5-3-10 大火祈祷1
昂弥たちとの戦いを終えた直後、聖奈が不満そうな声を上げた。
「ちょっと! なんで私のだけ戻らないのよ!」
顕現した獅子の剣を握り締めるその手には、もはや炎の輝きはない。昂弥に貼られた呪符の影響で力を失った剣は、ただ重い鉄塊となっていた。
「これ、元に戻せないの?」
焦ったように尋ねる聖奈へ、杏子は肩をすくめる。
「戻すも何も、それ、もう壊れてるでしょ」
「壊れてるって……どうすればいいのよ!」
「貸しなさい」
杏子はあっさりと剣を受け取ると、何のためらいもなく魔力を流し込み、そのまま両手でへし折った。
乾いた音とともに剣身が折れ、その姿は光の粒となって静かに消えていく。
「な、何てことするのよ!?」
「落ち着きなさいって。あんたの剣は具現化したものに過ぎないのよ。一度消えれば、呼び出し直せるわ」
まるで壊れた道具を片付けるような口調だった。
聖奈は呆然と立ち尽くす。
「最初からそう言ってよ……」
そのやり取りを見ていた愛蓮が、不意に表情を変えた。
「……何か聞こえませんか?」
三人は同時に耳を澄ませる。
最初は風が木々を揺らす音かと思った。
だが耳を凝らすほど、それは一定の調子で繰り返される人の声だと分かる。
一人ではない。
二人、三人──いや、それ以上。
山のどこかから、幾重にも重なった声が響いてきていた。
「お祭りでもやってるのかしら?」
聖奈が首を傾げる。
愛蓮はすぐスマホを取り出し、愛宕神社の行事を検索した。
しかし、それらしい情報は見当たらない。
「違うみたいです。でも……これ、呪文を唱えているように聞こえませんか?」
「呪文?」
杏子も眉をひそめる。
確かに、その声は徐々に数を増し、山全体を包み込むように響き始めていた。
その時だった。
鋼と霞の表情が変わる。
二人は同時に昂弥へ視線を向ける。
昂弥もまた、声の届く山頂の方角を険しい表情で見据えていた。
「……大火祈祷だ」
低く漏らしたその一言に、聖奈が聞き返す。
「何なの、それ?」
昂弥は苦く笑った。
「鎮火祭の真逆だよ。火災を鎮めるための祈りじゃない。火を呼び起こすための儀式だ」
一度息を吐き、吐き捨てるように続ける。
「どうやら俺を見限った神職たちが、勝手に始めたらしい」
「そんなことをして、何になるんですか?」
愛蓮が思わず尋ねる。
「俺を排除して、神に直接力を借りるつもりなんだろう」
昂弥は苛立ちを隠さない。
「奴らは……火神ヒノカグツチを呼び出そうとしている」
「ヒノカグツチ……?」
その名を口にした聖奈へ、昂弥は半ば呆れたように視線を向けた。
「本当に知らないのか」
低く息をつく。
「ヒノカグツチは、生まれた瞬間に母神イザナミを焼き殺した神だ」
森を吹き抜ける風が、どこか熱を帯び始める。
昂弥は山頂を睨みつけたまま続けた。
「その怒りで父神イザナギは、自ら剣を振るってヒノカグツチを斬った」
静かな声だった。
だが、その声音には神職としての畏れが滲んでいる。
「そんな神を人間の都合で呼び出して、何事もなく済むと思うか?」
誰も答えられない。
昂弥は拳を握り締めた。
「もし本当に現れたら、神職だろうが陰陽師だろうが関係ない。この山ごと焼き払われても不思議じゃない」
その言葉に、聖奈は思わず杏子を見る。
「ねえ、本当にそんな神が来ると思う?」
杏子は意外なほど落ち着いた様子で頷いた。
「来るかもしれないわね」
そして、口元に笑みを浮かべる。
「でも、願ったり叶ったりじゃない」
「どうしてそんなことが言えるのよ!」
聖奈が思わず声を上げる。
「薄々気づいてたんだけど、神代の鞘を持ってるせいで、私たちは神を引き寄せやすくなってるみたいなのよ」
手にした獅子の剣へ目を落とす。
「それに、こいつも神の気配には敏感になってる」
聖奈と愛蓮は顔を見合わせる。
以前、神代の鞘を通じて神と相対した記憶が脳裏をよぎり、その言葉を否定できなかった。
杏子は肩をすくめる。
「問題は、呼び出した後ね」
その声音だけが、わずかに真剣さを帯びる。
「何百年も呼ばれていない神が、急に人間へ会いに来て機嫌よく帰ってくれるとは思えない。たぶん、相当ご機嫌斜めでしょうね」
昂弥も静かに頷いた。
「気分の問題で済めばいいがな」
苦々しく呟く。
「ヒノカグツチは破壊そのものだ。京都に幾度も大火をもたらしたという伝承は、決して伊達じゃない」
再び沈黙が落ちる。
誰も軽口を返せなかった。
「どうするの……?」
聖奈が不安そうに尋ねる。
杏子は唇の端をゆっくりと吊り上げた。
「決まってるでしょ」
その声には、不安も迷いもない。
「神様のご機嫌を取るか、それとも叩きのめすか」
獅子の剣を肩に担ぎ、退屈そうに続ける。
「どっちにしても、久しぶりに面白い相手になりそうね」
聖奈も愛蓮も思わず言葉を失う。
神を前にして胸を躍らせている者など、この場には彼女しかいなかった。
昂弥も呆れたように杏子を見る。
「お前……本気で言ってるのか?」
杏子は視線を山頂へ向けたまま、小さく笑う。
「その時になれば分かるわよ」
杏子は軽く笑って答えた。
その瞬間、山中へ響く呪詠が一段と大きくなる。
呼応するように、山を吹き抜ける風が明らかに熱を帯びた。
誰もが同じものを感じ取る。
まだ姿は見えない。
だが、人ならざる何かが、確かにこの山へ近づいていた。




