5-3-11 大火祈祷2
時間は、少し遡る。
白石昂弥の式神が敗れたという報せは、瞬く間に愛宕神社の神職たちの間を駆け巡った。
「怪しげな術を使う者どもが現れた」
「宝物庫が狙われている」
「だから言ったのだ」
「白石の若造一人に任せるなど無茶だった」
「宮司様は甘すぎる」
「やはり我々も動くべきだったのだ」
「静まれ!!」
権宮司の一喝に、ざわめきがぴたりと止む。
彼は集まった神職たちを見渡し、重々しく口を開いた。
「宮司の帰還はまだ先だ。この場は我々で収めねばならん。
万一に備え、人を集めよ──《大火祈祷》を行う」
その名を聞き、空気が変わる。
神職たちは互いの顔を見合わせた。
古くから伝わる禁忌に近い儀式。
神の力を直接この地へ招く、最後の切り札。
一人の神職が戸惑いながら尋ねた。
「……どれほど必要でしょうか」
権宮司は迷わなかった。
「千人だ」
その一言で、境内の空気が変わった。
誰かが命令を待っていたかのように駆け出し、それに呼応するように周囲の神職たちも一斉に動き始める。
もともと、この日は全国会合のため、多くの神職が愛宕神社へ集まっていた。
宮司が昂弥一人に事態を託した判断に納得できず、歯がゆさを抱えた者も少なくない。
その昂弥が式神を破られた──ただその報せだけで十分だった。
今こそ、自分たちが動く時だ。
その思いは瞬く間に広がり、権宮司の号令は、燻っていた火種へ油を注ぐ一声となる。
「急げ!」
「各社へ伝えろ!」
「動ける者は全員だ!」
境内は一気に慌ただしさを増した。
権宮司の呼びかけに応じ、宮司の判断に不満を抱いていた者たちが次々と加わる。宮司、禰宜、権禰宜、神職見習い──立場を問わず人が集まり、その数はやがて千人に達した。
そして現在。
愛宕神社の境内では、千人の神職が古式の装束に身を包み、一斉に祝詞を唱えている。
その声は幾重にも重なり、山全体を震わせるような響きとなって天へ昇っていく。
権宮司は中央で全体を見渡し、声を張り上げた。
「止めるな! ここからが正念場だ!」
祈祷はさらに勢いを増す。
やがて境内の空気が熱を帯び始めた。
肌を刺すような熱気。
息苦しいほどの圧迫感。
神職たちは顔を見合わせる。
「……来る」
権宮司もまた、その気配を感じ取っていた。
いよいよだ。
彼は胸元から桐の札箱を取り出す。
最後の備え。
神を鎮める《明鏡止水の札》。
それを確認しようと蓋を開け──
動きが止まった。
「……ない」
誰にも聞こえないほど小さな声。
もう一度箱の中を確かめる。
「ない……!」
顔色が変わる。
「どうされました!」
「《明鏡止水の札》が……ない!」
周囲の神職たちも一斉に息を呑んだ。
「盗まれたのか!」
「そんな馬鹿な!」
権宮司は顔色を変え、声を張り上げた。
「中止だ! 祈祷を止めろ!」
神職たちへ向かって何度も叫ぶ。
「止めるんだ! 全員、祝詞を止めろ!」
だが、境内を埋め尽くす千人もの読経は容易には止まらない。
声は祝詞の波に飲み込まれ、前列の者が振り返っても、そのさらに奥ではなお祈りが続いている。
「伝令を出せ! 一人残らず止めさせろ!」
神職たちが慌ただしく駆け出す。
しかし、その時にはもう遅かった。
祝詞は境内全体で一つの流れとなり、神降ろしは止めようのない段階へ達していた。
権宮司の表情から血の気が引く。
「だめだ……もう止められん……」
その瞬間だった。
境内中央の篝火が、ぼう、と脈打つ。
橙色だった炎は、ゆっくりと赤黒く色を変え始める。
ざわり、と空気が震えた。
誰もが息を止める。
権宮司は篝火から目を離せない。
炎はもはや人の火ではない。
「間違いない……」
乾いた唇から、震える声が漏れる。
「火神ヒノカグツチ様が……お渡りになる」
祝詞はなおも続く。
だが今や、その声さえ篝火から響く轟音に飲み込まれ始めていた。
《明鏡止水の札》という最後の保険を失ったまま、神降ろしだけが、誰にも止められぬまま成就へと近づいていた。
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