第32話:甘い余韻と、緊急すき焼き作戦
「ただいま、みんな! 土和、大丈夫か!?」
絢咲家の重厚な玄関扉を開け放ち、湊と月菜は肩を上下させながら飛び込んだ。
デートの帰り道を半ばダッシュで駆け抜けてきたため、二人とも息が上がっている。冬の冷たい夜気で冷やされた頬とは対照的に、繋いでいた手と身体の奥底には、あのイルミネーションの光の中で重なりかけた熱がまだしぶとく残っていた。
コートを脱ぎ捨てる間も惜しんでリビングへと駆け込むと、そこには想定外の光景が広がっていた。
「あ、おかえりなさい、二人とも。案外早かったのね」
ソファにゆったりと腰掛け、温かい紅茶を優雅に味わっている長女の陽葵。
そしてその膝の上では、末っ子の土和がパジャマ姿でモリモリとイチゴを頬張っていた。
「……え?」
湊は固まり、月菜は目を見開いて口をポカンと開けた。
「みなと兄ちゃん! おかえりー! つきな姉ちゃんもー!」
土和は風邪で苦しむ様子など微塵もなく、満面の笑みでちぎれるほど激しく手を振っている。おでこに冷えピタが貼られているわけでもなく、熱っぽさで頬が赤くなっている気配すら一切存在しない。
「……陽葵さん。あの、電話で土和が熱を出して泣いてるって……」
湊が困惑気味に尋ねると、陽葵はクスリと悪戯っぽく微笑み、トントンと自分の隣のスペースを叩いた。
「ええ、本当よ? 湊くんたちが家を出てから二時間くらい経った頃かしら。『湊兄ちゃんに会いたいー!』ってシクシク泣き出しちゃって、おでこを測ったら三十七度二分もあったの。だから……」
「だから……?」
「これはいけないと思って、特製のハチミツジンジャー湯を飲ませて、大好きなお布団で一時間お昼寝させたら……すっかり熱が下がって、元気に復活しちゃったのよ♪」
「「下がったの(かい)ーーーっ!?」」
湊と月菜の叫びがハモってリビングに響き渡った。
「ええ〜、だって本当にお熱あったんだも〜ん! でもね、お昼寝したら治っちゃったの! 湊兄ちゃんのお布団、すごくいい匂いしたよー!」
無邪気に笑う土和の横から、和室の陰からニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべた三女の灯華と四女の水樹がヌッと姿を現した。
「くすくす……月菜姉ちゃん、デートお邪魔しちゃってごめんね〜?」
「まさかこんなに飛んで帰ってくるとは思わなかったよ〜。本当は二人でイルミネーション見ながらロマンチックな雰囲気になってたのかなぁ〜?」
「あんたらねぇぇぇぇーーーっ!!」
月菜の顔が一瞬で熟したリンゴのように真っ赤に沸騰した。
「わざとでしょ絶対! 土和の熱をダシにして私達のデートを邪魔しようとしたでしょバカ灯華! 性悪水樹ーーーっ!」
「ち、ちがうもん! 本当にお熱あったんだもん!」
「そうだよ〜、お姉ちゃんは妹の心配をして急いで帰ってきた優しいお姉ちゃんだよねぇ〜?」
「キーッ! 覚えてなさぃぃぃ!!」
追いかけっこを始める月菜と妹たち。いつもの賑やかで騒がしい絢咲家の日常が、一瞬にして目の前に戻ってきた。
湊は呆れつつも、どこかほっとして脱力したように苦笑いを浮かべた。
(……連れ戻す作戦だったら笑うしかないな。いや、でも陽葵さんのあの顔……半分くらいは狙ってたかもしれない……)
「ふふ、ごめんなさいね、湊くん」
陽葵が立ち上がり、湊の隣へ歩み寄って囁いた。
「月菜と二人きりのデートを邪魔するつもりはなかったのだけれど……やっぱり、あなたがいないとこの家は寂しくて落ち着かないのよ。お世話係さん」
「……陽葵さん」
優しく微笑む長女の瞳に、湊は胸が温かくなるのを感じた。
「でも、その代わりと言ってはなんだけど……今夜は湊くんのご飯をみんなで楽しみに待っていたの。冷えた体に最高のご馳走を、作ってくれるかしら?」
「もちろんですよ! 任せてください!」
湊はポンと胸を叩き、気持ちを切り替えてエプロンを固く結び直した。
さっきまでのデートでの甘酸っぱい空気感は一時お預けだ。今は、お腹を空かせて自分を待ってくれていた大切な家族のために、最高の一食を用意する時だった。
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「よし……今夜は予定を変更して、みんなで囲める『絶品・すき焼き』にしよう!」
湊の宣言に、リビングでドタバタ劇を繰り広げていた姉妹たちが一斉に歓声を上げた。
「「「「「「きゃぁぁぁぁー! すき焼きー! 湊兄ちゃん大好きー!!」」」」」」
冬の寒い夜、外から帰ってきた体に最も染み渡るご馳走といえば、甘辛い割り下でグツグツと煮込む熱々のすき焼きだ。
湊は冷蔵庫から、買い置きしてあった上質な牛肉の薄切り、新鮮な長ネギ、焼き豆腐、しらたき、そしてえのきと春菊を取り出した。
「すき焼きを美味しく作る最大の秘訣は、『お肉を入れるタイミング』と『しらたきと牛肉の配置』なんだ」
一人キッチンで仕込みを進める湊の手つきには、一切の迷いがない。
まずは浅めの鉄鍋を熱し、牛脂を全体に馴染ませる。そこへ長ネギの白い部分を入れ、表面に香ばしい焼き色がつくまでじっくりと焼き上げて香りを引き出す。
次に、極上の牛肉を数枚だけ鍋に投入し、砂糖と醤油、酒を直接振りかけてサッと焼き煮にする。肉の脂と香ばしい甘辛い香りがキッチン中に充満し、リビングから妹たちが匂いに吸い寄せられるように集まってきた。
「うわぁぁぁ……! もう良い匂いがする……!」
「お肉が……お肉が輝いてるよ、湊お兄ちゃん……!」
「はい、まずはこの『焼き立ての最初の一口』をどうぞ!」
湊が溶き卵の入った小鉢に、絶妙な火加減で柔らかく煮上がった牛肉を潜らせ、一番バッターとして月菜の目の前へ差し出した。
「え……私からでいいの?」
「もちろん。今日、一番頑張ってオシャレしてくれた月菜への特権だよ」
「……っ」
湊がまっすぐな瞳で囁くと、月菜は再び顔を赤らめつつも、嬉しそうにお箸を伸ばした。
ふーふーと息を吹きかけ、温かいお肉を口へと運ぶ。
一口噛んだ瞬間、上質な牛肉の脂の甘みと、甘辛いタレ、そして濃厚な溶き卵のコクが口いっぱいに広がった。
「……美味しい……っ! お肉が柔らかくて、口の中で溶けてなくなっちゃう……っ!」
月菜が幸せそうに目を細め、頬をほころばせる。その完璧な笑顔を見た湊は、胸の奥がじんわりと満たされるのを感じた。
「よし! 割り下を注いで、他の具材も煮込んでいくよ!」
特製の割り下(出汁、醤油、みりん、砂糖を絶妙な黄金比で合わせたもの)を注ぎ入れ、焼き豆腐、えのき、春菊、そして下茹でしたしらたきを投入していく。
ここでの湊のこだわりは、『牛肉としらたきを離して配置すること』だ。しらたきに含まれるカルシウム分が肉のタンパク質を固くしてしまうため、豆腐や野菜を間に挟んで距離を置くことで、最後までお肉を柔らかく保つことができるのだ。
グツグツと音を立てて煮煮立つすき焼き鍋。
「「「「「「「いただきます!!」」」」」」」
賑やかな掛け声とともに、絢咲家の夕食が始まった。
「うおー! お豆腐にもタレがしみしみで美味しい〜!」
「長ネギが甘くてトロトロだよ〜!」
「湊兄ちゃん、お肉もういっこ頂戴ー!」
箸が飛び交い、笑顔と笑い声が食卓を埋め尽くしていく。
さっきまで「デートを邪魔された」と怒っていた月菜も、妹たちとお肉を奪い合いながら、心底楽しそうに笑っていた。
陽葵が温かな眼差しで全員を見渡し、ふと隣の湊へ視線を向けた。
「ふふ……やっぱり、我が家はこうでなくっちゃね。湊くん、今日も素晴らしいお料理をありがとう」
「いえ、喜んでもらえて何よりです」
湊は微笑み、ふと視線を月菜へと向けた。
すると月菜もチラリと湊を見返し、鍋の湯気越しに二人だけの秘密のような、小さな微笑みを返してくれた。
(……ふふ、今日は未完成のデートだったけど……これで良かったのかもしれないな)
イルミネーションの下で交わしかけたキスは、お預けになってしまった。けれど、この温かい家があり、大好きな妹たちがいて、そして何より二人だけの確かな絆が深まった。
「……次のデートは、絶対に邪魔させないからね」
月菜が聞こえるか聞こえないかくらいの小声で呟き、お肉をパクリと口に含んだ。
冬の寒さを吹き飛ばすような温かなすき焼きの湯気の中で、お世話係と七姉妹の甘く賑やかな夜は、どこまでも優しく更けていくのだった。
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【本日のお世話係メモ:家庭で役立つ豆知識 #32】
『プロの味に近づく!すき焼きを劇的に美味しくする3つの裏ワザ』
お家ですき焼きを作る時は、次の3点を意識するだけでお店レベルの味になります!
① 長ネギは最初に焼く!:肉を煮る前に牛脂でネギの表面を焼き、香ばしさと甘みを引き出します。
② しらたきと牛肉は離す!:しらたきのカルシウムが肉を固くするため、豆腐や野菜を仕切りにして離して配置しましょう。
③ しらたきは下茹でする!:アク抜き加工がされていても、一度サッと下茹ですることで余分な水分が抜け、割り下がしっかりと味染みしますよ!
最後までお読みいただきありがとうございました!
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