第3部 第19話 水のない池に波が立つ
「……ここが貯水池?」
俺は思わず、目の前の景色を見渡した。
水はない。
魚もいない。
代わりに、畑があった。
きれいに並んだ野菜の苗。細い水路で区切られた花壇。そして、中央には小さな果樹まで植えられている。
……いやいや。
どう見ても、普通の菜園じゃないか。
「昔は、ここ一面が水だったそうよ」
ネリが地図を広げながら答えた。
「今では想像しにくいでしょうけどね」
……確かに。
レムナ東部に残る、古い貯水池。
昨日、南第6倉庫の排水路を調べたことで、ここへ繋がる分岐があると分かった。
そこで、今日はこちらを調べることになったわけだ。
ただし。
……うーん。
水がない場所を調べるのって、俺の出番あるのか?
俺は自分の触手を見た。
《水流感知》は、流れる水へ触れなければ使えない。
《水圧耐性》も、陸の上ではほとんど出番がない。
せっかく水中での動きに慣れてきたのに。
……今日は、地味な仕事になりそうだな。
「ノア」
ルナが隣から声をかけた。
「その顔は、何か不満があるな?」
……え?
俺は顔を上げた。
「水がないから、つまらぬのであろう?」
……。
何で分かるんだよ。
ルナは得意そうに鼻を鳴らした。
「ふん。貴様の考えることなど、お見通しだ」
……そうですか。
俺は触手を小さく揺らした。
まあ、いい。
調査は調査だ。
今日は何が見つかるか、分からないしな。
◇
「話は聞いてるよ。好きに調べておくれ」
貯水池の管理を任されているベルダは、背の曲がった小柄な女性だった。
灰色の髪を後ろでまとめ、土のついた作業着を着ている。
手には小さな鍬。
いかにも、毎日畑を世話している人という感じだ。
「ただし、育ててる野菜は踏まないでおくれよ」
……了解。
俺はすぐに頷いた。
ルナも胸を張る。
「うむ。心得た」
ベルダは、そんな俺たちを見て少し笑った。
「変わった調査員さんたちだねえ」
……まあ。
否定はできないな。
ネリが古い図面を見せる。
「この場所には、昔、南排水路から水が入ってくる仕組みがあったはずなんです」
「へえ。そんなものがねえ」
ベルダは畑の向こうを指した。
「なら、あの辺りじゃないかい?」
……ん?
俺たちは彼女が指した方へ目を向けた。
貯水池の端。
そこには、低い石壁が残っていた。
表面には苔が生え、ところどころが土に埋まっている。
「昔から、あの壁の近くだけ土が湿りやすいんだよ」
……湿りやすい?
俺は少し興味を持った。
ベルダは続ける。
「昨日なんか、雨も降ってないのに水が滲んできてね。朝には少し乾いてたけど、変なこともあるもんだ」
……昨日?
俺はネリを見た。
彼女も、こちらを見返していた。
「……昨日、南第6倉庫の排水門を動かしたわよね」
……あ。
そうだった。
詰まっていた水路を直し、溜まっていた水が流れるようにした。
そのあとで、こちらの土が湿った?
……もしかして。
俺は石壁へ向かった。
◇
石壁の周囲には、細かな草が生えていた。
だが、ベルダの言うとおり、壁の根元だけ土の色が濃い。
俺は触手を伸ばした。
……お。
確かに、湿ってる。
さらに、石の表面へ身体を当てる。
《微振動感知》。
……。
最初は、何も分からなかった。
遠くで荷車が通る振動。
風に揺れる枝のかすかな動き。
それから。
……ん?
俺は少し意識を集中した。
石壁の奥。
かなり弱いが、何かが揺れている。
一定の間隔ではない。
細かな振動が、重なり合っている。
……あ。
これ。
水が流れてる音じゃないか?
俺は触手を持ち上げた。
「……ここ」
ネリが近づいてくる。
「何か分かった?」
俺は壁を指した。
「……した、みず」
「壁の下に水があるの?」
俺は頷いた。
ただし、水そのものへ触れたわけじゃない。
石を通じて、流れらしい振動を感じただけだ。
……そうだ。
ちゃんと確かめないとな。
俺は壁の隙間を探した。
石と石の間。
苔の下。
土に埋まった細い亀裂。
……お。
あった。
小さな隙間から、ほんの少しだけ水が滲み出している。
俺は触手の先端を細くした。
《構造形成》。
そして、隙間へ滑り込ませる。
……よし。
奥まで届いた。
冷たい。
触手の先が、水に触れた。
《水流感知》。
……っ。
おお。
やっぱり!
水が流れてる!
それも、思っていたより速い。
俺は身体を持ち上げた。
「……みず! ながれる!」
ネリの表情が変わった。
「本当に?」
俺は頷いた。
「……した!」
ベルダが驚いたように目を丸くした。
「畑の下に川でもあるのかい?」
……川かどうかは分からないけど。
少なくとも、水路はあると思う。
ネリは地図を広げた。
「位置は……ここね」
俺たちは図面を覗き込んだ。
貯水池の西側。
南第6倉庫から東へ伸びる、古い分岐水路。
その先端が、ちょうど今いる石壁の下へ続いている。
……なるほど。
やっぱり、繋がってたんだな。
ネリは慎重に言った。
「倉庫の排水門を動かした影響で、こちらへも水が入り始めた可能性があるわ」
……ああ。
そういうことか。
ただし。
俺は周囲を見渡した。
今のところ、畑が水浸しになっている様子はない。
だったら、水はどこかへ流れているんだろうか。
「……ん?」
ルナが突然、顔を上げた。
……どうした?
俺は振り返った。
ルナは石壁の向こうを見つめている。
「……妙な音がする」
……音?
俺は身体を持ち上げた。
ルナは少し離れた場所へ歩き出した。
その先には、小さな果樹が植えられている。
「この辺りだ」
……ん?
俺も近づいてみた。
特に変わったものは見えない。
だが、ルナはじっと地面を見つめていた。
「下から、空気が上がってきておる」
……空気?
俺は少し驚いた。
ルナは鼻先を地面へ近づける。
「湿った匂いもする。こちらの方が強いな」
……へえ。
そんなことまで分かるのか。
俺は地面をよく見た。
草の間に、小さな穴が並んでいる。
そこから、冷たい空気が流れてきていた。
……なるほど。
これは、換気口みたいなものか?
俺はベルダを呼んだ。
「……ここ」
「ん?」
彼女は近づき、地面を覗き込んだ。
「ああ、そこかい。昔から風が出てくる場所だよ」
……昔から?
「冬になると、あそこだけ霜がつきにくいんだ。不思議だねえって、みんなで話してたんだよ」
……へえ。
俺は地面を見つめた。
もしかすると。
この下には、思っているより広い空間があるのかもしれない。
◇
「……石の蓋ね」
ネリが呟いた。
草と土を慎重に払いのけると、その下から四角い石板が現れた。
表面には、3本の曲線が刻まれている。
……あ。
また、この印か。
古い点検設備に使われているものだ。
「この下に、何かあるはずよ」
ネリは石板の端を確かめた。
ただし、すぐには動かさなかった。
「ベルダさん。ここを開けても大丈夫でしょうか?」
「畑を壊さないなら構わないよ。もともと石の下には何も植えてないしね」
……お。
ありがたい。
俺は少し安心した。
ネリは周囲を確かめ、持ってきた道具で石板を少しずつ持ち上げた。
俺も横から触手を差し込み、隙間を支える。
《硬質外皮》。
ただし、無理に持ち上げようとはしない。
俺の役目は、動いた石板が急に落ちないよう位置を確かめることだ。
……よし。
もう少し。
――ゴトッ。
石板が横へ動いた。
その下には、暗い空間があった。
……おお。
やっぱり。
俺は目を凝らした。
石造りの縦穴。
その底には、水面が見える。
しかも、かなり深い。
……へえ。
こんな場所に。
ネリが携帯用の灯りを下ろした。
淡い光が、石の壁を照らす。
そして。
……あ。
俺は少し驚いた。
縦穴の壁には、細い横線が何本も刻まれていた。
まるで、水位を測るための目盛りみたいだ。
その上には、小さな文字も並んでいる。
……何だろう。
俺には読めないな。
ネリが灯りを近づけた。
「……これ」
……ん?
彼女の声が、少し変わった。
「ただの点検口じゃないわ」
……え?
俺は顔を上げた。
ネリは、壁の文字を指した。
「古い水位標記よ。ここで、池に溜まる水の高さを管理していたみたい」
……なるほど。
やっぱり、貯水池だったんだな。
そう思ったが。
ネリは、さらに下の文字を見つめていた。
「……待って」
……ん?
「これ、貯水量の記録じゃない」
……え?
俺は少し首を傾げた。
ネリは文字を指でなぞる。
「水がどの高さまで来たら、どの水路へ逃がすか。その目安が刻まれているの」
……水を逃がす?
俺は図面を見た。
南第6倉庫から伸びる水路。
貯水池へ繋がる分岐。
そして、その先には、まだ確認できていない東側の通路。
……あ。
そういうことか。
俺は、ようやく気づいた。
この貯水池。
水を貯めておくだけの場所じゃなかったんだ。
水が増えすぎたとき。
町の地下水路へ負担がかからないよう、余分な水を受け入れる。
……そういう場所だったのかもしれない。
「……なるほど」
ネリも同じことを考えたらしい。
「昔の洪水対策用の調整池だった可能性が高いわね」
……調整池。
俺は、もう1度周囲を見渡した。
今は野菜が育ち、人が歩いている。
でも、昔はここへ水が流れ込むことを前提に造られていた。
……へえ。
面白いな。
ただ。
俺は少し考えた。
もし、また大量の水が入ってきたら。
……この畑、どうなるんだ?
◇
「……つまり、うちの畑が水に沈むかもしれないってことかい?」
ベルダの声が、少し低くなった。
ネリはすぐに頷いた。
「その可能性があります。ただ、今すぐ危険というわけではありません」
……うん。
まだ、どれほど水が流れ込むか分からないからな。
ネリは続けた。
「昔は大雨のときに使っていた施設のようです。今は水路が一部塞がれているかもしれませんし、現在の水の流れに合っているかも調べる必要があります」
……なるほど。
すぐに元どおり使えるわけじゃないんだな。
ベルダはしばらく黙っていた。
それから、畑へ目を向けた。
「……ここで野菜を育て始めたのは、もう随分前のことだよ」
……。
俺は静かに聞いていた。
「最初は、ただの荒れ地だった。石ころだらけで、誰も近づかなかったんだ」
ベルダは小さな苗を見つめた。
「それを少しずつ耕して、水を引いて、ようやく今の畑になった」
……ああ。
そうだったのか。
俺は周囲を見渡した。
きれいに並んだ苗。
石で縁取られた花壇。
手入れされた果樹。
……なるほど。
これ、簡単に作れるものじゃないよな。
何年もかけて、少しずつ育ててきた場所なんだ。
ベルダは少し笑った。
「だから、できれば水浸しにはしたくないねえ」
……うん。
そりゃ、そうだ。
俺は小さく頷いた。
だが、彼女は続けた。
「でも、ここを水の逃げ道にしないと町が困るっていうなら、そのときは考えなきゃならないだろうね」
……。
俺は少し驚いた。
ベルダは肩をすくめた。
「畑は、また耕せる。でも、人が流されたら戻ってこないからね」
……ああ。
そうだな。
俺は静かに身体を低くした。
ただし、できることなら。
この畑も、守りたい。
……何か方法がないかな。
俺は図面を見た。
水が入ってくる場所。
水を貯める場所。
そして、東へ続くはずの古い水路。
……そうだ。
水が出ていく道を、ちゃんと確かめれば。
ここへ必要以上に水を溜めなくても済むかもしれない。
俺は触手を持ち上げた。
「……ひがし」
ネリが顔を上げる。
「東側?」
俺は頷いた。
地図の先端を指す。
「……みず、いく」
ネリは少し考えた。
そして、目を細める。
「……そうね。まずはそちらを確認しましょう」
……よし。
俺は小さく身体を揺らした。
すると、ルナが隣へ来た。
「ふむ。では、我が道を探してやろう」
……お。
頼もしいな。
ルナは得意そうに尻尾を持ち上げた。
「我の目と耳を甘く見るでないぞ」
……ああ。
今日は、結構頼りにしてる。
俺は触手を伸ばし、軽く前脚へ触れた。
◇
貯水池の東側には、低い石壁が続いていた。
ただし、西側とは違い、ほとんど土に埋まっている。
草も多く、どこからが昔の施設なのか分かりにくい。
……うーん。
これじゃ、簡単には見つからないな。
俺は地図を覗き込んだ。
古い排水路は、ここから東へ伸びている。
その先は、町の外側にある低い湿地へ繋がっているらしい。
……なるほど。
もし残っていれば、そこへ水を逃がせるのか。
ルナは草の中をゆっくり歩いていた。
時折立ち止まり、地面へ鼻を近づけている。
……何か見つかったかな。
俺は少し離れて様子を見ていた。
すると。
「……ノア」
……ん?
ルナが振り返った。
「こちらへ来い」
……お。
俺はすぐに近づいた。
ルナが立っているのは、古い石壁の端。
そこには、太い木の根が何本も伸びていた。
……ん?
何だろう。
ただの木の根にしか見えないけど。
ルナは根元を指した。
「この下から、妙な音がする」
……また?
俺は少し驚いた。
今日は、ルナの方がよく見つけるな。
俺は石壁へ触手を伸ばした。
《微振動感知》。
……。
……あ。
本当だ。
水が流れているような、細かな振動。
しかも、西側より強い。
……なるほど。
俺は触手を地面へ滑らせた。
石の隙間。
木の根の下。
そこに、細長い穴がある。
……お。
これか。
俺は少しだけ、触手の先端を伸ばした。
《構造形成》。
薄く、柔らかく。
隙間へ差し込む。
……よし。
奥まで届いた。
冷たい水。
《水流感知》。
……っ。
おお!
流れてる!
しかも。
……あれ?
俺は少し首を傾げた。
水は、東へ向かっている。
だが、途中で流れが弱くなり、周囲へ広がっている。
……ん?
何かあるのか?
俺はもう少しだけ触手を伸ばした。
すると。
――ずるっ。
……っ!?
突然、地面が動いた。
……え?
俺は反射的に触手を引いた。
だが、その瞬間。
――ぼこっ。
木の根の間から、水が湧き出した。
……おい。
ちょっと待て。
そんなに水、あったのか!?
水は細い筋になって流れ始めた。
最初は、ほんの少し。
だが、次第に勢いが増していく。
……まずい。
俺はすぐにネリを呼んだ。
「……みず!」
彼女が振り返る。
「え?」
俺は水の出ている場所を指した。
「……でる!」
ネリが駆け寄ってきた。
その目の前で、水の流れがさらに強くなった。
――ざざっ。
土が削られる。
木の根の下から、小さな石が流れ出す。
……っ!
これ。
地面の中が、崩れかけてるんじゃないか?
ネリの表情が変わった。
「全員、そこから離れて!」
……了解!
俺は身体を引いた。
ルナも、すぐに後ろへ跳ぶ。
ベルダが慌てて畑の方へ戻った。
だが、そのとき。
――ゴボッ!
地面の一部が、大きく沈んだ。
……っ!?
木の根が揺れる。
石壁の端が崩れ、水が一気に流れ出した。
……おいおい!
これは、まずいぞ!
◇
「……東側の排水口が、土で塞がれていたのかもしれない!」
ネリが叫んだ。
……なるほど。
俺は水の流れを見た。
確かに、木の根の下から大量の水が湧き出している。
ただし、流れは決して無限じゃない。
地面の下に溜まっていた水が、出口を求めて押し出されているんだろう。
……じゃあ。
どうする。
力任せに塞ぐ?
いや。
それは駄目だ。
水の逃げ道がなくなれば、別の場所から噴き出すかもしれない。
俺は周囲を見渡した。
貯水池の東側。
そこには、低い石の溝が残っている。
草に埋もれているが、少し先まで続いていた。
……あ。
あれ。
昔の排水溝じゃないか?
俺はネリへ向き直った。
「……あっち!」
彼女が顔を上げる。
俺は石の溝を指した。
「……みず、いく!」
ネリは一瞬で理解したらしい。
「……なるほど。あの溝へ流せれば!」
……そう!
俺は頷いた。
ただし、問題がある。
水の出ている場所と、古い溝の間には、土が積もっていた。
しかも、太い木の根が邪魔をしている。
……うーん。
どうする。
すると、ルナが言った。
「……我が道を開こう」
……え?
俺は顔を上げた。
ルナは崩れかけた土を見つめている。
「ただし、強く叩けば余計に崩れる。ならば、端だけを少しずつ動かせばよい」
……ああ。
なるほど。
俺は頷いた。
「……たのむ!」
ルナが笑った。
「任せよ!」
彼女は石の溝の手前へ移動した。
その間に、俺は水の流れへ触手を伸ばす。
《水流感知》。
……よし。
今は、こちらへ流れている。
俺は身体を低くし、地面へ固定した。
《粘着性》。
そして、水の流れを受け止めるため、幅の広い膜を形成する。
《緩衝膜》。
ただし、水を完全に止めるつもりはない。
流れる方向を、少しだけ変える。
……よし。
俺は膜を斜めにした。
水が当たる。
――ざばっ!
……っ。
重い!
思っていたより力がある。
だが、今の俺には《水流感知》がある。
どの方向から水が押してくるのか。
どこへ流そうとすれば抵抗が少ないのか。
……分かる。
俺は膜の角度を変えた。
正面から受けず、横へ逃がす。
……よし!
水の一部が、古い溝の方へ向きを変えた。
そのとき。
「《衝撃》!」
――ドンッ!
ルナの声が響いた。
溝の手前に積もっていた土が、小さく崩れる。
……お!
通り道ができた!
俺はすぐに膜を動かした。
水を、そちらへ流す。
――ざざっ!
……よし!
水が、溝へ入った!
だが、まだ足りない。
流れの一部は、畑の方へ広がろうとしている。
……くそっ。
もう少し!
俺は身体をさらに薄く広げた。
《構造形成》。
ただし、質量が増えたわけじゃない。
膜を広げた分だけ、根元が細くなる。
……っ。
負担が大きい。
長くは持たないな。
俺は奥へ流れる水を確かめた。
……あと少し。
ルナが、もう1度《衝撃》を放った。
今度はさらに弱く、狙った土の塊だけを崩す。
――ドンッ。
古い溝の入口が、少し広がった。
……今だ!
俺は膜の角度を一気に変えた。
流れを、開いた溝へ。
――ザァッ!!
……っ!
おお!
水が、一気に流れ込んだ!
俺は反射的に身体を縮めた。
次の瞬間。
――ざざざざっ!
古い排水溝を、水が勢いよく流れていく。
……おお。
やった!
俺は少しの間、その景色を見つめていた。
水が流れる。
土の中から出てきた水が、昔の石の溝を通り、東へ向かって進んでいく。
……なるほど。
ちゃんと、道が残ってたんだ。
俺は嬉しくなった。
だが、ネリがすぐに声を上げた。
「まだ近づかないで! 地盤が落ち着くまで待ちましょう!」
……あ。
そうだった。
俺は慌てて安全な場所へ戻った。
ルナも隣へ跳んでくる。
「……ふう」
珍しく、少し息をついた。
……大丈夫か?
俺は顔を向けた。
ルナは小さく頷いた。
「うむ。少し力を使っただけだ」
……そっか。
よかった。
俺は触手を伸ばし、前脚へ軽く触れた。
「……ありがと」
ルナは得意そうに笑った。
「ふん。貴様も、なかなかよい働きだったぞ」
……おう。
今回は、結構頑張ったと思う。
俺は少しだけ身体を持ち上げた。
◇
しばらくすると、水の勢いが落ち着いてきた。
古い排水溝には、細い流れが残っている。
だが、さっきのように土が崩れることはなくなった。
……よかった。
俺は少し安心した。
ネリは離れた場所から、水位の変化を確かめていた。
「……これなら、ひとまず大丈夫そうね」
……お。
俺は顔を上げた。
「ただし、完全に安全とは言えないわ。地盤の状態も調べないといけないし、古い排水溝も補修が必要になると思う」
……ああ。
そうだな。
俺は頷いた。
ベルダが、ゆっくりこちらへ近づいてきた。
「……助かったよ」
……ん?
俺は顔を上げた。
彼女は畑を見渡している。
水が流れた場所では、少し土が削れていた。
ただし、野菜の苗はほとんど無事だった。
「最初は、全部流されるかと思った」
……ああ。
俺も、ちょっと焦った。
ベルダは小さく笑った。
「でも、あんたたちのおかげで、少し濡れたくらいで済んだよ」
……よかった。
本当に。
俺は小さく頷いた。
すると、ベルダはルナへ目を向けた。
「そっちの子も、ありがとね」
ルナが胸を張る。
「うむ。当然のことをしたまでだ」
……おいおい。
そこは、もう少し謙遜してもいいんじゃないか?
俺は少し笑った。
だが、ベルダは楽しそうに笑い返した。
「頼もしいねえ」
……まあ。
それは、間違いない。
俺は隣のルナを見た。
白銀の毛並み。
淡い紫色の瞳。
そして、いつもの得意そうな顔。
……うん。
本当に、頼りになる相棒だ。
◇
調査が一段落したあと、ネリは古い石板をもう1度確かめていた。
そこには、さっきまで土に埋もれていた文字が刻まれている。
どうやら、水が流れたことで表面の土が落ちたらしい。
「……やっぱり」
ネリが小さく呟いた。
……ん?
俺は近づいた。
彼女は図面を広げ、文字と見比べている。
「ここは、昔の洪水対策施設だったみたい」
……ああ。
やっぱり。
俺は頷いた。
ネリは続けた。
「地下水域の水が増えすぎたとき、この貯水池へ一時的に水を逃がす。そして、東側の排水路から町の外へ流す仕組みだったのね」
……なるほど。
俺は周囲を見渡した。
今は畑になっている貯水池。
その西側からは、古い水路が繋がっている。
そして東側には、水が流れ出す道が残っていた。
……うん。
ようやく、全体が見えてきた。
ネリは、静かに笑った。
「これなら、旧水門を完全に塞がなくても、町の水位を調整できる可能性があるわ」
……お。
それは、大きいな。
俺は嬉しくなった。
この数日、俺たちはずっと地下水路を調べてきた。
古い水門。
巨大な魔物。
南第6倉庫の排水門。
そして、東の貯水池。
最初は、全部別々の問題に見えていた。
だが。
……繋がってたんだ。
レムナの地下を流れる水。
その水が通る道。
そして、水を使って暮らす人間と、そこに棲む生き物たち。
……なるほど。
この町は、思っていた以上に水と一緒に生きてるんだな。
俺は少しだけ、身体を持ち上げた。
すると、ネリが言った。
「……ノア。ルナも」
……ん?
俺たちは顔を上げた。
「ここまで調べられたのは、2人のおかげよ」
……え?
俺は少し驚いた。
ネリは笑っている。
「普通の調査員だけじゃ、狭い場所へ入れないし、水の流れを直接読むこともできない。まして、崩れかけた水路の水をあんなふうに誘導するなんて、考えもしなかったわ」
……ああ。
そうか。
俺は少し嬉しくなった。
《水流感知》。
《構造形成》。
《緩衝膜》。
そして、ルナの《衝撃》。
それぞれは、別々の能力だ。
でも。
組み合わせれば、こんなことまでできる。
……うん。
やっぱり、面白いな。
強くなるって。
ただ敵を倒せるようになることじゃない。
できなかったことが、できるようになる。
誰かが困っているときに、手を貸せるようになる。
……それも、強さの1つなんだろうな。
俺は小さく頷いた。
「……うれしい」
ネリは少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「私もよ」
◇
帰り道。
俺たちは、レムナ東部の高台を歩いていた。
下には運河が広がり、その向こうには大河が見える。
夕方の光が、水面へ反射していた。
……綺麗だな。
俺は少しだけ、歩く速度を落とした。
すると、ルナが隣へ並んできた。
「……ノア」
……ん?
「今日は、貴様より我の方が活躍したのではないか?」
……え?
俺は顔を向けた。
ルナは、妙に得意そうだ。
「最初に水路の出口を見つけたのは我だろう?」
……まあ、そうだな。
「それに、最後に土を崩したのも我だ」
……うん。
確かに。
俺は少し考えた。
……反論できないな。
俺は素直に頷いた。
「……ルナ、すごい」
ルナが一瞬、動きを止めた。
「……む?」
俺はもう1度、短く言った。
「……すごい」
少しの間、ルナは黙っていた。
それから。
「……ふ、ふん」
……ん?
俺は顔を上げた。
ルナは、少しだけ視線を逸らしていた。
「当然であろう。我は、貴様の相棒なのだからな」
……ああ。
そうだな。
俺は少し笑った。
いつもなら、ここでからかってくるのに。
今日は、何だか妙に静かだ。
……まあ。
たまには、こういう反応もいいか。
俺は触手を伸ばし、ルナの前脚へ軽く触れた。
すると、荷物についた銀色の鈴が鳴った。
――ちりん。
ルナも、こちらへ少し身体を寄せてきた。
……うん。
今日は、いい仕事ができたな。
俺は遠くの大河へ目を向けた。
地下水域の謎は、少しずつ解けてきた。
水の道も、少しずつ見えてきた。
あとは、その道をどう使うか。
町の人たちと、地下で暮らす魔物たち。
どちらか一方だけじゃなく、両方が安心して暮らせるように。
……できるといいな。
俺は小さく身体を持ち上げた。
すると、ルナが笑った。
「……ノア」
……ん?
「明日は、また何か見つけるのであろう?」
……はは。
どうだろうな。
俺は少し考えた。
でも。
まだ知らない場所は、山ほどある。
レムナの外にも。
川の向こうにも。
そして、この世界のどこかには。
俺がまだ見たことのない生き物や、景色が広がっている。
……楽しみだな。
俺はゆっくり頷いた。
「……いこう」
ルナが目を細める。
「……うむ」
そして、いつものように胸を張った。
「どこまでも、付き合ってやろう」
俺は少し笑った。
……おう。
頼んだぞ。
俺たちは並んで歩き出した。
遠くの大河が、夕日に染まっている。
そして、東の貯水池では。
長い間、土の下に隠れていた古い水路を、再び水が流れ始めていた。




