第3部 第20話 水が来る前に
「畑を、水に沈めさせてください」
イーラがそう告げたとき、ベルダはしばらく黙っていた。
俺も、すぐには動けなかった。
昨日、ようやく水の逃げ道を見つけたばかりなのに。
その場所を、今度は水で満たすという。
……何で、そうなるんだ?
俺は足元の畑を見た。
丁寧に並べられた苗。手入れされた果樹。畝の間に敷かれた小石。
何年もかけて作られた場所だ。
それを、今日。
水の底へ沈める。
「……理由を聞かせておくれ」
ベルダが静かに尋ねた。
イーラは頷き、古い地図を広げた。
「上流から、予想以上の増水が来ています」
その声には、いつもの落ち着きがあった。
ただし、表情は厳しい。
「このままでは、旧南水路だけでなく、市街地の運河にも負担がかかります。東の排水路を使う必要があるんです」
……上流から?
俺は空を見上げた。
レムナは晴れている。
雲はあるが、雨が降りそうには見えない。
それなのに、川の水が増えるのか。
「川は、ここだけで流れておるわけではないからな」
ルナが俺の隣で言った。
「ああ。上流で大雨が降ったらしい」
ジェドが頷いた。
「今朝、北から来た荷船が知らせてくれたんだ。水位が急に上がってるってな」
……なるほど。
川って、そういうものか。
目の前が晴れていても、遠くで降った雨が流れてくる。
考えてみれば当たり前だ。
ただ、今まで俺が経験してきた水の流れとは、規模が違う。
「町の主要な水門は操作を始めています」
イーラが続けた。
「でも、地下の古い設備はまだ応急修理の段階です。増水した水を安全に逃がすには、この調整池も使わなければなりません」
……調整池。
俺は、もう1度畑を見た。
昨日、ネリが教えてくれた。
この場所は、昔は洪水対策のために使われていたらしい。
普段は水を溜めず、大雨のときだけ余分な水を受け入れる。
そして、東の排水路から町の外へ流す。
……つまり。
今日は、その本来の役目を果たす日なんだな。
ただし。
その上には、今、畑がある。
◇
「……そうかい」
ベルダは、ゆっくり頷いた。
「なら、仕方ないね」
……え?
俺は顔を上げた。
随分、あっさりしている。
いや。
本当に、そうか?
俺がベルダを見つめていると、彼女は少し笑った。
「そんな顔をするんじゃないよ」
……いや。
だって。
昨日、あれだけ大切にしている畑だって聞いたばかりなんだぞ。
ベルダは小さな苗へ目を向けた。
「そりゃ、惜しいさ。ここまで育てるのに、随分かかったからね」
……そうだろうな。
「でも、畑を守るために町を水浸しにしちゃ、本末転倒だろう?」
……。
俺は返事ができなかった。
ベルダは続けた。
「それに、全部駄目になると決まったわけじゃない。動かせるものは動かせばいいんだよ」
……あ。
俺は周囲を見渡した。
苗。
鉢植え。
道具。
収穫前の野菜。
……そうか。
全部を守れなくても。
今からできることは、まだある。
俺は身体を持ち上げた。
「……てつだう」
ベルダが顔を向けた。
「いいのかい?」
俺は頷いた。
「……やる」
ルナも隣で胸を張った。
「うむ。我らに任せよ!」
ベルダはしばらく俺たちを見つめていた。
それから、柔らかく笑った。
「……じゃあ、頼もうかね」
◇
準備は、思っていた以上に慌ただしかった。
バルドが水運組合の作業員を連れてきて、畑の入口へ荷車を並べる。
ジェドは東側の古い排水溝を確認し、土砂が残っていないか調べ始めた。
ネリとイーラは水位を測るため、石壁へ目盛りのついた板を取りつけている。
そしてドーラは、倉庫から運んできた木材を使い、低い場所へ仮の水除けを設置していた。
……すごいな。
みんな、迷いがない。
いや。
迷っている暇がないのか。
「ノア!」
ベルダが手招きした。
……ん?
俺は近づいた。
彼女は小さな苗箱をいくつも並べていた。
「これを、あの坂の上まで運んでくれるかい?」
……了解。
俺は身体から4本の短い脚を作った。
その上に、平たい台を形成する。
《構造形成》。
……よし。
苗箱を載せられるな。
ただし、無理に数を増やすと身体が薄くなる。
俺は大きめの箱を2つだけ載せた。
「……いく」
ベルダが笑う。
「頼もしいねえ」
俺はゆっくり歩き始めた。
……お。
意外と重い。
でも、これくらいなら運べる。
坂の上には、作業員たちが苗箱を並べる場所を作ってくれていた。
俺はそこへ荷物を置き、再び畑へ戻る。
1往復。
2往復。
3往復。
……よし。
結構、運べたな。
最初は少し不安だったが、身体の形を工夫すれば、荷車のような使い方もできるらしい。
ただし。
……これ。
戦うときより、地味に疲れるな。
そんなことを考えていると、ルナが隣を通り過ぎた。
口には、小さな布袋をくわえている。
……ん?
何を運んでるんだ?
ルナは袋を坂の上へ置くと、こちらを向いた。
「種だそうだ。濡らしては困るらしい」
……あ。
なるほど。
苗が駄目になっても、種が残ればまた育てられる。
……うん。
大切な荷物だな。
俺が頷くと、ルナは得意そうに尻尾を振った。
「貴様ばかり働かせては、相棒として面目が立たぬからな」
……はは。
それは頼もしい。
俺たちは、それぞれ荷物を運び続けた。
◇
昼を少し過ぎた頃。
ジェドが、石段を駆け上がってきた。
「水が上がり始めたぞ!」
……っ。
俺は動きを止めた。
畑の西側。
昨日、水が流れ始めた石壁の近くから、細い水音が聞こえている。
最初は、昨日と同じくらいだった。
だが、しばらくすると。
――ざあっ。
……おい。
増えてないか?
俺は水際へ触手を伸ばした。
《水流感知》。
……っ。
強い。
昨日とは、まるで違う。
西側から、絶えず水が流れ込んでいる。
しかも、少しずつ勢いが増していた。
「予定より早いわね」
ネリが測定板を確かめた。
イーラはすぐにバルドへ声をかけた。
「作業員を低い場所から下げてください。残った荷物は、もう諦めましょう」
「分かった!」
……え。
俺は畑を見た。
まだ、苗が残っている。
道具もある。
あれを全部置いていくのか?
俺は思わず、身体を伸ばしかけた。
そのとき。
「ノア」
ルナが俺の前へ立った。
……ん?
「もう十分だ」
……でも。
俺は苗の方を指した。
「……まだ」
ルナは静かに首を振った。
「全部を運ぼうとすれば、貴様まで巻き込まれる」
……。
俺は動きを止めた。
確かに。
水は、もう畝の間へ入り始めている。
このまま進めば、足元も見えなくなるだろう。
……くそ。
あと少しだったのに。
俺が身体を低くすると、ベルダが近づいてきた。
「もういいよ」
……え?
彼女は、ゆっくり笑った。
「随分、助けてもらった。あとは水に任せよう」
……でも。
俺は言葉を探した。
あんなに大切にしていた畑なのに。
こんなに簡単に、諦めていいのか?
ベルダは、俺の気持ちを察したらしい。
「諦めるんじゃないよ」
……ん?
「残せるものを残して、次へ進むんだ」
……。
俺は、ゆっくり顔を上げた。
ベルダは坂の上を指した。
そこには、俺たちが運んだ苗箱が並んでいる。
布袋へ詰められた種。
収穫した野菜。
そして、植木鉢へ移された小さな苗木。
……ああ。
そうか。
確かに。
全部がなくなるわけじゃない。
……よし。
俺は頷いた。
「……わかった」
ベルダは満足そうに笑った。
俺たちは、畑の高い場所へ引き上げた。
◇
水は、思っていたより速く広がった。
最初に西側の低い畝が沈んだ。
続いて、中央の小道。
それから、花壇の周囲へ。
……すごいな。
俺は坂の上から眺めていた。
昨日まで、普通に歩けた場所だ。
そこへ、少しずつ水が溜まっていく。
水面が広がるにつれて、畑の輪郭が変わっていった。
……本当に、池になるんだな。
俺は少し驚いた。
ネリは測定板を確かめながら、記録をつけている。
「東側への流れも確認できてるわ。このままなら、計画どおりね」
……お。
順調なのか。
俺は少し安心した。
だが、そのときだった。
――ガコンッ!
……ん?
東側から、嫌な音がした。
俺は振り返った。
古い排水溝。
昨日、俺とルナが水の道を開いた場所だ。
その上には、細い木製の橋が架かっている。
ベルダが畑へ入るために使っていた、小さな橋だ。
その橋の片側が、大きく傾いていた。
……あれ?
何か、まずくないか?
「……ジェド!」
俺が声を出すより早く、ドーラが叫んだ。
「東の橋が落ちる!」
――バキッ!!
……っ!
木の橋が折れた。
次の瞬間、太い梁が排水溝へ落ちる。
――ドボンッ!
水が跳ね上がった。
……おいおい!
俺は思わず身体を持ち上げた。
折れた木材が流れに押され、排水溝の狭い部分へ引っかかってしまった。
その周囲へ、小枝や水草が集まっていく。
……まずい。
これ。
また詰まるんじゃないか?
俺はすぐに水際へ触手を伸ばした。
《水流感知》。
……っ!
やっぱり。
排水溝へ入っていた水が、途中で止まり始めている。
流れきれない水が横へ広がり、低い堤の方へ向かっていた。
その堤の向こうには、畑だけじゃない。
倉庫や住宅もある。
……くそっ。
ここで詰まったら、何のために畑を沈めたのか分からないぞ!
◇
「流木を抜くぞ!」
ジェドが叫んだ。
バルドもすぐに動いた。
だが、流木は簡単には動かない。
太い梁が石壁へ斜めに引っかかり、水圧で押しつけられている。
しかも、周囲には細かな枝まで絡まっていた。
……これ。
力任せに引いたら、余計に崩れるかもしれないな。
俺は水の流れを見つめた。
《水流感知》。
……。
梁の手前では、水が滞っている。
でも、下側にはまだ細い流れが残っていた。
……あ。
完全には塞がってない。
だったら。
俺はドーラの方を向いた。
「……なわ!」
彼女が顔を上げる。
「縄?」
俺は流木を指した。
「……ひく!」
ドーラは一瞬、考えた。
それから、はっとしたように頷く。
「……なるほど。横から引けばいいのか!」
……そう!
ただし、引く方向が重要だ。
真正面からでは、水の力に逆らうことになる。
でも、斜め横へずらせば、石壁との噛み合わせが外れるかもしれない。
「バルド! 巻き上げ器はあるかい!」
「荷車に積んでる!」
「持ってきておくれ! 流木を横へ引く!」
……よし。
俺は少し安心した。
だが、問題がある。
誰が縄を流木へ結ぶんだ?
作業員が水へ入るには、流れが強すぎる。
それに、梁の周囲には折れた木材が突き出している。
……なら。
俺の出番だな。
俺は自分の身体を確かめた。
《水流感知》。
《水圧耐性》。
《緩衝膜》。
それから、噴射移動。
……うん。
今なら、できるかもしれない。
「……いく」
俺が言うと、ルナがすぐに振り返った。
「ノア!」
……分かってる。
無理はしない。
俺は触手を持ち上げた。
「……なわ、つける」
ルナはしばらく俺を見つめていた。
それから、短く頷いた。
「……我は、こちらで待つ」
……おう。
頼む。
俺はドーラから太い縄を受け取った。
その端に、大きな輪が作られている。
これを流木へ引っかければいいらしい。
……よし。
俺は身体の中央へ、いつもの命綱用の輪を作った。
ジェドが命綱を確かめる。
「危なかったら、すぐ戻れ!」
……了解。
俺は慎重に、水へ入った。
◇
水中は、想像以上に激しかった。
《水流感知》。
強い流れが、あちこちでぶつかっている。
流木へ近づくほど、水は複雑に渦を巻いていた。
……くそ。
これは、厄介だな。
俺は身体を細くした。
《構造形成》。
水の抵抗を減らす。
さらに、後方へ小さな噴出口を2つ作る。
……よし。
左右で細かく調整しながら進もう。
――シュッ。
水を噴き出す。
身体が斜め前へ進んだ。
……お。
いける。
だが、すぐに別の流れへ押された。
……っ!
俺は反射的に《緩衝膜》を広げた。
水圧を受け止め、そのまま横へ逃がす。
……よし。
今度は、流れに逆らわない。
斜めに滑る。
その先には、流木がある。
……あと少し。
俺は触手を伸ばした。
《粘着性》。
梁の表面へ固定する。
――ぴたっ。
……よし!
捕まえた。
ただし、ここからが難しい。
流木は、石壁へ強く押しつけられている。
その周囲を、太い縄で囲まなければならない。
……どうする。
俺は木材の下側へ、細い触手を伸ばした。
《構造形成》。
先端を薄く、柔らかくする。
……よし。
通れる。
反対側へ触手を回し、縄の輪を引き寄せる。
……もう少し。
そのとき。
――ガンッ!
流木が、大きく揺れた。
……っ!?
まずい!
俺は反射的に身体を縮めた。
周囲の水が、一気に押し寄せる。
《水圧耐性》。
《緩衝膜》。
……くっ!
重い!
俺は石壁へ身体を固定しようとした。
だが、流れが強すぎる。
……駄目だ。
このままでは、身体が削れる。
俺は固定を一度諦めた。
そして、流れに合わせて少しだけ移動する。
……よし。
今だ!
俺は水を取り込み、横向きへ噴き出した。
――シュバッ!
身体が流木の陰へ滑り込む。
……っ!
抜けた!
俺はすぐに、縄を反対側へ回した。
《粘着性》。
輪を引っかける。
……よし!
できた!
俺は命綱を引いた。
1回。
作業完了の合図。
しばらくして、上から返事が来た。
……よし。
あとは戻るだけだ。
俺は流木から離れ、水の流れに沿って慎重に移動した。
そして。
――ざばっ!
水面へ戻った。
「ノア!」
ルナが駆け寄ってきた。
……ふう。
疲れた。
でも。
「……できた!」
俺が言うと、ルナは大きく頷いた。
「うむ。見事だ!」
……おう。
俺は少し嬉しくなった。
だが、まだ終わりじゃない。
ここからは、みんなの仕事だ。
◇
「引くよ!」
ドーラの声が響いた。
バルドと作業員たちが、巻き上げ器へ力を込める。
――ギギギッ。
太い縄が張る。
流木が、少しだけ動いた。
……お。
いけるか?
だが、すぐに止まった。
――ギシッ。
……っ。
駄目か。
俺は水面を見た。
梁は、まだ石壁へ引っかかっている。
ただし、少し角度が変わった。
……あ。
あと少し。
俺はルナを見た。
「……ルナ!」
ルナはすでに構えていた。
「分かっておる!」
……頼む!
ルナは流木の端へ目を向けた。
「《衝撃》!」
――ドンッ!
短い衝撃が、木材の端を叩いた。
……っ!
梁がわずかに動く。
その瞬間。
「今だ! 引け!」
ドーラが叫んだ。
――ギギギギッ!
巻き上げ器が回る。
縄が張り、梁の端が石壁から離れた。
……おお!
動いた!
だが。
――ゴォッ!
水が、一気に流れ始めた。
……っ!?
勢いが強い!
俺は反射的に身体を低くした。
流木が動いたことで、溜まっていた水が排水溝へ集中したらしい。
……まずい!
このままだと、梁が流される!
俺は水面へ触手を伸ばした。
だが。
……いや。
違う。
ここで俺が押さえても、力が足りない。
俺はすぐに顔を上げた。
「……なわ! ひく!」
ドーラが頷く。
「分かってる!」
作業員たちが、さらに巻き上げ器を回した。
流木が、ゆっくり横へ移動する。
その間に、水は古い排水溝へ流れ込んでいく。
……よし。
いいぞ。
さらに、もう少し。
――ザァァッ!!
流木が、完全に水路から外れた。
……っ!
おお!
抜けた!
俺は思わず身体を持ち上げた。
その直後。
水面が、大きく下がり始めた。
……あ。
流れてる。
さっきまで滞っていた水が、東の排水溝へ向かって勢いよく流れていく。
……よし。
本当に、通った!
俺は少しの間、その景色を見つめていた。
だが、ネリがすぐに声を上げた。
「まだ全員、低い場所へ戻らないで! 水位が安定するまで待ちましょう!」
……あ。
そうだった。
俺は慌てて安全な場所へ戻った。
◇
夕方。
増水の勢いは、少しずつ落ち着き始めていた。
調整池には、広い水面ができている。
昨日まで畑だった場所。
今は、静かな池だ。
……本当に、沈んじゃったな。
俺は坂の上から眺めた。
水の底には、野菜の畝が見える。
石で囲まれた花壇も、半分ほど沈んでいた。
ただし。
中央の果樹だけは、水面から枝を伸ばしている。
……お。
あれ、残ってるんだ。
俺は少し安心した。
ベルダも、同じ場所を見ていた。
「……あの木は、丈夫だからねえ」
……そうなのか。
彼女は小さく笑った。
「根がしっかり張ってるんだ。少しくらい水に浸かっても、すぐには駄目にならないさ」
……へえ。
俺は木を見つめた。
水面から伸びる枝。
その先には、小さな葉が揺れている。
……うん。
何だか、いいな。
全部が元どおりじゃない。
でも、全部なくなったわけでもない。
ネリが近づいてきた。
「水位の上昇が落ち着いたわ。東側の排水路も、今のところ問題なく流れている」
……お。
よかった。
「主要水門の操作と合わせて、市街地への水の流入を抑えられたみたい」
……なるほど。
俺は少し嬉しくなった。
ただし、ネリは続けた。
「今日の対応で危険な場所も分かったわ。仮の設備ばかりだから、今後は本格的な修理が必要になる」
……うん。
そうだな。
「それから、畑の被害についても町へ報告する。協力をお願いした以上、そのままにはできないから」
ベルダが頷いた。
「頼むよ。私だけじゃ、どうにもならないからね」
……ああ。
それは、大切だ。
人の暮らしを守るために、誰かが大切なものを失う。
だったら、その負担を1人だけに押しつけるのは違うよな。
俺は、ゆっくり身体を持ち上げた。
……うん。
今日は、色々考えさせられたな。
◇
帰り道。
俺たちは、レムナ東部の橋を渡っていた。
遠くには大河。
その手前には、町の運河が広がっている。
水位はいつもより高い。
だが、船は安全な場所へ移され、岸辺には作業員たちが残っていた。
……なるほど。
まだ、全部終わったわけじゃないんだな。
俺は橋の上で足を止めた。
すると、ルナが隣へ来た。
「……ノア」
……ん?
「今日は、随分と考え込んでおるな」
……まあな。
俺は少し笑った。
今日、俺たちは畑を沈めた。
それは、町を守るために必要なことだった。
でも、ベルダにとっては大切な場所だった。
……難しいな。
強くなれば、何でも守れると思っていたわけじゃない。
それでも。
できることが増えれば、もっと色々なものを守れるんじゃないか。
そんなふうに考えていた。
……でも。
現実は、そう簡単じゃない。
俺が黙っていると、ルナが静かに言った。
「……貴様は、全部を守りたかったのであろう?」
……あ。
俺は顔を上げた。
ルナは橋の下を流れる水を見つめている。
「畑も、町も、地下の生き物たちも。どれも失いたくなかった」
……ああ。
そうだな。
俺は頷いた。
「……でも」
ルナが顔を向ける。
俺は少し考えた。
そして、短く言った。
「……ぜんぶ、むり」
ルナは、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……そういうこともある」
……うん。
俺は身体を低くした。
ルナは続ける。
「だが、何も守れなかったわけではあるまい?」
……え?
俺は顔を上げた。
「畑の苗は、随分と運んだ。種も残った。町の水路も流れておる」
……ああ。
そうだな。
「それに、あのベルダという者も、まだ笑っておったぞ」
……。
俺は少し考えた。
確かに。
ベルダは、畑が沈んだあとも笑っていた。
全部が無事だったからじゃない。
残せるものが、ちゃんと残っていたから。
……そうか。
俺はゆっくり頷いた。
「……そうだな」
ルナが目を細めた。
「ふん。貴様は、少し欲張りなのだ」
……え?
俺は顔を上げた。
「自分にできることが増えたからといって、何もかも抱え込もうとする」
……うぐっ。
心当たりがある。
ルナは少し笑った。
「だが、我はそういう貴様も嫌いではないぞ」
……。
……え?
俺は一瞬、動きを止めた。
ルナは、いつものように胸を張っている。
「もっとも、無茶をするなら止めるがな」
……ああ。
そういうことね。
俺は思わず身体を揺らした。
でも。
少し、嬉しかった。
俺は触手を伸ばし、ルナの前脚へ軽く触れた。
「……ありがと」
ルナが頷く。
「うむ」
それから、少しだけ得意そうに言った。
「貴様が欲張る分、我が周りを見てやろう」
……お。
それは、心強い。
俺は小さく笑った。
「……たのむ」
ルナが尻尾を持ち上げた。
「任せよ!」
……うん。
やっぱり、いい相棒だな。
俺たちは並んで歩き始めた。
銀色の鈴が、2つ鳴る。
――ちりん。
――ちりん。
◇
その夜。
レムナの市街地では、大きな浸水被害は出なかった。
東の調整池は水を受け止め、古い排水路は町の外へ水を逃がし続けた。
もちろん、仮設の水除けが傷んだ場所や、畑が水に浸かった場所はある。
翌日からは、その復旧作業が始まるだろう。
だが、少なくとも。
町の人たちは、今夜も自分の家で眠れる。
地下の水域では、大きな魔物たちが、変わらず泳いでいるはずだ。
そして、東の調整池では。
水面から伸びる1本の果樹が、夜風に葉を揺らしていた。
俺は宿の窓から、大河の方を眺めていた。
……よし。
今日は、本当に疲れたな。
水の流れを読み、身体を変えて、流木へ縄を通した。
それだけでも十分大変だった。
でも、それ以上に。
何を守るか。
何を残すか。
どうすれば、次へ繋げられるか。
……そういうことを、たくさん考えた。
俺は自分の身体を見た。
できることは、確実に増えている。
水の中を速く動ける。
深い場所にも潜れる。
硬くも、柔らかくもなれる。
そして、誰かと力を合わせることも覚えてきた。
……うん。
もっと強くなりたいな。
ただ、敵を倒すためだけじゃない。
もっと多くの選択肢を持てるように。
俺は静かに身体を丸めた。
隣では、ルナが寝台の上で目を閉じている。
「……ノア」
……ん?
「明日は、少し休むぞ」
……ああ。
そうだな。
今度こそ、ちゃんと休もう。
俺が頷くと、ルナは満足そうに笑った。
「うむ。では、約束だ」
……おう。
約束。
俺は窓の外へ、もう1度目を向けた。
夜のレムナ。
静かな運河。
そして、遠くへ続く大河。
この町へ来てから、随分いろんなことがあった。
でも。
そろそろ、また旅に出てもいい頃かもしれない。
この町で覚えたことを持って。
ルナと一緒に。
まだ知らない場所へ。
……そんなことを考えながら。
俺は、ゆっくり意識を落としていった。




