5-3-17 明鏡止水の札
ヒノカグツチの慟哭は、次第にその激しさを失っていった。
焼け跡に響いていた絶叫は嗚咽へと変わり、やがて境内には、幼子が声を殺して泣くような啜り泣きだけが静かに残される。
その痛ましい静寂に耐えかねたように、昂弥がぽつりと口を開いた。
「……俺もあの神と同じ、父に捨てられた身だ」
誰へ語りかけるでもなく、視線は泣き崩れる火神へ向けられたままだった。
「俺の父は商社で働いてた。けど、それだけじゃなくて、神職もやってたんだ。どっちも大事にしてたよ……いや、仕事の方が優先だったかな」
昂弥は苦く笑い、小さく息をつく。
「家族と過ごす時間なんて、ほとんどなかった。俺たちにとっては寂しかったけど……父はきっと、必死だったんだろうな」
拳がゆっくりと握られる。
「でも、ある日……部下からパワハラで訴えられたんだ。父はそんなつもりじゃなかったのかもしれない。けど、そう見られるような振る舞いをしてたんだろう」
そこで一度、言葉が途切れる。
焼け焦げた石畳へ視線を落とし、昂弥は静かに目を伏せた。
「和解はした。けど……結局、会社を辞めることになった。仕事が全てだった父にとって、それがどれだけ重いことだったのか……今になってわかるよ」
少しだけ息を吸い込み、続ける。
「それだけじゃなかった。神社からも役目を退くように言われて……父は、仕事も神職も、全部失ったんだ。そしたら……最後には家族まで捨てて、どこかに行ってしまった」
その言葉に、聖奈と杏子は思わず息を呑む。
昂弥は苦しげに眉を寄せ、歯を食いしばった。
「……俺は、父に気づいてほしかったんだ」
一度だけ言葉を切る。
「まだ、家族がいるってことに。全部なくしたわけじゃないって、わかってほしかった」
その願いは、父へ届くことはなかった。
「だけど……父にとっては、仕事が全てだったんだろうな」
最後の一言は、自分へ言い聞かせるように静かだった。
その時だった。
低く、静かな声が境内へ落ちる。
「……母は?」
昂弥ははっと顔を上げた。
いつの間にかヒノカグツチは泣き止み、自らの首を膝へ抱えたまま、じっと昂弥を見つめている。
先ほどまで怒りに燃えていた瞳には、幼子のような戸惑いだけが残っていた。
「母は……どうしている」
その問いに、昂弥は少しだけ戸惑う。
しかしすぐに、小さく頷いた。
「……元気だよ」
静かに答える。
「寂しそうだけど……ちゃんと生活してる。父がいなくても、なんとか……強く生きてるよ」
ヒノカグツチはしばらく黙っていた。
やがて、その険しかった表情がわずかに緩む。
「……そうか」
その一言には、心から安堵した色が滲んでいた。
ゆっくりと目を閉じ、誰に聞かせるでもなく呟く。
「……良かった」
そして再び昂弥を見つめる。
「家族は、大事にしろ」
その声音からは、先ほどまでの神威は消えていた。
残っているのは、長い時を悔い続けた者だけが持つ重みだった。
「失って初めて……その存在の大きさに気づくものだ」
昂弥は何も答えられなかった。
父へのわだかまりが消えたわけではない。
許せたわけでもない。
それでも──。
泣き崩れる火神の姿を見た今、その苦しみだけは理解できる気がした。
拳をゆっくりと解き、小さく頷く。
その仕草だけで、昂弥の胸の中にあった何かが、ほんの少しだけ変わり始めていた。
ヒノカグツチは自らの頭部を持ち上げる。
何事もなかったかのように首へ戻すと、ゆっくり立ち上がった。
そして境内を見回す。
燃え広がる炎。
焼け落ちた社殿。
崩れた建物。
その光景を見つめたまま、大きく息を吐いた。
「……またか」
小さく漏れた声は、自嘲にも似ていた。
「我は今回も、随分見境なくやってしまったな……」
その言葉には深い後悔が滲み、先ほどまで猛り狂っていた火神とは、まるで別人のようだった。
杏子はそんなヒノカグツチを見据え、小さく肩をすくめる。
「やっと話が通じるようになったわね」
苦笑を浮かべながら続けた。
「でも、あの暴走……あんたの本意じゃないんでしょう?」
ヒノカグツチは静かに頷く。
「……確かに」
しばらく考えるように目を伏せ、それからゆっくり口を開いた。
「我を鎮めるための札は、神社の人間へ預けてあった。その札があれば、このような事態は避けられたはずだが……既にこの地には無いようだ」
その言葉を聞いた瞬間、聖奈が思わず声を上げる。
「あぁ……!」
悔しそうに拳を握る。
「一足遅かった!」
杏子は苦笑交じりに息を吐いた。
「たぶん誰かに持ち去られたんだと思う。諦めて次を探しましょう」
ヒノカグツチは「ふむ」と小さく唸り、しばらく三人を見比べていた。
「なるほど。お前たち……これが欲しかったのか」
そう言うと、何気ない仕草で掌を炎の中へ差し入れた。
次の瞬間。
燃え盛る炎の奥から、一枚、二枚──いや、それどころではない。
何百枚もの札が束になって現れた。
「これだろう」
それを目にした昂弥が、思わず息を呑んだ。
「まさか……《明鏡止水の札》!?」
神社に代々伝わる、最強の火伏せの遺物。
神職であれば誰もがその名を知りながら、実物を見た者はほとんどいない、伝説の札だった。
「こんなに持てないわよ!」
札の束を見た聖奈が思わず声を上げる。
昂弥は慌てて桐の札箱を抱えて駆け寄る。
「これなら大丈夫だ」
一枚一枚を丁寧に収めながら、小さく頭を下げる。
「ありがたく頂戴します」
ヒノカグツチはその様子を静かに見届ける。
そして再び焼け跡へ視線を移した。
「……次は」
低く呟く。
「このような愚かなことを、繰り返さぬよう努めよう」
その言葉に杏子は小さく笑った。
「そうしてくれると助かるわ」
それ以上の言葉はいらなかった。
いつの間にか、境内を覆っていた炎はほとんど消えている。
焼け跡のあちらこちらから白い煙が細く立ち上り、ときおり炭が小さく弾ける音だけが静かな朝を知らせていた。
夜の終わりを告げる風が、ゆっくりと境内を吹き抜ける。
焦げた木の匂いを運びながら、それは残された熱気を少しずつ空へ溶かしていった。
東の空には淡い光が差し始めている。
群青色だった夜空は薄く青みを帯び、その向こうから新しい朝が静かに姿を現そうとしていた。
聖奈は朝焼けを見上げ、小さく息を吐く。
昂弥は札箱を抱え直し、焼け跡となった社殿へ静かに一礼した。
杏子は何も言わず空を見上げる。
その視線の先では、ヒノカグツチの姿が朝日に溶け込むように淡く揺らぎ始めていた。
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