5-3-4 愛宕山の刺客2
愛宕山の登山道は、麓の歩きやすい道とは打って変わって険しさを増していた。
足元の土は昨夜の雨を吸ってぬかるみ、踏み出すたびに靴底が滑る。頭上では木々の枝葉が幾重にも重なり、昼間だというのに森の中は薄暗い。標高が上がるにつれ冷えた風が吹き抜け、木立のざわめきだけが静かな山中に響いていた。
先頭を歩く聖奈は疲労を表に出すまいと足を進めるが、その呼吸は少しずつ乱れている。愛蓮も懸命についていくものの、歩幅は次第に小さくなっていた。
その少し後ろでは、杏子だけが何度も歩みを止め、周囲を静かに見回している。
「なんだか変ね……歩けど歩けど景色が同じ。進んでるのかどうかも怪しいわ」
その呟きに、聖奈も足を止めて振り返った。
「確かに、私も気になってた。ずっと同じ場所を歩いてるみたい……」
愛蓮もスマホを取り出し、現在地を確認する。
「おかしいです……」
画面を見つめたまま眉を寄せた。
「GPSがうまく拾えません。山奥だからでしょうか……」
地図上の現在地は小刻みに揺れ、位置を定めきれずにいた。
「迷子になった可能性……ありますかね?」
不安そうな声に、杏子は小さく舌打ちする。
「脇道は無かったと思うけど、山道じゃ気づかなかったのかも……戻ってみる?」
聖奈が提案すると、杏子は首を横に振った。
「いいえ。戻る方が危険よ。迷ったにせよ、とにかく山頂を目指して進むしかない」
「進むと言っても……」
愛蓮は弱々しく辺りを見回した。
「同じところをぐるぐる回ってるとしたら……」
三人の間に重苦しい沈黙が落ちる。
やがて聖奈は小さく息を吸い、気持ちを切り替えるように言った。
「とりあえず、少しでも目印になりそうなものを探しながら進もう」
二人も黙って頷き、再び歩き始める。
しかし、その足取りには先ほどまでの余裕はもう無かった。
疲労に加え、自分たちが本当に進めているのかという不安が、足をさらに重くしていた。
しばらく歩いたところで、愛蓮が苦しそうに膝へ手をつく。
「ちょっと……休憩させてください……足がつりそうで……」
その言葉が終わるか終わらないかという瞬間だった。
背後の茂みが激しく揺れた。
乾いた枝が折れる音が森へ響き、三人は一斉に振り返る。
木陰から姿を現したのは、一人の女だった。
黒い装束を身にまとい、顔は呪符の描かれた布面で覆われている。覗き穴から見える双眸だけが冷たく三人を見据えていた。
その右手には、細長いワイヤーが幾重にも巻きつけられている。
女はゆっくり歩み寄りながら口を開いた。
「愛宕神社を嗅ぎ回る不届き者には、天罰が必要ね」
三人が息を呑み、自然と後ずさる。
その女はなおも一定の歩幅で近づきながら、前方へ視線を送った。
「どうする? 鋼」
返事と同時に、今度は前方の茂みが大きく揺れる。
「やれやれ、こんな奴らに天罰なんて大げさだな」
低い声とともに、大柄な男が姿を現した。
男もまた布面で顔を隠し、肩には巨体に似合う大きな斧を担いでいる。
覗き穴から見える瞳だけが、感情の見えない冷たい光を宿していた。
「俺たちが手を下すまでもなく、疲れ切って倒れそうだぞ、霞」
前後を塞がれたことに気づき、愛蓮が険しい表情を浮かべる。
「……挟まれました」
聖奈は一歩前へ出る。
「私たちはただの観光客よ。あんたたち何者なの?」
鋼は鼻で笑う。
「観光だと? 白々しい嘘をつくな」
そして抑揚のない声で告げた。
「俺たちは式神だ」
「式神……」
聖奈と愛蓮が思わず息を呑む。
霞は肩をすくめ、感情の無い口調で続けた。
「この山を守る主人の命により、お前たちには消えてもらう」
愛蓮は荒い呼吸を整えながら、小さな声で聖奈へ言う。
「もう疲労がピークで……戦う余裕がありません」
聖奈も額の汗を拭う。
「確かに……このまま戦うのはまずいわね。どうする?」
自然と杏子へ視線が集まる。
その杏子は、しばらく黙って二人を眺めていた。
山を満たす気配に、そっと意識を向ける。
(何も引っ掛からない……)
そして、不敵に笑う。
「なるほどね、そういうことか」
その一言に、霞の足がぴたりと止まる。
鋼もわずかに視線を動かした。
だが霞はすぐに口を開いた。
「強がりか。そんなことしても逃げられないわよ」
杏子は腰へ手を当てたまま、静かに首を傾げる。
「強がり?」
その口元に笑みが浮かぶ。
「いいえ。あなたたち、式神だなんて言ってるけど──どう見ても、ただの人間じゃない」
その言葉に、霞と鋼は一瞬だけ言葉を失った。
その沈黙を見届けるように、杏子は続ける。
「やっぱりね」
一歩だけ前へ出る。
「この道……私たちを迷わせていたんじゃない。景色を似せて、そう思い込ませていただけ」
霞の瞳がわずかに揺れた。
杏子はなおも淡々と語る。
「侵入者が迷ったと勘違いして引き返すのを待っていた。でも私たちはそのまま登り続けた」
そして二人を見据える。
「だから予定より早く姿を現した。違う?」
森が静まり返る。
霞は低く唸るように息を吐き、握っていたワイヤーをゆっくりと締め直した。
鋼も無言のまま斧を持ち直す。
その反応だけで、答えは十分だった。
聖奈はようやく状況を理解し、愛蓮へ声をかける。
「愛蓮、大丈夫?」
「はい……何とか」
息を整えながら、愛蓮は白羊の盾を構える。
杏子は冷たい笑みを浮かべたまま、二人へ言い放った。
「さあ、どうする?」
その瞳には、もはや迷いは無い。
「式神のフリをしていた、ただの人間さんたち」
鋼は静かに斧を握り直し、霞は細いワイヤーを指先で滑らせる。
森を包む空気が張り詰める。
疲労した三人と、待ち伏せていた二人。
互いの殺気が静かな山中でぶつかり合い、愛宕山の森は嵐の訪れを予感するような緊張に包まれていた。




