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ゲームだと思ったら原初の生命に転生しました。  作者: くんくん
第2部

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第3部 第16話 水底の返事

「ノア。貴様、昨日から何度それをやっておる?」


宿の部屋で、ルナが呆れた声を出した。


俺は動きを止めた。


身体の横から伸ばした3本の触手。


そのうち2本は細く、残る1本だけ先端が平たくなっている。


……いや。


ちょっと確認してただけだよ。


「昨日は休むと言っておったではないか」


……休んでるだろ?


水にも入ってないし、戦ってもいない。


宿の部屋で静かにしてるんだから、十分休息だと思うんだけど。


「では、さっきから床を叩いておるのは何だ?」


……。


俺は触手を見た。


確かに、少し前から床を叩いていた。


形を変えながら、動かす順番を試していたんだ。


……まあ。


練習ですね。


ルナが大きくため息をついた。


「まったく。放っておくと、寝ている間まで鍛え始めそうだな」


……それは無理だろ。


俺は身体を丸めた。


実際、昨日の戦いでは随分と消耗した。


地下水域の南側で遭遇した深刃魚。


あの速い魚を捕まえるために、噴射移動と《構造形成》を何度も繰り返した。


おかげで新たに《水圧耐性》を獲得できたが、切り裂かれた身体まで元通りになったわけじゃない。


今日は食事を取り、できるだけ動かずに過ごしている。


……まあ、少しくらい退屈だけど。


「ノア」


ルナが寝台から降りてきた。


「今日は外へ出よう」


……ん?


俺は顔を上げた。


「安心せよ。水に潜れとは言わぬ」


……へえ。


「市場へ行くのだ。昼には焼き菓子の店も開くらしい」


……あ。


なるほど。


結局、食べ物か。


俺が身体を揺らすと、ルナは堂々と胸を張った。


「身体を回復させるには、食べることも大切であろう?」


……。


それは、正論だな。


俺は荷物を引き寄せた。


よし。


今日は、ちゃんと休もう。


◇


市場へ向かう途中、中央運河の橋で人だかりができていた。


何人かの船頭が、水路の方を指さして話している。


「また大物が出たらしいぞ」


「地下の水門にいた奴だろ?」


「小さいのを連れてたって話じゃねえか。増えたら厄介だぞ」


……ん?


俺は足を止めた。


大物。


小さいの。


……あいつらのことか?


ルナも話を聞いていたらしい。


「……ふむ」


珍しく、食べ物の屋台を通り過ぎた。


「我らが見た魔物の話だな」


……だろうな。


男たちの会話は続いている。


「今はおとなしいらしいが、あんなのが船にぶつかったらひとたまりもねえ」


「水路を塞いじまえばいいんじゃねえのか?」


「馬鹿言え。あそこから来る水もあるんだぞ」


……。


俺は水面を眺めた。


確かに、あの巨大な魔物は危険だ。


以前、鰭を動かしただけで俺の身体が吹き飛ばされそうになった。


あいつが町の運河へ入ってきたら、船や建物に被害が出てもおかしくない。


でも。


あの魔物が、好きで人間を困らせていたわけじゃないことも知っている。


身体には古い鉄輪が食い込み、傷ができていた。


それを外してからは、水門へ身体を擦りつけることもなくなった。


……難しいな。


人間の暮らしも大切だ。


魔物たちの暮らしだって、あそこにはある。


両方を守る方法なんて、あるんだろうか。


「ノア」


ルナが俺の横へ並んだ。


「考え込んでおるな」


……まあな。


俺は短く答えた。


「……あいつら」


ルナは運河へ目を向ける。


「気になるか」


俺は頷いた。


すると、ルナは少し考えてから言った。


「ならば、まずは知ることだ」


……え?


「何も知らぬまま怖がる者に、怖がるなと言っても無理であろう。我らとて、最初はあの大物を警戒したのだからな」


……ああ。


確かに。


俺も、最初にあの影を見たときは驚いた。


とても近づこうなんて思えなかったし、まさか助けることになるとも考えていなかった。


ルナが続ける。


「貴様が水の中で見たものを、きちんと伝えればよい」


……。


俺は少しだけ身体を持ち上げた。


そうだな。


少なくとも、俺たちには実際に見てきたことがある。


知らないことまで断言する必要はない。


でも、知っていることは伝えられる。


……うん。


それなら、できそうだ。


「では、まず腹ごしらえだな」


……おい!


話の切り替え、早すぎないか!?


ルナはもう焼き菓子の屋台へ向かっていた。


俺は呆れながら、その後を追った。


◇


翌朝。


俺たちは再び、レムナ南部の地下回廊を訪れていた。


休息のおかげで、昨日より身体は軽い。


切られた部分はまだ少し薄いが、短い脚を作って歩く程度なら問題なかった。


今回の同行者は、ネリ、ジェド、ルナ。


調査の目的は、南側から流れ込む冷たい水の行き先を確かめることだ。


「今日は水中の奥まで追わなくていいわ」


ネリが新しい図面を広げた。


「昨日、ノアが見つけた亀裂の近くで、水の流れをもう少し詳しく調べたいの」


……なるほど。


俺は図面へ目を向けた。


南側の岩壁に、大きな亀裂。


その先は空白のままだ。


「水位の記録を見る限り、地下水域はここから水が入るだけじゃなく、別の場所へ水を逃がしているはずなの」


……へえ。


「その出口がどこにあるか分かれば、地下全体の流れを把握しやすくなるわ」


ジェドが頷いた。


「水がどこから来て、どこへ行くか。水路仕事の基本だな」


……確かに。


俺は自分の触手を見た。


新しく獲得した《水圧耐性》。


それに、《水流感知》と噴射移動。


昨日より深い場所でも、少しは余裕を持って動けるはずだ。


……よし。


今日は、ちゃんと調べよう。


戦闘にならないといいけど。


「ノア」


ルナが隣へ来た。


……ん?


「また魚に噛みつかれるでないぞ」


……それは俺が決められることじゃないだろ!


ルナが楽しそうに笑った。


「ふふっ。では、先に噛みつくか?」


……やめてくれ。


本当に。


俺は触手を左右へ振った。


◇


水中へ潜ると、昨日とは少し違う景色が広がっていた。


岩壁の周囲には、細い魚が集まっている。


水草の間では、小さな甲殻の生き物が動いていた。


……あれ?


昨日は、こんなに魚がいたっけ。


俺は周囲を確かめた。


どうやら、深刃魚がいなくなったせいで、小さな生き物たちが戻ってきたらしい。


……なるほど。


あいつ、この辺りで随分と幅を利かせてたんだな。


俺は少し笑った。


だが、今日は別のことを調べに来た。


俺は岩壁へ触手を伸ばした。


《水流感知》。


……うん。


冷たい水が流れ込んでいる。


昨日と同じだ。


ただし、少し深い場所では、水の向きが変わっていた。


……ん?


俺は触手を下へ伸ばした。


《水圧耐性》。


周囲から押される感覚を受け止めながら、少しずつ深い方へ。


……お。


やっぱり、違うな。


昨日までなら、身体の形を保つだけでも難しかった深さだ。


今は、無理に力を込めなくても安定している。


俺は岩壁に沿って進んだ。


冷たい水が、右から左へ流れている。


ところが、少し下では、逆に左から右へ。


……なるほど。


上下で流れが違うのか。


俺は視覚器官を前へ伸ばした。


すると、岩壁の下に細長い隙間が見えた。


……あ。


ここだ。


隙間の向こうは暗い。


しかし、水は確かに奥へ流れ込んでいる。


……これが出口か?


俺は少し考えた。


ネリには、今日は奥まで進むなと言われている。


だったら、入口の位置だけ確かめればいい。


俺は近くの岩へ触手を固定し、流れを記憶しようとした。


そのときだった。


――ドゥン。


……ん?


低い振動が、水中を伝わってきた。


……この感じ。


俺は動きを止めた。


もう1度。


――ドゥン。


……ああ。


覚えてる。


あの巨大な魔物が、以前、水門の近くで出していた振動だ。


俺は視覚器官を動かした。


遠くの青い光。


その間を、大きな黒緑色の影が泳いでいる。


……いた。


あいつだ。


大きな背鰭。


長い身体。


そして、金色の瞳。


その近くには、3匹の小さな影も見えた。


……おお。


元気そうだな。


俺は少し安心した。


ただ、今日は様子が違う。


巨大な魔物は、小さな影たちの周囲をゆっくり回りながら、時折低い振動を出している。


――ドゥン。


小さな影が動く。


――ドゥン、ドゥン。


今度は、親の背中へ近づいた。


……ん?


俺は少し首を傾げた。


もしかして。


あの振動。


合図なのか?


◇


俺は岩壁へ固定したまま、しばらく観察した。


巨大な魔物は、短い振動を何度か繰り返している。


すると、小さな魔物たちが動く。


離れていた1匹が戻ってくる。


別の1匹は、親の身体の陰へ移動する。


……やっぱり。


何か伝えているんだ。


もちろん、意味までは分からない。


「こっちへ来い」なのか。


「危ないぞ」なのか。


それとも、まったく別の意味なのか。


ただ、振動のあとに小さな魔物たちが反応しているのは確かだった。


……面白いな。


俺は自分の身体へ意識を向けた。


《共鳴膜》。


以前から、声を出すために使ってきた構造だ。


空気中では、膜を震わせて音を作っている。


だったら。


水の中でも、何かできるんじゃないか?


俺は身体の一部へ、小さな膜を形成した。


その内側に、水を入れられる空間を作る。


……よし。


膜をゆっくり震わせてみる。


――ぽこっ。


小さな泡が出た。


……あれ?


違うな。


ただ水が押し出されただけだ。


俺は膜を少し厚くした。


今度は、空洞を閉じたまま震わせる。


……どうだ?


――トン。


……お。


何か伝わった。


自分の身体の表面へ、細かな振動が広がっていく。


俺はもう1度試した。


――トン、トン。


……おお。


できた。


水の中で、音というか、振動を出せたぞ。


今まで水中では、外からの流れを感じるばかりだった。


でも、こうすれば自分から水を震わせられる。


……ちょっと面白いな。


俺は何度か、短い振動を作ってみた。


強くしすぎると身体がぶれる。


弱すぎると、周囲の水流に紛れてしまう。


……難しい。


でも、感覚は掴めてきた。


俺は少し嬉しくなった。


そのとき。


――ドゥン。


……っ!?


突然、大きな振動が返ってきた。


俺は慌てて視覚器官を向けた。


巨大な魔物が、こちらを見ている。


金色の瞳。


長い身体。


その周囲には、小さな魔物たち。


……え?


俺は固まった。


まさか。


今の。


俺に向けて?


魔物は、もう1度身体を震わせた。


――ドゥン、ドゥン。


……。


俺は少し考えた。


意味は分からない。


けど。


返事くらい、してみてもいいだろうか。


俺は《共鳴膜》へ意識を集中した。


短く。


2回。


――トン、トン。


水中へ、細かな振動が広がる。


……どうだ?


巨大な魔物は、しばらく動かなかった。


そして。


ゆっくりと、大きな頭を傾けた。


……お?


何だ、その反応。


まるで、不思議なものを見つけたみたいじゃないか。


俺は思わず、もう1度振動を出した。


――トン、トン。


すると。


――ドゥン。


大きな振動が返ってきた。


……っ!


おお!


返ってきた!


俺は嬉しくなって、身体を持ち上げた。


ただし。


……いや。


待てよ。


本当に返事なのか?


俺の振動に反応したのは確かだ。


でも、それが挨拶なのか、警戒なのか、単なる興味なのかは分からない。


……うん。


勝手に意味を決めつけるのはやめよう。


それでも。


何だか、少し嬉しかった。


◇


そのとき、小さな魔物の1匹がこちらへ近づいてきた。


……ん?


俺は目を向けた。


親の身体から離れた小さな影。


大きさは、俺より少し大きいくらいだろうか。


黒緑色の鱗が、青い光を反射している。


……おいおい。


そんなに近づいて大丈夫か?


俺は動きを止めた。


小さな魔物は、俺の周囲をゆっくり回っている。


……何だ?


珍しいものを見るような動きだな。


俺は触手を小さく振った。


すると、小さな魔物が尾を動かした。


――ぱしゃっ。


水が俺の身体へ当たる。


……おい!


俺は少し驚いた。


まさか、遊んでるのか?


もう1度、尾が振られる。


――ぱしゃっ。


……ちょっと待て。


俺、そんなに水をかけられても困らないんだけど。


むしろ、今は全身が水の中なんですが。


俺が身体を揺らすと、小さな魔物はさらに近づいてきた。


……ああ。


こいつ。


絶対、俺に興味持ってるな。


俺は少し笑った。


だが、その瞬間。


水の流れが変わった。


……っ。


俺は《水流感知》へ意識を向けた。


さっき見つけた岩壁の隙間。


そこへ向かう流れが、急に強くなっている。


……まずい。


小さな魔物は、ちょうどその流れの近くにいた。


身体が少し傾く。


尾を振って向きを変えようとするが、思ったように進めないらしい。


……おい!


そっちは危ない!


俺は反射的に身体を伸ばした。


《構造形成》。


後方へ2つの噴出口。


中央には、水を取り込む空洞。


……よし!


俺は一気に水を噴き出した。


――シュバッ!


身体が加速する。


以前の俺なら、勢いよく進むだけだった。


でも、今は違う。


《水流感知》で流れを読み、左右の噴射を細かく変える。


右。


左。


さらに、斜め下。


水流の外側を回り込み、小さな魔物の進路へ入った。


……間に合え!


俺は身体を薄く広げた。


《緩衝膜》。


柔らかい層を作り、小さな魔物の側面を受け止める。


――どんっ!


……っ!


重い!


小さいとはいえ、相手はあの巨大な魔物と同じ種類だ。


見た目以上に力がある。


しかも、流れに押されているせいで、俺まで引っ張られそうになる。


……くそっ!


でも。


ここで力比べをする必要はない。


俺は身体を斜めにした。


流れを正面から受けない。


小さな魔物の身体を押さえつけるのではなく、進む方向を少し変える。


……よし。


《水流感知》。


右から強い流れ。


なら、左へ逃がす。


俺は片側の噴出口を縮めた。


――シュッ!


身体が横へ滑る。


小さな魔物も、その動きに引かれて流れの外へ向かった。


……もう少し!


俺は残る噴出口から、水を一気に押し出した。


――シュバッ!


……っ!


抜けた!


小さな魔物が、穏やかな水域へ戻る。


その直後。


――ゴォッ!


巨大な水流が、俺のすぐ後ろを通り過ぎた。


……危なかった!


俺は岩壁へ触手を固定した。


《粘着性》。


……ふう。


何とか間に合ったな。


だが、安心する間もなく、目の前へ大きな影が現れた。


……っ!?


巨大な魔物だ。


黒緑色の鱗。


大きな背鰭。


金色の瞳。


……おいおい。


近い近い!


俺は反射的に身体を縮めた。


だが、魔物は襲ってこなかった。


そのまま、小さな影の方へ身体を寄せる。


小さな魔物は、親の鰭の陰へ潜り込んだ。


……ああ。


よかった。


俺は少し安心した。


すると。


――ドゥン。


低い振動が、水中へ広がった。


……ん?


俺は顔を上げた。


巨大な魔物が、こちらを見ている。


――ドゥン。


もう1度。


……。


俺は、しばらく迷った。


それから、身体の膜を震わせた。


――トン、トン。


小さな振動。


今の俺にできる、精いっぱいの返事だ。


魔物はしばらく動かなかった。


やがて、ゆっくり身体を傾ける。


そして、小さな魔物たちを連れて、青い光の奥へ泳いでいった。


……。


俺は、その姿を見送った。


結局、何を伝えたかったのかは分からない。


でも。


今度は、少なくとも逃げられなかった。


敵だと思われて、追い払われたわけでもなかった。


……それだけでも、十分か。


俺は小さく身体を揺らした。


◇


「……それで、また何かに巻き込まれたのね?」


水面から戻ると、ネリが呆れたように言った。


……あ。


はい。


俺は少し身体を縮めた。


「昨日も魚に襲われたばかりでしょう?」


……いや。


今日は襲われてないんだけど。


俺は砂の上へ触手を伸ばした。


まず、大きな魚を描く。


次に、その隣へ小さな魚を3匹。


さらに、岩壁の隙間。


……こう。


ネリが覗き込む。


「……小さい魔物が、流れに巻き込まれたの?」


俺は頷いた。


「……たすけた」


「……なるほど」


彼女は少し考えたあと、記録板へ何かを書き込んだ。


「それで、流れの向きはどうだった?」


……あ。


そうだ。


調査の報告をしないとな。


俺は砂へ線を引いた。


冷たい水が入ってくる亀裂。


その下にある、別の隙間。


そして、下側では逆方向へ水が流れていること。


……よし。


これなら伝わるだろう。


ネリは図面と見比べながら頷いた。


「……分かった。上側が流入口で、下側が流出口になっている可能性が高いわね」


……そう。


多分、それだ。


ジェドが腕を組んだ。


「じゃあ、この地下水域は行き止まりじゃねえってことか」


「ええ。少なくとも、水が出入りする経路は複数あるみたい」


……おお。


俺は少し嬉しくなった。


これで、地下の水がどこから来てどこへ向かうのか、少しずつ分かってきた。


ネリは図面へ新しい線を書き加えた。


「これなら、南側の流れを調べる計画も立てられそうね。ただし、あの亀裂の先はまだ不明。無理に入るのは避けましょう」


……うん。


それがいいと思う。


俺は素直に頷いた。


すると、ルナが隣へ来た。


「……ノア」


……ん?


「先ほど、何か妙な音がしたぞ」


……え?


俺は顔を上げた。


ルナは水面を見つめている。


「低い音が、何度か聞こえた。あの大物の声か?」


……あ。


そうだ。


俺は自分の身体へ意識を向けた。


《共鳴膜》。


今度は空気中で、小さな音を出してみる。


「……とん、とん」


ルナが首を傾げた。


「……何だ?」


俺は水面を指した。


「……おと」


「音?」


「……みず、なか」


ルナは少し考えた。


そして、目を丸くした。


「……貴様、水の中で音を出したのか?」


俺は頷いた。


「……うん」


「それに、あの大物が反応したのか?」


……ああ。


俺はもう1度頷いた。


ルナはしばらく俺を見つめた。


それから、ふっと笑った。


「……ふむ。面白いな」


……だろ?


俺は身体を持ち上げた。


「しかし」


ルナが続ける。


「その音に、何の意味があるかは分からぬのであろう?」


……ああ。


そこは、まだ。


俺は触手を左右へ振った。


「……わからない」


ルナは頷いた。


「ならば、少しずつ覚えるしかあるまい」


……。


俺は思わず、ルナを見た。


そうか。


少しずつ。


今まで、俺がそうしてきたように。


最初は声も出せなかった。


身体も自由に動かせなかった。


でも、少しずつ覚えてきた。


だったら。


水の中で暮らす生き物たちのことも、いつかもっと分かるようになるかもしれない。


……うん。


それは、ちょっと楽しみだな。


◇


調査を終え、俺たちはギルドへ戻った。


ネリは記録をまとめ、地下水域の水の出入りについて報告している。


俺とルナは、その間、受付の近くで待っていた。


すると、聞き覚えのある声がした。


「あら、ノアさん。ルナさんも」


シエナだ。


俺は触手を持ち上げた。


「……こんにちは」


シエナは微笑んだ。


「南水路の調査、お疲れさまでした」


……どうも。


俺は少し身体を揺らした。


すると、彼女は書類を1枚取り出した。


「ちょうど、お二方に相談したいことがあるんです」


……ん?


俺は顔を上げた。


「地下で見つかった大きな魔物について、港の方々から意見が出ていまして」


……ああ。


今朝、市場で聞いた話か。


シエナは続けた。


「水路を封鎖してほしいという方もいれば、これまでどおり利用したいという方もいるんです」


……なるほど。


やっぱり、意見が分かれてるんだな。


「それで、ギルドと水運組合で話し合いの場を設けることになりました」


ルナが耳を立てた。


「我らも出るのか?」


「ええ。実際にあの魔物を見た方のお話を、ぜひ聞きたいそうです」


……お。


俺は少し驚いた。


会議、か。


人間たちが集まって、あの魔物のことを話し合う。


……何だか、少し緊張するな。


俺は自分の身体を見た。


今の俺は、長い言葉を喋れない。


説明するのも、まだ苦手だ。


でも、ルナがいる。


ネリも、ジェドもいる。


それに、俺たちが見てきたことは、ちゃんと記録されている。


……よし。


それなら、できるかもしれない。


俺は頷いた。


「……いく」


シエナが微笑んだ。


「ありがとうございます。では、明日の午後にお願いしますね」


……了解。


俺は触手を持ち上げた。


◇


ギルドを出ると、夕方のレムナには柔らかな光が差していた。


運河には荷船が行き交い、橋の上には家路を急ぐ人たちの姿がある。


俺は水面を眺めながら、今日の出来事を思い返していた。


冷たい水。


岩壁の隙間。


そして、巨大な魔物の低い振動。


……あいつ。


何を伝えたかったんだろうな。


俺は少し考えた。


人間だった頃は、言葉が通じることが当たり前だった。


相手が何を考えているか分からなくても、とりあえず話しかけることはできた。


でも、この世界へ来てから。


俺は、言葉を伝えることの難しさを知った。


自分の名前を呼ぶだけでも、随分苦労した。


ルナに気持ちを伝えるのだって、今でも簡単じゃない。


……それでも。


少しずつ、伝わるようになってきた。


俺は隣を歩くルナへ目を向けた。


「……ルナ」


「何だ?」


俺は少し考えた。


そして、短く言った。


「……おと」


ルナが首を傾げる。


「音?」


俺は頷いた。


「……れんしゅう」


「……水の中での音か?」


「……うん」


ルナは少し考えたあと、静かに笑った。


「よいではないか」


……お。


俺は嬉しくなった。


「我も、あの大物がどのような声を出しておるのか興味がある」


……ああ。


俺もだ。


「ただし」


……ん?


ルナが真面目な顔で続けた。


「何を言っておるか分かるようになったとしても、我への報告は忘れるでないぞ」


……え?


何で?


「貴様があの大物とばかり話して、我を放っておくようでは困る」


……。


……は?


俺は一瞬、固まった。


それから、思わず身体を揺らした。


……何だよ、それ。


俺がルナを放っておくわけないだろ。


俺は触手を伸ばし、ルナの前脚へ軽く触れた。


「……ルナ」


「……む?」


俺はもう1度、短く言った。


「……いちばん」


ルナが動きを止めた。


「……何?」


……あ。


少し短すぎたか。


俺は言葉を探した。


一緒に旅をしてきた。


助けてもらった。


笑ったり、喧嘩したり。


いろんな場所を歩いてきた。


……そういう全部を、今すぐ上手く説明するのは難しい。


でも。


俺にとって、ルナが一番大切な相棒だってことくらいは、ちゃんと伝えたい。


俺はもう1度、声を出した。


「……ルナ、いちばん」


少しの間、ルナは何も言わなかった。


耳が、ゆっくり動く。


それから、ぷいっと前を向いた。


「……ふん」


……あれ?


怒った?


俺は少し慌てた。


すると、ルナは前を向いたまま言った。


「……当然であろう」


……あ。


そういう反応か。


俺は少し安心した。


だが、その声は、いつもより少し小さかった。


ルナは歩き出す。


荷物につけた銀色の鈴が鳴った。


――ちりん。


俺も、その隣へ並んだ。


少し遅れて、俺の鈴が鳴る。


――ちりん。


……うん。


やっぱり、俺にはこっちの音の方が馴染み深いな。


地下水域には、まだ知らない世界が広がっている。


そこには、俺たちとはまったく違う方法で気持ちを伝える生き物がいる。


そして地上には、その生き物を怖がる人たちもいる。


……明日。


俺たちは、あの大物のことを話し合う場へ行く。


俺が見たものを。


知っていることを。


できるだけ、伝えてみよう。


今の俺には、まだ長い言葉は使えない。


でも、伝える方法は、言葉だけじゃない。


それは、ルナと一緒に旅をしてきた俺が、一番よく知っていることだった。

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