第22話:料理酒と煮込みハンバーグの極意
昼下がりの明るい日差しが、絢咲家の広いダイニングを柔らかく照らしていた。
午前の掃除と洗濯を終えた湊は、エプロンを軽く整えながら冷蔵庫の扉を開ける。
今夜の夕食のメインは、姉妹たちからリクエストされていた特製煮込みハンバーグだ。特大サイズのボウルには、すでに綺麗に練り上げられた8人分(それ以上)の肉タネが静かに休んでいる。
「よし、あとはデミグラスソースのベースだけど……あ」
調味料ラックの奥を確かめた湊は、思わず「しまった」と声を漏らした。
隠し味とソースのコク出しに絶対欠かせない赤ワイン(料理酒用)の瓶が、すっかり空になっていたのだ。
料理酒やみりんの代わりに赤ワインを少量加えてじっくり煮込むことで、お肉の臭みを消し、洋食屋さんのような深いコクと酸味を生み出す。これは昔、親父から徹底的に叩き込まれたこだわりのプロの技だった。
「どうしよう……買いに行かないとだけど……」
ここで一つ、決定的な問題があった。
湊はまだ高校生――未成年であるため、料理用とはいえ酒類を自分で購入することができないのだ。スーパーやコンビニのレジで提示を求められれば、買い出しは失敗してしまう。
困り果てた湊は、ひとまず勝手口から外に出て、隣の家に目をやった。
ちょうど2階のベランダで、洗濯物を干し終えた様子の三日月が、気持ちよさそうに深呼吸をしているところだった。
「三日月さん……! ちょっと今、お時間大丈夫ですか……?」
湊が下から声をかけると、三日月は眼鏡のふちを指で少し押し上げ、親しみやすい笑顔を浮かべて見下ろした。
「やあ、湊くん。どうしたの? 何か困りごとかな」
「実は……今日の晩ご飯で煮込みハンバーグを作ろうと思ってるんですが、ソースに使う赤ワインを切らしちゃってて。未成年の俺だと買えないので、もし良かったら買い出しをお願いできないでしょうか……!」
三日月は一瞬だけ意外そうに目を見開いた後、くすりと楽しそうに微笑んだ。
「なるほど、料理用のワインか。そうだね、君の年齢じゃ買えないものね。いいよ、ちょうど僕も少し散歩に出ようと思ってたところだ。一緒に近くのスーパーまで行こうか」
「本当ですか! 助かります!」
安堵の息をついた湊は、財布を手にして三日月と共に近所のスーパーへと向かった。
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道中、春の心地よい風が二人の間を吹き抜けていく。
「それにしても、煮込みハンバーグに赤ワインとは本格的だね。やっぱりお父さんからの直伝かい?」
三日月の問いかけに、湊は少し照れくさそうに頭をかいた。
「はい。うちの親父、家事に関しては本当にスパルタで……。『煮込み料理のコクは、酒類の使い方で決まる。面倒くさがらずにアルコールを飛ばして旨味だけを残せ』って、昔から口酸っぱく言われてたんです。親父自身も、学生時代に仲間の家でそういうノウハウを徹底的に仕込まれたらしくて」
「へえ……お父さんの学生時代の仲間、か」
三日月は興味深そうに顎に手を当て、どこか懐かしむような柔らかい目を手元の歩道に向けた。
「実を言うとね、僕の親父も大学時代はかなり破天荒な連中とつるんでいたらしいんだ。何か大きな邸宅みたいなところで共同生活をしてたとか何とか……。もしかしたら、僕たちの父親同士、どこかで繋がっていたのかもね」
「えっ、三日月さんのお父さんもですか!?」
「ふふ、まあ昔の話だし、親世代の不思議な腐れ縁かもしれないけれどね。だからかな、僕がこの街に引っ越してきて君と出会ったのも、なんだか他人事とは思えないんだよ」
三日月はお茶目なウィンクを見せると、スーパーの自動ドアを潜った。
お酒コーナーで三日月が手際よく料理に最適な赤ワインを選び取り、会計を済ませてくれる。湊が代金を支払おうとすると、三日月はひらひらと手を振って笑った。
「代金はいいよ。その代わり――今夜の絶品煮込みハンバーグ、僕の分も一口味見させてくれたらそれで十分さ」
「そんな! 申し訳ないです……! だったら、三日月さんの分の夕食も重箱に詰めて持っていきますね!」
「あはは、それはありがたいな。湊くんの料理は本当に美味しいから楽しみだ」
店を出て帰り道を歩きながら、三日月はふと湊の顔を覗き込んだ。
「ところで……今朝の月菜ちゃんとの気まずさは、少しは解消できそうかい?」
「うっ……! そ、それは……」
急に核心を突かれ、湊は真っ赤になって絶句した。
三日月は優しく目を細め、歩幅を合わせながら語りかける。
「昨夜のキスのこと、彼女はきっと今頃学校でも頭がいっぱいで、授業どころじゃないと思うよ。素直になれない子ほど、自分の感情に振り回されてパニックになりやすいからね。でもね、湊くん」
三日月は少し立ち止まり、湊の目をじっと見つめた。
「彼女が君に見せるツンツンした態度は、拒絶じゃない。君のことが好きで好きでたまらないのに、どう表現していいか分からなくて必死に身構えているだけなんだ。だから君は慌てず、いつも通り『温かいご飯』と『変わらない笑顔』で彼女を迎えてあげればいい」
「いつも通りの……笑顔……」
「そう。料理も恋愛も、焦って強火にしすぎると焦げ付いてしまう。じっくり弱火で、時間をかけて温めていくのが一番美味しく仕上がるんだよ。君ならそれができるはずだ」
三日月の言葉は、湊の胸の奥にしみじみと染みわたっていった。
親世代からの絆を感じさせる不思議な説得力と、大人の余裕を持った頼もしいアドバイス。湊は深く頷き、力強く微笑んだ。
「はい……! ありがとうございます、三日月さん。俺、頑張ります!」
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夕方。絢咲家のキッチンには、赤ワインとデミグラスソースがじっくり煮煮立つ、たまらなく甘く香ばしい香りが満ちていた。
ガタゴトと玄関のドアが開く音が響く。
「ただいま〜! うわぁ、今日の匂いすごーい! ハンバーグ!?」
「湊兄ちゃん! お腹ペコペコなのー!」
元気な妹たちの声に続いて、最後に静かな足音がリビングへと入ってきた。
「……ただいま」
カバンを抱えた月菜だった。
まだ昼間の動揺が残っているのか、湊と目を合わせようとせず、視線を下に落としている。
湊は三日月の言葉を思い出し、エプロンで手を拭くと、包み込むような温かい笑顔で月菜を迎えた。
「おかえり、月菜。学校、お疲れ様」
「……っ」
湊のいつもの優しい笑顔と声に、月菜はハッとして顔を上げた。
ほんのり頬を朱に染めながらも、朝のような頑なな拒絶の空気は消え、どこか安らいだような瞳で湊を見つめ返す。
「……うん。……ただいま、湊。すごく、良い匂いね」
「ふふ、月菜の分は特大サイズで焼いておいたからね。今夜は煮込みハンバーグだよ」
「べ、別に特大じゃなくてもいいわよ……バカ」
そう言ってプイッと横を向く月菜だったが、その唇の端は嬉しそうに緩んでいた。
少しずつ、けれど確実に縮まっていく二人だけの距離。
三日月からの温かいフォローと、親愛の詰まった夕食の香りに包まれながら、絢咲家の夜が今夜も賑やかに始まろうとしていた。
【本日のお世話係メモ:家庭で役立つ豆知識 #22】
『安売りのお肉が洋食屋さんの味に!赤ワインを使った煮込みの裏ワザ』
ハンバーグやシチューなどの煮込み料理を作る際、お水の代わりに「赤ワイン」を少量加えると、お肉の臭みが消えるだけでなく、酸味と深いコクが一気に増します!ポイントは、お肉や野菜を炒めた直後にワインを入れ、強火でしっかり煮立たせてアルコール分を飛ばす(煮詰める)こと。アルコールをしっかり飛ばすことで渋みが消え、旨味だけが残ってプロの味に近づきます!
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