帆は懸命に姿勢を立て直そうとしている。
だが、谷の手前でさらに高度を落とした。
……おいおい。
間に合うのか?
「ノア!」
ガランが俺を呼ぶ。
……はい!
「救い網を張る! 手伝ってくれ!」
……救い網?
俺は少し驚いた。
だが、ガランはもう走り始めている。
ルナがその後を追った。
「ノア! 行くぞ!」
……おう!
俺も急いで脚を動かした。
◇
村の南端には、広い草地があった。
昨日、俺が飛ぶ練習をした場所より、ずっと大きい。
その端には太い木柱が何本も立ち、地面には巻き上げ機が設置されている。
ガランが叫んだ。
「網を出せ!」
周囲の職人たちが、一斉に動いた。
大きな布と縄で作られた網が、地面から引き上げられる。
……おお。
こんなものがあるのか。
落下した人を受け止めるための設備らしい。
さすが、空を飛ぶ人たちの村だ。
……いや。
感心してる場合じゃないな。
俺も何か手伝わないと。
「ノア! そっちの縄を見てくれ!」
……了解!
俺はガランが指した方へ走った。
太い木柱。
そこに、網を広げるための縄が通されている。
だが。
……ん?
1本だけ、引っかかってる。
俺は目を凝らした。
木柱の根元。
縄が金属の輪へ通されているが、途中でねじれていた。
……あ。
これじゃ、ちゃんと引けないな。
俺はすぐに触手を伸ばした。
《構造形成》。
細く。
先端を鉤の形にする。
……よし。
金属の輪へ差し込む。
縄を少し持ち上げて、ねじれを戻す。
――するっ。
……お。
直った!
俺は縄を引いて確かめた。
今度は、滑らかに動く。
「……できた!」
ガランが振り返った。
「よし! そのまま引け!」
……了解!
俺は身体の中央を厚くし、短い脚を6本作った。
《粘着性》。
地面をしっかり掴む。
そして、縄を巻き上げ機の方へ送った。
ただし、無理に力任せには引かない。
俺より遥かに重いものを動かすための仕組みだ。
ここで俺がやるべきなのは、縄が絡まないようにすること。
……よし。
ちゃんと動いてる。
網が少しずつ持ち上がる。
だが、そのとき。
「……ノア!」
ルナが叫んだ。
……ん!?
俺は顔を上げた。
彼女が指しているのは、反対側の木柱だった。
太い縄が、強い風に煽られている。
その先には、金属の輪がぶら下がっていた。
……あ。
あれ。
柱へ固定するはずの金具じゃないか?
「ガラン!」
ルナの声に、ガランが振り返る。
「……まずい! あの金具が外れてる!」
……っ!
俺は一瞬、動きを止めた。
片側の網だけが持ち上がり、反対側は地面に残っている。
これじゃ、落ちてくる風帆を受け止められない。
……どうする。
俺は周囲を見回した。
ガランたちは巻き上げ機を操作している。
俺が今いる場所から反対側までは、少し距離がある。
……間に合うか?
そのとき、ルナが言った。
「我が行く!」
……え?
俺は顔を上げた。
ルナは、もう走り始めていた。
白銀の身体が草地を駆け抜ける。
風が強くなる。
それでも、ルナは低い姿勢のまま進んだ。
……速い!
俺も急いで後を追おうとした。
だが、ガランが叫んだ。
「ノア! お前はそっちの縄を頼む!」
……っ。
俺は足を止めた。
そうだ。
俺が離れたら、こっちの縄がまた絡まるかもしれない。
……くそ。
なら。
今は、こっちを守る!
俺は地面へ脚を固定した。
《粘着性》。
さらに、縄の通り道を確かめる。
……よし。
大丈夫。
ガランが巻き上げ機を回した。
網が、少しずつ持ち上がっていく。
その間にも、空の風帆は高度を落とし続けていた。
……頼む。
間に合ってくれ!
◇
「《衝撃》!」
――ドンッ!
反対側から、ルナの声が響いた。
俺は顔を向けた。
彼女は木柱の根元で、外れかけた金属の輪へ狙いを定めていた。
短い衝撃が、輪を横から叩く。
――カチンッ!
……お!
金具が、柱の溝へ戻った!
その瞬間。
「よし! 引け!」
ガランが叫んだ。
職人たちが巻き上げ機へ力を込める。
――ギギギッ!
網の反対側が、一気に持ち上がった。
……やった!
俺は思わず身体を持ち上げた。
だが、まだ終わりじゃない。
空の風帆は、すでに村の上空へ来ていた。
翼の一部が裂け、風を受ける形が崩れている。
……おいおい。
あと少しで地面だぞ!
「荷物を捨てろ!」
ガランが空へ向かって叫んだ。
風帆の下にいた男が、こちらへ顔を向ける。
そして、身体へ結びつけていた荷物を外した。
――どさっ!
大きな袋が、草地へ落ちる。
続いて、もう1つ。
……お。
少し軽くなったのか。
風帆の姿勢が、ほんの少し安定した。
だが。
――ゴォッ!!
突然、風が強くなった。
しかも、今度は横からだ。
風帆が大きく傾く。
……っ!
まずい!
このままじゃ、網の端にぶつかる!
俺は反射的に身体を伸ばした。
だが、空へ飛び出すことはしなかった。
俺が今から飛んでも、間に合わない。
それに、昨日ようやく数歩滑っただけの俺が、あの風の中で何をできる?
……違う。
今、俺にできることは。
俺は網の縄を見た。
引っ張られたまま、強く張っている。
その根元には、太い金属の輪。
……あ。
俺は気づいた。
このまま斜めに落ちてきたら、網の片側だけに大きな力がかかる。
すると、縄が一気に引っ張られる。
……それなら。
少しでも、力を逃がせれば。
俺は身体の横から、太い触手を伸ばした。
《弾性組織》。
ただし、縄の代わりになるほど強いわけじゃない。
だから、直接支えるんじゃない。
縄が動く方向へ、柔らかな輪を作る。
金属の輪と縄の間に、小さな緩衝部分を挟む。
……よし。
これなら。
急に引っ張られたとき、ほんの少しだけ力を和らげられるはずだ。
「ノア!」
ガランが俺の動きに気づいた。
……っ。
俺は彼を見た。
ガランは一瞬、俺の触手を確かめた。
それから、短く頷く。
「……よし! 縄を離すな!」
……おう!
俺は脚を地面へ固定した。
《粘着性》。
さらに、身体の一部を木柱へ巻きつける。
……よし。
準備できた。
あとは。
……来い!
◇
――バサァッ!!
風帆が、網へ落ちた。
……っ!!
重い衝撃が、縄へ伝わる。
俺の身体が、一気に引っ張られた。
……っ!!
うわっ!
重い!
想像以上だ!
俺は反射的に《緩衝膜》を広げた。
だが、網そのものを受け止めるわけじゃない。
縄と金具が急にぶつからないよう、間へ柔らかい層を作る。
……耐えろ!
――ギギギッ!
巻き上げ機が悲鳴を上げる。
縄が、強く張る。
俺の触手も、一気に伸ばされた。
……っ!
まずい。
このままじゃ、千切れる!
俺はすぐに身体の形を変えた。
《構造形成》。
伸ばした部分を、少しずつ細くする。
ただし、全部を一気に離さない。
《弾性組織》。
急な力を、できるだけゆっくり逃がす。
……っ!
くそっ!
痛い!
でも。
……もう少し!
網が、大きく沈む。
中には、風帆と操縦者の男。
男は身体を丸め、網の中央へ落ちていた。
……お。
入った!
ちゃんと受け止めてる!
その瞬間。
――ぱちんっ!
俺の触手の先端が、千切れた。
……っ!?
痛っ!!
だが、ちょうど同時に。
――ぎしっ。
網の揺れが、ゆっくり収まった。
……。
…………。
……止まった?
俺は恐る恐る顔を上げた。
風帆は、網の中へ沈んでいる。
操縦していた男も、動いていた。
……あ。
生きてる。
よかった。
本当に。
俺は、思わず身体を低くした。
「よし! 救助だ!」
ガランが叫んだ。
職人たちが一斉に駆け寄る。
ルナも、すぐにこちらへ戻ってきた。
「ノア!」
……あ。
俺は触手を持ち上げた。
「……へいき」
ルナは俺の身体を見た。
そして、少し眉を寄せる。
「……先が千切れておるぞ」
……ああ。
まあ。
ちょっとね。
俺は苦笑するように身体を揺らした。
ルナは小さく息を吐いた。
「……だが、無事でよかった」
……うん。
俺も、そう思う。
俺たちは、網の中へ目を向けた。
男が、職人たちに助け起こされている。
顔には擦り傷。
腕も少し痛めたらしい。
だが、自分の脚で立てるようだった。
……よかった。
本当に。
◇
「……助かった」
男は、俺たちの前で深く頭を下げた。
名前はヴァン。
カナートと南の集落を行き来する、風便の操縦者らしい。
「俺だけじゃ、あのまま崖へ叩きつけられていたと思う」
……いや。
本当に危なかったよな。
俺は小さく頷いた。
ガランが、ヴァンの肩を軽く叩いた。
「怪我は?」
「擦り傷くらいだ。右腕は少し痛むが、動かせる」
「なら、今日は医者に診てもらって休め。風帆は俺たちが確認する」
……ああ。
それがいい。
俺も、しばらく休みたい。
身体の端が千切れたせいで、思った以上に疲れている。
……うーん。
食事を取って、回復させないとな。
すると、ヴァンが真剣な顔で言った。
「……ガラン」
「何だ?」
「南の風が、おかしい」
……ん?
俺は顔を上げた。
ガランも、少し表情を変えた。
「……詳しく聞かせろ」
ヴァンは、しばらく空を見つめていた。
「南の峡谷を越えるとき、突然、風が変わったんだ」
……風が?
俺は首を傾げた。
ヴァンは続けた。
「いつもなら、峡谷の岩壁に沿って上昇風が吹く。あれに乗れば、高度を保ったまま北へ渡れる」
……なるほど。
俺は昨日の練習を思い出した。
風が上へ吹けば、身体を持ち上げる力になる。
でも、下へ吹けば。
……あ。
俺は少し気づいた。
ヴァンは頷いた。
「ところが、今日は突然、風が下へ落ちた」
……下へ?
「まるで、空に穴でも開いたみたいだった」
……。
俺は、少し黙った。
空に穴。
もちろん、本当に穴が開いたわけじゃないんだろう。
でも。
……そんなことが起きるのか?
ガランは腕を組んだ。
「下降風自体は珍しくない。だが、風便が立て直せないほど急激だったとなると、話は別だな」
……ああ。
そうか。
あの人は、きちんと飛ぶ技術を持っていた。
それでも、落ちた。
……怖いな。
俺は少しだけ、身体を低くした。
すると、ヴァンが続けた。
「それだけじゃない」
……ん?
俺は顔を上げた。
ヴァンは南の空を指した。
「フウバネの群れが、あの場所だけを避けて飛んでいたんだ」
……え?
俺は思わず、空へ目を向けた。
今朝も、そんな様子を見た気がする。
何匹ものフウバネが、何度も方向を変えていた。
……あれ。
もしかして。
風の流れが、変わっていたからなのか?
「それに」
ヴァンが、少し声を落とした。
「雲の下に、妙な影が見えた」
……影?
俺は顔を向けた。
「何の影だ?」
ガランが尋ねる。
ヴァンは首を振った。
「分からない。大きな鳥にも見えたが、翼がなかったような気もする」
……翼がない?
俺は少し考えた。
この世界には、いろんな魔物がいる。
水の中には、巨大な魚がいる。
空には、フウバネのように風を使って飛ぶ生き物もいる。
だったら。
……翼のない魔物が、空を飛んでいても不思議じゃないのか?
いや。
さすがに、それは分からないな。
ヴァンは続けた。
「影が雲の下を横切った直後、急に風が落ちたんだ」
……。
ガランは、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「……オルド爺さんに聞いてみるか」
……オルド?
俺は顔を上げた。
ガランは頷いた。
「あの爺さんは、昔からこの丘の風を見てきた。何か知ってるかもしれん」
……なるほど。
俺は少し安心した。
分からないことがあったら、詳しい人へ聞く。
レムナでも、そうしてきた。
きっと、ここでも同じだ。
……うん。
まずは、ちゃんと調べよう。
◇
夕方。
俺とルナは、村の外れにある低い石壁へ座っていた。
正確には、ルナが座っていて、俺はその隣で身体を丸めている。
遠くでは、風車がゆっくり回っていた。
……疲れたな。
本当に。
俺は千切れた部分を確かめた。
少しずつ、形は戻ってきている。
だが、元どおりになるには、まだ時間がかかりそうだ。
……まあ。
今日は、いい仕事ができたんじゃないか?
俺は少しだけ、身体を持ち上げた。
すると、ルナがこちらを見た。
「……ノア」
……ん?
「今日は、飛ばなかったな」
……え?
俺は少し驚いた。
確かに。
あんなに空へ飛びたいと思っていたのに。
今日は、ずっと地面にいた。
縄を直して。
網を張って。
落ちてくる風帆を受け止めた。
……そうだな。
でも。
それで、よかったと思う。
俺は短く答えた。
「……たすけた」
ルナは、少し目を細めた。
「……うむ」
そして、静かに頷く。
「それでよい」
……ああ。
俺も、そう思う。
風帆を操縦していたヴァンは、俺よりずっと飛ぶのが上手かった。
それでも、危険な風には勝てなかった。
そして。
俺たちが地面で網を張っていたから、無事に帰ってこられた。
……うん。
飛べることだけが、強さじゃないんだな。
俺は、少し考えた。
もちろん。
空を飛びたい気持ちは、変わらない。
でも、今はもっと大切なことがある。
風が、どんなふうに動くのか。
何が危険なのか。
そして、危なくなったときにどうすればいいのか。
……それを、ちゃんと知りたい。
俺は自分の身体を見た。
薄い翼。
柔らかな膜。
短い脚。
水の中で覚えた噴射移動。
どれも、まだ使いこなせているとは言い難い。
でも、組み合わせ方を変えれば、もっといろんなことができるはずだ。
……よし。
まだまだ、練習だな。
そんなことを考えていると、ルナが静かに言った。
「……ノア」
……ん?
「明日は、あの南の峡谷を調べるのか?」
……え?
俺は少し考えた。
すぐに行くのは、危ないかもしれない。
下降風が起きる場所。
フウバネが避けて飛ぶ空。
そして、雲の下で見えたという、大きな影。
……興味はある。
めちゃくちゃある。
でも。
俺は、少しだけ首を振った。
「……まず、きく」
ルナが首を傾げる。
「誰にだ?」
俺は短く答えた。
「……オルド」
ルナは一瞬、目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「……ふむ。よい判断だ」
……お。
褒められた。
俺は少し嬉しくなった。
すると、ルナが続けた。
「貴様がすぐ飛び出さなかったことに、我も少々驚いておる」
……。
……おい。
俺だって、少しは学習するんだぞ。
俺が触手を振ると、ルナは楽しそうに笑った。
「ふふっ。ならば、明日もその調子で頼むぞ」
……はいはい。
俺は、少し笑った。
◇
夜。
宿の窓から、カナートの風車が見えていた。
遠くの丘では、風笛石が静かに鳴っている。
――ヒュウウ……。
俺は、その音を聞きながら考えていた。
昨日は、あの音が不思議で仕方なかった。
でも、今は少し違う。
音が鳴るのには、理由がある。
風が変われば、音も変わる。
そして、音が消えることにも意味がある。
……今日の風だって、そうなのかもしれない。
突然、空から落ちた風帆。
その前に、妙な飛び方をしていたフウバネたち。
雲の下に見えた、大きな影。
……何かが、繋がっているのか?
俺は少し考えた。
ただし、今はまだ分からない。
だったら、明日。
オルドへ聞いてみよう。
この丘で、長く風を見てきた人だ。
きっと、俺たちが知らないことを知っている。
……楽しみだな。
俺は静かに身体を丸めた。
すると、隣でルナが言った。
「……ノア」
……ん?
「今日は、飛ぶ夢を見るかもしれぬな」
……え?
俺は顔を上げた。
ルナは寝台の上で、少しだけ笑っている。
「貴様が空を飛ぶ夢だ」
……ああ。
いいね。
俺は小さく身体を揺らした。
「……ルナ、も」
ルナの耳が動いた。
「……む?」
俺は短く続けた。
「……いっしょ」
ルナは、しばらく黙っていた。
それから、満足そうに頷いた。
「……うむ。忘れるでないぞ」
……もちろん。
俺は静かに頷いた。
空を飛ぶ。
それは、まだ遠い目標かもしれない。
でも。
今日、俺は少しだけ分かった気がした。
空には、道がある。
風が流れる道。
そして、ときにはその道が途切れることもある。
……だったら。
まずは、その道を知らなきゃな。
俺は窓の外へ目を向けた。
カナートの夜空。
その向こうには、まだ知らない南の峡谷が広がっている。
そして、どこか遠くで。
風笛石とは違う、細く長い音が聞こえた気がした。
――ヒィィ……。
……ん?
俺は少しだけ身体を持ち上げた。
だが、音はすぐに消えた。
……フウバネか?
それとも。
……別の何かか?
俺は、しばらく暗い空を眺めていた。
結局、答えは分からなかった。
だが、1つだけ確かなことがある。
どうやら、この丘の空には。
俺たちがまだ知らない何かが、いるらしかった。




