第3部 第23話 風が黙るとき
「……止まったな」
ルナが耳を立てた。
俺も、足を止める。
さっきまで丘の上から聞こえていた、不思議な笛の音。
それが、ぴたりと消えていた。
風は吹いている。
草も揺れているし、俺の身体も少し押されている。
なのに、音だけがしない。
……何だ?
俺が首を傾げたときだった。
「そこの2人! 岩陰へ入れ!」
突然、背後から怒鳴り声が飛んだ。
振り返るより早く、ルナが俺の荷物をくわえた。
「ノア、走れ!」
……えっ。
ちょっと待て。
何が――。
次の瞬間、丘の向こうで草が一斉に倒れた。
……あ。
嫌な予感がする。
俺は慌てて身体を低くした。
そして、その予感は見事に的中した。
――ゴォォォッ!!
……っ!?
風って、こんな音するの!?
◇
少し前のこと。
俺たちは風渡りの丘を登っていた。
昨夜泊まった石造りの休憩所から、頂上まではそれほど遠くない。
ただし、道は思った以上に険しかった。
足元には細かな砂利。
ところどころに突き出した岩。
そして、何より厄介なのが風だ。
……なるほど。
ここ、普通に歩くだけでも結構大変だな。
俺は身体を低くし、短い脚を6本作っていた。
《構造形成》。
脚の先端には《粘着性》を使い、滑りやすい岩でも踏ん張れるようにしている。
昨日みたいに身体を広げるのは、もうやめた。
あれは本当に危なかったからな。
「ふん。随分と慎重になったものだ」
隣を歩くルナが、楽しそうに言った。
……そりゃそうだろ。
空へ飛ばされかけたんだぞ。
俺が触手を振ると、ルナは尻尾を揺らした。
「昨日の貴様は、見事な凧だったからな」
……まだ言うか!
俺は抗議しようとした。
だが、そのとき。
――ヒュウウウ……。
細長い音が、丘の上から聞こえてきた。
……あ。
これだ。
昨夜、休憩所で聞いた音。
笛のような、少し寂しい響き。
俺は顔を上げた。
丘の稜線には、細長い石柱が並んでいる。
遠くから見たときは木かと思ったが、近づくと表面に穴が開いているのが分かった。
……ん?
あれ。
もしかして、あの穴が鳴ってるのか?
俺は少し興味を持った。
「……ルナ」
「何だ?」
俺は石柱を指した。
「……あれ」
ルナも顔を上げる。
「ふむ。何か細工されておるな」
……だよな。
自然にできた岩にしては、穴の形が揃いすぎている。
俺たちは、風に気をつけながら石柱へ近づいた。
◇
石柱は全部で7本あった。
高さは、大人の背丈より少し高いくらい。
どれも細長く、中央に大きな穴が開いている。
ただし、穴の位置は少しずつ違っていた。
……へえ。
何だろう、これ。
俺は一番近くの石柱を見上げた。
表面には、古い文字らしいものも刻まれている。
だが、俺には読めない。
……うーん。
文字、やっぱり覚えないとな。
俺が石柱の周りを歩いていると、突然、背後から声がした。
「そいつは触らん方がいいぞ」
……っ!
俺は思わず振り返った。
そこには、1人の老人が立っていた。
灰色の髭。
厚手の外套。
そして、先端に小さな布を結んだ長い杖。
背中には、道具の詰まった古い鞄を背負っている。
「指を穴へ突っ込むと、風で石粉が飛んでくることがある」
……え。
危ないな、それ。
俺は伸ばしかけていた触手を引っ込めた。
老人は、その動きを見て目を細めた。
「……ほう。変わった生き物だな」
……あ。
俺、魔物です。
多分、見れば分かると思うけど。
すると、ルナが1歩前へ出た。
「我らは旅の途中だ。この石について、何か知っておるのか?」
老人はルナを見て、少し驚いたように眉を上げた。
「喋るルナリスか。珍しいな」
……お。
分かるんだ。
ルナは得意そうに胸を張った。
「うむ。我はルナだ。こちらはノア」
俺も触手を持ち上げた。
「……ノア」
老人は短く笑った。
「俺はオルド。丘の向こうのカナートに住んでる」
……カナート。
初めて聞く名前だな。
オルドは、並んだ石柱へ杖を向けた。
「こいつは風笛石だ。昔の連中が道しるべに造ったものでな」
……道しるべ?
俺は石柱を見上げた。
笛なのに、道しるべなのか。
「風が決まった方向から吹くと、穴を通って音が鳴る。強さや向きによって、鳴る石も音も変わるんだ」
……へえ。
なるほど。
俺は少し感心した。
確かに、ここでは風が強い。
目印の旗なんかを立てても、すぐ破れてしまうかもしれない。
でも、石なら簡単には壊れない。
風そのものを使って、旅人へ道の状態を知らせる。
……面白いな。
「ただし、音が聞こえるからといって安全とは限らん」
オルドが続けた。
……ん?
俺は顔を上げた。
「大事なのは、鳴り方だ」
そう言って、彼は杖についた布を持ち上げた。
風が吹く。
細長い布が、斜め横へなびいた。
同時に、石柱の1本から低い音が響く。
――ホォォ……。
……おお。
今のは、さっきと違う音だ。
オルドは頷いた。
「今は西からの風だ。普通に歩ける」
続いて、別の石柱が短く鳴った。
――ヒュッ。
「だが、2つの音が重なるときは気をつけろ。丘の向こうから、強い風が回り込んでくることがある」
……なるほど。
俺は石柱を見比べた。
穴の向き。
石の高さ。
そして、風の当たり方。
……これ。
仕組み自体は、結構単純なのかもしれない。
でも、使いこなすには経験が必要なんだろうな。
オルドは、俺たちを見て言った。
「カナートへ行くなら、一緒に来るか? 俺もちょうど帰るところだ」
……お。
助かる!
俺はすぐに頷いた。
「……いく」
ルナも満足そうに答えた。
「うむ。案内を頼もう」
◇
オルドと一緒に歩き始めると、丘の見え方が少し変わった。
彼は、道の真ん中を歩かない。
風が強い場所では岩の陰へ寄り、逆に草が密集した場所では少し高い位置を選ぶ。
……へえ。
何か、理由があるのか?
俺が首を傾げると、オルドは笑った。
「風は、真っすぐ吹くだけじゃない」
……ん?
「岩に当たれば回り込む。谷へ落ちれば速くなる。上へ吹き上がることもある」
……ああ。
なるほど。
俺は少し考えた。
水と似てるな。
レムナの地下水域でも、岩壁や水門の形によって流れが変わっていた。
狭い場所では速くなるし、障害物の後ろでは複雑な渦ができる。
……そうか。
風も同じなのか。
俺は身体の横から、短い触手を伸ばした。
ただし、昨日のように大きくは広げない。
指先くらいの、細いものだ。
……よし。
風が当たる。
先端が少し曲がる。
俺は位置を変えた。
岩の手前。
岩の横。
そして、岩の陰。
……お。
全然違う。
同じ場所に立っていても、触手を伸ばす方向で押され方が変わる。
……なるほど。
《水流感知》みたいに周囲の風を直接読めるわけじゃないけど、自分の身体を使えば確かめられるんだな。
俺は少し楽しくなってきた。
すると、オルドが振り返った。
「お前さん、何をしてる?」
……あ。
俺は触手を持ち上げた。
「……かぜ」
オルドは少し考えたあと、納得したように頷いた。
「風向きを確かめてるのか」
……そう!
俺は頷いた。
「面白いな。自分の身体が風見になるわけか」
……風見?
俺は首を傾げた。
「風向きを確かめる道具だよ」
オルドは杖に結んだ布を見せた。
……ああ。
これのことか。
俺は少し納得した。
ルナが隣で笑う。
「ノアは、こういうことを考えるのが好きなのだ」
「そうらしいな」
オルドも笑った。
「だが、あまり夢中になるなよ。この丘じゃ、風を甘く見た奴から転がっていく」
……。
……はい。
俺は素直に身体を低くした。
昨日の経験があるから、そこは十分理解してます。
◇
丘の中腹まで登った頃。
風笛石の音が、少しずつ変わり始めた。
――ヒュウウ……。
低い音。
その上に、細い音が重なる。
――ヒィィ……。
……ん?
俺は顔を上げた。
昨夜も、こんな音が聞こえた気がする。
だが、石柱はもう後ろの方だ。
……それなのに。
まだ、音が近くで聞こえる。
俺が不思議に思っていると、ルナが耳を立てた。
「……オルド」
「何だ?」
「あの細い音も、石のものか?」
老人は足を止めた。
そして、丘の上を見上げる。
「……いや」
……ん?
俺も顔を上げた。
オルドは、少し楽しそうに笑った。
「あれは違う。そろそろ見られるかもしれんな」
……え?
何が?
俺が尋ねようとした、その瞬間。
――ヒィィィッ。
高い音が、頭上を通り過ぎた。
……っ!
俺は反射的に身を低くした。
空を、何かが横切った。
白い。
いや。
銀色?
細長い身体に、大きく広がった薄い翼。
羽ばたいている様子はない。
なのに、風に乗って滑るように飛んでいる。
……何だ、あれ!?
俺は思わず身体を持ち上げた。
続いて、もう1匹。
さらに、3匹。
全部で5匹の生き物が、丘の上を通り過ぎていく。
「フウバネだ」
オルドが言った。
……フウバネ?
「この辺りの強い風を利用して飛ぶ魔物だ。翼を広げて風に乗り、ほとんど羽ばたかずに長い距離を移動する」
……おお。
俺は空を見上げた。
フウバネたちは、翼を大きく広げている。
だが、ずっと同じ形ではない。
風が強くなると、翼の端を少し折る。
向きを変えるときは、左右の広さを変える。
そして、谷の上へ出ると、ほとんど動かないまま高度を上げていった。
……すごい。
俺は見入ってしまった。
空を飛ぶ。
そのために、羽ばたき続ける必要はないのか。
風の力を受ける。
でも、強すぎるときは逃がす。
……あ。
俺は少し気づいた。
昨日、自分が飛ばされたとき。
あの膜は、ただ大きく広がっていただけだった。
風が強くなっても形を変えられず、そのまま持ち上げられた。
……でも。
あいつらは違う。
風に合わせて、翼を動かしている。
押される力を、進む方向へ変えているんだ。
……なるほど。
俺は少し興奮した。
いや。
今すぐ真似するつもりはないけど。
……ちょっと、やってみたくなるな。
「ノア」
ルナが、静かに呼んだ。
……はい。
俺は顔を向けた。
「今、飛ぼうなどと考えておらぬだろうな?」
……。
…………。
何で分かるんだよ。
ルナは大きくため息をついた。
「……まったく」
……いや。
本当に、今はやらないから。
俺は慌てて触手を振った。
オルドは、そんな俺たちを見て笑っていた。
「はははっ! 飛びたいなら、まずは風を知ることだな」
……ああ。
そうだよな。
俺は、もう1度空を見上げた。
フウバネたちは、すでに遠くへ飛んでいっていた。
その後ろから、細い笛のような音が聞こえてくる。
――ヒィィ……。
……あ。
そうか。
あの音。
翼が風を切る音だったのか。
昨夜聞こえた不思議な響きは、風笛石とフウバネの音が重なっていたんだな。
……面白い。
本当に、この世界は面白いな。
◇
だが、その直後だった。
――ヒュウウ……。
石柱の音が、少し低くなった。
オルドが足を止める。
……ん?
俺は顔を上げた。
続いて、もう1つの音が消えた。
――……。
……あれ?
さっきまで、あんなに鳴っていたのに。
俺は周囲を見渡した。
風は、まだ吹いている。
草も揺れている。
なのに、石柱の音が聞こえない。
……何でだ?
オルドの表情が変わった。
「……まずいな」
……え?
「2人とも、あの岩の陰へ入れ!」
……っ!
俺は反射的にルナを見た。
ルナも、すでに動いていた。
「ノア、走れ!」
……おう!
俺は脚を短くし、身体を低くした。
《構造形成》。
《粘着性》。
地面をしっかり掴みながら、岩の陰へ向かう。
だが、その途中。
――ゴォォォッ!!
……っ!?
突然、ものすごい風が吹きつけた。
草が、一斉に倒れる。
砂が巻き上がる。
俺の身体が、横へ大きく押された。
……くそっ!
昨日より強い!
俺は反射的に脚を広げた。
だが、足元の砂利が滑る。
――ずるっ!
……っ!
まずい!
このままでは、また飛ばされる!
俺は身体をさらに低くした。
ただし、昨日と違うことが1つある。
……そうだ。
風を、正面から受ける必要はない。
俺は身体の向きを変えた。
広い部分を風へ向けず、細い部分を風上へ。
さらに、身体の側面を少しだけ斜めにする。
……よし。
風が当たる。
でも、さっきより押されにくい。
……お。
いける!
俺は短い脚を岩の隙間へ引っかけた。
《粘着性》。
そのまま、身体を少しずつ動かす。
……あと少し。
岩の陰まで、もう少しだ。
そのとき。
「ノア!」
ルナの声がした。
……ん?
俺は顔を上げた。
ルナは、すでに岩の近くへ到着している。
ただし、こちらへ戻ってこようとしていた。
……おい!
来るな!
俺は触手を振った。
「……ルナ、そこ!」
ルナが足を止める。
「……む?」
俺はもう1度叫んだ。
「……そこ!」
そして、岩陰を指した。
……大丈夫。
俺は自分で行ける。
ここまで来たんだ。
もう少し。
俺は身体の一部を細く伸ばした。
岩の端へ触れる。
《粘着性》。
……よし!
固定できた!
俺は残る身体を縮め、岩陰へ引き寄せた。
――ずるっ。
――ぽすっ。
……っ!
入った!
俺はすぐに身体を丸めた。
その直後。
――ゴォォォッ!!
さっきまで立っていた場所を、強い風が通り抜けていく。
砂と小石が、何本もの筋になって流れていた。
……おいおい。
何だよ、これ。
俺は呆然とした。
風って、こんなに強くなるのか。
水の流れなら、少しは慣れてきたつもりだった。
でも、風は違う。
見えない。
触れるまで力が分からない。
しかも、地面から身体を持ち上げてしまう。
……なるほど。
ここでは、水中とは別の戦い方を考えないと駄目なんだな。
「……ノア」
ルナが隣へ来た。
……ん?
俺は顔を上げた。
ルナは、少しだけ眉を寄せていた。
「怪我はないか?」
……ああ。
大丈夫。
俺は身体を伸ばしてみせた。
「……へいき」
ルナは小さく頷いた。
「……ならばよい」
その横で、オルドが大きく息を吐いた。
「間に合ってよかった」
……ああ。
本当に。
俺は岩の向こうを見た。
風は、まだ強く吹いている。
だが、岩陰にはほとんど入ってこない。
……すごいな。
たったこれだけの違いで、随分と安全になる。
オルドは風の音へ耳を澄ませていた。
「風笛石が急に黙るときは、気をつけろ」
……え?
俺は顔を上げた。
「音を鳴らす流れが崩れるほど、強い風が吹いてることがある」
……なるほど。
俺は少し考えた。
さっきまで、石柱は鳴っていた。
だが、強い風が来る直前に、音が消えた。
風が止まったんじゃない。
音を鳴らしていた空気の流れが、大きく変わったんだ。
……へえ。
つまり。
音がないことも、合図になるのか。
俺は少し感心した。
ただ、同時に思った。
……これは。
知らなかったら、普通に危ないな。
俺は石柱の方を見た。
今も、音はしない。
ただ、風が岩へぶつかる低い音だけが続いている。
……なるほど。
風渡りの丘。
名前だけ聞いたときは、何だか綺麗な場所だと思っていた。
でも。
実際には、結構厳しい土地なんだな。
◇
強い風は、しばらく続いた。
俺たちは岩陰で休みながら、オルドから丘の話を聞いていた。
この辺りでは、季節によって風向きが大きく変わるらしい。
特に、谷から吹き上がる風と、丘を越えてくる風がぶつかる場所は危険だそうだ。
「昔は、風を読めない旅人がよく道を間違えたもんだ」
……へえ。
俺は顔を上げた。
オルドは石柱の方を見た。
「だから、風笛石を立てた。音を聞けば、風向きが変わったことに気づける」
……なるほど。
俺は少し考えた。
この土地の人たちは、風と戦っているわけじゃない。
風をなくそうとしているわけでもない。
ただ、その性質を知って、上手く付き合っている。
……水の町と同じだな。
レムナでは、水路や水門を使って水の流れを調整していた。
でも、完全に止めることはできなかった。
だからこそ、水の逃げ道を作る必要があった。
……風も、同じなのか。
俺は自分の身体を見た。
俺は、形を変えられる。
硬くも、柔らかくもなれる。
広げることも、縮めることもできる。
……だったら。
風へ逆らわず、風に合わせて動くことだって。
いつか、できるようになるかもしれない。
俺は少しだけ、身体を持ち上げた。
すると、ルナがこちらを見た。
「……ノア」
……ん?
「また何か考えておるな」
……ああ。
俺は頷いた。
「……かぜ、むずかしい」
ルナは少し驚いたようだった。
それから、小さく笑う。
「……うむ。そうだな」
……でも。
俺は、もう1度短く言った。
「……おもしろい」
ルナは、しばらく俺を見つめていた。
そして。
「……ふふっ。貴様らしい」
……そうかな。
俺は少し笑った。
だが、ルナも続けた。
「我も、もっと風を知りたいものだ」
……お。
俺は顔を上げた。
「我の《衝撃》も、使い方によっては風の中で役立つかもしれぬ」
……ああ。
確かに。
ルナの《衝撃》は、狙った場所へ力を加えられる。
風そのものを止めることは難しいだろうけど、飛んでくるものを弾いたり、足場を作ったり。
……いろいろできそうだな。
俺たちは、しばらく風の音を聞いていた。
◇
やがて。
――ホォォ……。
低い音が、遠くから聞こえてきた。
……あ。
俺は顔を上げた。
風笛石だ。
オルドも頷いた。
「……よし。戻ったな」
……ん?
俺は首を傾げた。
「風の流れが落ち着いてきたんだ。もう少ししたら、動ける」
……なるほど。
俺は石柱の方へ目を向けた。
風が吹く。
石の穴を通る。
音が鳴る。
……うん。
さっきまで、ただの不思議な音だと思っていた。
でも、今は少し違って聞こえる。
この丘で暮らす人たちにとっては、大切な知らせなんだ。
俺は静かに身体を揺らした。
しばらくして、オルドが立ち上がった。
「行くぞ。日が落ちる前にカナートへ着きたい」
……お。
俺たちも立ち上がった。
ルナが荷物を確かめる。
俺も留め具を締め直した。
……よし。
今度は、飛ばされないように。
俺たちは、再び丘を登り始めた。
◇
頂上へ近づくにつれ、景色が大きく変わった。
草原が広がり、その向こうには深い谷。
さらに遠くには、山々が連なっている。
……おお。
すごいな。
俺は思わず足を止めた。
レムナでは、川と水路の景色ばかり見ていた。
でも、ここからは違う。
地面が大きく波打ち、遠くまで丘が続いている。
そして、その間を。
……あ。
何かが飛んでる。
俺は顔を上げた。
さっきのフウバネだ。
今度は、もっと多い。
10匹以上の群れが、谷の上を滑るように進んでいた。
薄い翼が、夕方の光を受けて輝いている。
……綺麗だな。
俺はしばらく見つめていた。
だが、そのとき。
オルドが、少し得意そうに言った。
「……ほれ。あれがカナートだ」
……え?
俺は顔を向けた。
彼が指していたのは、丘の向こう側。
風の弱い谷間だ。
そこに、小さな集落が広がっていた。
……おお。
建物だ!
ただし、レムナとは随分違う。
屋根は低く、丸みを帯びている。
壁には大きな石が使われ、家と家の間には風除けの柵が並んでいた。
そして、何より目を引いたのは。
……あれ。
風車?
大きな羽根を持つ塔が、集落の中に何本も立っている。
風を受けて、ゆっくり回っていた。
……へえ。
風の力を、使ってるんだな。
俺は少し興味を持った。
すると、オルドが笑った。
「カナートは、風と一緒に暮らす村だ」
……風と一緒に。
俺は、その言葉を頭の中で繰り返した。
水の町、レムナ。
そして、風の村、カナート。
……なるほど。
面白いな。
同じ世界でも、暮らし方は随分違うんだ。
俺は少し嬉しくなった。
だが、そのとき。
――ヒュウウッ!
頭上を、何かが通り過ぎた。
……っ!
俺は反射的に身を低くした。
またフウバネか!?
そう思って顔を上げる。
だが。
……違う。
空を飛んでいるのは、巨大な布の翼だった。
木の枠に張られた、薄い布。
その中央には。
……え?
人がいる!?
俺は目を見開いた。
人間が、布の翼へ身体を預けている。
そして、谷から吹き上がる風に乗り、滑るように空を進んでいた。
……おいおい。
何だ、あれ!?
俺は思わず、身体を持ち上げた。
ルナも驚いたように空を見上げている。
「……人間が、飛んでおるぞ」
……ああ。
俺も、そう見える。
オルドが笑った。
「風帆だよ」
……風帆?
「この村の連中が使う、空を渡るための道具さ」
……。
…………。
……ええっ!?
俺は、もう1度空を見上げた。
人間を乗せた風帆は、谷の上を大きく旋回している。
やがて、集落の端にある広い木の台へ向かい、ゆっくり高度を下げた。
そして。
――ふわっ。
見事に着地した。
……おお。
すごい。
本当に、飛んでた。
俺はしばらく、その場所を見つめていた。
昨日、俺は風に飛ばされた。
ただし、あれは自分で飛んだんじゃない。
風に持っていかれただけだ。
でも。
今の人間は違った。
自分で進む方向を選び、風を利用して、狙った場所へ降りていた。
……なるほど。
そうか。
飛ぶって、ああいうことなのか。
俺は少し興奮した。
いや。
もちろん、すぐに真似できるとは思わない。
でも。
……いつか。
俺も、あんなふうに飛べたら。
どんな景色が見えるんだろうな。
俺は遠くの空へ目を向けた。
そのとき、ルナが隣で言った。
「……ノア」
……ん?
俺は顔を向けた。
ルナは、少しだけ目を細めていた。
「……貴様、また飛びたくなったであろう?」
……。
…………。
……はい。
俺は素直に頷いた。
すると、ルナは大きくため息をついた。
「……まったく」
……いや。
今回は、ちゃんと考えてからにするよ。
俺は触手を小さく揺らした。
ルナは、しばらく俺を見つめていた。
それから。
「……ふん」
小さく笑った。
「ならば、我も一緒に乗せるのだぞ」
……え?
俺は少し驚いた。
ルナは、空を見上げている。
「我も、あの景色を見てみたい」
……ああ。
そうか。
俺は、少しだけ身体を持ち上げた。
……よし。
だったら。
いつか、2人で飛んでみよう。
俺は短く答えた。
「……いっしょ」
ルナが頷く。
「うむ」
風が吹く。
丘の向こうでは、風笛石が静かに鳴っている。
そして、眼下には風の村カナート。
空には、まだ何匹ものフウバネが舞っていた。
……さて。
次は、何を覚えようか。
俺は少しだけ身体を揺らした。
だが、今度は。
風に飛ばされないよう、しっかり地面へ脚をつけたままだった。




