5-3-2 昂弥と紅葉
愛知県の山間に佇む神庭家は、古くから霊験あらたかな名家として知られていた。
小雨の降る午後、昂弥はその門前に立っていた。濡れた石畳を雨粒が静かに叩き、山里にはしっとりとした空気が満ちている。
一つ息を整えると、彼は門を軽く叩いた。
ほどなくして姿を現したのは、初老の男性だった。穏やかな眼差しを見て、昂弥は家主・神庭正道であることを察し、丁寧に頭を下げる。
「突然の訪問を失礼いたします。白石家の昂弥です。以前こちらでお世話になった者ですが……」
正道は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに顔をほころばせた。
「おお、あの時の坊やか。久しぶりだな。大きくなったなあ」
そう言って昂弥を屋敷へ招き入れる。
応接の間で茶を勧められ、腰を下ろしたところで、昂弥はようやく用件を切り出した。
「ありがとうございます。実は……大婆様に、お話を伺いたくて参りました」
その瞬間、正道の笑みが静かに消えた。
「……大婆様は、昨年亡くなられたんだ」
昂弥は息を呑んだ。
「亡くなられた……そんな……」
幼い頃、右も左も分からない自分に優しく接してくれた老人の姿が脳裏によみがえる。
あの穏やかな笑顔も、もう二度と会えない。
「何のご挨拶もできず、申し訳ありません。本当に、お世話になりました」
正道は静かに首を振った。
「気にせんでいい。きっとあの人も喜んでおるよ」
少しだけ重くなった空気の中、昂弥は気持ちを切り替えるように背筋を伸ばいた。
「それで、『天狐の尾飾り』についてお伺いしたいのですが」
その言葉に、正道は再び困ったような表情になる。
「それがな……私も親戚中から何度も聞かれているんだが、よく分からんのだ。確か蔵に保管してあったはずなんだが、気づいた時には無くなっていてな」
何か事情を知っているようにも見えない。
昂弥がさらに尋ねようとした、その時だった。
「よく言うわ」
廊下の向こうから、呆れたような女性の声が飛んできた。
「興味もなかったくせに」
「これ、紅葉!」
正道が慌てて声を上げる。
その名前を聞いた瞬間、昂弥の胸がどくりと鳴った。
しかし紅葉は姿だけ見せると、そのまま足早に外へ出ていってしまう。
「紅葉……!」
昂弥は反射的に立ち上がり、正道へ一礼すると、その背中を追った。
外へ出ると、小雨はまだ静かに降り続いていた。
庭の片隅にある東屋には、一人の少女が立っている。
傘も差さず雨を眺める横顔は、濡れた長い黒髪も相まって、どこか幻想的だった。
「紅葉」
声を掛けると、彼女はゆっくり振り返る。
そして昂弥の顔を見るなり、小さく笑った。
「久しぶり。大人になって見違えた」
その笑顔に、幼い頃の記憶が一気によみがえる。
山を駆け回り、よく喧嘩をして、最後には必ず紅葉に振り回されていた日々。
面影はそのままなのに、目の前にいる彼女はすっかり高校生らしい落ち着きを身につけていた。
一瞬見惚れかけた昂弥だったが、小さく頭を振って気持ちを切り替える。
「紅葉。天狐の尾飾りについて知っていることを教えてくれないか」
紅葉は肩をすくめた。
「相変わらず真面目だね。久しぶりなのに、いきなりその話?」
「今は急いでいるんだ。頼む」
昂弥が真剣な眼差しで見つめると、紅葉は苦笑しながら息をついた。
「分かったよ。でも、そんなに期待しないでね」
そう前置きすると、彼女は少し言いづらそうに続けた。
「実はね。尾飾りは私が大婆様から託されたんだけど……手放しちゃった」
昂弥は思わず目を見開く。
「手放した? どうして?」
「持ってると調子が悪くなるんだよ。変な夢を見るし、体調も崩すし……だんだん怖くなっちゃって」
紅葉は自嘲気味に笑う。
「だから、そういうことに詳しそうな専門家に譲ったの」
「専門家?」
「若い女性三人組だったよ。みんな綺麗で、真面目そうな人たち」
昂弥は静かに考え込む。
若い女性三人組。
神代の遺物を集めている者たちだとすれば、決して見過ごせない手掛かりだった。
「特徴を詳しく教えてくれるか」
紅葉は記憶をたどるように空を見上げる。
「一人目は背が高くて黒髪。落ち着いた雰囲気で、リーダーっぽい感じかな。二人目は髪が明るい色で、ちょっと繊細そうな感じ。三人目は、短い髪で元気そうな子だったかな」
昂弥は一つひとつを頭の中に刻み込むように頷いた。
「ありがとう。それで十分だ」
紅葉は少しだけ寂しそうに微笑む。
「久しぶりに会ったのに、もう行っちゃうの?」
昂弥は一瞬だけ迷い、柔らかく笑った。
「また来るよ。きっと」
「約束だよ」
「約束だ」
紅葉が小さく手を振る。
昂弥も静かに手を上げると、一礼して神庭家を後にした。
雨はいつの間にか上がり、雲間から淡い陽光が山里を照らし始めていた。
その光を背に、昂弥は新たな手掛かりを胸に、京都への道を急ぐのだった。
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