第1話:五枚の銅貨と、二人の居場所
人間の首都『オークヘイヴン』の裏通りには、常に汚水と敗北の臭いが染み付いている。
激しい豪雨が、アレハンドロの履き古した革靴の隙間から容赦なく冷水を染み込ませていた。
迷宮のエリアボスだった頃の彼は、レベル50の巨体を誇る半エルフ(ハーフエルフ)の英雄だった。
しかし今、彼の身を包むのは、防御力わずか『15』の安物である灰色の麻チュニックだけだ。
冷気は容赦なく shadow のかかった彼の肌を刺し、凍えさせていく。
「アレハンドロ様、これ以上の隠密行動は、私のマナ保持回路に深刻な負荷をかけます」
彼の左側を歩くリラが、ずぶ濡れのフードの隙間から血走った赤い瞳を覗かせた。
かつて第一階層のエントランス・ユニット1として、銀の槍で数千の人間を屠った戦闘侍女。
今は魔石を奪われ、安物の布服を纏っているが、その狂信的な眼光は健在だった。
「万が一、不潔な人間どもがあなた様に近づくようであれば、この爪で頸動脈を引き裂きます」
「よせ、リラ。ここは人間の領域だ。目立った魔力を使えば教会の聖騎士団が動く」
アレハンドロは掠れた声で制し、長い髪を弄って自分の尖ったエルフの耳を必死に隠した。
そして、彼の右側を一歩も離れずに歩く、もう一人の少女へ視線を向ける。
・エレナ:前線防衛用ホムンクルス戦闘侍女(エントランス・ユニット2)。
黒髪をサイドテールに結い、感情の一切を排した琥珀色の瞳を持つ暗殺特化型NPC。
スカーレットが裏切ってボスの座を奪った際、周囲の嘲笑を一切無視し、ただアレハンドロだけを見つめ続け、自らギルド契約の解除(失業手続き)を申請して付いてきた忠義の塊。
エレナは激しい雨に打たれながらも、アレハンドロの横顔から一切の視線を外さなかった。
周囲を警戒するリラとは違い、彼女の世界にはアレハンドロという『主』しか存在していないようだった。
「マスター。私の内部エラーログは、現在の状況を『著しい不条理』と定義しています」
エレナの淡々とした、しかし冷徹な声が雨音に混ざる。
「あなた様ほどの最高戦力をリストラし、あの赤髪の効率主義者を据えた不死者の王の判断は、論理的に致命的なバグです。……必要とあらば、夜陰に乗じて迷宮へ逆侵入し、スカーレットの首を回収してまいります」
アレハンドロは自嘲気味に息を吐き、自分の視界の隅にあるインターフェースを展開した。
【所持金】: 5銅貨
【ステータス】: 失業者 / 底辺の放浪者
【所持アイテム】: 職業斡旋所の推薦状(濡れてシワだらけ)
たった5枚の銅貨。
親友である不死者の王が、迷宮のアンデッド監査官の目を盗んで、ギルドの裏金から必死にかき集めてくれた『退職金』の全額がこれだった。
人間の宿屋の一泊分にも満たない、パンの耳を数切れ買えば消えるはした金。
「二人とも、今は耐えるときだ」
アレハンドロは濡れた推薦状を握りしめた。
「俺たちはもうボスじゃない。ただの日雇い労働者(レベル1)だ。だが、この世界のシステムは俺たちの限界を外した。この意味がわかるか?」
彼の言葉と同時に、アレハンドロの網膜に黄金の文字列が妖しく明滅する。
【固有スキル:代償の魂喰らい(ソウルデヴァスター) - ランクEX】
【固有スキル:失業者のフレンジー(攻撃力最大5倍)】
「不死者の王は、俺をリストラしたつもりで、この大陸という名の鶏小屋に『最悪のバケモノ』を解き放ったのさ。まずは家賃を稼ぐ。そして、俺たちをコケにした冒険者どもの命をファームする」
アレハンドロの漆黒の瞳の奥で、恐るべき残虐な光が揺らめいた。
リラは歓喜にその狂気的な笑みを深め、エレナは小さく、しかし深く頭を垂れた。
「了解しました、マスター。あなた様が世界を屠るというのなら、私はその影となり、肉を削ぎ落とすナイフとなりましょう」
三人はオークヘイヴンの最も治安の悪い区画、通称『下層スラム』へと足を踏み入れた。
目指すのは、推薦状に書かれた唯一の就職先。
冒険者崩れの荒くれ者どもが夜な夜な血を流す、治安最悪の酒場──『独眼のイノシシ亭』。
元・第一階層守護ボスと、組織を捨てた二人の最凶侍女による、最低賃金からの世界征服が、今ここから始まる。




