第21話:キスの翌朝と、真っ赤なトースト
春の柔らかい陽光が、明るい光となって絢咲家の広いダイニングキッチンに差し込んでいた。
トントン、トントン、とテンポ良くまな板を叩く心地よい音が響き渡る。
調理台の前に立つ湊は、手慣れた手つきで出汁巻き卵を形作り、隣の鍋で煮立っている味噌汁の火加減を細かく調整していた。立ち上る鰹節と香ばしい醤油の香りが、家全体にふんわりと広がっていく。
住み込みのお世話係としてこの家にやってきてから、どれくらいの月日が流れただろうか。家事壊滅的だった7人姉妹との生活も今やすっかり板につき、朝のこの時間こそが、湊にとって最も愛おしく、同時に最も気の引き締まる時間となっていた。
しかし、今日の湊はほんの少しだけ手元がおぼつかない。
菜箸を持つ指先に力が入りすぎている自覚があり、鍋の様子を確認するフリをしながら、何度も小さく深呼吸を繰り返していた。
それも無理はない。昨日の夜の出来事が、頭から離れないのだ。
――昨夜、月菜と交わした、あの不意打ちのようなキス。
思い出すだけで胸の奥がぎゅっと締め付けられ、顔に熱が集まっていくのがわかる。いつものツンとした態度からは想像もつかないほど真っ赤な顔をして、震える唇を重ねてきた月菜の表情。あの温もりと柔らかな感触が、一晩明けた今でも鮮明に唇に残っていた。
(……落ち着け、俺。今日はいつも通りの朝だ。変に意識したら、月菜だって気まずいはずだ……)
自分にそう言い聞かせ、必死に平静を装おうとしたその時、廊下からバタバタと賑やかな足音が近づいてきた。
「あ、湊!おはよう〜!今日もすっごく良い匂い!」
「湊兄ちゃん!お腹すいたのー!ご飯なのー!」
元気よく飛び込んできたのは、三女の灯華と四女の水樹、そして末っ子の土和だった。
水樹は勢いよく湊の腰に抱きつき、土和は「だっこー!」とエプロンの裾を引っ張る。灯華は眠そうに目をこすりながらも、ちゃっかり湊の反対側の隣をキープして「おはよう、湊」と小さく微笑んだ。
「みんな、おはよう。危ないから包丁使ってるときは急に飛びつかないでね。ほら、土和も手を洗っておいで」
「はーい!」
妹たちの無邪気な反応に苦笑しながら、湊は手際よく料理を皿に盛り付けていく。
陽葵が「湊くん、手伝うわね」と長女らしく気遣いながら配膳を助けてくれ、五女の木乃香と六女の絢金も食卓につき、いつもの賑やかな朝の風景が広がっていく。
――だが、彼女だけが、なかなか姿を見せなかった。
全員が席につき、出来立ての朝食が湯気を立てる中、ようやく二階から重い足音が聞こえてくる。
階段を降りてきたのは、次女の月菜だった。
寝癖を軽く整えただけの姿でダイニングに入ってきた月菜は、ドアのところで一瞬足を止めた。
知識と意識が昨日へ逆戻りしたかのように、調理台の前に立つ湊とパッチリと目が合った瞬間――。
「――っ!?」
月菜の顔が、目に見える速さで真っ赤に染まった。
まるで熟したトマトのように耳の先まで赤くした彼女は、あからさまにハッとして視線を泳がせると、急コイルが弾けたようにガバッと明後日の方向を向く。
「な、何よバカ湊……っ!朝からジロジロ見ないでよね……っ!!」
「えっ、いや、見てたわけじゃなくて『おはよう』って言おうとしただけで……」
「うるさい!黙って!言わなくていいから!!」
バンッと音を立てて自分の席に座った月菜は、腕を組みながらプイッと横を向いてしまう。しかし、その肩はかすかに震えており、チラチラと湊の様子を伺う視線は隠しきれていない。言葉とは裏腹に、彼女自身も昨夜のキスを強烈に意識し、どう接していいか分からなくなっているのは明白だった。
その甘酸っぱすぎる空気を敏感に察知したのが、六女の絢金だった。
絢金はニヤニヤとした意地悪な笑みを浮かべ、月菜の顔を覗き込む。
「ん〜?月菜姉ちゃん、なんか顔赤くなーい?風邪でもひいたの〜?それとも湊兄ちゃんに何かされた〜?」
「なっ……!!ななな、何言ってるのよこのガキ!!さ、されたとか何もないわよ!バカ言わないで!!」
「あはは!月菜姉ちゃん必死すぎるー!あやしい〜!」
「静かにしなさい絢金!本当に何でもないんだからっ!!」
必死に否定すればするほど墓穴を掘る月菜の姿に、長女の陽葵は温かい苦笑いを浮かべ、三女の灯華と四女の水樹は顔を見合わせてクスリと笑う。木乃香は不思議そうに首を傾げ、土和はもぐもぐとご飯を食べながら「月菜ねぇね、お顔があかいのー」と無邪気に追い打ちをかけた。
(あ、圧倒的に気まずい……っ)
湊は内心で頭を抱えながら、味噌汁をお椀に注いで月菜の前に置いた。
「……月菜、はい。月菜の好きな甘めの豆腐と油揚げの味噌汁だよ」
「……っ。べ、別にアンタの朝ごはんを楽しみにして降りてきたわけじゃないんだから!勘違いしないでよね……っ!」
そう毒を突きつつも、月菜はお椀を受け取る際に湊の手指がほんのわずかに触れた瞬間、ビクッと身体を強張らせた。そして小さく「……いただきます」と呟き、一口口に含む。
「……美味いじゃない……バカ……」
蚊の泣くような小声で漏らされたその言葉に、湊は胸の奥が温かくなるのを覚えた。ツンツンと棘のある言葉の裏に隠された、不器用な愛おしさ。それを一番近くで感じられることに、お世話係としての、そして一人の男としての喜びを感じずにはいられなかった。
賑やかな朝食が一段落し、湊がテラスに出て洗濯物を干し始めたときだった。
「やあ、朝から相変わらず賑やかだね、湊くん」
隣の家の2階ベランダから、爽やかな声がかけられた。
見上げると、そこには隣の家に最近引っ越してきたばかりの大学生、三日月の姿があった。
手には淹れたてのコーヒーカップを持ち、手すりに肘をついてこちらを見下ろしている。
20歳という若さながら、知的で落ち着いた雰囲気を纏った彼は、引っ越してきて間もないにもかかわらず、その持ち前の観察眼と気さくさで、すでに湊や絢咲家とすっかり打ち解けていた。特に、何かと苦労の多いお世話係である湊にとっては、時折絶妙なアドバイスをくれる頼れる兄貴分のような存在になりつつあった。
「三日月さん、おはようございます。朝から騒がしくてすみません」
「ううん、全然。むしろ隣から聞こえてくる君たちのやり取りを聞いていると、良い一日のスタートが切れるよ。……で?」
三日月はコーヒーを一口啜ると、眼鏡の奥の瞳をキラリと光らせ、お茶目な笑みを浮かべた。
「何かあったかい? 今日の月菜ちゃんの『ツン』は、いつもの3割増しで照れ隠しが混ざっていたように見えたけれど」
「えっ……!? いや、別に、何も……」
鋭すぎる指摘に、湊は干そうとしていたシャツを落としそうになりながら動揺を隠せない。
そんな湊の分かりやすすぎる反応を見て、三日月は「くすっ」と楽しそうに笑った。
「ふふ、まあ深くは追及しないでおくよ。引っ越してきてまだ日は浅いけれど、僕の目から見ても、君と彼女たちの関係がすごく特別で良いものだってことはよく分かる。特に月菜ちゃんは素直になれない分、君の言葉や態度一つで心が大きく揺れ動く年頃だからね」
三日月はベランダから優しく湊を見つめ、背中を押すように言葉を続けた。
「焦らず、いつもの君らしくいてあげなさい。君の作る美味しいご飯と誠実さがあれば、どんなにツンツンしている女の子の心だって溶けていくさ。……まあ、何か困ったことや悩みがあったら、いつでも隣の僕を頼ってくれていいからね」
「……はい! ありがとうございます、三日月さん」
三日月の温かいアドバイスに、湊の心の毒気がすっと抜けていく。
引っ越してきたばかりだというのに、どうしてこうも人の心を見抜くのが上手いのだろうか。頼もしいアドバイザーの存在に感謝しながら、湊は残りの洗濯物を手際よく干し終えた。
リビングに戻ると、出校・登校の準備を終えた姉妹たちが玄関に集まっていた。
「湊、行ってくるね! 今日も夕飯楽しみにしてる!」
「湊兄ちゃん、行ってきますなのー!」
陽葵を先頭に、妹たちが順々に元気に家を出ていく。
最後に残ったのは、カバンをぎゅっと抱えしめた月菜だった。
玄関のドアノブに手をかけた月菜は、チラリと後ろを振り返り、湊と目を合わせた。
昨夜のキスのこと、今朝の気まずさ、そして溢れそうな愛おしさ――様々な感情が入り混じった瞳で湊を見つめると、彼女は頬を真っ赤にしながら、キュッと唇を結んだ。
「……湊」
「ん? どうしたの、月菜?」
「……行ってきます。……その、今日も、早く帰ってくるから……っ」
それだけを一気に捲し立てると、月菜は返事も待たずに「じゃあね!」と叫んでダッシュで家を飛び出していった。パタン、と大きな音を立てて閉まるドア。
残された静かな玄関で、湊はポカンとした後、じんわりと胸に広がる愛おしさに自然と笑みをこぼした。
「……行ってらっしゃい、月菜」
昨夜のキスを経て、二人の関係は確実に変わろうとしている。
不器用で、甘酸っぱくて、けれどどこまでも温かい、絢咲家での新しい日常。
湊はエプロンをキュッと結び直し、姉妹たちが帰ってくる温かい我が家を守るため、今日の家事に取りかかるのだった。
【本日のお世話係メモ:家庭で役立つ豆知識 #21】
『冷めても柔らかい!お弁当にも使える出汁巻き卵の極意』
出汁巻き卵を作るとき、卵液にほんの少しだけ「マヨネーズ」(卵3個に対して小さじ1程度)を混ぜてみてください!マヨネーズに含まれる乳化された油分が、加熱による卵のタンパク質のガチガチな結合を和らげてくれます。冷めてもパサつかず、フワフワ&ジューシーな食感が一日中キープできるので、お弁当のおかずにも最適ですよ!
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【特別著者あとがき】
最後までお読みいただきありがとうございます!
※誤解を防ぐための注記※
作中に登場する相談役の「三日月」は作者自身のペンネームと同じ名前になっておりますが、作中の三日月は20歳の大学生という「架空のキャラクター設定」です。
現実の作者自身はカクヨム甲子園に挑戦中の現役高校生ですので、作品内の設定と混同されないよう、念のためこちらに明記させていただきます!
引き続き、湊と7姉妹の甘酸っぱい日常をお楽しみいただけると嬉しいです!
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