5-3-16 悠久の幼な子
首を失ったままのヒノカグツチは、地を這うようにして境内をさまよっていた。
荒れ狂う炎はなお燃え続けている。
しかし、その姿には先ほどまでの凶暴さはない。
焼け焦げた石畳へ両手をつき、何か大切なものを探し求めるように、ゆっくりと這い進んでいく。
その様子を見つめながら、昂弥は静かに息を呑んだ。
「……さすが神だな」
思わず漏れた声には驚嘆とも畏怖ともつかない響きがあった。
「首を斬られても、生きているなんて……」
だが、次の瞬間には表情を引き締める。
焔鼠の札を握り直し、杏子へ視線を向けた。
「今のうちに滅したほうがいいんじゃないか? 完全に止めを刺すべきだ」
しかし、杏子は答えなかった。
剣を構えたまま、ただヒノカグツチを見つめ続けている。
その目は敵を見るものではなく、何かを見極めようとするように静かだった。
聖奈もまた、その沈黙に気付き、小さく声を掛ける。
「杏子……どうするの?」
それでも杏子は動かない。
ただ一人、火神から目を逸らさなかった。
昂弥は焦りを覚え、再び焔鼠の札へ呪力を込める。
再び暴れ狂う前に終わらせなければならない。
そう判断し、札を放とうとした──その時だった。
ヒノカグツチが、ようやく転がっていた自らの首へ辿り着いた。
震える両腕で、それをそっと抱き上げる。
まるで壊れ物を抱える子どものように。
そして、その場へ膝をついた。
炎はなお燃えている。
それでも火神は剣を握ろうともしない。
首を胸へ抱き寄せたまま、小さく肩を震わせる。
やがて、その震えは嗚咽へ変わった。
「……父上……」
掠れた声が漏れる。
「なぜ……」
その声は、戦場に響く咆哮ではなかった。
神話の時代から積み重ねられてきた、幼な子の泣き声だった。
「なぜ我を……愛さない……!」
その慟哭が境内へ響き渡る。
激しく燃え盛っていた炎までもが、その悲痛な叫びに呼応するように揺らいだ。
聖奈は言葉を失う。
つい先ほどまで神社を焼き尽くそうとしていた火神と、今、目の前で泣き崩れている幼い少年の姿が、どうしても結び付かなかった。
杏子も静かに息を吐く。
先ほど胸をよぎった違和感は、間違っていなかった。
怒りではない。
その奥にあったのは、あまりにも深く癒えない悲しみだった。
しかし──
誰よりも大きく動揺していたのは、昂弥だった。
焔鼠の札を握る手が、小さく震えている。
放とうとしていた札は宙へ舞うこともなく、その場で止まった。
「……どうしたの、昂弥?」
杏子が静かに問い掛ける。
昂弥は答えない。
視線は泣き崩れるヒノカグツチから離れなかった。
やがて、かすれた声が零れる。
「……同じだ」
その一言には、自嘲とも諦めともつかない響きが滲んでいた。
「俺も……父に見捨てられた身だ」
握り締めた拳が震える。
「こんな気持ちで……」
言葉が詰まる。
目の前にいるのは神だ。
それなのに、その慟哭は誰よりも人間らしかった。
「……どれほどの時を、この神は……」
その言葉を最後まで口にすることはできなかった。
杏子は昂弥を見つめる。
その横顔を見た瞬間、彼が胸の奥へ閉じ込めてきたものを察した。
「昂弥。情に流されている余裕はないわよ」
昂弥はゆっくりと首を振った。
「違う」
その声には、先ほどまでの迷いはない。
「流されているんじゃない」
泣き続けるヒノカグツチを真っ直ぐ見つめながら、静かに続ける。
「ただ……理解できるんだよ」
少しだけ目を伏せる。
「この神の苦しみが」
その言葉を聞き、杏子も聖奈も何も返さなかった。
二人もまた、泣き続ける火神から目を離せなかったからだ。
境内には、なお炎が燃えている。
それでも今、この場を支配しているのは炎の轟きではない。
悠久の間、誰にも届かなかった火神の慟哭が、焼け跡となった愛宕神社に静かに響き続けていた。
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