第29話:深夜の勉強会と、甘い夜食の魔法
期末テストの足音が、日ごとに刻一刻と近づいてきていた。
図書室で交わした『学年二十位以内に入ったら、一つだけお願いを聞く』という二人だけの約束。あの日以来、月菜の勉強に対する集中力と気迫は、周囲が目を見張るほど凄まじいものになっていた。
放課後の図書室で限界まで参考書と格闘し、帰宅して夕飯を食べ終えた後も、彼女は自分の部屋の机に向かい続けている。
「……ふぅ。月菜姉ちゃん、今日も部屋から全然出てこないね」
リビングのソファでテレビを見ていた三女の灯華が、心配そうに二階の階段を見上げた。四女の水樹も、抱きかかえていたクッションをぎゅっと抱き直しつつ頷く。
「うん。おやつ持っていっても『今いいところだから!』って追い返されちゃったの。あんなに本気で勉強してる月菜ねぇね、初めて見たかも」
「私にも『数学の解き方を教えなさい』って聞きに来たわ。すごく必死な目をしていて……湊くん、何かあったの?」
長女の陽葵が、お茶を淹れながら不思議そうに湊へ視線を向けた。
「あはは……まあ、目標ができたみたいでさ。俺も全力で応援してあげたいんだ」
湊は照れくさそうに頭を掻きながら、腕時計に目を落とした。時刻はすでに夜の十時を回っている。
普段なら妹たちの就寝時間であり、月菜もそろそろ集中力が切れ、脳の疲労が限界に達する時間帯だった。
(長時間の猛勉強で、脳のエネルギーが切れかけているはずだな。……よし、夜食を作って差し入れしよう)
湊はエプロンを締め直すと、手際よくキッチンへと立った。
夜食作りにおいて最も重要なのは、「消化が良く胃に負担をかけないこと」そして「脳のエネルギー源となる糖分とアミノ酸を効率よく補給すること」だ。重すぎる夜食は睡眠の質を下げ、翌朝の集中力を著しく低下させてしまう。
湊は冷蔵庫から、素朴なうどんの麺と、新鮮な卵、そしてカットした長ネギを取り出した。
「夜食といえば、やっぱりこれだな」
鍋にたっぷりのお出汁(昆布と鰹節の合わせ出汁)を沸かせ、みりんと薄口醤油で優しく品のある味付けを施す。そこにうどんを投入し、クツクツと柔らかく煮込んでいく。
仕上げに溶き卵をふんわりと流し込み、半熟のトロトロ状態になったところで火を止める。器に盛り付け、シャキシャキの刻みネギと、風味付けの生姜をほんの少し添えれば――『湊特製・ふんわり出汁の卵とじうどん』の完成だ。
「ついでに、もう一品……脳の栄養補給に」
小さな小鉢に、一口サイズにカットしたリンゴと、温かいほうじ茶を用意する。和風のお盆の上にそれらをバランスよく配置し、湊は静かな足取りで二階へと向かった。
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トントン、と二階の奥にある月菜の部屋の扉を軽く叩く。
「月菜、湊だけど。夜食持ってきたよ、入ってもいい?」
室内から「……あ、ええ。どうぞ」と、少し掠れた疲れ気密な声が返ってきた。
静かにドアを開けると、部屋の中はスタンドライトの暖色系の明かりだけが灯っていた。
机の上にはびっしりと数式や英単語が書き込まれたノートが何冊も広げられており、月菜はシャーペンを握ったまま、疲れた様子で机に突っ伏していた。長い黒髪が乱れ、その隙間から覗く横顔には、あきらかに濃い疲労の色が滲んでいる。
「月菜、お疲れ様。遅くまで頑張ってるね」
「……うぅ……湊ぉ……。もう脳みそがパンクしそう……っ」
突っ伏したまま、月菜がうめき声を漏らした。
強がりな彼女がここまで弱音を吐くのは珍しい。それほどまでに、彼女は湊との「約束」を果たすために限界まで自分を追い込んでいたのだ。
「はい、これ。お腹空いたでしょ? 消化に良い卵とじうどんを作ってきたから、温かいうちに食べて」
お盆を机の空いているスペースに置くと、ふわっと漂う出汁の香ばしい香りが部屋いっぱいに広がった。
月菜はピクッと鼻を拾わせ、ガバッと顔を上げた。
「……! なにこれ、すごく良い香り……っ!」
「柔らかく煮込んだうどんだから、胃にも優しいよ。生姜も入れてあるから体も温まるし」
「……っ。いただきます……!」
月菜は我慢しきれない様子で割り箸を取り、ふーふーと息を吹きかけながら、うどんをズルズルと口に運んだ。
柔らかな麺に、出汁をたっぷり吸ったフワフワの卵が絡みつく。生姜の爽やかな風味が鼻を抜け、体にじんわりと染み渡っていく。
「……美味しい……っ! 優しい味がして、すごく落ち着く……」
「良かった。集中して勉強すると脳のブドウ糖が消費されるから、これでしっかりエネルギー補給してね」
「うん……!」
月菜は夢中でうどんをすすり、あっという間にお椀を空にしてしまった。添えられたリンゴもシャキシャキと美味しそうに頬張り、温かいほうじ茶を口にして「ふぅ……」と満足そうな溜息を漏らす。
さっきまでの疲弊しきった表情が嘘のように、彼女の頬には血色が戻り、瞳に生気が蘇っていた。
「生き返ったわ……。ありがとう、湊」
「どういたしまして。あ、ノート見せて」
湊は月菜の書きかけの数学のノートを覗き込んだ。
びっしりと書かれた計算式。何度も間違え、消しゴムで消しては書き直した痕跡が残っている。その努力の足跡に、湊は胸が熱くなるのを覚えた。
「すごいな、月菜。図書室で教えた応用問題、完璧に理解して自力で解けてるじゃん」
「……え? ほんと……!?」
「ああ。計算のプロセスもすごく綺麗だ。これなら本番でも絶対得点源にできるよ」
湊が素直に褒めると、月菜は顔を真っ赤にして照れくさそうに視線を泳がせた。
「……ふ、ふん! 当たり前じゃない。私が本気出せばこれくらい余裕よ!」
いつものツンとした強がりが戻ってきたことに、湊はホッと胸を撫で下ろす。
だが、月菜は急に静かになると、自分の膝の上で手をぎゅっと握りしめた。
「……ねえ、湊」
「ん?」
「……私ね、本当はすごく不安なの」
月菜はポツリポツリと、胸の内を明かし始めた。
「うちの学校、みんな頭が良いし……今まで学年五十位くらいが限界だった私が、いきなり二十位以内に入るなんて、高望みすぎるんじゃないかって……。もし、届かなかったら……って思うと、怖くて手が止まりそうになるの」
小さな肩が、不安でかすかに震えていた。
目標が高ければ高いほど、プレッシャーも大きくなる。不器用で真っ直ぐな彼女が、どれほどの重圧と戦いながらこの部屋で一人勉強していたかが痛いほど伝わってきた。
湊は優しく目を細めると、月菜の隣に寄り添い、彼女の頭の上にそっと手を置いた。
「あっ……」
「大丈夫だよ、月菜」
湊は彼女の柔らかい黒髪を、撫でるように優しくポンポンと叩いた。
「月菜がどんだけ頑張ってきたか、俺が一番よく知ってる。毎晩こうやって遅くまで努力して、分からない問題を諦めずに解き進めてきたんだろ? その努力は絶対裏切らないよ」
「湊……」
「それに……もし万が一、届かなかったとしても、俺は月菜のこと嫌いになったりしないし、どこにも行かない。俺はずっと、月菜の味方だからさ」
まっすぐで、どこまでも温かい湊の言葉。
月菜の瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
重圧から解放された安堵と、彼の圧倒的な優しさに、胸がいっぱいになってしまったのだ。
「……バカ湊……っ」
月菜は涙を拭うのも忘れて、勢いよく湊の胸へと飛び込んできた。
「わっ……!? 月菜!?」
華奢な腕が湊の首に回され、ギュッと強く抱きしめられる。彼女の熱い吐息と涙が、湊のシャツの胸元にしみ込んでいく。
「……ずるいよ……そんなこと言われたら……私、もっと好きになっちゃうじゃない……っ!」
「月菜……」
「絶対に……絶対に二十位以内に入ってみせるんだから……! そして……湊に、私のお願い……聞いてもらうんだから……っ!」
泣きじゃくりながらも、強い決意を口にする月菜。
湊は優しく微笑み、彼女の背中にそっと手を回して抱き返した。
「うん。楽しみにしてるよ。頑張れ、月菜」
夜の静寂が包む部屋の中で、二人の心はどこまでも深く、温かく寄り添い合っていた。
翌朝への希望を胸に、期末テストへ向けた最後の戦いが、今静かに始まろうとしていた。
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【本日のお世話係メモ:家庭で役立つ豆知識 #29】
『夜食に最適!脳の疲労を回復させる「消化に優しい夜食の法則」』
深夜の勉強や仕事で夜食を食べる時は、「油分を控え、温かい流動性の高いものを選ぶ」のが鉄則です!うどんや雑炊など、炭水化物を柔らかく煮込んだ料理は、胃腸に負担をかけずに素早く脳のエネルギー(ブドウ糖)へと変換されます。さらに、出汁に含まれるグルタミン酸や生姜の温熱効果により、自律神経が整って深い睡眠へと入りやすくなりますよ!




