5-3-9 杏子と昂弥2
昂弥は雄叫びを上げると、懐から桐の札箱を取り出した。
その動きに聖奈は思わず身構え、愛蓮もただならぬ気配を感じ取る。
箱の蓋が静かに開く。
次の瞬間、中から無数の《焔鼠の札》が風を切って舞い上がった。
まるで意思を持つ生き物の群れのように札は宙を巡り、一斉に杏子の周囲へ集まっていく。
「な、何枚あるのよ……!」
聖奈が思わず声を漏らした。
桐箱は片手で持てるほどの大きさしかない。それにもかかわらず、札は尽きることなく溢れ出し、見る間に杏子を幾重にも包囲していく。
昂弥の笑みには狂気すら滲んでいた。
「蒸し焼きにしてくれる。お前に逃げ場はない!」
号令と同時に、札が一斉に杏子へ張り付く。
幾重にも重なった札は巨大な繭を形作り、その内部を完全に閉ざした。
結界は熱を逃がさない。
神炎で内部を灼き続けると同時に空気を断ち、魔法を行使する余地すら奪う。
「杏子!」
聖奈が駆け出そうとする。
しかし愛蓮が咄嗟に腕をつかんだ。
「今の聖奈さんは力が使えません! 近づいたら巻き込まれます!」
「でも、このままじゃ……!」
昂弥は繭を見据え、勝利を確信したように笑う。
「これで終わりだ。神の炎で焼かれる気分を味わえ」
その時だった。
繭の奥で、一筋の蒼白い閃光が走る。
直後、内側から繭が音もなく裂けた。
効力を失った無数の札が、木の葉のように地面へ降り積もる。
その中心に立っていた杏子は、かすり傷一つ負っていなかった。
彼女の手元には、細く透き通った水の刃がなお残っている。
刃は空気を震わせながら静かに霧散し、その足元には冷たい水たまりが広がっていた。
落ちた札は濡れ、完全に力を失っている。
昂弥は目を見開いた。
「水の……レーザーだと……?」
杏子は肩をすくめ、小さく笑う。
「そうよ。私は魔法使いだからね。火も水も風も土も、四元素すべてを使いこなせるの。獅子の剣なんてなくても、私は十分に強いわ」
言葉が終わるより早く、昂弥の手元で乾いた音が響く。
桐の札箱が、一瞬で白く凍り付いた。
箱を覆った氷は蓋の隙間まで塞ぎ、びくともしない。
「……!」
昂弥が力を込めても、蓋は開かない。
杏子は涼しい顔で微笑んだ。
「これでミイラにされずに済むわね」
その余裕を崩すように、鋭い声が森へ響く。
「動くな!」
杏子が振り返る。
いつの間にか霞が聖奈の背後へ回り込み、小刀を首筋へ突き付けていた。
「聖奈さん!」
愛蓮が一歩踏み出す。
霞は刃をさらに押し当て、低く告げた。
「動くな」
空気が張り詰める。
「尾飾りを渡せ」
愛蓮は即座に首を振った。
「そんなもの、私たちは持っていません!」
しかし霞の眼差しは揺るがない。
その瞳には、冷静さより焦燥が色濃く滲み始めていた。
昂弥はその姿を見て苦い表情を浮かべる。
「霞……そのような手段を取るなんて……」
自分の力が及ばなかった。
その結果、仲間にここまでさせてしまった。
悔しさが拳に滲む。
「しらばっくれるな! 《天狐の尾飾り》を出せ! さもなければ……!」
その声は、先ほどまでの無機質な調子ではなかった。
追い詰められた者の焦りが、はっきりと滲んでいる。
だが杏子は眉一つ動かさない。
「本当に持ってないわよ。最初からそう言ってるでしょ?」
一瞬。
霞の動きが止まった。
「嘘だ! さっき尾飾りの話をしていたじゃないか!」
杏子は小さく息をつき、苦笑する。
「ああ、あれ? ただのハッタリよ。あんたたち、尾飾りだの愛知の神庭家だのって、勝手に情報を並べてくれたでしょう? だから少し乗ってあげただけ」
霞の目が揺れる。
杏子は畳み掛ける。
「尾がある動物で、愛知で有名な寺社なんて豊川稲荷くらいすぐ思いつくわ。それに、あんたたち陰陽師の末裔みたいだったからね。狐の子って煽れば、案の定食いついてくれた」
「そんな……」
霞の指先から小刀が零れ落ちる。
乾いた音を立てて地面へ転がった。
力が抜けたように、その場へ膝をつく。
昂弥もまた言葉を失ったまま、杏子を見つめる。
「お前……最初から俺たちを……」
杏子は肩をすくめる。
「そう、最初から。だって話が通じない相手に、正攻法なんて通じないでしょ?」
昂弥は拳を握り締める。
周囲の言葉だけで敵と決めつけ、自ら戦いを始めた。
その結果が、完敗だ。
自分の目で見て、相手を理解しようとしていなかったのだ。反論できるはずもない。
杏子はゆっくりと歩み寄る。
「さて」
昂弥の前で立ち止まり、静かに問い掛ける。
「勘違いだったって分かったなら、神の社へ案内してもらえるかしら?」
昂弥はしばらく黙っていた。
拒む理由は、もう残されていなかった。
聖奈と愛蓮もようやく緊張を解き、安堵の息を漏らす。
それでも二人は、最後まで昂弥たちから目を離そうとはしなかった。
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